環境

岳志の提案に、曖昧な調子で智は頷いた。智は、山登りなどはあまり好きではなく、むしろ温泉に浸かってのんびり景色でも眺めている方が性に合っているのだ。

しばらくぼんやりとレストランで時間を潰していると、ゲストハウスの従業員が、部屋が空いたということを二人に伝えに来た。案内されたその部屋は、空く予定だった筈の景色のいい三階の部屋ではなく、二部屋とも、一階の隅の方のいかにも日当たりの悪そうな部屋だった。しかし、もう今さら文句を言うのも面倒臭かったので、二人は、仕方なくそこにチェックインすることにした。

「やっぱりこんな山奥まで来ても、インド人はインド人なんですね」

くたびれた様子で智はそう言った。

「まあ、そうなのかもな。いくら土地が変わったと言っても、人間、そんなに変わるものではないんだろうな」

いささか疲れた様子で岳志もそれに同意した。

智は、南インドの人達のことを思い返した。どうして南インドに住む人達はみんな素朴で親切な人ばかりだったのだろう? もちろんそれは、智に関わってきた人に限られるので一概にそうだとは言い切れないかも知れないが、少なくとも智の中に残っている印象では、そうである。やはり、デリーやラジャスタンに住んでいるインド人達は狡猾で常によからぬことばかりを企んでいて、反対に、南インドに住む人達は、どの人も皆、親切でいい人ばかりだということに、智の中ではなっている。このような目に合えば合う程、その思いは強くなっていく。マナリーに来るまでのバスの車掌然り。このゲストハウスの従業員然り。やはり、環境がそうさせるのだろうか。確かに南インドは、気候も良く、食料も豊富で、市場には色とりどりの果物が山のように積み上げられており、まるでそれは豊かな東南アジアの市場のようだった。そんな環境では、食料が欠乏するという焦燥感から来る、他人に対する競争意識など生まれてくる筈もなく、皆、余裕があって他人に優しい。反対にラジャスタンのような砂漠地域は、景色を眺めているだけで、自分の存在を維持していくことがいかに大変なことであるかが容易く想像できてしまうような土地なので、そんな所ではやはり、皆、自分のことで精一杯で、他人に対する余裕のようなものは生まれて来ないのかも知れなかった。

智は、そんな風に人間の性質というものを自分なりに分析してみた。そしてふいに、物質的にかなり余裕のある智の故郷、日本を振り返ってみた。果たして日本という国は、満たされた南インドのように、穏やかで親切な人達ばかりの住む良い国であるだろうか。心の中で智は、キッパリとそれを否定した。そしてむしろ憎悪を込めながら、祖国である日本を思い描いた。

――― いいや、決してそうではない。そんな国ではないのだ。もし日本がそんなにいい国だとしたら、俺が今、わざわざこんな所にいる理由など何も無いのだ。北インドのような露骨さが人々にある訳ではないが、その反面、限りない無関心が人々の心に広まりきっている。表面上は、穏やかで、いかにも人や社会のことを気遣っているようだが、その裏では、明らかに他人や社会、はたまた、自分の人生までをもニヒリスティックに冷笑し切っている。そんな人間ばかりだ。それならばまだ、デリーやラジャスタンのインド人の方が分かりやすい分マシなのかも知れない。だとしたら、本当の意味での豊かさとは、本当の意味での豊かな国とは、一体どういう国のことを言うのだろう…… ―――   

