そして戦争は始まった1

その日、いつものように私は目を覚ました。
この時点では別にいつもと変わらない朝だ。
私のいる場所はヨルダンの首都アンマンにある、クリフホテルというところだった。

中東の安宿のなかでも、最も有名な安宿の一つである。
こんな状況でも客は多い。
日本人が多くて、10人以上はいた。

部屋を出てロビーに行くと、従業員のサミールが掃除の手を休めて、テレビを見てい た。
痩せていてメガネをかけた、30代半ばに見える彼は物腰が低く、見るからに、いい人という印象を受ける。
彼の評判はよく、「中東一のホテルマン」と言われている。
もちろん、それは安宿の中での話でのことではあるが、実際そうだと思う。
安さだけが売りの安宿のなかで、なるべく良いサービスを提供しようという気持ちが伝わってくる。
彼のおかげで、宿の中はいつも比較的清潔だし、旅の相談にものってくれる。
フレンドリーであるが、かといってべったりとしたところもなく、日本人にはうけるタイプだろう。

その彼がため息にも似た声で言った。
『始まったよ』
という短い言葉で全てはわかった。
始まったのは戦争だった。
アメリカによる、イラクの攻撃が始まったのだった。
イラクはこのヨルダンの隣である。
つまりは、そんな状況なのだ。

アメリカが国連の決議なしで、イラクを攻撃するであろうことは、わかりきったことだった。
いくら旅行中とはいえ、場所が場所だけに、毎日インターネットでニュースをチェックしている。
それを読めば、それくらいのことはわかる。
だから戦争の開始は別に驚きはしなかった。
それはサミールも同じだろう。
しかし他のアラブ諸国の人たちと同様に、私にとってもアメリカの正当性というものはとても受け入れられるものではなかった。
もちろんサミールにとってはなおさらだろう。

日本人としての私は、日本がアメリカ支持を表明しているので、肩身が狭い。
しかし、多くの日本人が心からアメリカを支持している、というわけではないことは、ここにいてもわかった。
かといって、積極的に反対するわけでない。
もちろん全ての日本人がそうだとは思わないが、多くの日本人が、遠い国の出来事としか感じていないのではないだろうか。
一般の人にとっては、イラク問題よりも、自分の給料や恋人との問題のほうが重大である。
それが普通の感覚だ。

そうはいっても、ここへ来れば、アメリカを支持している日本人になってしまう。
もちろん私にそんなつもりはなくてもだ。
外から見れば、私でさえ日本を背負って立つことになってしまう。

前回の湾岸戦争のとき、私は高校3年生だった。
開戦の日、私はニュースが見たくて、学校を休んだ。
時期としては受験の直前だったので、
『家で勉強します』
と言えば、学校側も何も言わなかった。
その時の、戦争の印象を正直に書けば、それはいかにもゲーム的であった。
当時の私にとって、国際情勢などわかるわけもなく、また人並み以上の興味があったわけではない。
ただ、アメリカという正義の味方が、イラクという悪を退治しているように思えた。

スカッドミサイルやピンポイント攻撃の映像は、いかにもゲーム的であった。
そう思ったのは、まだ私が幼かったからというよりは、日本から遠い国の出来事であったからだと思う。
つまり、自分の日常とは全く無関係の出来事であるから、そうやって無責任にニュースを見られたのだろう。
その頃の私にとっては、どうやったら彼女ができるかや、受験のことのほうが、よっぽど重大事だった。
しかし、今回は違う。
すぐ隣の国で戦争をやっているのだ。

アンマンの街はいつもと同じように動いていた。
人々はいつもと同じように仕事についている。
サミールもそうだ。
路上で売られる新聞には、でかでかと空爆の様子や、フセインやブッシュの写真を載せている。
アンマンでも反米デモがあったらしいが、効か不幸かそれに出くわすことはなかった。

しかし至るところで、
『何故日本はアメリカの味方をするんだ』
と聞かれる。
それは、入った食堂であったり、コーヒー屋であったり、道端で突然聞かれたりもする。
最初の何回かは、
『日本はアメリカと同盟をしているし、北朝鮮の脅威がある以上、アメリカと事を構えるわけにはいかないんだ。
しかし個人的には今回の攻撃には賛成できない』
ともっともらしいことを答えていたが、そのうちにそれも面倒になってやめた。
彼らにとっても、日本と北朝鮮の問題はやはり遠すぎるようだった。
韓国は知っていても、北朝鮮を知らない人さえいた。
そのうちに私は、
『アメリカ人は嫌いではないが、アメリカ政府は嫌いだ』
と答えることにした。
たいていは、それで丸く収まる。

宿の近くにイラク料理屋があった。
いくつかのスープのなかから、一つ選び、それをライスにかけて食べる。
他にはチキンやマトンのケバブなどもあった。
料理そのものは、このあたりとそれほど変わらないように思えたが、安くて旨い飯を提供してくれるので、よく足を運んだ。
戦争がはじまってもいつものように営業していた。
当然、従業員はイラク人だったし、客もイラク人が多かった。

あるとき、客の一人と今回の戦争について話したことがあった。
彼は私より、一回り上の年齢に見えた。
しかし、アラブの男性は、その髭のせいか、年齢よりも老けて見えるから、同じくらいの歳かもしれない。
その彼は、それなりのインテリらしく、英語を使った。
他の客が英語をわからないためか、彼はよく喋った。

『フセインはイラクの独裁者だ。
しかし、ブッシュもまた、独裁者になろうとしている。
二人は似たもの同士だな。
俺はフセインが嫌いだが、かといって、ブッシュが好きなわけでもない。
アラブのことはアラブが決める。
イラクのことはイラクが決めるのが一番いいんだ』
と彼は言った。

彼の意見は多くのイラク人を代表するものではないと思えたが、私は、隣りの国が今確かに戦争をしているということ、を感じないわけにはいられなかった。
いろんな人がいて、いろんな考えがある。
イラクもまた一くくりで語れるわけもない。

『日本は原爆を落とされたのに、どうして、アメリカの味方をしているんだ?』
やはり彼は聞いてきた。
私はとっさに答えられなかった。
原爆を落とされた時、当然私は生まれていない。
日本で生活していたって、原爆なんて単語は、毎年の8月を除けば、めったに聞かない。
私にとってのアメリカは、原爆を落としたアメリカではなく、ただのアメリカでしかない。
日本についても、韓国、台湾を占領し、中国に満州国を建てた日本ではなく、経済成長を遂げ、豊かになった日本でしかない。

『とにかく早く平和が来ることを祈るよ、それが私の意見だ』
私は彼にあたりさわりのないことしか言えなかった。
自分の知識のなさが嫌になってくる。

ここにいると、個人的な意見はともかく、やはりアメリカを支持する日本人として、見られてしまう。
それは避けられない。
幸いそれで嫌な思いをしたことはないが、自分が歴史の渦のなかにいることに、変わりはなかった。

確かに私は歴史の流れの真っ只中にいる。
そう一番に感じたのは、意外ではあるが、自分の宿の中だあった。
あるとき、紺色のスーツ姿の東洋の青年が、私のいる安宿を訪ねてきた。
こぎれいではあるが、やはり安宿である。
そこにスーツという姿が、いかにも不釣合いであった。

彼はロビーにいた私にまず話しかけてきた。
『旅行ですか?』
日本語だった。
『ええそうです』
と答えた私に彼は続けた。
『イラクに行く予定はありませんか?』
『戦争をやっている国になんて行きませんよ』
『そうですか。よかった』
と彼は少し笑い安心した表情になった。
いかにも真面目という顔が、笑うと途端にとっつきやすい顔に変わる。
『えーっと、あなたは・・・』
と私が聞くと、
『失礼しました。
私は日本大使館の職員なんです。
イラクへ行こうとする旅行者を説得しに来ているんです』
と彼が答える。
外務省というと、あまり良いイメージは持っていないが、彼には好感が持てた。
『そんなにいるんですか?イラク行きが。』
『だから困っているんですよ。
もう面倒見切れなくて』

イラクへ行くとすれば、この通常このヨルダンのアンマンが基点となる。
戦争の数週間前までは、イラク行きのツアーがこの宿から出ていた。
内容はメソポタミア文明の遺跡見学らしい。
戦争の3週間ほど前までは、5人集まればツアーが出ていた。

しかし、そのツアーもさすがに現在はない。
とはいえ今もイラクに行こうとしている人がいるのは知っていた。
彼らが見たいものはもちろん遺跡ではない。
以前は取るのが困難であったイラクビザだが、今では日本大使館のレターも必要なく、簡単に出るらしい。
イラク大使館へ行き、
『ヒューマンシールドに参加する』
と言えば、その場でもらえるという話だった。
ヒューマンシールドはイラクにとっては、いざというときに人質に使える。
だから一人でも多いほうがいいのだ。

またネットのニュースによれば、数人の報道以外の邦人が、未だイラク国内にいるらしかった。
たった一人で戦争を止めると言って数日前にイラクに入国した日本人もいると聞いた。
この宿にも、イラクに行くと断言している青年もいた。
実際に単独でイラクに入国しようとしたが、国境からの交通手段がなく、引き返してきたという人にも会った。

彼らの目的はよくいえば、不当な戦争を目の前にして、何かせずにはいられないといったものだ。
かといって、脱出のルートがあるわけでもなく、アラビア語ができるわけでもなく、英語も心もとない。
私から見れば無謀だ。

開戦の直前にイラクからもどってきた大学生もいた。
彼は一週間ほどイラクに滞在して、戻ってきたところだった。
もちろん彼は報道の関係者でもなければ、ジャーナリズムに関心があるわけではなく、またヒューマンシールドでもない。
中東関係の大学サークルの所属する普通の大学生である。
一度だけ、彼と話したことがあった。
私がバグダッドの様子を聞くと、
『普通でしたよ』
の一言だけで、話は終わってしまった。
街は機能しているのか。
流通はどうなのか。
食料は行き届いているのか。
交通は。
電話回線などの外部の連絡は。
雰囲気は。
国民の気持ちは。
知りたいことは山ほどあったが、その一言でその気持ちが失せてしまった。
いったい彼は何を見てきたのだろうかと、少し意地悪く思ってしまう。
普通であるわけはないと思う。
仮に、本当に普通であると思ったのであれば、感じる能力が欠如しているのではないかとさえ思った。
その学生は再びイラクに入ることを考えているらしく、大使館の職員も彼のことを知っていて、手を焼いているらしかった。

大使館の職員は、
『とにかくイラクに行くという人がいたら、やめるように言っておいてください』
と言い残して帰って行った。
外務省に強制力はないから、地道に説得するしか手段はない。

開戦の日の夜、日本のテレビ局のスタッフが、宿に来ていた。
イラク国内でヒューマンシールドを取材していたが、開戦と同時にヨルダンに引き上げてきたらしい。
そして、ロビーでイラク帰りの学生を取材していた。
それがどんな内容であったのかはわからないし、果たしてそのVTRが日本のニュースで流れたのもかもわからない。
その学生がどんな目的でイラクに行ったのかはわからないが、私には彼の行動がよくわからなかった。
私自身はやはり今回の戦争について思うことも多いし、イラクの状況には興味はある。
しかし、旅を続けることが目的なので、イラクに行こうとは思ったことはない。
そこに生命の危険を冒してまで行く目的が、私になかった。
そして、その学生を含め、これからイラクに入ろうとしている人たちからも、それは伝わってこなかった。
ただ、今のイラクに入りたい、ということ以外何も伝わってこなかった。
何かを感じたいとか、何かを伝えたいとか、そういったものが彼らからは見えてこなかった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ノースタンプの国2

ラフィーリアというその病院は、思ったよりも清潔で近代的だった。
5階だてくらいの白い建物で、入り口には救急車が数台止まっている。
受け付けに行く途中には、何種類ものポスターが張ってあった。
そのほとんどが、銃をもったパレスチナの男たちだ。
その男たちは、イスラエルと戦って死んでいった者たちらしい。
彼等は西側諸国から見ればテロリストかもしれない。
しかし、ここでは英雄なのだ。

そのラフィーリア病院は、ウエストバンクのナブルスという街にあった。
そこへ行くには、エルサレムから乗合タクシーでカランティアというところまで行く。
そこには、何もないが、ウエストバンクの街へ行く分岐点で、タクシーが集まっている。

さらに乗合タクシーを乗換え、カランティアから次にフアラというチェックポイントまで行く。
そこまでは田舎道が続き2時間かかった。
途中、紫と黄色の名前は知らない花が咲き乱れていた。
ここにだって春はやってくる。

チェックポイントの手前で乗合タクシーを降ろされ、そこから5分ほど歩くと、チェックポイントがあった。
そこをタクシーで通過できないので、チェックポイントを徒歩で通過して、タクシーを乗り換えなければならない。
そこでは多くのパレスチナ人が列をつくっていた。
イスラエル兵が、一人一人のIDカードと、荷物をチェックしているので、相当時間がかかりそうだった。
私たちも彼等と同じように列に並ぶ。

この日、ラフィーリア病院へと行ったのは、私とKさんだった。
Kさんはヘブロンへ一緒に行ったうちの一人だ。
彼はまだ19歳だったが、英語がうまく、心強かった。

驚いたことに、その行列のなかで、コーヒーとお菓子を売っているパレスチナ人がいた。
ポットにコーヒーを入れ、箱にお菓子を入れ、売り歩いているのだ。
そして、けっこう繁盛している。

私もコーヒーを買って、そこでKさんと待っていると、
『外国人は横から入れる』
と、パレスチナ人が教えてくれた。
しかし、列の横から出て、前のほうへ行ってみたはいいが、どうしたものかと思っていると、チェックポストのイスラエル兵に呼ばれた。
もちろん彼等は武装している。

パスポートを提示し、ナブルスへ行く理由を聞かれ、
『友達に会いに行きます』
と適当な理由を言った。
ウエストバンクへ観光へ行くとは言えなかった。
それだけ、緊張している地域なのだ。

