オールドマナリー

マナリーの町は大きく三つに別れており、一つは智が今いる、ツーリストオフィスや、銀行、郵便局などの立ち並ぶ中心街。そしてもう一つが、オールドマナリーと言われる、山あいにある旧市街。しかし、旧市街と言っても山小屋のようなレストランや土産物屋、ゲストハウスなどが山道に沿って立ち並ぶだけの集落のような所で、新市街の中心地とは趣が全く異なっている。ゴアからパーティを目指してやってくるツーリスト達の殆どは、このオールドマナリーを目指す。更に後一つが、ヴァシスト村という、ヒンドゥー寺院の立ち並ぶ小さな村。この村には温泉が湧いていて、寺院に沐浴所が設置されており、誰でも無料で入ることができるのだ。智はそこへ行くと決めていた。以前、マナリーへ行ったことのあるツーリストから、ヴァシスト村は温泉もあって景色も良く、とてものんびりできる所だ、と聞いていたので、マナリーへ行ったらまずヴァシスト村へ行こう、と前々から既に決めていたのだ。智より先に旅立った心路は、恐らくオールドマナリーにいるだろう。しかし智は、心路に会いに行くよりも、まずはゆっくりと静養したかった。

ゴアを出てから今まで、ちょっと色んなことがあり過ぎた。特にデリーでの日々は、智の中でまだ気持ちの整理ができていない。ずっと頭の中がもやもやと霧がかかったような状態で、うまく考えがまとまらない。きっと、きれいな景色を眺めながら温泉にでも浸かっていれば気持ちも落ち着いて、頭の中もすっきりするだろう、智はそう思っていた。今は誰とも会いたくなかった。

バスを降りると、日中なのに思いのほか肌寒いのに智は気が付いた。夜通し走り続けていたバスの車内はすし詰めの状態だったので寒さはそんなに感じられなかったが、恐らく夜になったらかなり冷え込むことだろう。ガイドブックによると、標高二千メートル程の高地だそうだ。智は、バックパックから長袖シャツを取り出してTシャツの上に羽織った。 ヴァシストまでは歩くと一時間程かかる。とてもじゃないけど、三十時間も超満員のバスで揺られ、その上荷物を背負って一時間も山道を登っていく自信はなかったので、智はリキシャを拾った。最初、値段の交渉をするのがとても煩わしく感じられたのだが、デリーなどとは違って以外とすんなりいった。ひょっとしたらデリーなどの下界とは人の気質も違うのかも知れない。あの、粘り着くようにしつこいインド人や、どうしようもない暑さが感じられないだけでも、この土地に来て正解だったと智は思った。のみならず、さっさとデリーを離れ、もっと早く来ておけば良かったと後悔さえする程だった。

オートリキシャは、バタバタとエンジン音を響かせ、車体を左右にガタガタと揺らしながら未舗装の山道を何とか登っていった。生い茂る針葉樹林を右手に眺め、左手には谷を隔てて雄大なヒマラヤの山々が遥か遠くに連なっている。冷たい空気は、智の気道に入り込み、体内を冷却していく。悪路に反応して激しく揺れるリキシャの振動さえ智には心地良かった。デリーのあの人混みと喧噪が、どれだけ自分に肉体的、精神的ダメージを与えていたかを、智は今、改めて実感していた。

全くの無風状態

マナリーに到着するまで、実に三十時間程かかった。本来ならば十四五時間で到着する筈なのだが、途中、道を遮る倒木の除去や悪天候による悪路の影響で、普段の倍ぐらいの時間がかかったのだ。その間中、智は、ずっと膝を抱えたままヘロインのもたらす禁断症状に耐えていた。中でも倒木除去にかかった四五時間は、一際辛い思いをした。ずっとバスが停止状態だったため、車内は物凄い暑さだったのだ。もちろんエアコンなんて物はついている筈もなく、せめてバスが走ってさえいれば風が入って何とか耐えられるのだが、全くの無風状態で、しかもバスの中は超満員、外は真っ暗な山道でバスから降りる訳にもいかない。まとわりつくような湿気とバスごと茹でられたような蒸し暑さとで、車内は耐え難い状況に陥っていた。それに骨の髄から沸き上ってくるような禁断症状による痛みが、更に智に追い討ちをかける。それに加え、智の横に座っている男達のバターを発酵させたようなチベット人特有の臭気が、何度も智の意識を遠のかせた。もう、車掌や周りの男達に怒りを憶える余裕もなく、ただひたすらに、バスが動いてくれることだけを智は祈り続けた。