トレッカーぐらい

智は、何故、信心深いチベットの民衆やヒンドゥーの修行僧達が身を危険に晒してまで聖なる地を目指すのかが、何となく分かるような気がした。恐らく智も、彼ら同様、何かの存在を感じとっている。その何かとは、橋の下を流れる激しい川の流れや、パールバティ・バレイと呼ばれるこの谷を形作っている緑の生い茂る深い山々、更にはその向こうで鋭い輝きを放ち続ける鋭利なヒマラヤの氷河など、それら全てにわたってあまねく棲みついているもので、目に見えない何かを語りかけてくるもの、また、目に見えない何かを存在させしめるものであった。それは、常に神秘的な波長を発し、智は、それを敏感にキャッチするその度に、自分が現実のものとは違うどこか特別な世界にいるような気になるのだった。智は、その”神秘的な波長”のことを「神聖さ」と呼んでいた。智は、目の前に広がる全てのものに「神聖さ」を感じていたのだ。恐らくそれは程度こそ違えど、チベットの民やヒンドゥーの修行僧達が感じているものと同質のものなのだろう。人間の中に眠る共通の感覚が、それら全てを神聖なものとして感じるのだ。それに気が付いた時、智は、彼らのような全く異質の人間と、どこかで分かり合えたような気がしてとても嬉しく思った。そしてそんな機会を与えてくれたこの土地に感謝し、更に、決して人間に対して優しいばかりではない厳格な父のようなこの大自然に敬意を表そうと、軽く手を握り合わせた。智は、そうしながら、透明でストイックな山の空気の中で大きく息を吸い込んだ。

「智、これを渡った所がマニカランの中心地だ」

橋を渡りながら川の対岸を岳志は指差した。差されたその先には、川沿いに建物が何軒か建っていて、また、山の斜面にも人家らしい建物がポツポツと点在していた。町の奥の方には、丸屋根の寺院のような建物もあった。恐らくあれが話に聞いていたシーク教の寺院なのだろう。そしてそこで温泉に入れるのだ。自然が豊かでどこか神秘的な匂いのするこんな町で温泉に入るのは、さぞかし気持のいいことなんだろうな、と智は、一人、期待に胸膨らませた。

智達は、何軒かゲストハウスを見て回った後、川沿いに建てられた三階建てぐらいの比較的大きな宿にチェックインすることにした。まだシーズンには少し早いのだが、ゲストハウスはどこもほぼ満員状態で、ようやく見つけたこの場所も、もうすぐチェックアウトする客がいるから、ということで少し待たされることになったのだ。何故か部屋をシェアすることを岳志が嫌ったため、二部屋分空いている所を探さねばならず、そのせいでなかなか見つかりにくかったというのも、理由としてあった。しかしここでなら、もう少し待てば空くらしいので、智達は、荷物を置いてゲストハウスに併設しているレストランで一息つくことにした。

レストランには、赤毛でやけに色の白いヒッピー然とした欧米人バックパッカーが、空ろな眼差しで、一人、外の景色を眺めながらジョイントを吹かしていた。智達が横を通り過ぎるとき、彼は、薄らと微笑みながら、ハイ、と声をかけてきたが、その後は智達には大して興味もない様子で、再び太陽の輝く表の景色に視線を戻した。智と岳志は、お互い顔を見合わせながら、奥のテーブルに腰を下ろした。

「あいつ、かなりイッちゃってますよね」
「ああ。もうこの辺りに来る旅行者っていったらああいう奴か、トレッカーぐらいだもんな」
「そうですよね。俺なんか山登りしないから分からないですけど、する人にとってはこの辺は、かなりいいスポットが目白押しなんでしょうね」
「そう思うよ。俺もトレッキングはしないから分かんないけど。でも、俺らでもハイキングっぽいノリで登って行ける所もあるから、落ち着いたらちょっと行って見ようよ。少し登っていくだけで凄くいい景色が見られるから」

普通の行動

「アナン、気持ちはありがたいんだけど、ちょっと他を探すことにするよ。まだそんなにツーリストが来てる訳でもなさそうだから、宿も空いてるだろう?」

岳志がそう言うと、アナンは、途端に悲しそうな顔をして、ホワイ?、ホワイ・ノット?、と大きな声で叫びながら両手を広げた。

「どうして? 今は少しごちゃごちゃしてるけど、こんなのすぐに片付けられるよ。ここに泊まっていけばいいじゃないか」
「いや、そうじゃなくってさ、もしここに泊まるとなったら、俺達、一緒のベッドで寝ることになるじゃない?」