それで、検問は通過出来た。
そこからまた乗合タクシーで、ナブルスの中心まで行き、そこでタクシーをチャーターして、目的のラフィーリア病院まで来るができた。

まずは受け付けで、病院見学の目的を話した。
それは、私がフリーのカメラマンで、Kさんがその通訳という設定だった。
そして、パレスチナに関するレポートをつくっているので、見学させてほしいと言った。

その病院には、イスラエル兵の犠牲となったパレスチナ人が運び込まれてくる。
私たちは彼等に会い、話を聴いて、写真を撮るために来たのが本当の理由だ。
しかし何の肩書きもなく、NGOでもない私たちが、
『旅行者です』
とはやはり言えずに、そういう設定を考えていたのだった。

受け付けで、病院長の部屋に案内され、まずはその病院長と話をした。

『私はフリーのカメラマンで、パレスチナに関するレポート作成しています。
日本の報道はアメリカ、つまりはイスラエルに寄っていてる。
だから本当のことを知りたいのです』
と、Kさんが切り出した。

カメラマンであることと、レポートを作成していること除けば、それは間違ってはいない。
病院長は、私たちの申し出を快く引き受けてくれた。

私たちは、他の医師の案内で、入院患者の部屋へと案内された。
数人の青年がベッドによこたわり、一人は左足に弾を受け、貫通したと言っていた。

他には5、6発の銃弾を受けた青年もいた。
話をきくといずれも家にいて、イスラエル兵が侵入してきて撃たれたと話していた。

そして、その後、集中治療室と書かれた部屋に通された。

顔が変形するほど殴られた青年がいた。
昨日、他の村へ行こうとして、入植者、つまりユダヤ人になぐられたのだ。
銃のつかで殴られたらしい。
その父親に、
『こんなことは、ここではめずらしくないんだ。日本政府は何も知らないだろう』
と言われた。

また14歳くらいの少女が横たわっていた。
3日前に、ジェニン(同じくウエストバンクにある街)にある家の前で遊んでいたところ、イスラエル兵に撃たれた。
その銃弾が左目から入り、まだ脳のなかにあるという。
脳が損傷し、自力での呼吸ができずに、のどから人工呼吸器を入れていた。
意識はない。
話をしてくれて医師は、
『明日もっと大きな病院に移すが、きっともうだめだろう』
と話していた。

15歳の少年もいた。
家になかに突然イスラエル兵が入ってきて、父親に逃げろと言われたが、逃げ遅れ、頭を撃たれた。
撃たれたのは2週間前だ。
彼も呼吸ができずに、喉を切開して、そこから管を通していた。
言葉なく、意識があるかはわからないと医師は話していた。
彼の兄が彼の耳になにかをつけていたので、よく見ると、それはウォークマンだった。
『以前、よく聴いていた歌だから・・・』
と静かに話していた。
カメラを向けると彼の眼が私を向いた。
それが意識的なものなのか、ただの反射的なものかのかはわからない。

彼等は、一般の武器も持たない市民だった。
それも幼い。
そして、理由もなく撃たれた。
この国は戦争をしている。
いや戦争が国と国、あるいは軍隊と軍隊との交戦を意味するのであれば、ここでの状況を戦争とは呼べないかもしれない。
それはあまりに一方的な戦闘だ。

私は彼等を写真に収めた。
私はシャッターを切りながら思った。
私が今撮っているものは、今まで撮ってきたものとは全く違う。
『彼等を撮って一体何になるのだろう』
と、自分に問う。

私は本当のことを知りたいからと言って、ここへ来た。
そして彼らはより多くの人に真実を伝えて欲しいと願っている。
しかし、私はただの旅行者だった。
ただ、他の旅行者よりは少しばかり大きなカメラを持った、ただの旅行者だった。

最後に再び病院長に会い、礼を述べ、また話しを聞いた。

『この病院だけでインディファーダ(投石などによるパレスチナの抵抗運動)が始まってから、4500人が怪我して運び込まれ、そのうち400人が死んだ。
正確な数は正直よくわからない。
救急車でさえ、撃たれることもあるし、検問を通れないこともある。
それで、患者が死ぬことだって、めずらしくない。
私の祖父も、テルアビブに住んでいたが、奴等に追い出された。
そして、今は、このナブルスにさえ、奴等はやってきた』

私たちは自爆テロについて思いきって聞いてみた。

『家族を殺されたから自爆テロをするんだ。
パレスチナには軍隊も武器もないからそれしかない。
しかし、テロについては、パレスチナの9割の人が賛成していない。
テロでユダヤを一人殺せば、報復に100人は殺される。
でもテロを止めろとは言えない。
家族を殺されたんだぞ。
他の国は、本当のことを何もしらない。
日本だってそうだ。
なぜ、アメリカの肩を持つんだ』

私は言葉を返せなかった。

本当に私がフリーのフォトグラファーだったらよかったのに。
そうすれば、少しは彼らの気持ちを代弁できるのに。
私はそう何度も思った。

ラフィーリアの病院を後にして、私とKさんはタクシーで、ダウンタウンへ行き、そこをあてもなく歩いた。
ダウンタウンのス?クは、商店が普通に開いていて活気もあった。
そしてメインロードにぽつんと一軒崩壊して家があった。
それをボンヤリと見ていると、
『一ヶ月前にイスラエルにやられたんだ』
と通りがかったパレスチナ人が教えてくれた。

私はたちがさらに奥へと歩いていると、ある老人が家の軒先から話し掛けてきた。
彼は全く英語を話さないが、どうやら家のなかに入れと言っている。

とにかく入ってみると、壁に大きな穴があいていて、その下には壊された石の壁の破片が散乱している。
爆破されて穴が開けられたらしい。
『見てくれ、全てイスラエルの奴等がやったんだ』
とでも老人は言っているようだった。

その穴の向こう側を覗くと、今度は青年が立っていた。
それはその青年の家だった。
壁に穴があいたので、老人と青年の家が繋がってしまったのだった。
少し英語のできる彼は、
『カム、カム』
と言っている。

彼について、彼の家を通らせてもらうと、また大穴があいている。
それを覗くと、今度は女性ばからりの家族が食卓を囲んでいた。
さすがに女性しかいないので、その家に行かせてもらうのは、はばかられたので、挨拶して退散することにした。

すると今度はその彼が、
『まだこっちにもある』
と言って案内してくれ、また別の家に大穴で続いていた。

そして、その家の婦人がチャイを振る舞ってくれた。
彼女は英語は話さないが、歓迎してくれているのが伝わってきた。

つまりは彼等は知ってほしいのだ。
本当にここで起こっていることを。

大穴を開けるのはイスラエル兵である。
彼等は夜、街に侵攻し、家を破壊したり、家の壁を爆破しそこを通過する。
時にパレスチナ人を撃つ。
イスラエル政府が「テロ対策」と称しているそれに、一体どんな意味があるのかは私には理解できなかった。
テロ対策とは、単なる名目にしか思えない。
そして、パレスチナが自爆テロをやると、その出身者の街を破壊しに行く。

その、穴をつたっていった最後の家でチャイを飲みおわると、私たちは帰ることにした。

それにしても、深夜寝ているときに、突然軍隊が自分の家にやってきて、爆弾で穴をあけ、そして中を我が物顔で家の中を通り、銃を向けられ、時に撃たれるというその恐怖は、いったいどういうものだろうか。

それはいくら想像してみても、きっと真実にはたどりつけないだろうと思った。
きっと、体験しないとその恐怖はわからない。

夜、宿に戻ると、客の誰もが無口だった。
その理由を他の旅行者が教えてくれた。

ISMというNGO団体の一員であった、アメリカ人の女性が殺されたのだ。
彼女は、このホテルもよく利用していたので、オーナーをはじめ、直接彼女を知っている人も多かった。

ISMの活動内容は、いわばヒューマンシールドである。
パレスチナの生徒が小学校へ行くのについていったり、あるいは、パレスチナの家に住み込んで、イスラエルが家を破壊するのを止めたりする。
イスラエルはさすがに外国人には、簡単に手を出さない。
だから、要は、ISMはパレスチナ人と一緒に行動することで、彼等を守っているのだ。

その女性は、イスラエルの侵攻が激しいガザで殺された。
そのラッファという街では、次々に家が壊され、パレスチナ人が殺されているらしい。
彼女はそこで活動していた。

イスラエルのブルドーザーが、パレスチナの家を破壊しようとしていたときだったらしい。
彼女はいつもと同じように、その前方に立って、手を振って止まるように合図を送った。
いつもなら、止まっていた。
しかし、その日の、そのブルドーザーは止まらなかった。
ブルドーザーは止まることなく、彼女の目の前へと進んできた。
危険を感じた彼女は、ブルドーザーを止めることを諦め、逃げ出した。
しかし、彼女はつまづいてしまった。
そこにブルドーザーは彼女の上から土砂を被せ、そして、その上を通過して轢いた。

さらにバックして、もう1回轢いたのだ。

彼女はまだ23歳だった。

私は、それまでガザに行くかどうか迷っていた。
しかし、その話しを聞いて止めることにした。
それは危険があるからという理由もある。

それ以上に、旅行者という立場で、それ以上深入りするのが嫌だったからだった。
いや同時に行きたいという気持ちも強かった。
正確にいえば、行くからには何かをしたいと思った。
具体的には、そのISMの活動を手伝うことも難しくはない。
しかし私は旅人であることを優先した。

しかし、私はここへ来たことを後悔はしていなかった。
フォトグラファーだと言って、病院へ行ったことも、多少の罪悪感はあるが、後悔はない。

知らないよりは、知った方がいい。
私はそう思っている。

事実、ここへ来るまでは何も知らなかったと言っていい。
自爆テロのことをニュースや、新聞で読んでもよくわからなかった。
それは単にイスラム教の教えに関係しているのかもしれないと思っていたくらいだ。

何でそこまで駆り立てられるのかが、わからなかったし、正直それ以上の興味がなかった。

しかここへ来て、それに駆り立てるものがわかった。
家族を殺されたからである。
それも、そのほとんが理由もなくである。
それは、報復をするのに、十分で単純で、もっとも説得力ある理由だ。
そして、報復が報復を生んで、また繰り返される。

別にパレスチナに正義があって、ユダヤには全くそれがないかどうかは、私にはわからない。
ユダヤ人が一方的にパレスチナに侵攻していると私は感じたが、パレスチナ人もテロでユダヤ人を殺している。
取り残された家族の無念さというのは、人種を問わないはずだ。

それに私にはどちらが正しいと言えるほどの知識がないしその歴史も知らない。
第一、その国の薄皮一枚しか見ていない旅行者がそれを口にすることに、抵抗を感じる。

それでも私は思う。
本当に私がフォトグラファーだったら良かったのにと・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ノースタンプの国1

ヨルダン、アンマンにある、バックパッカーの有名宿、クリフホテルから5分ほど歩き、バスターミナル行きの乗合タクシーを捕まえ、それで5分ほど走ると、アブダリバスターミナルという所に着く。
そのバスターミナルの端にある、キングフセインボーダー行きの乗合タクシーの集まる場所へと行くと、すでに3、4人の客を乗せたタクシーが待っていた。
その3列シートの、かつては黒光りしていたであろう車は、仮に新しくて、ボディがへこんだりしていなければ、いかにも要人を乗せて走りそうな車であるが、今はそんな面影もない。
かつて、十数年以上前は、そうやって使われていたのかもしれないが、現在ではただの乗合タクシーだ。
すでに車に乗り込んでいる他の乗客は、顔立ちからいって、パレスチナ人であった。

タクシーに乗り1時間半ほどで、ボーダーへと着く。
ヨルダンの出国はいたって簡単であった。
ただ、
『ノースタンプ、プリーズ』
と係り員に、何度も念を押した。
これから入る国の入国スタンプはもちろん、ヨルダンのそのキングフセインの出国スタンプがあるだけで問題がおきる。

私が向かっている国はイスラエルである。
そのヨルダンのキングフセインボーダーの出国スタンプがあるだけで、イスラエルに入国したとみなされ、他のイスラム諸国への入国を拒否される。
私がこれから訪れる国で、そのスタンプがあるとまずいのは、スーダンだった。

私は、後々面倒が起きるのが嫌なので、何度も
『ノースタンプ』
と念を押した。
そしてスタンプはパスポートではなく、出国税の紙の裏側に押される。

そして、さらにそこからバスに乗り、イスラエル側のボーダーへと行く。
イミグレとイミグレがこんなに離れているのもめずらしい。

途中の景色はこれでもかというほど、殺風景だった。
砂漠というよりは、荒野という表現が相応しい。
茶色の平原に、同じく茶色の岩山が時折顔を出す。

途中、一つ検問があり、防弾チョッキを着たイスラエルの兵士がいる。
そして、長い棒の先に円形のセンサーがついている機械で、バスの周りに爆発物がついていないかを丹念に調べている。
今まで私が越えてきた国境とは、あきらかにその緊張感というものが違った。

そして、バスは15分ほどして、イスラエル側のイミグレの前で止まった。
そこには、ジーンズに長袖のシャツを着て、マシンガンを持った兵士がいた。
ラフな格好ではあったが、彼は兵士だった。
そのあまりにラフな格好とM16のマシンガンが、似つかなくて異様な姿だった。
まるでアルバイトで、その殺人兵器を操っているように思えた。

私は他のパレスチナ人たちと一緒に列に並び、順番を待つ。
荷物は預け、自分の知らないところでX線にかけられ、開けられる。

そして人間は金属探知機のゲートへと入り、ブザーが鳴る限り何度もそこを繰り返し通される。
私は、普通にして通ってブザーが鳴ったので、まずはジャケットを脱げと言われた。

脱いだジャケットはX線の機械に通される。
それでもセンサーが反応するので、今度は時計をはずした。
その後、ブレスレット、財布、貴重品袋、指輪、ライターと、ポケットに入っていたものや、身につけていたものを、次々に外し、それらをトレーに乗せて預け、何回もゲートをくぐった。
それでも反応するので、ベルトをとった。
しかしブザーは止まない。
もうこれ以上取るものもないと思った。
すると、係員は靴も脱げと言う。
靴の金具が反応しているようだった。
それさえも脱いでゲートをくぐり、やっとパスすることができた。

