終着点。全てのものには終わりがある。
旅だってそうだし、人生だってそうだ。
永遠って何だろう?
永遠、って概念が、永遠、って言葉を生んだのだと思うし、
それは分かりにくくとも、確かに存在するものなのかもしれない。
でも人生には必ず終わりがある。
命あるものはいつか死を迎える。避けられない。
永遠ではあり得ない。
旅だってそうだ。
いつかどこかで、どこかへ帰る日がやってくる。
でも。
終わらない旅、っていうのがあるとしたら?
旅先で出会ったある人が、
終わらない旅の話をぼくにしてくれた。
その話はぼくに、永遠、ってことを考えさせた。
それはとても心地の良い感じだった。
色んな束縛から自由に解放されるような感覚だった。
彼は言った。
”もし、旅行することに終わりを定めているとしたら、
どこにいても、どれだけビザに余裕があっても、必ず時間に、
何かに縛られることになる。
それと同じで一生の中に、死、というものを終着とするならば
それもまた、時間や他の色々な何かに縛られることになる。”
死、はある。必ずある。避けられない。
でも、それをひとつの通過点だとするならば?
そう思えることができるとするならば、それは終わりだろうか?
例えば旅の終わりが、日本に帰る、ということだとしたら、
その旅はそこで、死、を迎える。旅が終わる。
人生が終わるように旅も終わる。
しかし、もしそれを、ひとつの通過点だとするならば?
通過点に過ぎない、と捉えることができるのならば?
旅は決して終わらない。
たとえ、ずっと日本にいたとしても、
それから一生どこへも行かなかったとしても、
その旅は終わることはないだろう。
本質的な意味での旅は決して終わりを迎えない。
要するに終わりのことばかりに囚われていたら、
結局その行為とは、
終わりに向かうためだけに進行していくということだ。
束縛から自由になれない。
反対に、もっと先を見ていたら、
終着地点より先を見ていられたら、
もっと伸び伸びと色んなことができる。
様々なことに刺激を感じられる。
彼は言っていた。
”オレの旅に終わりはないよ。
たとえ日本に帰ってきたとしても、
またどうせすぐ出てくるだろうしね、ハハハ。
でもたとえそうじゃなくっても、
今ここにいて感じているこの気持ちは消えることはない。
それはきっと日本にずっといたとしてもそうだと思うんだ。
だったら、それは今いる場所の違いだけであって、
本質的な自分ってものは何にも変わらないだろ?
だから、人生は、旅、なんだと思うんだ。
終わることのない、ね。たとえ死んじまったって、
オレのやってきたことっていうのは否定できないし、
どっかにそれはずっと残っていく。
確かにオレは存在したんだから。
そうやって考えると、人生って楽しいな、って思えるし、
もっと楽しむことができる。それって最高だろ?”
ぼくは終わりのことばかり考えて旅をしていた。
後何日であそこまで行かなきゃならない、
もうあそこには行けないかもしれないから行っとかなきゃ、
お金が後いくらしかないからそろそろ移動しよう、
絶対にあの国まで行ってから帰るんだ……
色んな思いが絶えずぼくを締め付けていた。
一見自由気ままに旅をしているようで、
実のところは自由でも何でもなかった。
常に様々な制約に縛られ続けていた。
実際あの人が言っていたように、
日本に帰ってもぼくの旅は終わらなかった。
未だにあの長い旅から抜け出せないでいる、
と言ってもいいかもしれない。
それは決して彼の言うような永遠性を伴った自由な感覚ではなく
不安定で自分を確立しきれない辛いものであったりする。
でもぼくは、あの旅の日々を忘れることはないだろうし、
あのとき感じた、体が軽くなるような自由な世界があることは、
心のどこかで憶えている。
ぼくにとってそれは生きていく上で最も重要な、
希望的な出来事につながっているのかもしれない。
一度開いた感覚は、信じる、という行為に成り変わって
ずっと存続していく。
今のぼくは確かに何かを信じている。
人生とは旅である、なんて使い古された臭い言葉を
大真面目に主張しているぼくなのだ。