カトマンズでは荷物を送ったり受け取ったりしてせいもあり、いつのまにか長居してしまった。
ゲストハウスの居心地がよかったせいもあるかもしれない。
中心街に近くて、それでいて静かで、スタッフの人柄もよかった。
スタッフの一人に部屋の掃除にきてくれたり、水を持ってきてくれたりしてくれた20代の男性がいた。
彼は英語が苦手であまりコミュニケーションを取れなかったが、その代わりどこか人懐っこく、信頼がおけた。
ポカラへの出発の日、朝の5時に起きて支度をしていると、その彼が部屋にミルクティーを持ってきてくれた。
もちろん私が頼んだわけではなく、彼の気持ちだった。
そして、ゲストハウスの門まで見送ってくれて、もうカトマンズには戻らないでインドに行くというと、カタというスカーフみたいな布を持ってきて、首にかけてくれた。
『これはどういう意味だい?』
と聞くと、
『幸運を・・・という意味です。ネパールの習慣です。』
と答えてくれた。
正直に告白すればこのカタには感動して、涙が出そうになってしまった。
私はただ、
『ダンニャバート(ありがとう)。』
を繰り返していた。
そのカタは今でもお守り代わりに私のバックパックに結ばれている。
そしてバスでポカラへと向かい、すぐにアンナプルナトレッキングに行った。
ガイドもポーターも雇わず、アンナプルナベースキャンプまで登ったが、道も分かりやすく、宿も充実していて、西チベットのカイラスと比べると快適そのものだった。
途中いくつもの村を通過して、写真もたくさん撮れた。
何より雨季が明けたばかりで晴天が続き、アンナプルナやマチャプチャレといった山々を間近に見ることができて、満足のいくトレッキングだった。
しかし、快適すぎて残念ながらここで書くような体験はない。
ポカラに戻ってからも居心地がよくて、なかなかそこを出れなかった。
湖ごしに見るマチャプチャレは美しくて、宿も安く、飯もうまい。
まさにうってつけの沈没地だ。
といってもいつまでもそこでだらだら過ごしているわけにもいかないと思い、インドとのボーダーまでのバスチケットを買ったはいいが、マオイスト(毛沢東主義のテロ集団)のバス爆破予告があり、長距離バスが全てストップしてしまった。
そのせいでさらに3日間そこに足止めとなった。
そしてやっとインドとのボーダー、スノウリ行のバスに乗ったのは、トレッキングが終わってもう10日が経っていた。
そのスノウリ行のバスはツーリストバスだったが、途中たくさん地元の人ものせ、ひたすら走った。
朝、7時半にポカラを出発し、スノウリのバスターミナルに着いたのが3時半。
そこでローカルバスに乗り換えて、5分もしないうちにボーダーに到着した。
そこから夜行のバラナシ行きのバスもあったが、ネパール最後の夜をそこで過ごすことにした。
ホテルはバスを降りた目の前にあった「ホテル ムクティナート」というところにした。
ただなんとなく、そのチベット文化圏の地名に惹かれたからだ。
オーナーはやっぱりチベット人で、片言のチベット語を使うと、とても喜んでくれた。
この旅でラサに入ってから、いろんなところでチベット人に会った。
ラサや西チベットはもちろん、カトマンズやアンナプルナのトレッキングでも会った。
ポカラではチベット人のおばさんに、
『物々交換しよう』
と日本語で言われ、もう使わない傘や靴下を持っていったら、結局お土産を買わされたこともあったが、今では思い出の一つだ。
おそらくそこのオーナーが今回の旅で会う最後のチベット人だろうと思うと、なんだか感慨深いものがあった。
そして、長いことヒマラヤの麓をうろうろしてきたが、とうとうヒマラヤとも別れて太陽が地平線に沈む場所に来た。
そこで一泊し、早朝宿を出た。
『カリペー(さようなら)』
と言うと、
『ジェ?ヨン(また会いましょう)』
とオーナーが返してくれた。
ここからいよいよインドに入ることになる。
ボーダーは問題無く通過した。
そしてバラナシ行きのバスを探す。