その後がやっとイミグレである。
カウンターで係員の女性が、旅の期間や目的についていくつかの質問をした後、最後に、
『スタンプはいりますか?』
と聞いてきた。
つまり彼らも充分わかっているのだ。
自分の国のスタンプがあることによって、他のアラブ諸国の入国が拒否されることを。
私はもちろん、
『ノースタンプ』
と言って、パスポートではなく、別紙にスタンプを押してもらった。

そんなふうに、今までとは少し違う手続きをして、イスラエルへと入国した。

もともとイスラエルには行きたくなかった。
アメリカがイラクの戦争が始ると、イラクがイスラエルを攻撃する可能性があるからだ。
実際の前回の湾岸戦争では、イラクがイスラエルのテルアビブにミサイルを飛ばしている。
それに自爆テロに巻き込まれる可能性も否定できない。

しかし世界地図を広げると、トルコからエジプトへと陸路へ行くには、ヨルダンとエジプトが地続きになっていないため、どうしてもイスラエルを通過しないと行けない。
だからトルコでルートを考えているとき、イスラエルは2、3日で通り抜けようと思っていた。

ところがトルコから南下していく途中、他の旅行者からガイドブックを見せてもらい、ヨルダンから紅海を渡りエジプトに入国できるフェリーがあることを知った。
そのあたりのガイドブックを持たない私は、そんな基本的なことさえ知らなかった。

これでイスラエルに行く理由もなくなったわけだが、不思議なもので、行く必要がなくなると、行ってみたいという気持ちが強くなってくる。

しかし、治安の問題が心配だった。
ミサイルはともかく、自爆テロでさんざん新聞を騒がせている国である。
とにかくヨルダンのアンマンまで行ってから情報を集めて、イスラエルに行くかどうか決めようと思っていた。

アンマンのクリフホテルには、都合よくイスラエルから戻ってきた日本人旅行者がいた。
彼によれば、ユダヤ人の集まる新市街はともかく、旧市街であれば問題なく観光できるらしい。
自爆テロが起きるとすればユダヤ人の集まる、新市街のレストランとかバスであるそうだ。
つまり、イスラム、ユダヤ、キリスト教の聖地である旧市街を見てまわり、パレスチナ人の乗るアラブバスに乗って移動すれば、自爆テロに巻き込まれることはまずないという言うのだ。

そんな話しをきいて、私はこれなら行けそうだと判断した。
しかし、ユダヤ人とパレスチナ人が実際のところ、どんなふうに暮らしているのが、よくわからなかった。
それも、行けばわかるさという気持ちで、イスラエル行きを決めた。

エルサレムに着くと、ファイサルホテルというところに宿をとった。
そこには、数人の日本人旅行者がいたが、欧米人も多かった。
欧米人のほとんどは、NGOか、フリージャーナリスト、フリーカメラマンだった。

こんな時期にエルサレムに観光で来るのは、日本人くらいなのかもしれない。
日本人というのは、実にどこにでもいる。

エルサレムに着いて、 アンマンで会った旅行者の言っていることが、よく理解できた。
『旧市街ならテロの心配がない』
という意味である。

エルサレムは大きくわけて、新市街と、旧市街にわかれている。

新市街は小綺麗なデパートや店がならび、歩行者天国なんてものもある。
そこにはユダヤ人が生活している。
そこにパレスチナ人はいない。

そして、市内や近郊へのバスも、パレスチナ人の乗るそれと、ユダヤ人の乗るそれでわかれている。

そして、パレスチナ人がユダヤ人への抵抗の手段である、自爆テロをするとしたら、その新市街の人のあつまるレストランであるとか、ユダヤ人の乗るバスである。

一方旧市街は、聖地である。
ユダヤ、キリストの聖地もあるし、イスラムのそれもある。
そのなかには、パレスチナ地区、ユダヤ地区、アルメニア地区、キリスト地区にわかれている。
パレスチナ人も住んでいるし、 イスラムの聖地である岩のドームもあるので、テロの対象にはならないのだ。

つまり、旧市街で、聖地をまわる観光をし、市内を移動するにも、パレスチナ人の乗るアラブバスに乗れば、まず自爆テロに巻き込まれることはないのだ。

エルサレムに着いてから、その旧市街を見て歩いた。

旧市街は、城壁にぐるりと囲まれている。
その城壁のダマスカス門をくぐり、まっすぐに歩くと、パレスチナの女性たちが、野菜や果物を売っている。
それを横目に見て、薄茶色の建物を抜ける。
そこで、イスラエル兵のよるボディチェックを受け、さらに歩くと、嘆きの壁に出る。

その壁は横に約100mくらいはあるのだろうか。
高さは7、8mくらいの茶色い壁である。
その壁の上に、イスラムの聖地である、岩のドームがある。
そこはイスラム教徒以外の入場が禁止されていて、なかには入れなかった。

嘆きの壁は真ん中で男性用と、女性用に分れている。
私はもちろん男性用のところに入る。
そこに入るにはユダヤ教徒のしるしである、キッパとよばれる、河童のお皿みたいな帽子をかぶらなければならない。
入るといっても別に屋根があるわけではない。
そのキッパがないと、壁の目の前までは行けなくなっているだけである。
私もそれを借りて、壁の正面まで行った。

壁の前では、ユダヤ教の正装である、黒ずくめの服を着た男たちが、祈りの本を読みあげている姿がある。
その格好は、帽子も黒のシルクハットで、頭の先から足の先までが黒である。
もちろんキッパをかぶっている人もいる。
そして、敬謙なユダヤ教徒は、もみ上げを、あごのところまで延ばしている。
全身真っ黒に、もみ上げがあごまであると、ちょっと愛敬がある。
そして彼らは祈りながら、何故か身体を前後に揺らし、その様子は何か別の境地に入っているようにも見える。

もちろん、キリスト教の聖地である、ゴルゴダの丘にも足を運んだ。
それは単に丘だと思っていたが、聖墳墓教会という大きな教会のなかにあった。
要は、かつてゴルゴダの丘だった場所に、教会を建てたのだ。

聖地を抱える旧市街は、私が今までに見たどの旧市街よりも私を引き付けた。
それはやはり、聖地特有の何かがあるからだろうと思う。

しかし、旧市街だけを見て、ヨルダンへと戻ること、何か不満みたいなものを持ちはじめた。
それは宿にいる他の旅行者や、ジャーナリストたちの話しをきいているうちに、それを感じ始めた。
そこには、ユダヤとパレスチナの問題が横たわっている。
目の前にそれがあるのに、それを完全に無視することができなくなっていたのだ。

そして、私はその場所から今までまったく知らなかった世界に足を踏み入れることになる。

へブロンの中心街から、街のはずれに向かって歩いていく。
徐々に人の姿は少なくなり、5分も歩くと誰もいなくなった。
それはまるで何かのB級映画に出てくるような、ゴーストタウンのようだった。
商店は全てシャッターが降ろされて、沈黙が街を覆っていた。
灰色の建物がつづき、その上に薄くらい雲がひろがり、それがいっそう沈黙の深さを増していた。

誰も歩いていない理由をSさんに聞くと、外出禁止令が出ているからだという。
外出禁止令。
私はそれを、歴史の教科書のなかでしか、聞いたことがない。

そんな中を歩いて、はたして大丈夫なのだろうかという不安を抱えながら、とにかくSさんの後を歩いた。

その日、Sさんと一緒に行動したのは、私一人ではない。
どちらかというと、私は単に連れていってもらっただけである。

ファイサルホテルには、ドキュメンタリーをつくっている一人の学生がいた。
彼は卒業旅行でそこに来ていた。
在学中にいくつかのドキュメンタリーを作ったという彼は、卒業後は、ジャーナリズムとは無縁のところに就職するが、自分自身を見失わないように、ドキュメンタリーをつくりにここへ来たと言っていた。
その彼のドキュメンタリーに対する思いが尋常ではないと思ったのは、彼はイスラエルに来るにあたり、遺書を書いてきたと聞いたときだった。
すでにその彼は、ウエストバンク(ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区)をはじめ、パレスチナ自治区のなかでも、現在もっとも危険なガサにも足を運んでいた。
そして、翌日日本人ボランティアのSさんと、一日行動をともにするというので、他の旅行者3人と、同行させてもらうことにした。

エルサレムのダマスカス門のところで待ち合わせて、初めてSさんに会った。
小柄な女性だったが、存在感があり、知的な顔立ちだなと思った。
彼女は、大学を卒業後すぐに、ボランティアとしてパレスチナに来た。
すでにボランティアを始めて1年が経ち、あと1年は滞在すると言っていた。
ボランティの内容は、パレスチナ人のために、情報を収集したり、提供したりするものだと言っていた。
その内容はよくわからなかったが、後方的な支援らしい。

そのSさんの案内で、ヘブロンへ向かった。
そこまでは、ワゴンの乗合タクシーである。
私たち以外は全てパレスチナ人である。
しかしエルサレムの街を出るときに検問があり、何人かのパレスチナ人は検問で降ろされた。
理由は持っているIDカードによって、自由にエルサレムを出入りできるものと、できないものがあるらしく、それを持たない者が降ろされたのだ。
『あとは、検問の兵士の機嫌にもよるよ』
とSさんは話していた。
交通の全てがイスラエルによって、統制されている。

ヘブロンに着いて、沈黙の街を歩くと、すぐに検問にぶつかった。
土嚢を積み、バリケードをはって、道を封鎖している。
そこには、3人ほどのイスラエル兵がいて、さらに物見台あり、そこにも監視のイスラエル兵がいる。
彼らは迷彩のヘルメットをかぶり、肩からマシンガンを持った兵士である。
警備員とは明らかに違い、彼らは軍隊だった。
その姿にこちらが威圧される。

私たちも当然止められて、Sさんがそこを通してくれるように交渉しはじめた。
私たちと同じように、2、3人のパレスチナ人がそこで止められていた。
彼らは帰宅途中らしいが、やはりここで止められる。
時には何時間も待たされたあげく、通れないこともよくあるらしい。

バリケードの向こう側には、およそパレスチナの町並みとは違う、小奇麗で白っぽい色をした建物が続いていた。
それが何なのかSさんに尋ねると、それがユダヤ人の入植地だという。
パレスチナの自治区のなかに、ユダヤ人が入植してきているのだ。
ユダヤ人がそこに入植する理由は、ユダヤ教の聖地ためらしい。
近くにユダヤ教の聖地があり、それをユダヤ人が管理するために、パレスチナ自治区のなかにユダヤの入植地ができたのだ。

そして、驚くことに、ヘブロンのユダヤ人入植者500人を守るために、3000人のイスラエル兵が駐屯しているというのだ。

私が、その入植地に目をやっていると、一人の中年ユダヤ人の男がゴミ袋を持って家から出てきた。
ゴミを捨てにやってきたらしい。
左手にゴミをもち、そして、信じられないことに右手にM16を持っていた。
それは、拳銃ではない。
マシンガンだ。
ゴミを捨てに行くのに、マシンガンを持つ国なんて、異常である。

『ここでは、ユダヤ人が自分の身を守るためになら、パレスチナ人に発砲しても、罪に問われないのよ』
とSさんは言った。
そこはもう、異常な世界だ。

ちなみにイスラエルは徴兵があり、女性もその対象となる。
当然免除になるケースもあるだろうが、基本的にはユダヤ人の全てが銃の扱いができるわけである。

結局その検問所を通過することはできずに、私たちは迂回することにした。
街の奥へと進むと、ちらほらとパレスチナ人の姿を見ることができた。
彼等は私たちの姿を見ると、気軽に声をかけてくる。

外出禁止令とは、単に外出できないという結果だけにとどまらない。
流通がストップするので、食料や日用品の入手が困難になる。
そして、物が流れないから、人々は職を失う。

私たちは更に街の奥へと進んだが、バリケードがはってあり、その奥へは進めなかった。
Sさんは、その奥にあるという、イスラエル兵に破壊された建物などを見せたいと言っていたが、結局それは見れなかった。

しかし、私にとっては、それで十分だとも言える。

このヘブロンも数ヶ月前までは、街中でロケット弾の飛び交う戦闘が続いていたと、ファイサルホテルの情報ノートに書いてあった。
今では落ち着いているが、やはり緊張している。
中心部の商店の窓には銃痕もめずらしくない。

ここへ来てようやくわかってきた。
イスラエルに住む、ユダヤ人とパレスチナ人。
パレスチナ自治区に入植として侵攻するユダヤ人。
それに対して行うパレスチナの自爆テロ。

そして、このままでは、なおさらヨルダンへは戻れないという思いに駆られはじめた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ダマスカスの光と影2

事の始まりは、ウマイヤドモスクの前だった。
私がそこを歩いているときに、ある男二人組みに声を掛けられた。
『ウエルカム ジャパニーズ 腹は減ってないか?』
と、あまりに唐突に聞いてきた。
『今、食事したばかりだ』
と言うと、
『だったらチャーイを飲みに家にこないか』
と誘ってきた。

男の一人は30歳くらいの髭のおとこで、彼は英語ができなくて、ただいつもニコニコとしていた。
そして、もう一人の年配の50歳くらいの男が、多少の英語ができて、私に話し掛けてきた。
彼は小柄であり、親しみの持てる顔だった。
名前は恐ろしく覚えにくく、私は勝手にアブドルと呼んでいた。

彼らの突然の誘いには驚いたが、私は、彼らを信頼した。
また、別に何かに巻き込まれても、それはそれで構わないという投げやりな気持ちもあって、そこから歩いて5分という彼らの家に行く事にした。

確かに5分ほどで彼らの家に着いたが、あまりに入り組んでいて、とうてい一人では引き返せそうにない場所にあった。

2階建ての建物のなかは、以外に清潔だった。
玄関もトイレも下手な安宿よりはよっぽど清潔だ。

通された8畳ほどの部屋には、アブドルの姪だという、3人の10代後半の女性がいたが、すぐにアブドルに追い出された。
彼女らは明らかに、私に好奇の視線を向けて、興味津々であったが、仕方なく部屋から出ていって、庭の窓からこちらを覗いていたが、さらにアブドルに追い払われた。