そんなこんなでようやくマナリーの町に辿り着いた智は、一目散に公衆トイレを探し、その中に飛び込むと急いで施錠した。そして慌ててヘロインのパケットを取り出すとそれを直接手の平にこぼして、狂ったように鼻から啜った。冷たい粉が、火照った智の体を冷却するように全身を巡る。智は、しばらくの間うっとりと目を閉じていたのだが、急に誰かが扉を激しくノックする音が聞こえてきたので、慌ててそれを片づけてトイレの外へ出た。トイレの外では、彫りが深く濃い口髭を蓄えたいかにもインド人然とした中年男性が怪訝な表情で智を睨みつけ、何か抗議をするようにヒンドゥー語で智に話しかけてきたのだが、智は微笑みながらその場を後にした。

マナリーの町は、今まで過ごしていたデリーとは全くの別世界だった。デリーがまるでインドその物だったのに対し、ここ、マナリーの町はヒンドゥー色が薄く、むしろチベットの雰囲気が強く感じられた。バスの中で隣り合わせになったチベット人達といい、半年以上も前に旅したチベットの地が自然と思い出され、どこか懐かしい気分に智は捕われ始めていた。あのとき一緒に旅した仲間達。一体今頃、どこで、何をしているのだろう……? 智は、今、自分が今までとは違う世界に足を踏み入れたことを認識していた。何ヶ月にも及ぶ、ギラギラした色彩で彩られたヒンドゥー世界の旅。体の肉が溶けてしまいそうな暑さや、まとわりつく湿気や、燃えさかる太陽。それらの世界から、ようやく一歩抜け出したのだ。やっとのことで動き始めた旅の景色に、落ち込んでいた智の心も少しは軽くなった。  

座席のチケット

バスに乗り込むと、智はいきなり車掌と揉めた。智の席には既に人が座っており、そのことについて車掌に問いただしていたら、いつの間にか言い合いになっていたのだ。

座っているインド人のおばさんにチケットを見せてもらうと、確かにその座席のチケットだったのだが、智のチケットも間違いなくその座席のチケットだったのだ。それで車掌を呼んで説明を求めたのだが車掌にはどうすることもできず、最終的には早いもの勝ちということになってしまい、席は先にそこに座っていたおばさんの物となったのだった。恐らくそれはチケット発券上のミスで、チケットカウンターの人間に責任があるのだろうが、だからといって智が損をしなければならない理由は何もなく、更に車掌を問いつめると、反対に、物凄い剣幕で智に向かって怒鳴り始めたのだ。

インド人とこうなってしまうともう、話し合いも何も無くなるので、智は、諦めて、分かった、俺はその席を譲るけど、一言間違いを認めて謝ってくれ、そうすれば俺の気持ちも収まるから、と譲歩したのだが、彼は、全く聞く耳を持たず、俺は間違っていない、俺は間違っていない、の一点張りで、挙げ句の果てには智のチケットを取り上げてビリビリに破り捨ててしまった。さすがにそれには智も頭に来て、反射的に車掌に飛びかかりそうになったのだが、すんでの所で他の乗客に止められた。バスは満員で、乗客は、皆智達のやりとりを注目していたのだ。すると、その中のバックパッカーの中でも人一倍薄汚い男が、フランス訛りの英語で、落ち着けよ、ブラザー、こんなことインドではしょっちゅうさ、あんな奴らのことなんて気にするな、夜になったらそこで寝ればいいさ、その方が椅子よりもずっと快適だぜ、俺はいつもそうしてる、と、座席と座席の間のゴミの散乱した通路を指差しながらそう言った。さすがに智はそこで眠る気にはなれなかったが、ああ、そうするよ、ありがとう、と言って何とか気持ちを落ち着けた。そして最終的に、車掌の言う、運転席の横の窮屈なベンチシートへ仕方なく腰を落ち着けた。

