北京からモンゴルのウランバートルまでは、実に33時間かかった。
列車での長時間の移動は、それほどつらくはないが、33時間というのは初めての経験だった。 朝の7時に定刻どおり北京を出た列車はひたすら北へ向かった。
途中、夜の11時に国境に着き、まず出国審査で起こされた。
出国審査は列車に乗ったままやってくれるので、乗客のとってはありがたい。
出国審査の後、中国のレールとモンゴルのレールの幅が違うので、車輪の交換を行なう。
まず、車両を一両ずつ切り離し、ばかでかいジャッキで車両の四隅を持ち上げ、下の車輪をモンゴル式のものに取り替える。
この作業を全て終えるのに3時間はかかった。
そしてモンゴル側の街に着くと、入国審査のためまた係員にたたき起こされる。
多分午前3時くらいだったと思う。
半分寝ていて、パスポートを渡しただけだからあまり憶えていない。
そして夜が明けて、夕方の4時にやっとウランバートルに到着した。
ウランバートルの駅は、一国の首都の駅にしては、あまりにも閑散としていた。
間違って、どこか田舎の駅で降りてしまったのかと思うほどだった。
駅自体の建物はロシア風で、しっかりしたものだったが、駅を出ても小さな広場があるだけだった。
人もまばらで、商店も少なく、タクシーが何台かあるだけで、あとはなにもない。
安宿の客引きを探したが、それらしき人も見あたらず、私は歩き出した。
しかし5分も歩かないうちに、20代前半のモンゴル人の男性が話し掛けてきた。
他のモンゴル人と同じく肌の色は日焼けで黒いが、モンゴル男性にしては痩せていて、頼りなさそうな印象を受けた。
彼は日本語で話し掛けてきた。
それも、彼の話した日本語は、『こんにちは、私の名前はカラです』だけで、その後は英語が続いた。
いかにも胡散臭そうではあったが、少し話を聞いてみた。
彼の英語は独特の発音で、分かりづらかったが、彼はゲストハウスのオーナーで、最近新しいゲストハウスをオープンしたので、良かったら泊まらないかということだった。
また、彼は英語のガイドもやっていて、安いツアーも扱っているとのことだった。
少し迷ったが、新しいゲストハウスで清潔であることが期待できたのと、料金が1泊3ドルと安いので、とにかく行って見てみることにした。
それに何よりこれ以上重いバックパックを背負って、知らない街をさまようが嫌だった。
彼のゲストハウスまではタクシーで行った。
ウランバートルの中心街はこじんまりとはいているが、予想していたよりは発展していた。
小さいがデパートがあり、レストランも多く、車の往来も激しい。
そしてマンションも立ち並び、高級ホテルもある。
そのタクシーは街外れまで行きそこで降りた。
その周辺には定住用のゲル(モンゴル式のテント)が並んでいて、私たちはそこを抜けていった。
ゲルとゲルの間は、木でできた塀で囲ってあり、どうやら家族ごとに仕切ってあるようだ。
しばらく歩くと木を組んで造った、簡単な門があり鍵がかかるようになっていた。
ウランバートルにはゲルを利用したゲストハウスがあると聞いていたので、私はそこのゲルがゲストハウスなのかもしれないと思った。
『ここがゲストハウスです』と言いながら、カラさんは門をくぐった。
ゲルの中には若いモンゴル女性が二人いて、二つのベッドと、小さなテーブル、タンス、スーツケース、冷蔵庫、ラジカセなどがあり、生活感が漂っていて、どう見てもゲストハウスではなかった。
そしてよくよく話を聞くと、そこは彼のゲルで、そこのベッドを1泊3ドルで貸すということだった。
私は、長時間の列車の移動で疲れていたので、今日ぐらいはシングルルームに泊りたいと思っていたが、それよりもまた荷物を担いで街を歩く事の方が面倒になり、2ドルに負けてもらいそこに泊まることにした。
ゲルにいた女性の一人はカラさんの奥さんで20歳だそうだ。
そしてもう一人は奥さんの妹で19歳。
二人とも色が白く、シャワーなどめったに浴びない生活なのに、小奇麗にしていた。