私としては、彼女らも一緒にいたほうが楽しいと思ったが、やはりイスラム教の教義上あまりよくないのかもしれない。

部屋の外観はきれいであったが、室内は雑誌やら、食べかすやらで散らかっていて、さらに彼女らが吸ったたばこの吸殻もたくさんあった。
彼女らは、通常のイスラムの女性が髪を隠すためのスカーフもしていなくて、あんまり行儀の良いタイプではないのかもしれない。

とにかく、女性陣を追い出してから、散らかった部屋を片づけて、でっかいタンクと一体式のコンロでお湯を沸かして、甘いチャイをつくってくれた。

アブドルは英語からアラビア語の翻訳の仕事をしていると言うわりには、英語は苦手なようであった。
読むのならできると言っていたが、発音は驚く程たどたどしい。

そしてアフドルとチャイを飲みながらしばらく他愛のない話をした。
旅の話や、家族の話などである。
それ以上の話は、お互いの英語力では無理だった。
その時も、髭の男はニコニコと笑っているだけだった。

お互いに会話に詰まり少し間ができた後、アブドルは突然、ベッドの脇にあった、髭剃りを取り出して、それを私にくれると言った。
メモリーだそうだ。
そして、部屋を見渡して、部屋の隅からろうそくを見つけると、4本を取り出して、私の前に持ち出した。
4本あるのは、私の父と母と兄と、私のためだと言う。
さらに、ベッドの脇にある、プラスティックでできた絨毯のゴミ取り用のローラーも、ぜひ持って行ってくれと私の前に置いた。

髭剃りは、まあ、使えないこともない。
ろうそくは果たして、自分の家族が喜ぶかどうかは別として、これからアフリカで使うかも知れない。
ただ、絨毯のゴミ取りは、どう考えても旅には必要ないし、日本まで持って帰ったとしても、ゴミ取りとしての効果があるとは思えなかった。

私は、髭剃りとロウソクは頂くが、ゴミ取りはアブドル必要だろうと言って断った。

しかし、ガンとして彼は引き下がらなくて、私はしぶしぶ、いや、表情はありがたく、もらうことにした。

ちなみに、髭剃りは1回使っただけで壊れ、ゴミ取りは持ち歩くのがどうしても邪魔で、申し訳ないとは思ったが、ダマスカスの安宿においてきた。
ロウソクだけは持ち歩いている。

アブドルは、この後どうしたいんだと言うので、私は以前から行きたかったハマムに連れて行ってもらうことにした。
ハマムとは、トルコ式の公衆浴場のことである。
私はイスタンブールに長くいたくせに、まだ一度も行っていない。
しかしアラブ諸国ならどこにでもある。
だからダマスカスで行ってみようと思っていた。
しかもガイドブックに載っているようなところではなく、地元の人しか行かないような所に行ってみたかった。

アブドルは快く私の申し出を引き受けてくれた。
彼の家を出て、また、どこをどう歩いたかはわからないが、5分ほど歩き、スークの一角にあるハマムへと連れていったもらった。
入り口を入ると、大きなスペースが広がっていて、腰掛けるところがあり、着替えをしたり、くつろいだりできるようになっていた。

そのハマムは、垢すりとマッサージを入れて200シリアポンド(約4ドル)だった。
私はそこでアブドルと髭の男と別れた。
アブドルも一緒にハマムに入ろうかと言ってくれたが、余計な金を使わせても悪いので、一人で大丈夫だからと言って帰ってもらった。

最初、彼らの唐突な誘いに、胡散臭いものを感じはしたが、結局は親切な人たちであった。
私は丁寧にお礼を言って別れた。

さてと、と思い、私は準備をした。
このハマムというやつには、かなり期待していた。
それは、面白いほど垢が落ちると聞き、イスタンブールでも行こうかとは思ったが、結局のところ行っていない。
だから、このダマスカスでは絶対に行くと決めていた。

まず、私は服を全てぬぎ、腰のところに布をまいた。
これが入浴のスタイルだ。
そして、従業員が浴場まで案内してくれた。
そのときに、私は、
『垢すりとマッサージを頼む』
と念を押して頼んだ。
英語で伝わらないから、ゼスチャーで伝えた。
そして、その従業員も、わかったわかったと肯いて、これで大丈夫だろうと思った。

浴場と言っても、日本のそれのように、湯船があるわけではない。
体を暖めるサウナの式の浴場と、その他に、体を洗うための小さい部屋がいくつかある。
その部屋には、ドアなどはないが、部屋は入口から横へと広がっていて、ちょっと外から見ると、目隠しみたいに部屋の内部は見えないようになっている。

私は、トルコ風呂のは入り方というのを、その時知らなかった。
本当なら、まずはサウナで温まり、そのうちに垢すり師なり、マッサージ師なりが入ってくるので、彼らにやってもらうのである。

それを知らない私は、サウナに行っても、垢すり師が来ないので、他の客に聞いてみた。
それが間違いだった。

何人かは、私の言っていることがよくわからないという表情であったが、そのうちの一人が、
『俺がやる』
と確かに言った。
その40歳くらいの痩せた男は、
『ベトナム人か』
と私に聞き、
『いや、日本人だ』
と私がこたえると、ニヤリとした。

私はやっと、垢すりにありつけると思い、彼に連れられて、個室へと連れていかれた。
そこで、
『うつ伏せになって、布をとれ』
と彼は言った。
そこの個室だけは、電気が消えていて、薄暗かったが、それは垢すりを受ける客への配慮なのだろうと、その時は思った。
しかし実際には、その垢すりの彼がわざと消していたとすぐにわかることになる。

彼は石鹸をもって、私の背中につけ、タオルで洗いはじめた。
それは妙に、優しい洗い方だった。
もっとごしごし洗うと聞いていたので意外だった。
そんな洗いかたで、はたして垢が落ちるのだろうか、そんな事を思った。

そして数分して、彼の手が、「そこは自分で洗えるから結構だ」というところに伸びてきた。
私は、びくっとして起き上がり、
『そこは必要ない』
と言った。
この時から私は、彼に対してある種の疑惑を持ちはじめたが、
『彼はプロなのだ』
と思い込んだ。
プロの彼に対して、こちらが妙に恥ずかしがっては、彼の仕事にならない。
そんなふうに思った。

彼はまた私の背中を洗い始めた。
その洗い方はさっきと同じで、とても垢が落ちそうではなく、やたらとなめらかだった。
すると彼は、次に私の背中に乗り、なにやら体を揺すり始めた。
それは私の背中を洗う手と連動しているので、さほど不自然ではないが、どうもおかしい。
私は、またしてもがばっと、彼を跳ね除けて起き上がり、
『お前、ホモじゃないのか』
と私は言った。
彼は、その英語が理解できないようで、きょとんとしていた。
そして、また寝ろと言う。

『いや、彼はプロなのだ。
垢すりのプロなのだ。
彼特有のやり方というのがあるのだろう』
と私は思った。

そして再びうつ伏せになると、彼はまた背中を洗い始めた。
そしてしばらくして、再び彼は私の上に乗ってきて、手と同時に体を揺らし始めた。

そして、その時に、はっきりと、私の肌は、ある異物の感触を感じたのである。

私は彼がすっ飛んでいくほどの勢いで跳ね起きて、日本語で彼をまくしたてた。
『お前はやっぱりホモか。
いや絶対にそうだ。
そのお前のその、目の前のものがその証拠だ。
いや、別に俺はホモを否定する気はない。
でも、ホモだってゲイだって、誰とでも寝るわけじゃないだろう。
彼らにだって、恋愛感情ってやつがあるだろう。
お前にはそれがないのか』

もちろん私は日本語なので、彼には理解できない。
彼は、再びきょとんとして、
『なんだ、お前は違うのか・・・』
みたいな顔をしていた。

私はすぐにそこを出て、他の誰もいない部屋へと行き体を洗った。
そして、脱衣所までもどり、バスタオルを乱暴にふんだくって、さっさと服を着た。

その様子をおかしいと思った従業員が集まってきて、
『どうしたんだ、はやすぎるじゃないか』
と聞いてきてくれたが、英語で説明しても全く通じない。
なので、なんとかゼスチャーで、ホモに襲われたと説明すると、全員がどっと笑った。
それを見て
『他人事だと思いやがって』
と私は、二重に腹がたってきた。

ただ、年配の従業員の一人が、
『そいつは誰だ?案内してくれ』
と言ってくれたが、私はもう、奴の顔も見たくなくて、早くそこから出たかった。

しかし、当然金だけは請求される。
『いいか、俺は被害者だ。なんで襲われた上に、金まで取れなくてはいけないんだ』

と言っても通じない。
そこでまたもめるのも嫌なので、マッサージ代は払わず、入浴代だけをおいて、さっさと店をでることにした。
もう、つまらないことで、もめて、そこに居るのが嫌だった。
一刻もはやく、そこを出たかったのだ。

茫然と夜の旧市街を歩いていると、偶然にアブドルに会った。
『どうしたんだ?やけに早いじゃないか』
と言う彼に、事のなりゆきを話すと、彼は心から申し分けなさそうに、
『ソーリー、ソーリー』
と何十回となく、連発していた。
『よかったら、気分をなおして、夕食を食べにこないか』
と誘ってくれたが、
『いや、もうホテルに帰りたい』
と言って断った。
すると、彼はポケットの中から小銭をかき集め、私に渡そうとした。
それは、50シリアポンドで、約1ドルの額だった。
その顔は全ての責任は私にあるとでも言っているかのようだった。

私は、
『あなたに責任はないし、そんな事をする必要もない』
と言って断った。
最後にアブドルは、
『シリアのことを嫌いにならないで欲しい』
と言っていた。

私は一人で歩きながら、やはりこの街を嫌いになることはないと思った。
黄色い明かりに浮き出された古い街並みはやはり美しかった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ダマスカスの光と影1

私は久しぶりに、好きになった街ができたと思った。
街そのものが魅力的だと感じた。

ホテルを出て、広場を抜け、地下道をくぐりとスークの入り口に出る。
スークとは市場の意味である。
しかし、いわゆる日本の市場というよりは、商店がずらりと並んでいる感じである。

食料品だけでなく、洋服や玩具屋、靴屋など、なんでも一通りそろっている。
そして天井はドームになっていて、それが道にそって続いている。
そのメインロードのスークをひたすら歩き、途中地元の人たちでごった返している、アイスクリーム屋で、私も彼らにならって、それを買う。
そしてそれをペロペロやりながら再び歩き出すと、モスクへとつきあたる。

しかしそこからモスクへは入らない。
だいたいまだアイスクリームを食べおわっていないし、そこから入ると外国人は入場料を取られる。
なので、お土産やを横目に見ながらモスク沿いを歩き、反対側まで行く。
そして、そこの入り口から715年に建てられた世界最古のウマイヤドモスクへと入るのだ。

門をくぐると、まずは広場が続いている。
その日は祝日だったこともあり、家族連れが多い。
それはモスクの中庭というよりは、ピクニックの公園という感じだと思った。
みんな思い思いにくつろいで、こどもたちは走りまわっている。

私は写真を撮っていいかどうかを、まわりの大人たちに確認してから、カメラバックからカメラを取り出す。
こどもたちにカメラを向ける。
彼らは気づいてこっちへと走ってきて、まずはこう言う。
『ホワット イズ ユア ネイム?』
そして、
『テツロー ジャパニーズ』
と答えると、
『ウエルカム』
と彼らも答える。

この「ウエルカム」という言葉を、シリアで何度も聞いた。
それを聞く度に純粋に嬉しいと思った。
歓迎されていると感じられたし、それはただの言葉のやりとりだけではなく、実際に彼らは歓迎してくれていると感じた。

そして子どもたちにカメラを向けると、直立不動になったり、あるいはポーズと取ったりしてくれる。
そして私はフィルムに彼らを焼き付ける。

そして、一つのグループのこどもたちを撮ると、それを遠くから見ていたこどもたちがやってきて、写真をせがむ。
そして、再び私は写真を撮る。
驚いたことに15歳くらいの少女までが、写真を撮ってほしいと話し掛けてきた。
トルコを除けば、イスラム圏で女性の写真を撮ったのは、それが初めてだと思う。

しかし、次から次へと、こどもたちが押し寄せてくるので、きりがなくなり、モスクの内部へと入ることにする。

モスクの内部へは、20代後半の青年が案内してくれた。
案内といっても、英語が上手いわけでもないので、
『ここで靴をぬいでくれ』
とか
『ここが入り口だ』
とか、その程度の案内だった。
それでも私には、彼の歓迎の気持ちが伝わってきて嬉しかった。

モスクの内部も、また他のモスクと違って柔らかい印象を受けた。
偶像崇拝をしないイスラム教であるため、モスクの内部といっても教会や仏教寺院のそれとは違いう。
ただ、誰かの棺らしきものがあったが、あとは空間が続いているだけで特になにかあるわけではない。

その空間で真剣に祈っているももちろんいるし、コーランを読み上げる人もいる。
しかし隅っこほうで昼寝をしている人もいるし、ファラフェル(ひよこ豆のサンドウィッチ)をほおばっている人もいる。
記念撮影をしているグループもいる。

そして私はその案内役の彼に確認して、写真を撮った。
モスクの内部で写真を撮ったのも初めてだと思う。

神聖で敷居の高いモスクも悪くはないが、このウマイヤドモスクは何か親しみを感じることができた。

モスクを出ると、そこには旧市街が広がっている。
石の壁でつくられた家がつづき、その細い路地に入っていくと入り組んでいて、すぐに自分がどこにいるかわからなくなる。
かならず道に迷い、帰りは誰かに道を聞かないと戻ってこれない。
しかし、そうやって、あてもなく歩き写真を撮るのは、私にとってはこの上なく贅沢な時間の過ごし方だった。

アレッポの後、ハマという街を基点にクラック・デシュ・バリエという十字軍の城塞を見に行ってから、ダマスカスへと下ってきた。
クラック・デシュ・バリエは、「天空の城ラピュタ」のモデルだとの噂であったが、どっからどう見てもそれは無理があるように思えた。
しかし、それを除いて、十字軍の城塞として捉えるのであれば見応えはあった。