バスが動き始めて間もない内は、前後は確かに窮屈だけど横幅は普通の座席よりも広いからむしろこちらの方が楽かもしれない、と、智は呑気に考えていたのだが、それは大きな間違いだった。後から後から、智の所へ人が乗り込んで来る。最後には、そのベンチは四人掛けとなった。前後左右をビッチリと固められ、殆ど膝を抱えたような姿勢の智は、身動き一つできない状態だった。ふいに車掌に対する怒りが込み上げてくる。更に、智を挟んで大声で話し合うチベット系の中年男性達の飛び散る唾が、智の顔にかかる度、殺意を伴うような苛立ちが沸々と腹の底から沸き上ってくる。智は、目を閉じひたすら耐え続けた。

終止符

もうすぐ、奈々が帰って来る頃だった。この宿に戻って来るとは一言も言っていなかったが、果たして戻って来るのだろうか? 恐らく、明日か明後日ぐらいにはデリーに着く筈だ。

智は、明日のマナリー行きのバスのチケットを手に入れた。奈々の帰りが近いというのは分かってはいたが、もうパキスタンビザは手に入れていたし、デリーには何も用事がなかったからだ。だとしたら、一刻も早くこの忌わしい地から逃げ出してしまいたかった。もちろん奈々にはたまらなく会いたいけれど、果たして彼女がこの間の別れをどう思っているのか想像もつかない。ひょっとしたらもう、口も聞いてくれない程自分のことを憎んでいるのかもしれない。もしそうだった時、とてもそんな現実に対面できるような精神状態を今の智は持ってはいなかった。だから、逃げるようにこの地を去るのだ。

二週間に及ぶデリーでの滞在に智はようやく終止符を打った。荷物をまとめ、扉に描かれたシバ神を見ていると、それを描いていた時のことがもう随分昔の日のことのように思い出される。シバ神は、相変わらず微笑みながら踊っていた。たくさんの扉の落書きは、あの日のままに残されている。

――― メメント・モリ、死を想え ―――   

智は、笑いながら扉を閉めた。

ひたすら

「どうだ? 痛ぇだろ? お前の連れにも同じことされたんだぜ」

ゲンが智を見下ろしながらそう言った。

「フン、こっちの金は慰謝料として貰っとくな。全然足りねえけど、まあ、これで勘弁してやるよ。あとはお前の住所だけど、きっちりメモしたからさ。あいつらがもし、この件で仕返しに来たりなんかしたら、すぐにお前んとこ行くからな。憶えとけよ。何回でも行ってやる。分かったか? この、うすらボケ」

ヤスが、髪を引っ張って智の顔を持ち上げながらそう言った。そして後頭部を思い切り壁に打ちつけた。智は、頭を押さえてうずくまった。

「馬鹿が。調子に乗ってんじゃねぇぞ」

吐き捨てるようにヤスがそう言った。ゲンは、智の腹部を思い切り蹴り上げた。あまりの苦しさに智は声を出して泣いた。

「へっ、こいつ泣いてやがるぜ。馬鹿野郎が。タマ潰されなかっただけでも、ありがたいと思えよ」

そう言うと二人は笑いながら去って行った。

智は、動かない体を無理やり引きずりながら、泥水の中の貴重品袋を拾い上げた。約千ドル分程あるトラベラーズチェックは、泥水でぐちゃぐちゃだ。再発行しなければ使いものにはならないだろう。

泥だらけになった貴重品袋を智は改めて見返した。これは、旅に出る前に母が智に買い与えたものだった。大事な物を取られたりしないように、ちゃんと腰につけときなさいよ、そう言って母から渡された。それが、あんな奴らに泥だらけにされてしまったのだ……。温かい母親の愛情が、最低の人間に、最も屈辱的な方法で侮辱されたように感じた。