そう言って岳志が智の方にちらりと目をやると、アナンは、不思議そうな顔をして、どうしていけないんだ? 君達は友達だろう? 何の問題があるんだ? とどうしても納得のいかない様子だった。どうもインド人達にとっては、例え男同士といえども友達同士であるのなら、同じベッドで寝たりするのは全く抵抗が無いようだ。

これまでインドを旅してきて、男同士が町中で手を繋いで歩いている所を智は良く目撃していた。最初の内は、きっと彼らは同性愛者なのだろうと思って見ていたのだが、その後あまりにも頻繁にそんな光景を見かけるので、そうではなく、それはごく普通の行動なのだと智は思うに至った。そして更には映画館に行った時、目の前の男達が肩を組み頬を寄せ合って映画を鑑賞しているのを発見し、ああ、これは友情の証なのだ、ということを改めて確信したのだった。

だから、アナンが不思議そうに岳志にそう言う気持ちも、分からない訳ではなかった。分からない訳ではなかったが、日本人の智達にとって例え友達同士といえども同じ布団で数日間を過ごすことにはやはり抵抗がある。岳志と智は、アナンを気遣って丁寧に申し出を断ると、また後で来るよ、と二人に言い置いて、とりあえず町の方へと宿探しに出かけた。取り残されたアナンは、少し寂しそうな顔をして、しょんぼりと岳志と智の二人を見送った。

マニカラン・コーヒーショップの坂を越えて少し歩くと、吊り橋のような大きな橋の前に出た。橋の上には様々な色彩のタルチョがはためいており、人や牛がその橋を渡っている所だった。タルチョとは、チベット語の経文が書かれた小さな布のことで、それが所々で見られるこの村は、この地域がチベット文化圏に入りつつあることを示している。実際、橋を渡っている人達の中にも、明らかにチベット人だと分かるような格好をしている人達が何人かいて、人々の顔付きも、この町に入ってから随分と違ったものになっている。

青い空にタルチョのはためくその光景を眺めながら、智は、自然とチベットのことを思い出していた。そして山岳地帯特有のピリッと張りつめた空気を、少し緊張しながら肌に感じていた。

三年間

智の座っているすぐ横には窓があり、そこから外を眺めると、この小屋が谷の斜面の上に建てられていることが分かる。すぐ真下は急な坂になっていて、それを下っていくと川が結構激しい勢いで流れている。大きな岩がごつごつとあちらこちらに散在し、ここが川の上流であるということを物語っていた。

この川を下っていけばどこかでガンガーに繋がっているのかな、智は何となくそんな風に想像してみた。

「あっ、アナンが帰ってきたみたいだわ」

チャイを飲んでいたプレマが、そのグラスをテーブルに置いて窓の外を指差した。智の正面にある窓の向こうには、俯き加減で細い道をとぼとぼと歩いてくる男の姿があった。岳志は、目を凝らして窓の外を覗き込んでいる。

「あれがアナンなんですか?」

智がそう尋ねると、岳志は智の方には振り返らずに、ああ……、そうだな、と、確かめるようにそう言った。

しばらくして何も知らないアナンが、店の中に入って来てそこに岳志の姿を認めると、途端に表情を輝かせ、タケー!、と大きな声で叫んで岳志の方に走り寄った。智は、またもや吹き出しそうになったが、今度は懸命にそれをこらえた。

アナンは、岳志の肩に手を回し、これまでの三年間という長い時間を取り戻そうとでもするかのように物凄い勢いで岳志に向かって話しかけた。岳志は、アナンのその様子に気圧され気味になりながらも、アナンの一言一言に丁寧に受け答えをしていったのだが、一旦話題が刑務所の中での話に及ぶと、やはり相当辛い思いをしたのだろう、アナンは、途端に沈んだ表情になって口数も少なくなった。岳志は、アナンのそんな心情を敏感に読み取って、もうそれ以上刑務所の話に触れることはなかった。