そしてダマスカスで私は約1週間を過した。
そこから日帰りで、クネイトラという、中東戦争でイスラエルに破壊され、そのままにしてある街や、パルミラというローマ時代の遺跡を見学に行ったりしたこともあるが、何よりダマスカスが気に入ったので、街そのものをじっくりと見たかったのだ。

しかし私はそのダマスカスの旧市街で、この旅始まって以来の、いや人生始まって以来の最悪とも言える体験をすることになる。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

旅がまわる

新しい旅が始まった。
香港からひたすら西を目指し、イタリアまで行ったが、ここから先は進路を南へと取ることになる。
ひたすら南下して、南アフリカの喜望峰を目指す。
この後は誰かと何処かで落ち合う約束もなく、予算的な制約はあっても時間の制約はない。
帰国もいつになっても構わない。
良くも悪くも、新しい旅であることは事実だ。

イスタンブールからのバスは、シリアとの国境の街であるアンタクヤを目指し、20時間かけて走った。
いくらトルコのバスが日本並みきれいで、道もよく、乗り心地がいいとはいえ、やはり20時間はこたえた。
バスはアンカラを経由して、朝の7時にアンタクヤに到着した。

思えば、トルコではイスタンブールとエフェス以外に何処へも行っていない。
トルコに来るほとんどの旅行者が行く、奇岩で有名なカッパドギアにさえ行っていない。
また、バックパッカーに人気のサフランボルの旧市街にも訪れていない。
別にそれらを見てまわってから、シリアに入ってもよかったが、私はそれを止めた。

一つにはトルコならいつでも気が向いたときに来ることができると思ったからだ。
日本から飛行機のアクセスもいいし、休暇を利用した旅行でも十分楽しめる。

そして、トルコにいる限り、私はいろんなことを引き摺りながら旅をすることになるのが分かったいた。
それが本当の理由だ。
だから、早く新し旅をしたかった。
新しい旅の舞台はトルコではだめだった。
自分にとっては早く未知のシリアに入ることで、新しい旅ができると考えたのだった。

アンタクヤのバスオフィスで、シリアのアレッポ行きのバスチケットを買おうとして、トルコリラが足りないことを思い出した。
アレッポまでは、6,000,000(約5ドル)リラである。
この料金はイスタンブールにいるときに調べていた。
だから、イスタンブールできっかり6,000,000リラだけを残し、それ以外のお金を、バスの中で食べるパンやお菓子を買って、全て使い切ってしまっていた。

ちなみにトルコは超インフレでゼロの数が多すぎる。
トルコ人は、トルコリラの価値がどんどん下がるので、誰もがユーロかドルで貯蓄していた。

私は一つ大切なことを忘れていた。
トルコの公衆トイレではチップが必要なのである。
私は、イスタンブールからアンタクヤまでのトイレ休憩で、1回でもそれを払うと、バス代が足りなくなることはわかっていたが、やはりトイレを我慢するわけにもいかず、何回かそれを払った。
なので手持ちは4,000,000リラに減っていた。

オフィスの前で立ち尽くしどうしたものかと思ったが、無理を承知でカウンターにいる中年のおやじにお願いしてみた。

『トイレのお金を計算に入れるのを忘れていた。
日本では公衆トイレはフリーだからな。
だから4,000,000リラしか持ってないんだ。
これでなんとか乗せてくれないか』

我ながら、かなり無茶苦茶な言い訳であるが、言うだけ言ってみると、カウンターのオヤジは特に考え込むでもなく、4,000,000リラでいいと言ってくれた。
おまけに、まだバスが出るまでに時間があるからと言って、チャーイまで出してくれた。

定価より高い金を払わせられるのは、非常に不愉快だが、定価より安い金でバスに乗るのも他の客に申し訳なくてあんまり気持ちのいいものではないが、ここは彼の好意を素直に喜ぶことにした。

そしてそのバスは、無事に国境を越え、シリアに入国した。

シリアの入国した後に、すぐにバスは休憩した。
休憩所に設置してあるガソリンスタンドで給油のためだ。
バスは、そのタンクだけではなく、ポリタンクにもガソリンも入れ、荷台に詰め込めるだけガソリンを入れていた。
シリアの方がガソリンがずっと安いらしい。

その間私は、なにもやることがなかった。
チャーイでも飲みたかったが、シリアのお金がなにもないし、銀行もない。
そして、休憩所のいすでボーっとしているときに、近くにいた男にたばこをもらった。
顔立ちからして、中東のどこかの人であろうが、どこの人かわわからない。
シリア人かと思ってそう尋ねると、驚いたことにイラク人だった。
その、私と同年代の彼は、ほとんど英語は話せなかったが、
『イラク、バン、バン、ドカーン。デンジェラス』
と笑っていた。
いつ、アメリカとイラクが開戦してもおかしくない時期だけに、私は苦笑いをするしかなかった。

彼は懐から一枚の紙を取り出して、私に見せてくれた。
そこには私でも正確に理解できるほどの簡単な英語が書かれていた。

『数年前、父が貿易の仕事でキューバへと渡り、出だしは順調でした。
しかし、最近仕事で失敗したらしく、行方がわからなくなってしまいました。
今、母が深刻な病気になり、死ぬ前に父に会いたがっています。
私は父を探しています。
どうか協力してください。』

そう書かれていた。
彼は、シリアからキューバへと飛行機で飛び、そこで父を探すらしい。
英語ができないので、その内容を誰かに書いてもらったのだろう。
そしてその内容を、キューバに着いてから、会う人会う人に見せ、父を探すらしい。

しかし見つかるのだろうか。
その紙には、父の手がかりらしきものは何も書かれていなかった。
父の以前の住所や、顔立ちなども書いていない。
キューバに渡ってから、父の足取りを手繰っていくしかないのだろう。
まるで雲をつかむような話に思えた。

私は、
『お父さん見つかるといいね』
と日本語で言って、彼と別れた。

彼の故郷の国の大統領はともかく、そこに住む人は、やはり普通の人だ。
だいたい、独裁者の支配下にある国民が、同じく独裁的であるはずもない。
国とトップと、一般の市民の考えが同じ国なんて、めったにない。

そして、再びバスは走り出し、アレッポに到着した。
シリアの最初の街である。

その街にはアレッポ城という遺跡がある。
その城は外観は、石を積み重ね壮大であり、城の上から見るのアレッポの街並み美し
かったが、内部は修復している所も多く、あまり興味がなかった。
それでも一通り見学した後、アレッポ城の入り口付近にある、チャイ屋に入った。
料金を聞くと、30シリアポンドと高い。
0.5ドルだ。
他の店ならもっと安く飲めるはずだ。
それでも、城を見ながらチャイをすするのは悪くないアイディアだと思い、飲むことにした。

私の座った席の向かいに、40歳くらいのカフィーユを頭に巻いた男が、サングラスをかけて座っていた。
カフィーユとはアラファト議長のトレードマークのそれである。
しかし、サングラスのせいでその男は非常に威圧的ではあったが、絵に描いたようなアラブの男であることには違いがなかった。

私は思い切って写真を撮っていいか聞いてみた。
彼はただ、
『オーケー』
とだけ言って、私は写真を撮った。
すると、
『どこから来た?』
と彼は聞いてきた。
『日本人です』
とこたえると、
『ウエルカム ジャパニーズ』
とだけ彼は言った。
彼と交わした会話はそれだけだった。

そして、静かにマルボロを私に差し出して、あとはまた一人でチャイを飲み始めた。

しばらくして、ウエイターが彼のところにやってきて、お金を払っていたが、そのウエイターが私の所にもやってきて、
『彼があなたの分も払ってくれた。お礼を言ってくれ』
と言う。
もちろん私はお礼を言った。

私は彼の親切がスマートだと感じた。
ろくに話もしていない外国人にチャイをごちそうする。
私が礼を言っても、軽く会釈をする程度だ。
ウエルカムという言葉も、うわべだけではなさそうだ。

しかし、彼だけがスマートだったわけではない。
この手の親切は、シリアでよくあった。
そして誰もがウエルカムと言ってくれた。

私はシリアを好きになるだろうと、この時に思った。

またアレッポには旧市街もある。
石畳が敷き詰められていて、住居も石材でできている。
せいぜい2階建てのその脇を通り、細い路地を歩くのが好きだった。

ちょうどイスラム圏の休日である金曜日だったので、子どもたちが遊ぶ姿をよく見かけた。
カメラを向けると、子どもらはみんなカメラを意識して、きょうつけの姿勢になる。

そして写真を取り終わると、みんな口々に
『ジャッキー・チェン!! ブルースリー!!』
といって、カンフーの真似をする。
彼らを日本人だと思っているのかもしれない。
そして私が、ちょっと空手の構えをすると、
『おぉぉーーー!!』
っと喚声があがる。

私は、シリアに来るのはもちろん初めてだった。
しかし、何故か昔旅した場所にもどってきたと思った。

正確にいえば、ヨーロッパから、再びそうでない場所へと戻ってきたのだと思ったのだった。

旅が、ようやくまわり出した。
そうなふうに感じた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

沈没の味

約一ヶ月ぶりに戻ってきたイスタンブールの街は、以前に増して寒さがこたえた。
毎日雪が降っていた。
といっても降っては止んで、それをを繰り返し、すぐに雨に変わる。
その雪は水分が多く、2、3センチしか積もらず、翌朝には凍っている。
そして昼間には溶け出して、地面はいつもぬかるんでいた。
街を歩けば、靴の中に水が染み込み、この上なく不快感を感じた。
別に、雪景色のイスタンブールというほどの、ロマンチックなものではなかった。

ギリシャのテッサロニキから約12間かけて、イスタンブールに着いても、別に懐かしさなんてものはなかった。
そこに私がいたのは、ほんの一ヶ月前だ。
しかし、一ヶ月前の自分と、今の自分はまるで別人だった。
少なくとも自分の未来というのは、全く違うものになった。
ただ、懐かしさを感じたとすれば、イスタンブールという街にはではなく、一ヶ月前の自分にであった。

以前泊まっていたコンヤペンションへと向かいチェックインをした。
しかしドミトリーが一杯で、廊下の一角にベッドを置き、カーテンで仕切っただけのベッドしかなかった。
ドミトリーが5ドルのところを、その廊下のベッドを4ドルで泊まらせてくれたはいいが、やはり夜は寒さがこたえた。
ドミトリーが一杯なのは、卒業旅行シーズンだからであった。
多くの学生がイスタンブールからカイロまでの旅行を楽しむ。
あるいはイスタンブールだけを目的に来る学生も多い。
夜になると団欒室は足の踏み場もないほど、人口密度が高くなる。

別にそういう学生と話すのは嫌いではなかった。
むしろ新鮮な事を聞けることも多い。
でも、今の私は、そういう知らない誰かと会話をすること自体、億劫になっていた。

そんな理由もあって私はすぐにコンヤペンションから宿を移った。
街を歩いているときに、客引きに連れられ、朝食付きで6ドルというホテルを見つけたからだ。

私はその6ドルのホテルに移ってから、10日ほどそこに滞在した。
すぐに次の目的地であるシリアのビザを取りに行ったが、それが済んでしまった後は、もう何もしていない。
このときに私は今までの旅で、初めて沈没したと感じた。

この沈没というのは、ほとんどバックパッカーの世界のみに共通する用語だろう。
正確な定義なんてものは多分ないと思うが、一般的には、一つの場所に滞在し続けて、次の場所に移動できなくなることを言う。
その沈没と言うに値する期間というのが、どれだけの長さかというと、人によってさまざまで、1週間で沈没だという人もいれば、一ヶ月だと言う人もいる。

そういった期間だけを考えて、自分の旅を思い起こすと、私の場合、チベットのラサ、ネパールのカトマンズ、インドのバラナシにそれぞれ、3週間ほど滞在していた。
しかしあの時は、沈没しているなんて考えたことはなかった。
毎日が充実していた。
私は、それらの街で飽きることなく、写真を撮り続けていた。
だから自分が沈没しているなんて思ったことはなかった。

私はその期間をもって、沈没しているかどうかとは言えないような気がする。
要は、ただ何をするでもなく、いたずらに一つの場所にとどまることを沈没と言うのではないかと思っている。

ちなみにアジアで沈没地として人気のカトマンズやポカラ、あるいはバラナシなどでは、決まって簡単にガンジャが手に入る。
ガンジャに身を浸しながら、ただやみくもに時間を過ごす人は少なくない。

今の私は、ガンジャに身を浸すわけもないが、無意味に時間だけを消費しているという意味では、彼らと何も変わらない。

だいたい10時過ぎにのこのこと起き出して、ベッドの上でフランスパンをかじる。

その後、特に用事はないがスーパーへと出かけて、お菓子かなんかを買ってくる。
しかし、寒さのためにすぐにホテルにもどり、ネットなんかで時間をつぶす。
かといって、1日はあまりに長く、持て余してしまうので、意を決して外出する。
意を決して外出しなけば出かけられないほど寒い。
いや、東京のそれと大して変わらないとは思うが、ここにはダウンジャケットなんてあったかいものはない。
たいてい、バスに乗って、新市街へ行き、歩いて帰ってくる。
あるいは20分ほどかけて、ガラタ橋という所までふらふらと歩くくらいだ。

そして私はカメラさえ持ち歩かなくなった。
今まではちょっとした外出でも、ほとんどカメラを持ち歩いていた。
シャッターチャンスがどこにあるかわからないからだ。
それが、カメラさえ持たなくなってしまった。

そしてただあてもなく、2時間ばから街を歩き、宿にもどり、夜を待つ。
夜になればなったで、夕食を食べに行くでもなく、ホテルのキッチンで夕食をつくり、あとは寝るだけである。