しばらくそれを眺めていたら、智の目には再び涙が溢れてきて、それを止めるのは難しかった。誰も人のいないインドの路地裏で大声を上げて智は声が涸れるまで泣き叫んだ ―――   

その後の智のデリーでの生活は、ヘロインと共にあった。心路がマナリーへ出発する時、少し分けてくれたのだ。狂ったように智はそれをやった。ヘロインが効いてさえいれば、日中の地獄のような暑さも、忌わしい思い出からも、何とか逃れることができる。昼間から部屋に籠りっ放しで、ひたすら吸い続けた。誰とも会わず、誰とも話さず、ほとんど食事も摂らないような毎日が続いた。寂しさは、もう感じなかった。智の現実は、ヘロインと、インドの二つだけだった。

数時間おきに体が痛み始める。頭痛がし始める。全身がだるくなり、冷や汗が流れ出す。たまらなくなってラインを引く。吸い込むと、途端に楽になる。あとは寝ているだけでいい。

ドルキャッシュ

翌日、智は奈々を見送ることができなかった。目が覚めたら猶に昼をまわっていたのだ。取り返しのつかない後悔の念と、強烈な自己嫌悪が智を襲った。慌てて奈々の部屋を見に行ったが、当然のように誰もいなかった。ゲストハウスに雇われている掃除婦が部屋の掃除をしている所だった。智は、自分を呪って強く床を蹴った。奈々は、一体どんな気持ちでここを去って行ったのだろう?

直規は、夜の飛行機でバンコクへと飛び立った。別れの時間は淡々と過ぎ去った。その後、直規の去った部屋で、心路は、どこかボーッとした様子で一人の時間を過ごしていたが、数日後、バスでマナリーへと旅立った。智は再び、一人残された。

そんな風に淡々と毎日が過ぎていったある日、智がメインバザールを歩いていると、偶然、ヤスとゲンの二人とかち合った。智は、反射的に走って逃げようとしたが、すぐに二人に捕まってしまった。

「てめえ、よくもやってくれたよなあ、ああ?」

誰も人の来ない細い裏路地に連れ込まれた智は、ゲンに胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられている。ゲンの腕の圧力で、智の背中が壁で擦れる。耳元で、さらさらと砂の落ちる音が聞こえている。智は、恐怖で声が出ない。

「ゲン、またあいつらに会うとヤバイから、さっさとやっちまえよ」

ヤスがゲンの背後から声をかける。首にかけた大きな数珠を、一粒ずつ数えるようにして手繰り寄せている。

そんなヤスの方を見ていた智に、ゲンの拳がめり込んだ。ようやく治りかけていた智の頬をゲンの拳が再び貫く。思わず、膝が落ちた。しかし智が倒れ込もうとするのをゲンは強引に立たせると、すかさず膝を智の腹部に突き刺した。その衝撃に体が折れる。ゲンは自分に向けられた智の背中に肘を落とす。鋭い痛みとともに、体内の空気の固まりが智の口から吐き出される。智は、牛の糞や、腐敗した果物の散乱した湿った地面に突っ伏した。開いた口の中に、泥が入ってくる。更に次の瞬間、急に視界が暗くなると、何かで擦り付けられているような痛みと共に濡れてざらついた感触を顔面に感じた。そして、くぐもった声で誰かが何かを言っているのが聞こえてくる。

「お前、奈々とやったのかよ? え? 奈々とやったのか? え? やったんだろ? どうだったんだよ、いい声出してたか? あいつ? いいオマンコしてたのか?」

ゲンは、足で踏みつけていた智の顔面をむんずと掴むと、智を無理矢理引きずり起こした。そして、泥だらけの智の顔を思いっ切り一発引っぱたくと、物凄い力で智の股間を握りしめた。

