人を疑う癖

智がマニカラン・コーヒーショップに着いたのは、いつものように昼を過ぎた頃だった。岳志もまた、いつものようにジョイントを巻いており、アナンも、そんな岳志をじっと眺めていた。智が入っていくと、岳志は、智の方を振り返ってにっこりと微笑んだ。

「よう、サトシ。相変わらずゆっくりだね」

岳志がそう言うと、アナンも智を見て笑顔で、ハイ、と声をかけた。 
「ええ、まあ……。どうしても朝は起きられなくって……」

岳志は、ジョイントを巻いている手先を見つめながら智に言った。

「今、プレマがケーキを焼いてくれてるんだ。もう少ししたらできるって」
「ああ、昨日言ってた……」

椅子に腰を下ろしながら智はそう言った。ジョイントペーパーの端を舐めながら岳志は笑顔で頷いた。

「それでさ、チャラス代と合わせて四百ルピーいるんだ。俺と智で二百ずつ。払える?」 岳志は、智の方には目を向けずに、ゆっくりと、湿らせたペーパーを貼り合わせる。そしてそれがきれいな円錐形に仕上がると、テーブルの上でトントンと軽く叩いた。

「どう?」

岳志の手元をじっと見つめていた智は急にそう言われて慌ててそれに答えた。

「あ、ああ、二百ですね? 大丈夫ですよ、はい」

智は、ポケットの中を探って百ルピー札を二枚取り出し岳志に手渡した。巻き上がったジョイントに火をつけていた岳志はその金と交換するように智にジョイントを差し出すと、手にした二百ルピーをそのままアナンに手渡した。アナンは、小声で、サンキュー、と言って、その金をポケットに仕舞い込んだ。

智は、ジョイントをくわえながら、どうもこの光景は前にも見たことがある気がするなあ、と心の中でぼんやりと考えていた。すると、昨日、ここでクリームを買ったときのことが、ふと思い当たった。そういえばあのときも岳志に勧められて、クリームの他にもう一つチャラスを買ったのだ。こんなことを考えたくはなかったが、智は、どうもこの二人にどんどん金を吸い取られているような気がしてならなかった。二人というとアナンだけでなく岳志も含めることになるのだが、アナンと岳志は友達同士だし、ひょっとしたら岳志は、裏でいくらかのマージンを貰っている仲介役なのかもしれない、智は、そんな下劣な疑いをアナンと岳志に対して平気で抱き始めていた。それは恐らく智が長い旅で培ってきた負の部分なのだろうが、自己防衛のようなこのような疑いは抑えようとしても抑え切れなかった。いや、それは旅のせいだけではないのかも知れない。旅をする前から智は、そうやってまず人をとことんまで疑ってみる癖があった。それは幼少の頃から既にそうで、そうなるとそれはもう、持って生まれた智の性質なのかも知れなかった。智は、それを自覚する度に激しい自己嫌悪に陥るのだが、どうしても人を疑う癖は止められなかった。それはどれだけ親しい人に対しても平等に働きかける、救いようのない性癖だった。

少し沈んだ気持ちで智がジョイントを吹かしていると、岳志が突然話しかけてきた。

「あのさ、智。俺、前にも言ったと思うんだけど、日本で友達と雑貨屋みたいなのやっててさ。俺が主に外へ出て、アクセサリーや小物なんかを買い付けたりしてるんだけど……」 智は、鼻から煙を吐きながら岳志の話に耳を傾けた。