思い出話が一段落すると、岳志は智をアナンに紹介した。人懐っこい微笑みを表情に湛えながらアナンは智の手を握った。智には、彼が刑務所に入らねばならないような悪人にはとても見えなかった。愛想が良くって人当たりのいい、気のいい青年にしか見えない。そしてマニカランに来る前に、岳志がアナンについて、心配ない、と言っていたことは、本当だったな、と智は改めて思い返した。

アナンは、何とか岳志と智の力になりたいらしく、一生懸命二人の世話を焼こうとするのだが、智達は、これといって必要な物も何も無く、あるとすればチャラスを手に入れることぐらいで、あまりアナンの期待には応えられそうにもなかった。アナンが言うには、チャラスの方も上質のものはやはり既に売り切れてしまっているらしく、なかなか探すのは難しそうだということだったが、心当たりが無い訳では無いようで、一度知り合いに当たってみるので少し待ってくれ、ということになった。それでもアナンはまだ、その他に何かないか、何か力になれることはないか、と喰い下がってくるので、岳志が、じゃあ、どこかにいいゲストハウスはないかと尋ねると、アナンは、両手を打って、それならここに泊まればいい、ここにも部屋があるんだよ、と岳志の手を取っていそいそと店の外へ引っぱり出した。そして案内されたその部屋は、半分地下になっている物置きのような所で、一応ベッドがあるにはあったが、それはダブルベッドだった。辺りに散らかっている物を片づけながら、すぐ整理できるから二人でここに泊まればいい、少し上で待っててくれよ、と、満面の笑みを浮かべながらアナンはそう言った。しかし、岳志と智は、お互い顔を見合わせ、これはちょっとなあ……、という風に首をかしげた。もしここに泊まろうとするのなら、必然的に智達は一緒のベッドで眠ることになる。

エネルギッシュ

山での彼女達の過酷な生活を智は想像した。今の時期は涼しくてとても過ごしやすい気候だが、この短い夏が終わればすぐに冬が来て、それこそ命がけのような日常が始まるのだろう。自分のようななまくらな人間が、このような厳しい環境での暮らしのいい所だけを金に物を言わせて楽しんでいくのが、智には随分卑怯なことのように感じられた。しかし、よくよく考えてみるとそれは、智だけに限ったことではなく、全ての旅人達に対して言い得ることかも知れなかった。もし仮にそうだとしたら、旅というのは一体何なのだろう? まるで、動物園で檻の外の安全な場所から色々な動物を眺めているようなもので、決してその人達の抱える根源的な不幸や、その他の色々な諸問題には触れることはできない。それらを理解することなど不可能なのだ。あくまでも旅人は、旅人でしかないのだ。現地の人達と旅人達との間には、絶対に超えることのできない壁がある。本質的な部分にまでは決して踏み込むことができず、いくら世界各国を巡り、色んな所へ行った気になっていたとしても、そこに住む人達のことを本当に理解することなど、絶対にできることではないのだ。もし仮に理解した気になっていたとしても、そんなのはまやかしに過ぎない。果たしてそんな旅に何か意味があるのだろうか? これから先、まだまだ続くであろう智の長い旅には、何か有意義なことの一つでも存在するのだろうか? 智は、途端に分からなくなってしまった……。

しかし、智のそんな憂鬱な思いは、プレマの弾けるような明るい笑顔によって瞬く間に吹き飛ばされてしまった。彼女はとてもエネルギッシュな人だった。見ているこっちの気分まで明るくしてしまう。そんなパワーに満ちていた。

「プレマ、アナンは?」

辺りを見回しながら岳志はプレマにそう尋ねた。

「もう帰ってくる頃だよ。タケー、上がってチャイでも飲んで待っててよ」

岳志は、ふうん、と言って頷くと、じゃあそうしよっか、と智を促して小屋の中へと入って行った。智は、どうしても、タケー、というその発音がおかしくってしょうがなかったが、吹き出しそうになるのを何とかこらえながら岳志の後に従った。