「おい、このチンポでやったのか? このチンポで、奈々とオマンコしたのかよ? なあ、このまま握り潰してやろうか? 握り潰して欲しいのか? なあ、智さんよお」

智は、目を見開いて激しく左右に首を振った。やめ…て、やめて下さい……、お願いします……。泣き出さんばかりの表情で智は命乞いをした。

するとそこにヤスが顔を出し、智の顔に唾を吐きかけた。粘りつく生暖かい感覚が、眉から目を通って、頬に伝っていく。ヤスは、智の腰に手を回して貴重品袋を探った。そしてそれを引きちぎると、中に入った忘備録と五百ドル分のドルキャッシュを抜き取った。そしてその他のトラベラーズチェックなどは、貴重品袋ごと、路地の濁った水溜まりの中に投げ入れられた。智は、必死に叫びながら手を伸ばして何とかそれを取り返そうとした。するとゲンが、暴れるサトシを押さえ付け、額を思い切り智の鼻に打ちつけた。智はそのまま崩れ落ちる。鼻から、ポタポタと血が垂れてくる。Tシャツがどんどん血に染まっていく。

溢れる涙

「俺、一人で行く。心路、お前との旅はここで終わりだ」
「そんな、直規君。そんなこと勝手に決めるなよ」

心路は、突然の直規の提案に、驚いてそう言い返した。 
「でも、もう決めたんだ。悪いな、シンジ」

心路は、じっと直規の目を見つめながら唇を噛み締めている。小刻みに肩が震えているのが分かる。すると次の瞬間、突然立ち上がって直規に向かって飛びかかった。

「ナオキくん、いい加減にしろよ! 勝手なんだよ、いつも、勝手なんだよ! 俺が、俺が、どれだけ今まで我慢してきたか分かってんのかよ? 直規君のために、どれだけ我慢してきたか、分かってんのかよ? なあ、ちょっとは俺のことも考えてくれよ! いいだろ? そろそろ、それぐらいしてくれたって、なあ、直規君よう、ちょっと考え直してくれよ、そろそろさあ、他人のことも考えられるようになってくれよ! なあ、頼むよ、頼むから、本当に、なあ、ナオキくんよう………」

直規の肩を強く揺さぶりながら心路はそう言った。瞳から涙が溢れている。止めどなく溢れる涙が、心路の頬を伝う。しかし直規は、心路のそんな様子には少しも動揺することなく、冷静にこう言い放った。

「ごめんな、心路。悪かったよ、今まで。本当に反省してるよ。でも俺は、もう旅はいいんだよ。最後にバンコク行って帰ることにする。心路はマナリー行くんだろ? 俺は先に帰ってるからさ、日本に帰って来たら連絡してくれよ。悪かったな、今まで。迷惑かけたな。さっきのことも。ごめんな、本当に……」

心路は、興奮した様子で直規がそう話すのを聞いていたが、直規が話し終わると、諦めたように体を離した。涙は、もう止まっていた。

「ああ、分かったよ……。好きにしろよ、もう……」

心路は、ぐったりと俯いて言葉も無い。直規は、エクスタシーとヘロインの合わさった酔いに溺れるかのように、青い天井を眺めている。首にかけているヘッドフォンからは、大音量のトランスミュージックが狂ったように洩れてくる。

沈黙が三人を包んだ。ヘッドフォンからのサウンドと、天井で回り続けるファンの風切り音だけが静かに空間を支配していた ―――   

興味

「いや、そうじゃないんだ。もともと直規君が、ゴアにいたときから目をつけてた子だったんだよ、彼女は。それが偶然、プシュカルにいてさ。智もちらっと見たよな? 金髪で、所々緑に染めてるちょっとイッちゃってる感じの子。それで智も知っている通り、急にジャイプルへ一緒に行くことになったんだけど、どういうわけか、その子が俺になびいちゃってさ。これもまた昔からそうなんだけど、何故か直規君の狙ってる女は、俺に惚れたりすることが多いんだよ。何でか分かんないけど。俺にはちっともそんな気なんて無いんだぜ? だって、そんなことしたら後でややこしいことになるのは目に見えてるだろ? また八つ当たりされたりするに決まってるんだから。だから、わざわざそんなことをしようとは思わないんだけど、どういう訳か、皆決まって俺の方に来るんだよな。女って本当に分からないよな。追いかけたら逃げる癖に、興味を示さなかったら途端にちょっかいかけてきやがるんだから。迷惑だからやめて欲しいんだけどさ。でも、やっぱり言い寄って来られたら、いい気にもなるだろ? それでこっちがその気になったりすると、手の平返したように冷たい態度を取り始めるんだ。結局、皆そうだったよ。その金髪の女もそうでさ。俺がちょっとそういう態度を取り始めると、途端に冷めちまったらしくって、すぐに消えちまったよ。どっか行っちまった。俺達は、行きたくもないジャイプルなんてわざわざついて行ったっていうのにさ。まあ、直規君も俺のそんな振られっぷりを見てるからこそ、爆発しないのかも知れないから、それはそれでいいのかも知れないけど。でも、いくら俺が鈍いって言ったって、そんな風にされたらやっぱり傷つくし、いい気はしないんだけどな……」