バラナシ行きのチケットは昨日のうちにネパール側で購入していた。
ほんとはボーダーを越えてから購入した方が間違いがないと思ったが、マオイストの影響でバスが3日間ストップしていたから、早めにチケットを買わないと売り切れると、地元の人が口々に言うのでそれにしたがった。
もう何年の前、カトマンズからバラナシの通しのバスチケットを、カトマンズで購入したが、結局インドに入ってそのチケットが使えず、チケットは買い直すはめになったという苦い経験があるので、できればインドに入ってから買いたいと思ったが、ここまでくれば大丈夫だろうと昨日うちに買っておいた。
しかしそれがトラブルの始まりだった。
まずインド側に入り、バスターミナルまで歩いた。
チケットを買った時に
『インドに入ったら、まずミスターバブルを探せ。あとは全て彼がやってくれる。すぐに見つかるよ』
と言われ「ミスターバブルへ」と書かれたチケットをくれた。
その言葉通りまずミスターバブルを探したが、彼は案外簡単に見つかった。
バスターミナルで、
『どこまで行くんだ』
と声をかけてきた男がいたので、
『ミスターバブルを探していると』
と言うと、
『俺がバブルだ』
との返事が返ってきた。
これはついてると思ってバスに案内してもらおうとするが、何故か彼は考え込んで動かない。
そうこうしているうちに、他の男がやってきて、また同じ質問をしてくる。
それでミスターバブルへと書かれたチケットを見せると、なんとそいつも『俺がバブルだ』という。
なんだ、どっちが本当なんだと頭を悩ませているうちに、一人目のバブルは消えてしまった。
本物らしいバブルは、バスが出るまではまだ時間があると言って、私を旅行代理店に連れてきた。
しかし私がどのバスがバラナシ行きかと聞いても、要領を得ない。
私はもう、誰を信用していいかわからなくなって、
『おまえがバブルなら名刺か証明書を見せてくれ』
と言うと、彼は突然腕をまくって、そこには確かに英語でBABULと書かれてあった。
そんなもんは身分証明にも何にもならないと思ったが、バブル以外の人物がバブルと書くこともないのではと思い、彼を信用することにした。
私が代理店のなかで待っていると、外で数人の男が集まりなにやらガヤガヤやっている。
そのなかにバブルもいる。
しばらくしてバブルが戻ってきて申し分けなさそうに喋りはじめた。
『ミスター、すまない。今日ツーリストバスは出ないんだ。今日出るはずのバスが昨日故障でここまでこれなくて、今日出るバスはないんだ。代わりに公共バスが出るからそれで行ってくれ。公共バスとの差額とチケットの書き換えの手数料で、100ルピーだけ払ってくれればいい。』
私はその時にインドにやってきたぞと実感した。
はっきりいって私の中のインド人の印象はよくない。
もちろん悪い人ばかりではなく、旅行者を相手にする一部のインド人が信用できないことはよくわかっているが、前回の旅でインドに行ったときもさんざんてこずった。
やっぱりインド。
これでこそインド。
わけもなく高揚しそんな事を思った。
『オーケーわかった。まずは何でバスが来てないのか説明してくれ。納得できないと金は払えない。それに第一なんで公共バスの方が値段が高いんだ。』
と私はかなり声を荒立てて喋っていた。
『そんなこと言ってもバスが来てないんだからしかたない。公共バスの値段だって正当なものだ。』
『わかった。だったらチケット代を返せ。同じ系列の旅行会社だろう。』
『ミスターが買った店とは違う代理店なんだ。金がほしいのならもう1回ネパールへ戻れ!!』
『オーケー、オーケー戻ってやるよネパールへ!!』
と私はチケットをひったくって店を出た。
最後に、
『おまえの事をガイドブックに載せてやるからな。もう誰も日本人はお前を信用しないぞ。』
と、いざというときに使おうと思っていた、はったりの決めゼリフを言い忘れてしまった。
こういうのは肝心なときには出てこないもんだ。
とにかく私はバックパックを背負って店を出た。