大きなテーブルが一つと、長椅子が一つだけの、小じんまりとした店内の一番奥の席に、岳志と智は向い合せで腰を下ろした。プレマは、二人を追って中に入るとそそくさと湯を沸かし、チャイを入れる準備をし始めた。

薄いグリーンに塗られた店内には大きくメニューが貼ってあり、そこには、定番の各種カレーから、ハンバーガーやサンドウィッチといった軽食に至るまで、様々なメニューが掲載されている。それを見ながら、果たしてこの中のいくつが本当に注文できるものなのだろう、と、智は疑問に思った。ひょっとしたら”各種カレー”だけではないのだろうか。チキンバーガーやベジタブルサンドウィッチといったものは、微妙に英語の綴りが間違っており、信憑性に欠けていた。果たしてそのことを一生懸命チャイを作っているプレマに尋ねてみると、案の定、それらはまだ開発中とのことだった。智は、心の中で、やっぱりな、と思うと同時に、いかにもインドらしいそのいい加減さをとても微笑ましく思った。

「アー・ユー・ハングリー?」  

チャイを運んできたプレマが智にそう尋ねた。智は、首を振って、ノー、ノー、ちょっと聞いてみたかっただけなんだ、とそれを否定した。プレマは、OK、とにっこり微笑みながら、岳志の隣に腰を下ろした。

山小屋のような

「ああ、あのちっちゃな女の子? ハハハハハ、だからそんな子供だけだって、怖がってるのはさ、ハハハ、それより智、その膝ガクガクすんの何とかなんないの?」

智は、何とかそれを止めようと必死に膝を押さえていたのだがどうしても止まりそうになかったので、座れそうな場所をいち早く探すとそこに腰を下ろした。そして、恨めしそうな表情で岳志を見つめた。岳志は、そんな智の様子には気にも留めずに、ペットボトルのミネラルウォーターを喉を鳴らしながらゴクゴクと飲み干した。そして袖口で口を拭うと、智の目の前にしゃがみ込んだ。

「どう? 歩ける?」
「ええ……、まあ……」

先程岳志に大笑いされたことを根に持って、智はちょっと不満そうにそう言ったのだが、そういった意図は岳志には全く伝わらなかったらしく、岳志は、よし、じゃあ行こうか、と勢い良く智の手を引いて立ち上がらせた。智は、岳志の突然のその行動に面喰らって立ち上がるという動作を全く行わなかったのだが、瞬発力のある、強い岳志の腕力が智を強引に立ち上がらせた。岳志の華奢な体からは想像もつかないその力強さに、智は少なからず驚かされた。きっと線は細いのだが、衣服の下に隠された肉体は、無駄の無い引き締まった筋肉で覆われているに違いない、心の中で智は秘かにそう思った。

バスが止まって坂を少し上った所に、「マニカラン・コーヒーショップ」と書かれた看板の下がっている山小屋のような小さなレストランがあった。サリーとは少し違うこの地域の民族衣装を身にまとったインド人女性が、その入り口の所で何か作業をしていた。岳志は、彼女を見つけると走り寄って声をかけた。するとその女性は、岳志を見て大げさに驚いた後、とても嬉しそうに岳志に抱きついた。

「タケー!、タケー!」と言いながら、何度も岳志の肩を叩いている。

恐らく岳志という名前が、ヒンドゥー流に訛って発音するとそうなるのだろう。アクセントが”タケー”の”ケー”の部分にあるので何となくそれが智には滑稽に感じられ、思わず吹き出してしまった。ニソニソと笑っていると、岳志が、何だよ、という風に智の方に視線を向けるので、智は、さっきのお返しだと言わんばかりに彼女の真似をして、タケー、タケー、と言って岳志をからかった。岳志は苦々しい顔つきで、うるさいよ、と智を制した。