「はあ。その話なら前にも聞きましたけど……。どうしたんですか? 突然」

智は岳志にジョイントを手渡した。岳志は、それを口に持っていき、顔をしかめながら一息大きく吸い込んだ。

「ああ。それで、ちょっと聞いて欲しいんだけど、いいかな」

岳志は、智の目を見つめながらそう言った。智は、清い小川のせせらぎのような岳志の瞳の輝きに、抱く一抹の疑念など関係なく、再び心を奪われた。

さっぱりとした男らしい強さ

岳志という人間は、まるで自分から危険に飛び込んで行くのを楽しんでいるようなタイプの人間だ。更に、それこそが人生における最大の楽しみなのだと認識しているようでもあった。とりあえず、目の前に現われた事象は全てチャレンジしてみる。例えそれが危険を孕んでいようとも決して臆することはない。楽しみながら飛び込んで行く。一方智は、まず危険に重点を置いてしまう。これをやってこうなったらどうしようだとか、そうならなかったらどうしようだとか、自分にとって良くない結果の起ることをまず想像してしまう。だから、虚勢を張って何らかのリスクを犯すことはあっても、基本的にそれは恐怖の裏返しである。岳志のように心の底から楽しんでやっている訳ではない。岳志のような人間は、その恐怖そのものを楽しんでしまうような才能があるのだ。それを意識してやっているのかどうなのかは分からないが、何にせよ、岳志は危険を楽しむ種類の人間である。反対に智は、それらの恐怖をどうやって克服するかを考えるタイプの人間なのだ。

智は、今、自分が岳志とは正反対の人間であることを悟った。智は、たまに岳志のような人間に出会うが、その度に、その潔い清々しさのようなものに魅了され、そしてその分反対に、自分が臆病で卑小な人間であることを痛感せずにはいられなかった。昔はそのことに対して劣等感の方が勝ってしまい、変に意識してしまって、そういった人達とはあまり上手く付き合うことができなかったのだが、最近ではもう智は、自分の臆病さを観念して認めてしまったような節があるので、幾分素直にそのような人達とも接することができるようになっていた。そしてそういう人達の強い部分に率直な憧れさえ抱くようになっていたのだ。そういったさっぱりとした男らしい強さを、智は何とかして身に付けたかった。智は、もっと男らしく、強い人間になりたかった。

部屋の扉に鍵を差し入れながら、じゃあ、また明日な、と岳志は部屋の中へと消えて行った。月の光が岳志を彩り、岳志の姿が扉の影に消え入るその瞬間、彼の長い髪の繊細な一筋一筋が暗闇にはっきりと浮かび上がった。時間の止まったようなその光景に、智はしばらくの間ぼんやりと見入ってしまった。そして慌てて我に返ると、目を覚ますように首を振って自分の部屋へと滑り込んだ。部屋は暗く、川の流れる音だけがごうごうと辺りを支配していた。

翌朝目覚めると、例によって岳志は部屋を出た後だった。恐らくもうアナンの所へ行っているのだろう。また今日も、めくるめく一日が始まろうとしている。智は、昨日岳志がチラムを持って来いと言っていたのを思い出し、出かける間際に慌ててバックパックから取り出した。知り合いから貰ってまだ一回も使っていないチラムを持っている、ということを何となく昨日岳志と話していたら、せっかくだから明日持って来いよということになったのだ。智は、谷部から貰ったイタリアンチラムを改めて眺め回すと、息を吹き掛け、Tシャツの裾できれいに拭った。チラムは、陽の光を反射して滑らかな輝きをゆったりと放っていた。

ガンジャ入りのケーキ

「何だか不思議な所ですね。マナリーやマニカランという町は」

独り言を言うように智はそう言った。ちらっと智の方を見て、何も言わずに岳志は微笑んだ。すると突然何かを思い出したように岳志がポンッと手を打った。

「そうだ! そう言えば俺、アナンにスペースケーキ作ってくれるように頼んだんだよ。安いチャラス、ワントラ分買ってさ。明日焼いてくれるって言ってたから食べに行こう
な!」
「スペースケーキって、ガンジャ入りのケーキのことですか?」
「そうそう。食べたことある?」
「いえ。ないです。バラナシでバングラッシーなら飲んだことがありますけど……」
「それと似たようなもんだよ。だけど明日はチャラスを使うから、またちょっと違ったトビ方になるだろうけど」