顔立ちは日本人によく似ていて、可愛らしかった。
トイレは外に掘っ建て小屋があり、そこに深さ2メートルくらいの穴が掘ってあって、そこで用を足す。
シャワーはもちろんない。
そこでモンゴル式の麺をごちそうになった後、私はインターネットをやりに行った。
カラさんと奥さんが、ネットカフェの場所が分かりづらいからと言って、そこまで案内してくれた。
しかし最初のネットカフェが、日本語の入力ができなくて、彼らは何軒もネットカフェを聞いて廻ってくれた。
しかし1軒も見つからず結局あきらめ、一緒に夕食を取ることにした。
カラさんが選んだレストランはいかにも外国人向けのもので、料金もそれなりのものだった。
すると、どうやらそこのレストランにネットカフェが入っていて、日本語も大丈夫だという。
私は食事を済ませると、彼らに待ってもらって、そこでしばらくインターネットをやることにした。
1時間ほどやっただろうか。
一人で会計を済ませる段となって、びっくりした。
3人分の食事と飲み物、インターネット代、全て合わせて、日本円にして約2700円もしたのだ。
モンゴルの数日分の滞在費に相当する。
インターネット代も食事代も安いものではなかった。
しかも彼らは待っている間、1杯100円もするアップルジュースを、二人で6杯も飲んでいたのだ。
とりあえずと思い、会計を済ませて、カラさんにレシートを見せたが何の反応もない。
自分で食べたものを払ってくれと言っても、お茶を濁している感じである。
いつもの私であれば、そこで周りも気にせず、怒鳴りちらすところであるが、今回はそれができなかった。
というのも、明日モンゴルの草原へ連れて行ってもらう約束をしていて、そこまでのタクシー代をすでにカラさんに払っていたのだった。
ここで関係を悪くしても、そのお金も戻ってくるか怪しいものだし、喧嘩したまま草原へ行くのも嫌だった。
私もなんとなく、後で払ってくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら、彼の家に戻った。
その日ななんとなく、嫌な気分でベッドに入ったが、体は疲れているはずなのに、なかなか眠れなかった。
私はもちろん一つのベッドをもらったが、カラさんと奥さんは、床に一つの布団をしいて寝ていたし、もう一つのベッドは、夜になって妹の旦那らしき人もきて、妹と二人で一つのベッドで寝ている。
彼らは、遅くまで何やらひそひそと話していて、それが気になってしまった。
まして若い男女二組が、それぞれ一つの布団で寝ているを目の前にしては、気にならないわけがない。
しかも彼らは布団に入ると、下着のみを身につけ、あとは脱いでしまっている。
奥さんと、その妹もそうだ。
妹の白い肩が、暗闇のなかでぼんやりと浮き上がり、綺麗だった。
その夜は、雷雨になった。
次の日の朝、カラさんは私のためにパンとコーヒーの食事を用意してくれた。
それを食べて、タクシーで草原へと出かけていった。
草原の景色は確かに綺麗だった。
しかし、昨日のレストランの一件が気になり、あまり楽しめなかった。
それに彼の奥さんも一緒で、二人で手を繋いだりしてデート気分でいたのも、その理由の一つかもしれない。
それにしても、なぜカラさんはお金を払ってくれなかったのだろうか。
どうしても、ボラれたとは思えなかった。
もしボラれたとすれば、わざわざ何軒もネットカフェを廻ってくれたり、パンとコーヒーの食事を用意してくれたりしたのは何だったのだろうか。
それが、彼らのこちらを信用させる手口だとはどうしても思えなかった。
まして、彼はゲルの合鍵まで渡してくれたのだ。
その優しさと、私を信用しきった態度はなんだったのだろうか。
もしかしたら、彼もその料金の高さに驚き、払えなかったのではないだろうか。
モンゴルで何人かに1ヶ月の収入を聞いたが、誰一人、1万円を越えている人はいなかった。
しかし誰もが、それで充分だとも言っていた。
私は複雑な思いに駆られながら、翌日ウランバートルを後にしたのだった。