しばらくの間、岳志と彼女との熱い抱擁が続くと、岳志はお互いにお互いを紹介した。

「智、彼女はプレマ。アナンの奥さん。プレマ、こっちは智。マナリーで出会ったジャパニーズツーリストだよ」

岳志がそう言うと、プレマは、にっこりと微笑みながら、ナイストゥーミーテュー、と言って智の手を握った。智も、ナイストゥーミーテュー、とプレマの手を握り返した。彼女の手は、いかにも働いている人のそれらしく、女性でありながらかなりごつごつとしたものだった。

生きた心地

智と岳志は、クルまで行った後、その少し南に行った所にある小さな町からマニカラン行きのバスに乗ろうとしたのだが、それは既に満員になっており、屋根の上に乗る羽目になった。智は、長く旅をしていたが、バスの屋根に乗るのは初めてだったので、少し浮かれた気分になった。何故なら、バックパックを背負ってアジアを旅する者として、バスの屋根に乗って移動をするという、いかにもバックパッカー的な旅のスタイルに、一種の憧れのようなものをずっと抱いていたからだった。

バスの上にはインド人達に混じって、いかにもチャラス目的というのが見え見えな欧米人バックパッカー達が何人かいた。梯子を上ってきた智達と目が会うと、ぼんやりとした目でにっこりと微笑みかけてくる。智も、思わずそれに釣られて微笑み返した。

しばらくして屋根の上も満席となると、ようやくバスは走り出す。細く曲がりくねった山道を、バスは、結構なスピードで軽快に走っていく。辺りは見渡す限りの絶景で、眼下には、うっそうとした森を切り裂くように、深い谷が遥か下方にまで及んでいる。もちろん道は未舗装で、ガードレールなんていう物は無い。屋根の上にいる智達は、バスがカーブを曲がる度、右へ左へふらふら揺れた。さっきまで威勢の良かった智であったが、いざそんな目に合ってみるとまるで生きた心地がしなかった。しかし先程の欧米人達は、そんな智を後目に嬌声をあげながら喜んで騒いでいる。岳志は岳志で、乗り馴れてでもいるのだろうか慌てることもなく、全く落ち着き払った様子で目の前に広がっていく雄大な景色を楽しんでいた。他のインド人達といえば更に何でもない様子で、中には居眠りまでしている老人の姿もあった。智は、そんな彼らの様子に驚くのを通り越して感心してしまい、ひょっとしたらこんなに怖がっているのは自分だけなのではないだろうか、と疑問を感じて辺りを見回すと、インド人の小さな女の子が泣き出さんばかりの表情で必死に母親にしがみついていた。どうやら怖がっているのは智と彼女の二人だけのようで、智は思わず苦笑してしまった。その後の智は、ある時は見ず知らずのインド人の腕に掴まり、又ある時は前方から迫り来る木の枝をよけながら、決死の覚悟で危険なバスの旅を乗り切った。マニカランに着いて地上に立った時には、膝ががくがく震えて思わず倒れそうになった程だった。

「大丈夫? サトシ」 

岳志が、笑いながら智のその様を見て言った。

「大丈夫じゃないですよ……。岳志さん、よく平気でしたよねえ」

智は、何とか踏んばろうと揺れる膝を押さえながらそう言った。

「あんなの別に怖くないじゃん。だって誰も怖がってる人なんていなかっただろ?」

智のその姿を見て、岳志は、吹き出しそうになるのを必死にこらえながらそう言った。智は、岳志のそんな様子を非難のこもった視線で見つめ返した。

「いましたよ」
「本当?」

思わず岳志は聞き返す。

「いましたよ。女の子が」

智がそう言うと、岳志は、少し考えるように思いを巡らせ、やがて何かを思い出したかのように再び大声で笑いだした。

マニカラン

「オオウ。タケシサン、スゴイ!」

アリが、大袈裟に手を叩きながらそう言った。岳志は、鼻と口から一気に煙を吐き出すと、ジョイントを智に手渡した。そして呼吸を整えてからチャイを一口啜った。

「名前、何て言うの?」

智は、そのジョイントを受け取りながら、そういえばまだ自分の名前を紹介していないことに気が付き、ああ、すいません、すっかり忘れてました、智っていいます、と岳志に自己紹介をした。岳志は、智のその言葉に軽く頷くと、俺、岳志ね、よろしく、と言って右手を差し出した。智は、何となく照れながらその手を握り返した。