興奮した様子で岳志はそう言った。

「まあ、楽しみにしててよ」
「はあ……」

智は、少し不安な様子で頷いた。マニカランに来て岳志と一緒に行動するようになってからと言うもの、シラフでいる時間が殆どなくなっているような気がする。いつでもどこでも時間さえあれば岳志はジョイントを巻き始めるし、大抵、智は、岳志と一緒にいるので彼と同じだけやっていることになる。今日はマッシュルームまで食べてしまった。明日はスペースケーキだという。そんなに色んなものを毎日やって、果たして自分は大丈夫だろうか、おかしくなってしまわないだろうかと不安に思う。しかしそんな気持ちとは裏腹に、何かの作用で酔っぱらっているとこの町はとても居心地がいいのだ。今日の昼間、マッシュルームを探して山の中を歩き回った時のように、自然全体が自分に語りかけてくるのが感じられる。体中に染み込んで行くように、緑や空の美しさが実感として感じられるのだ。体中の感覚が解放されていくような気持ち良さが得られ、まるでデリーにいた時のような鬱屈した感情が嘘のように思える。そういう意味において、この土地は本当に「天上の地」だった。だから、その状態をもっと味わっていたいという気持ちの方が最終的には勝ってしまい、ついつい何らかのドラッグを摂取することになってしまう。智は、一日の殆どの時間がキマッている状態だったので、普段の自分の状態がシラフなのかそうでないのか、もはや区別が付かなくなっていた。なので、もうどうでもいいや、と半ばヤケになって、それは楽しみですね!、と、岳志に向かって大きな声でそう言った。心のどこかで感じている不安など、もう、どうでも良くなっていたのだ。

智のその言葉を聞くと、岳志は嬉しそうににっこりと微笑んだ。智は、岳志のその微笑み方を見たとき、ああ、この人は本当にガンジャが好きなんだなあ、と確信せずにはいられなかった。そして、自分と岳志との違いを痛感した。

凛然

その言葉通り、何も問題はない、という風にババはゆっくりと首を左右に振った。それを見て智は呆れて肩をすくめた。インド人というものが智にとってますます不可解なものに思えてきた。果たして宗教とはそんなにいい加減でいいものなのだろうか?

岳志は、にやにや笑いながら二人のやりとりを見ていた。そしてババから吸い終わったチラムを受け取ると先端から灰を取り出し、細長い布をチラムの穴に通して掃除を始める。透明なクリスタルはヤニで茶色く染まっていた。それを布で擦って取り除くのだ。毎回その作業をしないと、すぐにヤニがこびり付いて取れなくなってしまうらしい。

チラムを回すのは日本でいう所の茶道のようなもので、客人に振る舞うのだからなるべくきれいな状態で渡すのが礼儀となっているようだ。礼儀正しいババになればなる程、その立ち居振る舞いは、凛然としたものとなり美しい。

岳志がチラムを掃除している間に、智は再びジョイントを巻き始める。ババは、さっきと同じように何もかも見透かすような半眼で智のその様子をじっと見つめていたが、智は、もうその眼に騙されはしなかった。しかし全く悪びれる様子のかけらもないババを見ていると、思わず笑いが込み上げてきた。ババのその表情に愛嬌すら感じられた。何故だか分からないが、智は、堪らなくババを愛おしく思った。

智は、ジョイントを巻き終えるとそれに火をつけて右手でババに手渡した。渡すときに、ババに敬意を表してそっと左手を添えた。ババは、うむ、と無言で頷いて、同じように右手に左手を添えながらそれを受け取った。これは、以前、ヴァシストの温泉で何人かのサドゥーと輪になってボンをしたときに智が覚えた作法だった。その時のババ達は、三本ぐらいのチラムを次から次へと自分の右側へきれいに左手を添えて回していた。チラムを回す時は、インドでいう不浄の左手は使わないのが礼儀だ。

ババは、再びジョイントの煙を大きく吸い込んだ。そして生やしている髭を掻き分けるぐらいの勢いで強く、煙を吐き出した。隣にいた岳志は、それを避けるように思わず身を反らせた。

そうやって何度もチラムやジョイントを回すうちにすっかり夜が更け、岳志と智はフラフラになりながら宿に帰った。夜空には満天の星がきらめき、暗闇には川の流れる音が、辺りの静けさには似つかわしくない程大きな音量で響いている。