智は、心路が寂しそうにそう言うのを聞いて、思わず笑ってしまった。心路は、ひでぇな、サトシ、と、ボソッと呟いた。

「いや、ごめんごめん。あんまり心路が寂しそうな顔してるからさ。つい……」

智は慌ててそう言った。

「とにかく、そういうことなんだ。直規君は、今かなりヤバイ状態なんだよ。だから、もう俺達、これ以上は……」
「誰が、ヤバイ状態だって?」

急に扉が開くと、そこには直規が立っていた。心路と智の二人は、その姿に目が釘付けになった。心路を横目で見ながら直規はベッドに腰を下ろした。そして煙草に火をつけると、ゆっくりとした調子で話し始めた。

「俺、タイに行くわ。明日にでもチケット取りに行く」

心路と智の二人は顔を見合わせた。

「えっ、直規くん、一体何言って……」

呆気にとられた表情で心路がそう言いかけるのを、直規が遮った。

ピリピリピリピリ

「旅に出ようと思って、金を貯め始める前ぐらいかな。レイヴ仲間にゴア行ってた奴らが何人かいて、そいつらの話聞いてたら、もう、行くしか無いじゃん、ってことになってさ。ようやく俺達にも目標らしい目標ができたから、馬鹿みたいにドラッグやり続ける生活も、ちょっとはマシなもんになったんだ。毎日真面目に仕事行って、金貯めて。半年ぐらいそんな生活が続いたかな。だから、こっち来たときは二人とも結構いい感じだったんだよ。体も調子良かったし、精神的にも落ち着いてたし。ゴアも楽しかったしな。でも、ゴアを出た辺りから、何となく、また精神的に落ち込み始めて……。やっぱり目標としていたゴアまでは、二人ともモチベーションを保つことができてたんだけど、それを達成しちゃった後は何となく何していいのか分かんなくなっちゃって、パーティを追いかけること自体が目標になったんだ。お祭りみたいなもんでさ、要するに、祭りのあとの状態なんだよ。俺達。あの、熱狂してた時間を消したくなくって、もう、終わってしまったっていうのは分かっているんだけど、それを認めたくないっていうか……。だから俺達は、これからシーズン迎えるマナリー目指してひたすら北上して来たんだけど、ちょっと限界かもな。やっぱ、プシュカルでブラウンやりだしてからだよ。直規君がまたおかしくなり始めたのは。禁断症状が出始めて、昔のことを思い出すんだろうな。ピリピリピリピリしてるんだ、ずっと。そんで、ヘロインなんか手に入っちゃっただろ? だから、更にその状態に拍車をかけてるんだよ」
「心路は大丈夫なの?」
「俺もやっぱり辛いけど、直規君とはちょっと違うな。何て言うか、ほら、さっきも言ったけど、直規君は俺と違って頭がいいんだよ。だから、色んなこと考え過ぎちゃうんだ。本当にどうでもいいようなことを突き詰めて考え過ぎる癖があるんだよ。それにあいつ、ああ見えても、凄く繊細なんだ。だからもう、悪循環でさ。色んなことに傷つけられて、身を守るために考えて。それで考え過ぎて、見なくていい物まで見えてしまうようになって、また傷ついて……。しょうがないよ。奴がドラッグに溺れるのは。気持ちは分かるような気もするよ。その点俺は、そこんとこ鈍いから結構何があっても平気な方なんだ。だからドラッグに対しても、直規君のようなのめり込み方はしない、というか、できないんだ。俺は、純粋に感覚だけを楽しんでるような所があるけど、直規君は、もうそれこそ、身も心もどっぷりと捧げてしまうタイプなんだ。あのままいったら、あいつ、確実に死んじゃうよ。更に、最近例の女の一件があってからまたひどくなってきてるしさ」
「そういえば、さっきはちゃんと聞けなかったけど、結局その女の子とはどうなったの? 二人で取り合いになって、心路が勝ち取ったっていうこと?」