次の日、岳志と智はマニカランへと向かった。昨日カフェで、智がクリームを欲しがっているということをアリが岳志に伝えると、じゃあ明日行こうよ、ということになり、突然出発したのだ。

岳志は、アクセサリーなどの輸入雑貨の店を日本で営んでいて、マナリーにはもう何度も来ているそうだ。マニカランにはアナンというインド人の知り合いがいるらしく、今回は彼に会う為にインドへ訪れたという。何でもアナンは、ドラッグの売買によって警察に逮捕され、最近まで刑務所に入っていたそうだ。岳志が今回アナンと会うのは、もう三年振りのことになるらしい。それを聞いて智は、どんな恐ろしい人間と会うことになるのだろう、と、かなり不安な気持ちになったが、岳志が、心配ない、普通の奴だよ、と笑顔で言うのを聞いて、何とか気持ちを落ち着かせたのだった。

マナリーからマニカランへの道のりはバスで大体四五時間ぐらいで、まず、クルという、かつての王国の都だったこの辺りでは比較的大きな町まで行ってからバスを乗り換え、そしてパールヴァティヴァレイと呼ばれる険しく切り立った谷を眺めながら数時間山道を行く。そうやって山をいくつか越えた先がマニカランの町だ。マニカランにもマナリー同様温泉が湧いており、誰でも無料で入浴することができると言う。それを聞いて智は嬉しく思った。旅先でこうやって何度も湯舟に浸かることができるのは、何といっても有り難いことである。

智は、数日後にまた戻ってくるつもりでマナリーを発った。そして今度戻ってくる時は、オールドマナリーへ心路に会いに行こうと決めていた。もう心路と別れてからしばらく経っている。そろそろ会いに行かないと、ひょっとしたら会えないということもあり得る。—–

怪我の理由

「そうだ、サトシサン! ここから少し南に下った所にマニカランという小さな町があるんですけど、そこへ行けばまだ手に入るかも知れません! その辺りはガンジャを栽培してる人達が住んでる地域なので、その人達に会えればきっと手に入ると思いますよ。最近ここに来るようになった日本人が近いうちにマニカランへ行くって言ってましたので、サトシサンも一緒についていったらどうです? タケシサンという人なんですが、サトシサン、知りませんか?」

智は、いいや、という風に首を横に振った。

「あっ! 噂をすればほら、あれがタケシサンですよ」

そう言ってアリが指を差したその先では、長い髪を後ろで束ねた日本人が、空いている席を探すように店の中をきょろきょろと見回していた。するとすかさずアリが、彼に向かって声をかけた。

「タケシサーン、コンニチワー」

岳志は、アリに気が付くと軽く手をあげて、こちらに向かって歩いてきた。

「よう、アリ。元気?」

そう言って岳志は、アリの横の席に腰を下ろした。

「ハーイ、タケシサン。ブリブリデスヨ。ブリブリネ」

アリは、音が鳴るぐらい強く岳志の手を握った。握手をしながらアリと挨拶を交わしていた岳志は、おもむろに智の方に目をやった。岳志と目が合うと智は、少し緊張しながら微笑んで軽く会釈をした。そして岳志のことを、綺麗な目をした人だなと思った。

「どうしたの? その傷」

智の顔を覗き込みながら岳志は、まずそう言った。智は、顔の傷のことなどすっかり忘れてしまっていたので、改めて自分が怪我をしていたことを思い出した。

「ああ、これですか? これは、その……、ちょっと転んでしまって……」

自分でもかなり嘘くさい怪我の理由だなと思いつつ、智は、傷口を確かめるように顔を撫でた。目の下の辺りが腫れていて眉尻が少し切れてはいるものの、もう大分治りつつあって、そんなにひどい状態ではない。痛みも殆ど消えてしまっているのだが、それでも他人から見たらひどい怪我のように見えるのだろう。