あまりの寒さと、雪と雨が降り続いて、スーパー以外に外出しない日さえあった。
これではもう、旅をしているとはいえないような気さえした。

ほとんどそんなふうにして、毎日を、時間を持て余すかのように過ごしていた。

だったら早いところシリアへ向かえばいいのだが、それもできない。
全てが面倒で億劫で、そして無気力だった。
なにもかもがどうでもよく、まるで他人事だった。
こんな状態なら帰国したほうが、まだましだとも考えたが、もうそれさえも面倒に思えた。

長く旅を続ければ、いつかはそうなるとは思っていた。
しかしそれに個人的な理由も重なって、それは案外早く来た。
私は前に進めずに、そこに留まるしかなかった。

何かを変えなければと思った。
そうでなければ、自分が落ちるところまで落ちていくと思った。

私はふとあることを思いついた。
占いである。
トラム沿いの道に珍しい占いを以前見たのを思い出した。
それは小さいテーブルの上に、何十枚ものカードがおいてあり、さらにその上にウサギが横たわっているのだ。
そして、占い師にはとうてい見えない、おやじの合図で、そのウサギが一枚カードを
引くというものだ。
私は、それをやってみようと思い立ったのだ。

もともと日本にいても占いなんか関心はない。
初詣のときおみくじをやるくらいだ。

いくら私が無気力だとはいえ、占いに頼るなんてことはしない。
それにどう考えても、そのウサギの占いは、品のよさそうなものでもないし、当たる気もしない。
ただ、私はそのウサギの引くカードに、よさそうなことが書いてあれば、それを「罪のない嘘」くらいに信じてみることによって、新しい風を引き寄せることができるかもしれない思ったのだった。

無論、よくないことが書いてあれば、よいことの書いてあるカードが出るまで何度もやるつもりだた。
私にとって占いはそんな程度のことである。

軽い気分転換のつもりで、それを探した。
しかし、かつてトラム沿いにあった、その占いは見つからなかった。
その日は雪が強かったからかもしれない。
そう思って、その次の日も探してみた。
しかしやはり見つからない。
もしかしたら、冬のために店をたたんでしまったのかもしれない。

私はウサギにさえ、見放されたのと思うと、悲しいというよりは、なんだかおかしくなって、笑ってしまった。

そんなふうに、イスタンブールに着いて、何日かたった時だった。
東京で言えば大雪と呼べる雪が降っていた。
あっという間に10センチ以上は積もっていた。

そして雪が小降りになったのは見計らって、私は出かけることにした。
その時に、久しぶりにカメラを持った。
いやカメラを持って出かけたことはあったが、撮ったことはない。
恐らく、イタリア以来だろう。
雪のかかったブルーモスクを撮ろうと思ったのだ。

ところがブルーモスクはドーム型のため雪が積もらず、すべり落ちて、少し拍子抜けした。
しかし、辺りは雪に覆われていて、その中にあるブルーモスクはいつもより存在感を増していたように思えた。
そしてその周りの広場には、子どもたちが雪合戦をして遊んでいる。
雪の為に学校が休みなったらしい。
私は、そんな風景にカメラを向けシャッターを切った。
ときおり子どもたちからの、雪の玉が飛んでくるのを避けながら写真を撮った。

その感覚は何だか懐かしかった。

私には、まだ撮りたいものがあるはずだ。
そう思った。
それは、自然とそう思ったというよりは、もしかしたら、ある種の自己防衛なのかもしれない。
自分の悩が自分を守るために、そう考えたのかもしれない。
とにかく、私はカメラを持つ事によって、ようやく、その旅とは到底言えないような、無意味な生活から脱出できるかもしれないと思った。

私はその気持ちが萎えないうちに、その足でバスチケットを買いに行った。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

旅のルール

私の旅は迷路の中の行き止まりにぶつかってしまったみたいに、行き詰まっていた。

その行き詰まりは、婚約者を失ったという気持ちの問題もあるが、実際に行き詰まっていた。
それは一体どこからアフリカ大陸の第一歩を踏む出すかということである。

もともとギリシャからフェリーに乗り、エジプトへ渡る予定だった。
しかしエジプト行きのフェリーは存在しなかった。
それが冬季のためなのか、もう廃線となってしまったのかはわからなかったが、とにかく存在しなかった。
なので航路を使うとすれば、まずイスラエルに船で渡り、そこから陸路でエジプトに入ることになる。
アメリカとイラクの戦争がいつ始まるかわからない今、イスラエルに行くことは気の進む話ではなかった。
前回の湾岸戦争では、イラクがイスラエルにミサイルを飛ばしている。

イタリアからアフリカのチェニジア行きのフェリーが運行していて、そのルートも考えたが、その後、隣国のビザが取れるかどうかわからず、そこで身動きがとれなくなる可能性があった。
もう一つはスペインまで行き、モロッコに入るルートも悪くはないと思った。
実際モロッコは魅力的だ。
しかしそこからケニアまでの道は遠い。
私はすでにトルコからケニアの日本大使館に、アフリカ南部で使う予定のテントと、大量のフィルムを送っていた。
だからどうしてもケニアには行かなくてはいけない。
モロッコからケニアまで陸路で横断するとして、その途中の国々のビザの問題をクリアできるのかが不安だった。

結局どちらにしろ、行かなければわからないことが多かった。
とはいえ、物価の高いイタリアでゆっくり考える余裕もなく、なによりエミが去った
後、一人でローマに留まるのが嫌だった。

私はエミを送り出した次の日に移動を開始した。
結局、ギリシャからイスラエル、そしてエジプトのルートを選択した。
まずはバーリに行って、そこからギリシャ行きのフェリーに乗った。
来た道とまったく同じルートで引き返すのも芸がないと思ったが、予想以上にイタリアでお金を使ってしまい、早く物価の安いエリアに入りたかった。

イタリアまで行ったからには、もっとヨーロッパを見たいという気持ちはあった。
フランスやドイツ、スペインだってすぐに行ける距離だ。
なによりポルトガルまで行けば、ユーラシア大陸を横断したことになる。
でも私はそれをしなかった。
今は、お金さえあれば、ゆったりまわれるヨーロッパではなく、もっとキツイ旅といえばいいのだろうか、そういうものを求めていた。
それはエミを失ったからそう思うのはよくわかっていた。
きっとヨーロッパはまた来れるし、仕事の休暇を利用した短期旅行でも十分楽しめそうだ。
そうでなくて、今しか行けないところに行きたかった。
だから、迷うことなくアフリカを目指したのだ。

アテネまで引き返して、早速フェリーのチケットを探した。
イスラエルに行くにはまず、地中海の南キプロス共和国まで行かなければならない。

そして、南キプロスからイスラエルの船は確かに存在したが、肝心の南キプロスまでの船が夏季しかなかった。
何件か旅行代理店をまわったが、答えは同じだった。
そのうちの一件は、わざわざ南キプロスの政府観光局みたいなところに電話して確認してくれたが、船があるのは夏だけだった。

悪いことは続くものだと思った。

私にはもう、トルコまで戻るルートしか残されていなかった。
そこから陸をつたって、エジプトに入るしかない。

仕方なしに駅まで行って、イスタンブール行きのチケットを探した。
すると直通列車はないので、まずはテッサロニキまで行けという。
バスは直通があったが、それは週に1便しかなく、それまで待っていられなかった。

結局翌日のテッサロニキまでのチケットを取って宿に戻った。

次の日安宿のベッドで目を覚ます。
時計を見るとすでに8時をゆうにまわっている。
列車は8時30分だ。
やってしまった。
今からパッキングして駅に向かってもとうてい間に合わない。
私はその日の出発をあきらめた。
『俺は何をやっているんだろう』
そんな事を思う。
旅に出て以来、こんなことは初めてだった。

昼くらいに無理を承知で駅に行き、
『今日の列車に乗り遅れてしまったので、明日の便に変更してくだい』
と窓口を訪ねた。
応対した40代の男性は面倒くさそうに、
『それは可能だが、ペナルティーが必要だ』
と言う。
『それはいくらですか』
と聞くと、
うーんと少し考えてから、
『7ユーロ(約910円)だ』
と答えた。
私は、彼が値段を言うのに、少し考えた時間があったのと、ペナルティーの7ユーロ
が、テッサロニキまでの料金の14ユーロの、ちょうど半分だったことで、
『これは彼のポケットに入るお金だ』
とすぐに直感した。
つまりは賄賂だ。

だったらと思って、
『私はもう長く旅をしていて、あまり手持ちの金がない。少し負けてくれませんか』

と言うと、すぐに5ユーロまで下がった。
それで手をうとうとした。
ツーリストポリスに頼むなり、何らかの方法をとれば、おそらくただでチケットを書き換えてくれるだろうが、今はそんな面倒なこをする気になれなかった。
そういう気力がなかったのだ。
5ユーロを払おうとすると、
『隣のカウンターで払ってくれ』
と言う。
しかし隣のカウンターには誰もいなくて、少し待たされた。
15分ほどして、そのカウンターにまた違う男が来た。
私は二人分の賄賂を請求されるのではないかと、内心弱気になっていた。
しかし新しいチケットを買わされて、丸々損するよりはましかと思って、また同じことを尋ねてみた。
するとその男は何も言わずにあっさりと無料でチケットを明日の便に書き換えてくれた。

次の日も、やはり起きられなかった。
しかし急いで支度をして、なんとか列車に乗ることはできた。
エミが去って以来、夜は眠れず、そして長い。

列車の窓からの景色は雪だった。
前の日、アテネでは雨だったが、この辺りでは雪だったのだろう。
そして時折見える、名前も知らない山々も雪で輝いている。
それは見たこともないが、アルプス山脈みたいだなと思った。

テッサロニキには昼の2時30分くらいに着いた。
ここもやはり寒い。
すぐにインフォメーションでイスタンブール行き列車を聞いたが、翌日の早朝までないという。
何という乗り継ぎのわるさだ。
そこでバス会社のオフィスを教えてもらい行ってみると、イスタンブール行きのバスはあるにはあるが、深夜の2時30分だという。
12時間後である。
その時間まで待つのもつらい。
仕方なく、翌朝の列車で行くつもりで、ホテルを探し歩いた。
しかしどうしても、安い宿が見つからない。
一番安かったところで、20ユーロ(約2600円)だった。
列車とバスの料金は、若干バスのほうが安いがほとんど変わらない。
しかし、列車で行くとすれば、宿代がかかる。
私はその宿代が惜しかった。
金がないわけではないが、イタリアでかなり使ってしまい、やはり20ユーロは惜しかった。
私はそれをけちって深夜のバスで行くことに決めた。

まずは荷物を駅で預け、少しだけ街を歩いた。
別にどこかを観光するつもりはなかった。
第一ガイドブックも地図もない。
インフォメーションに行けば貰えるのだろうが、列車やバスのことを聞きに何回もそこに行き、かなり嫌な顔をされたので、またそこに行くのも面倒だった。
寒空のなかを1時間ほど歩き、また駅に戻った。
その構内にある、ファーストフードともカフェとも呼べるような店で、残りの時間をつぶした。
いったい何時間そこにいたのだろう。

その一角に座って、私と同じように、列車やバスを待つ人たちを眺めていた。
それは飽きることがなかった。

中年の夫婦らしき男女が、どういう理由かはわからないが、言い争いをしている。
口喧嘩を通り越し、さらに興奮して、しまいには男がコップに入ったビールを、女に投げつけるようにかけた。
その後、男が殴り出すのではないかと思ったが、そこで友人らしい男が仲介に入った。
女はビールをかけられても平然としている。
結婚をしても、うまくいかない例というのは、世界中どこの国にでもあるのだなと思った。

黒いジャンパーを着た白髪まじりの40代の中華系の男が、手前に持った箱に、ラジ
オやボールペン、携帯電話のケースやぬいぐるみなどを、これでもかというほど詰め込んで、歩いている。
そしてテーブルを一つ一つまわって売り歩く。
客は興味を示して手に持ったりするが、売れている様子はなかった。
とても旨みのある商売とは思えない。
ボスみたいな存在がいて、売り上げのほとんどを持っていかれるのではないだろうか。
そんなどうでもいいようなことを考えた。

少年の物乞いも、何度も私のテーブルにやってきた。
いや、物乞いというよりはストリートチルドレンなのかもしれない。
実際に、彼に住む家がないとしたら、この寒さでは体にこたえるだろう。

ヨーロッパにもやはり物乞いはいた。
アテネの中心から近いオモニア広場に、いつも犬を2匹連れている物乞いがいた。
40歳くらいの男性だった。
2匹の犬は、彼の隣でおとなしく座っている。
夜にそこを通ると、シートの上で男は犬と一緒に寝ていた。
彼は、その犬のえさをどうしているのだろうか。
その犬は勝手にどっかから探してくるのだろうか。
だったら、なぜ、その男性の側を離れないのだろうか。
そんなことを考えた。

イタリアのローマのテルミニ駅にいた物乞いのことをもよく覚えている。
駅近くの交差点でいつも見かけた。
長髪で髭が伸びていたが、まだ青年だった。
私と同じくらいの年かもしれない。
彼の座っているそのシートの下には、何か黒いものがあった。
それがバックパックだとわかったときには、私は何か恐ろしいものを感じた。
彼の国籍はわからないが、放浪の末に、そういう境遇になってしまったのかもしれない。
もし、私も永遠に旅を続ければ、いつかああなってしまうのだろうか。
そんなことを想像すると、無性に何か見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がした。

カプチーノを飲みながら、何時間もそこに座っていた。
そして結局自分にとってはどうでもよく、関係のないことを、他人事のように考えていた。
まるで自分が行き場のない家出少年みたいに思えた。

エミのことを考える。
私は身軽になった。
これでもう1年で帰国するという彼女との約束も無効だ。
金の続く限り、どこへでも行けるし、いや、金がなくなればどこかで働けばいい。
そんなことを強引に思ってみる。
そしてただ虚しさと危うさだけが、胸にざらざらと残る。

エミを失ったことは、自分にとって、心と体の半分を持っていかれたような感覚だった。
私は、まるで地に足のつかない、ふらふらしていて、吹けば飛ぶような存在になっている。

突然、
『もう帰ろうか』
という気持ちが頭をかすめる。
『もう十分じゃないか』
何度もそう思った。
あとは、帰国して仕事を見つけ、友人たちと飲みに行ったり、遊びに行ったりして、平和に暮らそうかと考える。
それは、今の私にとって、やたらと魅力的だ。