「しかし、今日は長い一日でしたね」

橋を渡りながら智が言った。

「ああ、何だかな。変なババは現れるし、おかしな一日だったよ。全く」
「あのババ、明日もまた来ますかね?」
「来るだろうよ。だって、明日は酒を用意しといてくれってアナンに言ってたぜ」
「えっ、あのババ酒まで飲むんですか? シーク教徒って酒も煙草もだめな筈でしょう? 大体、インド人で酒を飲む人自体あんまりいないじゃないですか」
「何かね、この辺りで有名な”ウナ・ナンバーワン”っていうお酒があって、たまにアナンの店で出すんだよ。ウィスキーに色だけ似せた怪し気な酒なんだけど、結構人気なんだ。この辺の人はお酒もなかなか好きみたいだよ」
「そうなんだ……。マナリーに着いた時から思ってましたけど、何かこの辺りの町や人ってあんまりインドっぽくないですよね」
「インドっぽいって言っても色々あるだろうけど、まあ、いわゆるインドみたいな感じではないよね。チベット系の人も多いし。ババみたいに酒もチャラスもやる人もいるし。普通はババは酒なんて飲まないもんな」

そう言って岳志は呆れたように小声で笑った。

シーク教徒

智は、ババがマントラを唱えてからチャラスを吸い尽くすまでの一連のその動作に心を奪われた。こんなに格好良くチラムを使った人間は、今まで見たことがなかった。智がうっとりとその感慨に耽っていると、プレマが、遠くからババの方を眺めながら、ヒー・イズ・シーク・ババ、と笑いながら言った。智が、えっ、どういうこと? と聞き返すと、アナンが、ババジはシーク教徒なんだよ、と説明を加えた。それを聞いて智は思わずずっこけそうになった。先程あんなに格好良くヒンドゥーのマントラを唱えていたのにもかかわらず、実はババはヒンドゥー教徒ではなく、シーク教徒だったのだ。ババは、自分には全く関係のない神様に祈りを捧げていたことになる。それにそもそもシーク教の戒律では喫煙は禁じられている筈だった。

マニカランは、シーク教の聖人によって開かれた町と言われており、シーク教徒にとっては聖地の一つとなっている。しかしこの町にいる人達が皆シーク教徒かといえばそうではなく、普通のインドの町のようにヒンドゥー教徒が大半を占めている。その中のシーク教徒の割り合いが、他の町よりも少し多いといった程度のことだ。だから同時にヒンドゥー教の聖地でもあり、狭い町の中には、シーク教徒やヒンドゥー教徒、そしてそれらに関連する建物などが雑多にひしめき合っていた。しかし彼らは、互いに対立し合っているという訳では決してなく、むしろ曖昧に混在しているといった状態だ。その辺りがまたインドらしい独特の雰囲気を醸し出していると言えばそうなのだろう。

マニカランという町自体がそんな風なので、ババが、異教のマントラを唱えようが、戒律によって禁じられているチャラスを吹かそうが、別段問題は無いのかも知れなかった。ただ、あれだけ神妙な面持ちで、まるでヒンドゥーの神々に捧げる神秘的な宗教儀式のように一連の動作を行っていたため、実は異教徒だということが分かるとどこかインチキ臭い気がしてならない。ある種の神々しさを放っていたババの眼の輝きも、一気に色褪せてしまった。そもそもシーク教徒は、ターバンを独特の形状にきっちりと巻いているので、その出で立ちを見ればすぐに見分けがつくものなのだが、ババの場合はその巻き方がいい加減だったため、ひと目で見分けがつかなかったのだ。智は、アナンにそう言われて初めて気が付いた。

「ババジ、シーク教徒なんじゃん」
「イエス」

ババは、半眼のままゆっくりと頷いた。

「でも、ヒンドゥーのマントラ唱えてたでしょ? それに煙草吸っちゃ駄目なんじゃないの?」

智は、問いつめるようにババにそう言った。

「ノー・プロブレム」

心の奥底に潜む何か

冗談のつもりで十ルピーなどと智は言ったつもりだったが、ババにはそんな冗談はまるっきり通じなかったようだ。強い口調で智を睨みつけながらそう言った。

「ごめんごめん、冗談だよ、ババジ。そんなに怒らないでよ。ハハハ……」

ババがココナッツを片付けようとするのを慌てて制しながら智はそう言った。

「アイ・メイド・バイ・ストーン!」

ババは、ココナッツを一つ手に持って、智の目の前に突き付けた。そして再び袋の中に手を突っ込むと、翡翠のような薄い緑色の石をテーブルの上に投げ出した。しかし、それが何を表しているのか智には良く分からなかったので、ポカンと口を開けたままババの顔を眺め続けていると、岳志が、その石でココナッツを削ったってババは言ってるんだよ、と智に説明した。智は、ああ、そういうことですか、と深々と頷きながらその石を手に取った。そしてそれをババに示しながら、これで作ったんだね?、と言った。ババは、満足そうにゆっくりと頷いた。