「ふうん。大丈夫? 痛くない?」

飄々とした様子で岳志はそう言った。岳志の落ち着いたその様子と澄んだ眼差しは、それだけで岳志の送ってきたそれまでの人生を、十分に物語っていた。きっと色んな物を見、体験してきたのだろう。その瞳の奥には、それらを通して得られた様々な智恵や教訓などが潜んでいるようだった。智は、何となく岳志の涼し気なその雰囲気に惹かれ始めていた。

「ええ、大丈夫です。もう大分治っていますかから……」

智がそう言うと、岳志は薄らと微笑みを浮かべた。

アリが、横から岳志にジョイントを渡す。岳志は、器用に親指の付け根と手の平の間にジョイントを挟むと、眉間に皺を寄せて猛烈な勢いでそれを吸い込んだ。白い煙が、岳志の手と唇の間からもうもうと吐き出され、一瞬の内にその場にいた三人は煙によって包まれた。

収穫

「サトシサン、サトシサン」

アリの呼び掛けに智は再び我に返った。そして今、自分が、チャラスとは全く関係ないことを考え始めていたことに、改めて気が付かされた。

「ああ、ごめんごめん。これ、やっぱり凄いよ。こんなにいいチャラスは初めてだ。ひょっとしたら昨日のも、ケタミンのせいばかりじゃなくってチャラスが良すぎたからなのかもしれない……。以前、知り合いとマナリーのクリームだというのをやったことがあるんだけど、こんな風にはならなかったもんなあ……」

智がそう言うと、アリは得意気に微笑んだ。

「クリームと言っても色々種類がありますからね……。マナリー産として出回っている物でも、パキスタン産だったり、ネパール産だったり、売ってる本人もはっきりしない場合が多いようですから……。一番確実なのは、サトシサンのように直接マナリーに来ることですよ」

アリは、そう言うと右目の目蓋を閉じてウィンクをした。

「成る程なあ……。それが一番確実だよな」

智は、良く考えたら当たり前のようなことを、まるでそれがこれ以上ない崇高な真実であるかのように深々と頷いた。

「あのさ、アリ、これ少し売って欲しいんだけど、まだあるかな?」

智がそう尋ねると、アリは、天井に向かって煙を吐き出しながら、ゆっくりと首を振った。そしてとても申し訳なさそうな表情で智にこう言った。

「スミマセン、サトシサン。もうこれで最後なんですよ。さっきも言ったように今はチャラスの収穫時期から半年ぐらい経ってしまってますので、もう全然残ってないんですよ。最近、イスラエル人のツーリストがたくさん来るようになって、ごっそりと買い占めて行くんですね。収穫の時期は、ちょうどゴアがシーズンを迎え始めるのと同じぐらいの時期だから、彼らはそれに合わせて買いに来るんですよ。それを持ってゴアへ下りていけば、かなりいい商売ができるでしょう? 智さんもその辺のことは良く知っていると思いますけど。だから、本当にいいクリームは収穫すると同時に全部無くなってしまうんです。後は、もうちょっと質の落ちるクリームか、どこにでもあるようなチャラスばっかりですね……。まあ、それでもそこいらで出回ってる物なんかよりは、随分上質の物になるんですが。今吸ってるこれは、かなり上物のクリームなんですけど、こっそりワタシがため込んでいた物で、もうこれが最後なんです。だから残念ですが売ることはできないんですよ。スミマセン、サトシサン」
「いや、いいんだよ、アリ、謝らなくたって。ちょっと聞いてみただけだから。こんなの吸わせてもらっただけで有り難いと思ってるんだから」

智がそう言うのを聞いて、ホッとしたようにアリはチャイを一口啜った。するとその時、何かを思い出したかのようにアリはキラリと瞳を輝かせた。