私の旅にはこれといった目的がない。
ただルールがあった。
香港から南アフリカの喜望峰まで陸路と航路で行くというものだ。
目的地を決めたのは、あてもなくふらふらとさ迷う旅をしたくなかったからだ。
別にそういう旅を否定はしない。
ただ、自分には向いていない。
だから目的地とルールを決めた。
いや、香港から南アフリカの喜望峰まで陸路と航路で行くというそれが、ほとんど唯一の目的と言っても差し支えないかもしれない。
そんなことは、時間と金と体力があれば、誰だってできることはわかっていた。
でもそれを実行すると決めたのは自分だった。

旅のルールというものがなければ、エミを失った時点で帰国したかもしれない。
別に彼女を追いかけるのではなく、日本で仕事を探し、ごく平凡に暮らすためだ。
それは悪くないどころか、懐かしい感じさえする。

でもやはり私は旅を降りれなかった。
もしそれをしてしまったら、エミを失ったことと、同じくらい大切な、自分を形作る何かを失ってしまうような気がした。
自分の核となるものを失ってしまいかねないと思った。
だから行くしかない。
もう、それしかなかった。

闇の中をイスタンブールに向かってバスは走った。
そして私もまた、闇の中を手探りで走っているのだと感じた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

そして彼女は最後に微笑んだ

空港に来ている。
私は空港というものがあまり好きではない。
いや、そもそも飛行機という乗り物があまり好きにはなれない。
時間と空間を一気に飛び越えてしまうそれは、確かに便利で、私もかつて何度も利用したが、それに乗ると、世界の中で自分が何処にいるかということを、頭では理解できても、肌で実感することが難しい。
だからというわけでもないが、香港から喜望峰まで陸路で航路で行くという、一見ばかばかしいルールを自分に課したのかもしれない。

その私が空港に来ている。
イタリア、ローマのダヴィンチ空港である。
もちろん正式な名前ではないらしいがダヴィンチ空港で充分通じる。
なかなか洒落た名前だ。

空港に来た理由は、イスタンブールを経由して日本に帰るエミを送るためだ。
結局そういう結果になった。
別に自分を責めるでもなく、まして彼女を責めるでもなく、あるいは誰かのせいにするでもなく、ただその結果を受け止めるしかない。

ローマに着いてしばらくして、エミはこんなことを言っていた。
『私は長い旅には向いてない。帰国したら式場はキャンセルするけど、一度あなたと別れて一人きりになって、もう一度あなたとのこと考えるから』
そう話していた。
別にそれは私に期待をもたせるためでもなく、上辺の優しさでもないことはよくわかった。
エミはそうやって、何かに区切りをつけて、新しい生活をスタートさせるのだろう。

しかし彼女がもう私のところに戻らないということは、一ヶ月一緒にいて、充分過ぎるほどわかってしまった。
まして、結婚を考えた相手だから、エミのことはよくわかるつもりだった。

人生には「もしもあの時」なんてことを考えても意味がない。
私はこの旅に出て、婚約者を失い、その後の人生が思い描いていたものと全く違うものになってしまった。
もし、誰かから旅に出たことを後悔しているかと聞かれたら、私は後悔はないが、やはり後悔もあると、曖昧でよくわからない答えをするしかないだろう。
旅に出なければ、今ごろは既に結婚していただろう。
それがエミの望んでいたことだった。
しかし、その後の生活で、
『なんであの時旅に出なかったのだろうか』
と悩んで、エミを苦しめたかもしれない。

二つの選択肢があって、どちらか一方を選択して失敗すると、もう一方を選択すればよかったと悔やんだりする。
しかし、それでうまくいけば、そんなことは考えもしない。
だから人間は無い物ねだりの好きな生き物だと思う。

私は旅もエミも手に入れようとした贅沢者だった。

元々イタリアに来る予定はなかった。
ただアテネで時間を持て余していた。
アテネの後、地中海の何処かの島に行こうかとも考えたが、天気が悪いのもわかっていたし、何より寒くて楽しめそうになかった。

『イタリアでジェラートでも食べようか?』
そんなことを言い出したのはどちらからだろうか。
もう思い出せない。
ただ、そんなどうしようもない理由で次の目的地を決めるのは、とても愉快なことに思えた。
私たちは、その話をした後、すぐに次の日のフェリーのチケットを取った。

アテネからパトラスという港街までバスで行き、そこからスーパーファーストという、超がつくほど豪華なフェリーに乗った。
別にわざわざ豪華な客船を選んだわけではなく、冬季という理由もあり、それしか運行していないのだ。
船内にはエスカレーターやエレベーター、レストラン、バーはわかるが、ディスコなんてものまでついていた。

その船で一番安いのは屋外のデッキだったが、この時期ではさすがに寒くて、眠ることもできないので、室内の座席のチケットを買っていた。
といっても一度乗ってしまえば、チケットのチェックもなく、座席の指定もあってないようなもので、なおかつ客も数えるほどしかいないので、デッキのチケットで座席で行くことは可能だったようだ。
もちろんそんなこと人に薦められることではないが。

その船に一晩揺られて、翌日の昼にイタリアの東側のバーリという港街に着いた。
ギリシャからイタリアに入国しても同じEU圏なので、バスポートに入国のスタンプが押されないのが残念だった。
そこからユーロスターという日本で言えば新幹線みたいな特急列車に乗って、一気にローマまで来た。

その列車のなかで夕日が見えた。
夕日を見るのは久しぶりの気がする。
空は雲に覆われていたが、ちょうど地平線のところには雲がなく、オレンジ色の太陽が顔を覗かせていた。
それまで無口だったエミは突然口を開いてこんな話をした。

『ねえ、知ってる?水平線の見えてるところって、自分のいるところから10キロくらいしかないらしいよ』
『本当?じゃあ、地平線も高低差がなければ、10キロ先までしか見えないってことか』
『そうだね』

エミのその話は新鮮だった。
地球が丸いなんてことは今の時代常識だけど、たかだか10キロまでしか見渡せないというのは知らなかった。
もっと遠くまで見えていると思っていた。

『人間の見渡せる範囲なんてそんなもんか。そんなに遠くを見ることはできないんだな』
と一人でつぶやいてみる。
そしてその先に何があるのかは、結局行ってみなければ見ることはできない。
私はそんなふうにしてここまで来たのだなと思った。
きっとその思いは日本に帰って、日常の生活を送っても続くのだなと思った。

ローマの宿はイタリア・インという日本人宿にした。
それはガイドブックにも載っていない、口コミで広まっている日本人宿で、それをエミがネットで見つけていたのだ。
あらかじめ電話を入れておいたので、管理人の日本人女性がローマのテルミニ駅まで迎えに来てくれた。
わざわざ迎えに来てくれたことには恐縮したが、連れて行かれた場所は、電話で聞いたとしても到底たどり着けない、わかりづらい場所にあった。
そこのツインの部屋で1週間ほど過ごした。
イタリアに来る予定がなかった私たちは、ガイドブックも地図も持っていなかったが、その宿には日本語のガイドブックも揃っていて、スタッフもいろいろ教えてくれて、観光には不自由しなかった。

ローマでの1週間は純粋に楽しものだった。
エミが帰国することはもうわかっていた。
それは婚約の解消を意味する。
けれど、ローマに着いてからはお互いにその話は避けていた。
私もただ、エミとの最後の時間を楽しくすごせるように努めた。
私たちはローマでの1週間を、恋人同士がするように腕を組んだりして歩いた。

そこで私たちは、ガイドブックのモデルコースになりそうな観光をした。
コロッセオを始め、遺跡もいくつかまわったし、国立考古学博物館にも行った。
バチカンの、カトリックの総本山であるサンピエトロ大聖堂やミケランジェロの「最後の審判」で有名なバチカン美術館にも足を運んだ。

パスタもほとんど毎日食べた。
食べ物にはあまり興味のない私だが、手打ちのパスタを食べたときには、いままでのパスタとは全く違ったその歯ごたえに驚いた。
パスタの形状にもいろいろあり、なかでも、具をパスタで包んだ、詰め物パスタというものを食べたときには、やはり驚くしかなかった。
ティラミスやパンナコッタも何回も食べた。
カプチーノも一日に何杯も飲んだ。
バールと呼ばれる喫茶店で、それを飲んでくだらない話をするのは楽しいものだった。

ローマの休日を気取って、スペイン広場でジェラートを食べようとも考えたが、今はどんな理由かは知らないがそれは禁止されていた。
何より寒くて外でそれを食べる気にはなれない。
私たちは、ジェラート屋のカウンターで、生クリームののっかったジェラートを食べた。
それはやはりおいしいものだった。

真実の口は、教会の一角にある、海神トリトーネの顔をした大きな円盤だ。
「嘘つきはかまれる」という言い伝えが有名なそれは、ローマの休日で、アン王女がその身分を隠しているため、どきどきしながら手を入れる場面が有名である。
しかし、今はただの写真スポットで、観光客が列をなして記念撮影をしていた。
私もやはりエミと記念撮影をした。
自分一人なら絶対にそんなことはしなかっただろうが、エミとするそれは楽しいものだった。

トレヴィの泉にも足を運んだ。
ここには、もう日本人を含む、もう数えきれない観光客でごったがえしていた。
噴水の前には、トリトンなど神話の人物の彫刻が施されていて、その泉に皆がコインを背中越しに投げる。
1枚投げるとローマに戻ることができ、2枚投げると恋が成就する。
3枚投げると嫌いな人と別れることができ、4枚投げると新しい恋人ができると言われている。
ただし、3枚目までは言い伝えらしいが、4枚目は、ローマ市の財政が苦しく、資金集めためにローマ市が新しい願いごとをつくったらしい。
この調子だと、5枚目の願いごとができるのも、時間の問題かもしれない。
私はエミがコインを4枚投げたらどうしようかなんて、考えていた。
結局二人で2枚のコインを投げた。

ここで私は服も新たにいくつか買った。
ズボンは破れたものを縫ってはいていたし、ウインドブレーカーも埃で汚れていた。

いかにも長旅の疲れを現すような格好だった。
もともと私はそういうのを出すのは好きではない。
だから髭も毎日剃るようにしていたし、シャワーも浴びれるところでは毎日浴びていた。
洗濯もこまめにやるほうだと思う。
とはいっても、やはり私の格好はイタリアではなんとなく浮いてしまう。
それにエミと歩くのに、もっと小奇麗な格好をしたかった。
そこでズボンにセーター、ウインドブレーカーを購入したかったが、その値段に私が迷っていると、彼女が、
『ちょっとおそいけど、誕生日プレゼント』
と言ってお金を払ってくれた。

ローマにはいくつも噴水があり、その周りは憩いの広場になっている。
たいていの広場には、そこで絵描きが自分の絵を売っていたりする。
また、観光客の似顔絵を描くことを商売にしている人も多い。
どこの広場かは忘れてしまったが、エミは似顔絵を描いてもらった。
幾人かの似顔絵描きをまわり、一番タッチが柔らかく、それでいて写実的な人を選んだ。
そこにはイタリア、ローマと書かれた後に、日付も入れてくれた。
自分へのお土産らしい。
私はそのために3000円近いお金を払うことに躊躇したが、結局私も描いてもらった。
実物よりだいぶ若く仕上がったような気がしたが、いままで自分への土産などほとんど買ったことがないので、たまにはいいだろうと思った。
それを見て、いつかローマとエミを思い出すのだろう。

そんなふうにちょっとお金を出し、エミと過ごしたローマは楽しかった。

ローマの駅から空港までは列車で50分くらいかかった。
日はもう暮れかかっていた。
その列車の中でエミと何を話しただろう。
よく覚えていない。
覚えていないということは、どうでもいいような話をしていたのだろう。
ただ、
『お互いの親とか、送り出してくれた共通の友人になんて言おうか?』
なんて話をしていたのは覚えている。
不思議とその話をしたときには悲壮感みたいなものはなく、普通の会話をするように話をした。

空港に着きエミはチェックインを済ませた。
その後のフライトまでの時間を、空港が見渡せる展望喫茶店でカプチーノを飲んで時間をつぶした。
このときに話したこともやはり他愛のないことだ。
こんなときにはどんな話をしたらいいのだろうか。
気のきいた言葉の一つも思い付かない。

『あの飛行機かな?』
なんて、エミは闇の中に浮かぶ飛行機を指差していた。

やがて時間が来た。
エミをゲートまで送る。
ゲートまではわずか数分歩いただけで着いてしまう。
それが何故か悔しかった。
もっともっと時間が欲しかった。
もっと巨大な空港だったらよかったのにと、理不尽なことを思った。

ゲートの前に立ち私たちはそこで最後の別れをした。
そして、イタリア人がそうするようにキスを交わした。
何度も何度も・・・

『来てくれてありがとう』
『じゃあ行くね、気をつけてね』

そんな言葉を交わした。
何でもっとましな言葉をかけられなかったんだろう。

エミは最後に笑顔を残して、ゲートの中に消えていった。
彼女の目からは涙がこぼれそうだったが、その顔はやはり微笑んでいた。

私はエミがゲートに入るのを見ていた。
そして、二度と私のところには戻らず、遠いところに行ってしまうことを、目の前で確認してしまって、涙が出てきた。
それはもう、どうにも止められなくて、後から後から頬をつたった。
自分が人前で泣くことなんて絶対にないと思っていた。
私は一人で歩きだしたが、涙はもう自分の意志とは無関係に止まることはなかった。

私にはまだやることがあった。
再び展望喫茶店に戻ってカプチーノを注文して、窓際の席に座った。
これが映画やドラマだと彼女の乗った飛行機が画面いっぱいに映し出され、私はそれを見つめることになるのだろう。
しかし、航空会社とフライトの時刻はわかっていても、同じ時間帯に飛び立つ飛行機はいくつかあって、まして、フライトの時刻が多少遅れることも珍しくはない。
だから結局エミの乗った飛行機がどれなのかはわからなかった。
しかし、私は席を立てなかった。
立ってはいけないと思った。
私はどれがエミの乗った飛行機かわからないまま、それを見ていた。
暗闇のなかを飛び立つその灯かりを、一つ一つ見送り続けた。
それしかできなかった。
それがエミへの最後の気持ちの伝え方だった。