もちろんネパールになんか行かない。
ただボラてるのがわかっていて、金を払うのがいやだった。
100ルピーといえば約2ドルで、大した金額ではないと思うかもしれないが、金額の問題ではなくて意地の問題だった。
するとやっぱりバブルは追いかけてきた。
これでバスに乗れると思ったら、さっきと同じことを言う。
つまり100ルピーかかると。
そして私とバブルはさっきと全く同じ問答を繰り返し、私はまたバックパックを背負って店を出た。
そして再びバブルがやってきて、やっぱり100ルピーだと言う。
ここまでやられて、私はもしかしたらバブルが言っていることが本当なのかもしれないと思い始めた。
故障でバスが来てないことも。
公共バスの料金も。
私は、今持っているチケットを無駄にしないためにもと思って金を払った。
なんとなく釈然としなかったが、バスに乗って周りの人に確認すると、バスの故障も、公共バスの料金もバブルの言ったとおりだった。
ちょっと私は言い過ぎてしまったようだ。
そしてその公共バスは丸一日かけてバラナシを目指した。
バラナシのバスターミナルに着いたきにはもう6時をまわっていて、日はすっかり暮れていた。
そしてここでもやはり私はインドの洗礼を受けることになる。
バスのステップを降りた途端、サイクルリクシャのおやじたちに囲まれた。
旅行者は私一人ではないが、他の欧米人たちは2、3人のグループでとっとと、3輪タクシーへと流れていった。
残されたのは私一人。
絶好のカモに見えたことだろう。
リクシャのおやじとの交渉が始まった。
『ホテルは決まっているのか。いいホテルを知ってる。50ルピーで行くぞ。』
『おれはPUJAゲストハウスに行きたい。知ってるか。』
『いや、あそこのオーナーは信用できないぞ。俺がいいホテルに連れていってやる。』
『それは俺が決めることだ。誰もPUJAを知らないのか。』
『俺が知ってる。50ルピーだ。』
『だめだ高すぎる。それなら歩いていく。』
『こっから5Kmはあるぞ。歩くには遠い。』
『いや、5Kmならたいしたことはない。心配するな。』
『分かった40ルピーでどうだ。』
『だめだ。歩く。20ルピーなら乗る。』
『20ルピーは安すぎる。30ルピーでどうだ。』
『いや20ルピーが限界だ。』
私は慎重だった。
インドはボリが激しい。
値切って半額にしたつもりが、実は物価の2倍だったなんて話はくさるほどある。
私はボラれるくらいなら本当に歩くつもりだった。
その時だった。
他のおやじたちとは違い、まだ若く20代の若者が口をはさんだ。
『分かった。10ルピーで行ってやる。その代わりヨギロッジまでだ。』
『オーケー、10ルピーで行こう。』
その一言で他のおやじたちはすごすごと消えていった。
ヨギロッジならガイドブックにも載っていた有名な宿だし、もし気に入らなければそこからPUJAゲストハウスも歩いていけると思って、その若者のリクシャに決めた。
私はその若者に、もしかしたらヨギロッジには泊まらないかもしれないと確認し、リクシャにのった。
なるほど、リクシャのおやじたちが言うとおり、安宿が集まるエリアまではかなりの距離があった。
何キロあるかはわからないが、歩けば30分以上はかかっただろう。
そしてヨギロッジに着いて、お金を払うと若者はとっとと消えていった。
てっきり宿のオーナーから、客を連れてきたマージンをもらうと思っていたので以外だった。
そしてヨギロッジの部屋を見ると悪くはないので、日も暮れているしとりあえず1泊することにした。
そして次の日、目的のPUJAゲストハウスを探すが、どうやら私のヨギロッジはガイドブックのヨギロッジとは違うらしく、まだ安宿が集まるエリアまでかなりあることがわかった。
だから10ルピーで来れたのかもしれない。
そういえばフロントにオールドヨギロッジと書かれていたっけ。
私は重いバックパックを背負って、再びさまようはめになった。
全くインドってやつは・・・