裏目に出る

「ああ、本当の話だよ。しかも高校は中退してるから、自力で大検とって東京の有名な私立大に入ったんだ。直規くん、頭いいんだぜ。高校も俺なんかとは違って、結構な進学校へ行ってたしさ。でも、昔から札付きのワルがそんな高校や大学、合うわけないじゃない? 一年が終わるか終わらないかの内に、学校内で喧嘩して、警察沙汰になって退学処分さ。大学だって同じことだ。入って何ヶ月も経たない内に、すぐ辞めた。奨学金まで貰ってたのにな。同級生の奴らに我慢ができなかったらしい。聞いた話によると、ムカついてた奴を授業中に、後ろから思いっきり椅子でブン殴ったそうだ。頭から血がピューピュー吹き出して、辺り一面血の海で、そりゃあもう授業どころじゃなかったらしいぜ。何でも、金持ちのボンボンがポルシェか何か乗り回してて、テニスサークルか何かで女といつもイチャイチャしてたのが気に入らなかったみたいなんだ。そんなの、完全な逆恨みだよな。ひがみ以外の何ものでもない。やられた奴にしちゃあ、災難だぜ。それで警察にとっ掴まって、何日も拘留されて、その後、やっと出てきたと思ったら、それからがまた、ひどかったね。せっかく更正して真面目にやろうとして大学まで入った矢先のことだったから、反動も生半可なものじゃなかったよ。昔から付き合いのあったヤクザなんかとつるみ始めて、シャブとか色んなもん捌きだして……。もう、そのままヤクザになるしかないんじゃないか、って思ってたちょうどその時に、レイヴと出会ったんだよ。そしたらまた、物凄い勢いでのめり込んじゃってさ。その延長でこうやってはるばるインドまで来てるって訳さ。まあ、俺もそうなんだけど、ちょっと前までの直規くんだったら、インドに来るなんてことは考えられなかったんだよ。本当に。でもまあ、ヤクザなんかになるよりは、レイヴにはまってドラッグやってる方が、まだマシだとは思うんだけどな……」

心路は、そう言うと煙草の煙を吐きながら大きく溜め息をついた。

「まあ、俺なんかもそうなんだけど、直規君は、とにかく昔からやることなすこと全部裏目に出るタイプでさ。何をやっても上手くいかないんだ。全く、ろくな人生じゃないよ。金も無いし、仕事も無いし……。智、夏の炎天下に真っ昼間から道路に穴掘ったことあ
る?」

ゆっくりと智は首を振った。

「もう、マジで地獄だぜ、あれは。アスファルトの照り返しがあるから、確実に体感温度は五十度近くあるな。そんな所で、意識が朦朧となりながら一日中穴を掘り続けて大して良くもない日当貰ってさ。くたくたで帰って、次の日また朝早く起きて。もう、人生なんてやめてしまいたくもなるよ。稼いだ金は殆どシャブで使って、ひたすら毎日打ってたよ。直規君と二人でな。直規君は本当に凄かったよ、あん時は。もう、死ぬ気でいたからな、毎日。シャブ打って、カミ喰って、レイヴ行って朝まで踊って、帰って来たら、また打って。切れてきたら、馬鹿みたいに酒飲みまくって。それでギリギリまで金使ったらまた穴掘って。それの繰り返し。辛かったよなあ、本当に。直規君の姿を見てるのも辛かったし、自分が薬切れても辛かったし。地獄のような毎日だったよ、本当に……」
「いつまで、そんな日々が続いたの?」