私はエミのしてくれた水平線の話を思い出した。
結局そこまで行かないと、その先に何があるのかはわからない。
わからないまま、何かを選んで進んでいくしかない。
今までもそうだったし、これからもそうだろう。

エミの最後の笑顔が頭の中でぐるぐると回る。
エミが最後に笑ったのは、私がエミの笑顔を思い出せるようにだったことを、私は後日エミからのメールで知った。

私はこれを書いている今でも、エミの最後の笑顔を鮮明に思い出すことができる。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

彼女の答え

ギリシャへは船で入った。
セルチュクから、今まで来た道を少し戻るようにイズミールまで行き、そこでバスを乗り換えチェシメという港街まで行った。

初めて見るエーゲ海の水はエメラドグリーンだった。
きっと今が夏で、雲ひとつない空だったらもっと、気分も晴れただろう。
でも、空には青一つ見えなくて、ときおり青空が顔を覗かせた思った途端に雨が降っふったりする。
それでも海は濁らないで美しい。
なぜだかそれは残酷だ。
それは一方が変わり続けるのに、もう一方が変わらないからかもしれない。

そこで1泊し、そこから1時間ほど高速船に揺られ、ギリシャのヒオス島に着いた。
たったの1時間しか乗らないのに40ドルもかかり、納得のいかない料金だったが、どうもボラれたわけではないようだった。
そのヒオス島で半日ほど時間をつぶし、その夜アテネ近くの港街、ピレウス行きのフェリーに乗った。
こちらは一晩揺られても22ユーロ(約2800円)だった。

ピレウスはアテネからバスで30分ほどのところにある街だが、すぐにアテネに行くことをやめ、そこで1泊することにした。
港から15分ほど歩いて目的の宿に着き、3時間ほど眠りについた。
昨日のフェリーのシートで、眠れなかったわけではないが、やはり移動が続いて疲れていた。

目を覚ますと、エミもまだベッドにいた。
しかしやはり目を覚ましていた。
だいぶ前に起きて、二人分のサンドイッチを買ってきてくれていた。
そのあと、再びベッドに入ったようだ。

私がそのサンドイッチを食べ始めると
『私、熱があるかもしれない』
とエミが言う。
額と首に手をあてると、たしかに熱い。
そのあつさは、尋常ではないものだった。
私はバックパックの奥から体温計を引っ張り出し、彼女に渡した。
そして、5分ほどして彼女からそれを受け取ると、その目盛りが39度を超えていたことに、慌てた。
これは病院に連れて行ったほうがいいかもしれない。
そう考えた。

しかしエミは
『大丈夫。私は熱に強いから』
と言って、薬を飲んで寝るという。
確かに、友人の看護婦から餞別にもらった薬を飲むその様子は、とても39度以上の熱がある病人には見えなかった。
とにかく様子を見ることにして、一日彼女は眠った。
フェリーのなかには、たくさんの人がいて、すなわちたくさんの菌がその空間に存在するわけだから、それで風邪を移されたのかもしれない。
夜には携帯用のガソリンコンロでお粥をつくり、それをエミに食べさせた。
そしてエミは薬を飲んで再び眠りについた。

次の日、熱は37度まで下がった。
きっと薬が効いたのだろう。
まだ安静にしていた方がいいことは、わかっていたが、私たちはアテネに移動した。

もし、病院に行くことになれば、ピレウスよりも、やはりアテネにいたほうがいいだろうと考えたからだ。
アテネ行きの市バスのなかで、エミは以外なほど元気だった。
やっと憧れの地に来たという思いもあったのかもしれない。
バスに乗るのは簡単だったが、目的のシンタグマ広場に行くのはどこで降りたらいいかわからなかった。
まわりの人に聞いたりしたが、英語が通じない。
困っていると、結局終点がシンタグマ広場だった。
そして、安宿には変わりないが、エミの体調を考え、トイレとシャワーの付いた部屋にチェックインした。

その日、
『ずっとホテルにいても気が滅入る』
という彼女を連れて、アテネの街を歩いてみた。
もうそこは完璧なヨーロッパだった。
まずそれを感じたのは若い女性のファッションだった。
体の線が出るジーンズをはき、ヒールやブーツで歩いている。
それは洗練されていると感じた。
物価もトルコとは比べ物にならないくらい高い。
そして何よりヨーロッパを感じるのは、そこに暮らす人たちだった。
カメラをぶらさげて歩いて、観光客だって一目でわかっても、アジアのような客引きや、あるいは何かを企んでいる輩や、ただ暇で興味があって話し掛ける、そういう人に話し掛けられることはまずなかった。
それは冬季という理由もあるのだろうが、それにしても少ない。
もちろん一人もいなかったわけではないが、そこにはアジアのような強引さも、陽気さも感じられなかった。
みんな、日本人なんか見慣れているかのようだった。

もちろん、別に彼らが冷たいわけではない。
こちらから何かをたずねれば親切に教えてくれる。
しかし彼らから話し掛けてくることが、今まで私の通過した地域と比べるとはるかに少ない。
そういう輩の多かった時には、それで疲れることもないではないかったが、ここに来ると何故かそれが懐かしく、そして今の状況が少し寂しく感じる。
それはきっとわがままな話だろうが、そう思った。
とにかく、もう、そういう地域に入ったのだ。

シンタグマ広場の近くに、無名戦士の碑というのがある。
そこには微動だにしない二人の衛兵がそれを守っている。
その前がちょっとした広場になっていて、軽く100羽をこえるハトが群れていた。

そこへ行くと、ハトの餌をビニールに入れて持ち歩いているおじさんが寄ってきて、
『餌はいらないか?』
と言う。
ただだという。
てっきり観光客にハトの餌を売るのが商売だと思っていたので、なんとなく不思議な思いで手のひらにそれをもらう。
すると、あっというまにハトが飛んできて、腕や肩、頭にまでハトがとまり、餌をつまんでいく。
それは、ハトがかわいいと思う感情を通り越して、少し恐かった。

するとその中年のおじさんは、今度はインスタントカメラを取り出し、
『写真はどうだ?』
と言う。
なるほど、ハトに囲まれたその様子を写真に撮って渡す。
それが商売なのだ。
私たちは、それがいくらなのかは聞かなかったが、写真はことわった。

その近くに大きな公園があり、エミの具合もだいぶ良さそうなので、そのまま行ってみることにした。
それはちょっとした森林公園になっていた。
小さな動物園と言っていいのかどうかわからないようなそれがあり、いくつかの鳥が檻のなかにいた。
孔雀が羽を広げて求愛している。
他にも蛍光色の名前のわからない、おそらくは南国の鳥が何種類かいた。
しかし、寒さのせいか、あまり元気ではない。
冬の動物園はどこか悲しい。

近くに池があり、そこにはアヒルが泳いでいる。
老女がパンを投げると、そこにはアヒルの群れができる。
そのパンを取ることができるのは、たった一羽のアヒルで、そのパンを取ったアヒルはそれを一気に飲み込むことができないらしく、まずは口にくわえたまま、ひょこひょこと走って逃げる。
でないとほかのアヒルが、そのアヒルの口もとからパンを奪ってしまうのだ。
少し離れたところで周りの安全を確かめてからアヒルはそれを食べる。
そして別のところではまた老女の投げたパンをめぐって、アヒルが群れていた。

私は老女を見ていた。
60歳くらいだろうか。
きっと娘や息子たちはとっくに巣立って、今は自分の時間を楽しんでいる。
パン屋で、前日に焼いたいらないパンをもらい、そこに毎日足を運んで、アヒルにパンをやるのが日課であり、彼女の楽しみだ。
そんなことを無責任に想像した。

老女は私に気づいたので、軽く会釈をし、老女もまたにっこり笑った。
私は、
『写真を撮らせてほしい』
ということを身振り手振りで伝えたが、
『それはだめよ』
と笑いながら答えてくれた。
そして、私たちほうへ近づいてきて、
『あとはあなたたちでやってね』
と言って、残りのパンを手渡して消えていった。

私とエミはそれを受け取り、パンを投げた。
遠くに投げなかったのがいけなかったのだろうか。
あるいは、ビニールのなかからパンを出し、それをアヒルに見せてしまったのがいけなかったのだろうか。
池に棲息するすべてのアヒルが、と書けば少々大げさかもしれないが、私たちはアヒルの大群に囲まれてしまった。
アヒルの足は池から上がり濡れていて、そこに泥がついている。
それが私とエミのズボンの裾や靴に見事について、それでもアヒルはパンを求め、私たちの膝や手をつついてくる。
私たちは泥だらけになってしまった。

宿に帰る道でエミは、
『ひどいことになっちゃったね』
と言った。
でもそれは決してひどい目に合ったような口ぶりではなく、やたらと楽しそうだった。

アテネはエミにとって憧れの地だった。
大学の卒業旅行でアテネに行こうとしたが、航空券のあまりの高さに断念したらしい。
かつては建築の道を志望していたので、ギリシャの古代建築や遺跡に興味を持っていた。

エミの体が回復してから、パルテノン神殿で有名なアクロポリスの丘や、いくつかの博物館や遺跡を一緒に歩いた。
エミはたんねんにそれを見てまわり、それなりには満足したようだった。
しかし、
『期待が大きすぎた』
とも話していた。
それに遺跡はともかく、街そのものはあんまり好きにはなれないとも言っていた。
何より季節が悪かった。
日本と同じくらい寒くて、雨も多かった。
それはいつ雪に変わってもおかしくないくらいだった。
いっそのこと、意地悪く降る雨よりは、雪になったほうがまだいいのにと思った。
アクロポリスに行った日も雨だった。
またエミが楽しみにしていた、国立考古学博物館が、改装工事中で閉館していたのもその理由の一つかもしれない。

私はといえば、遺跡や博物館よりも、エミと一緒にハトやアヒルに囲まれ、『ひどいことになっちゃったね』と笑いながら話したことの方が、記憶の中で、遥かにいきいきと生き続けている。

私はこのアテネで30歳を迎えた。
10年前は自分が30歳になることなど考えたこともなかった。
それはいつ訪れるかもわからない、遠い未来で、まるで他人事だった。
5年前は30歳までにはという思いがあった。
『30歳までにはもう一度旅をしたい』
そう思っていた。
その思いは何度も自分の中でかき消されては、またどこからか降ってわいたように現れて、ときには忘れていたが、やはり常に心のどこかには確実に存在していた。
そしてこれが最後のチャンスだと、これが最後の旅だと決め、旅に出た。
それは夢が叶った、希望が実現したともいえる。
しかし1年前、エミと婚約したときには、こんな気持ちで誕生日を迎えるなんて、考えてもいなかった。

今、自分にとって、旅というものが一体どれほどの価値があるのかと考えてしまう。

少なくとも、将来を一緒に過ごすと決めた人を置き去りにしてまで、するほどの意味があったのだろうかと。
いや、うまくいっていればそんなことは考えなかっただろう。
勝手なものだ。

誕生日の夜、友人から何通かメールがあった。
旅先にいると、そうした日本との繋がりはなおさらありがたく感じる。
その中に私とエミの微妙な関係を知った、旅先で会った友人からのメールがあった。

今まで私は、日本で待つ側と、旅に行く側の時間の流れ方の違いしか考えたことがなかった。
エミは今までと同じように仕事をこなし、時には友人と遊び、同じような事を繰り返す日常のなかで8ヶ月を待っていた。
しかし私は、やはり日本の生活と比べれば、刺激にあふれて、いきいきとした8ヶ月を過ごした。
それはきっと時間の感じ方というのが違う。

しかし彼のメールは、私の選んだことのその意味を、もっと深く考えるきっかけを与えてくれた。
それは彼女に「1人で待っていて欲しい」ということと、彼女が私に「旅に行かないでくれ」と求めることは同じ意味なのではないかというものだった。
つまり、私が何年も前から考え、憧れたつづけた旅というものを、諦めることと同じくらいのつらさを、彼女は味わったのではないかと。
もし旅を諦めたら、自分はどうなっていただろうか。
やはり苦しんだろう。
そして、やがてそれはエミをも苦しめることになっただろう。

私はそのメールを読み、何か、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないという思いにかられた。

別にそのメールは私を責めるものではなかった。
私はそのメールで救われたと思った。
彼のその言葉で、自分の選択したことの意味を正確に理解できたと思った。
そして、日本に残されたエミがどんなふうに8ヶ月を過ごしたか、わかる気がした。

エミは2月11日のイスタンブールから成田のチケットで帰国するだろう。
そのことはすでにわかってしまった。
私が30歳を迎えた後、正確にいつかはわからないが、エミは、
『私、多分、帰る』
と言った。
それはもう、私にはどうにもできないことだった。
エミにとっての憧れの地に来ても、やはり何も起こらなかった。
人の気持ちなんて、どうやったって自由になるものではない。
しかし、私自身の気持ちもエミには届いたはずだった。
その上での、彼女の答えだった。
しかし飛行機の日までは、まだ時間はある。

私たちはアテネの街で時間を持て余していた。
遺跡や博物館を一通り見てしまうと、もうやることがなかった。
別にただあてもなく、街を歩いても、何か面白いことが起きるでもなく、ただ寒さに体を丸くするだけだった。
それは私にとっては、ただ寒いというよりは、街を歩けば何かが起こる地域から、そうではない地域に入ったということを肌で感じるものだった。
はやくこの街から出たいと思っていた。
もうどこでもよかった。
ただ、エミと最後の時間を笑顔で過ごせるところに行きたかった。
それが最後の望みだった。

『イタリアでジェラートを食べる』
私たちはそんなどうしようもなくくだらない理由で、イタリアに行くことにした。
でもそんなふうに旅をするのは魅力的だった。

ローマで最後の時を過ごし、そしてローマで別れるというのも悪くはない。
私はそんなふうに考えていた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。