智は、ココナッツの激しい凹凸を石でここまで滑らかなものにしたということに少なからず感動を覚えたが、ただ、この出来で百ルピーというのはちょっと高すぎるとも思い、半額の五十ルピーから値段交渉をスタートさせた。実際、岳志の持っているものと比較すると大分見劣りがした。その後しばらくババと智の間で値段のやりとりが続けられたが、結局三つで百五十ルピーという所で交渉が成立した。本当は三つも必要なかったのだが、今まで探していたものだけに気持ちが昂って全部買うことになってしまったのだった。

「ありがとう、ババジ。大事に使わせてもらうよ」

智は、早速、先程手に入れたクリームと煙草の葉をココナッツに混ぜ入れた。そしてペーパーを取り出すと、ジョイントを巻き始めた。岳志は、自分が吸っていたジョイントをババに手渡した。ババは、ゆっくりと頷くとそれを指の間に器用に挟み、両手を使って煙を吸い込んだ。指の隙間から大量の煙が洩れていく。そして上を向いて勢い良く煙を吐き出すと、ババはアナンにジョイントを回した。その時またぼんやりと虚空を見つめていたアナンは、ハッと我に返ってそれを受け取った。岳志は、そんなアナンの様子が気になるようでしばらく黙ってアナンを見つめていたが、結局声をかけることはしなかった。そして何事も無かったかのように例のクリスタルのチラムを取り出すと、チャラスの用意をし始めた。

智がジョイントを巻き終わる前に岳志のチラムの準備が整ってしまったので、智は一旦その手を休めた。ババは、岳志から渡されたチラムを顔の前で構えると、大声でヒンドゥーの破壊の女神、カーリーの名を呼び、続けてマントラを唱えた。それに合わせて岳志がチラムの先に火をつける。その瞬間ババは、ボン、と大きく叫ぶと物凄い勢いで煙を吸い込み始めた。大きな吸気音と共に、チラムの先端が赤く光り、白い煙がクリスタルの胴体をまるで生き物のようにうねりながら通過していく。そしてそれがチラムを包み込むババの手の中に滑り込んでいくと、ババは、顔をしかめながら一息に全てを吸い込み尽くした。一瞬にして、透けたチラムの胴体がまるで真空になったかのように透明になる。そしてもう一度ババが息を吸い込むと、再びチラムの先端は赤く光り、チラムの体内はうねる白い煙によって埋め尽くされる。その動作を二三回繰り返すと、最後は天井に向かって一直線に大量の煙を吐き出した。ババの周りは、煙によって視界が霞む程覆い尽くされた。霞む景色の向こうから、ババの半眼が智をじっと見つめているのが分かる。その視線は明らかに智に向けられているのだが、それは、智の表層を見ているのではなく、智の心の奥底に潜む何かをじっと見つめているようだった。智は、しばらくの間、我を忘れてババのその視線にじっと見入っていた。

ココナッツの器

「えっとですねえ……。ちょっと難しい単語が多く使われているので細かい内容までは分かりかねますが、大雑把に言うと、どうやら遺跡の中に祀られている”シヴァリンガ”はイコンつまり、偶像であるかないかということが語り合わされているようです」

その話を聞いて智は、一瞬自分の耳を疑った。真ん中で話している人達はどこにでもいるようなごく普通の男達であり、それを取り囲んでいる人達もまた普通の、一般的なインド人達である。決して学者やそれに近い知識階級の人達ではない。そんな彼らが、難しそうな顔をして腕組みをしながら熱心にその話を聞いている。そして時折隣にいる人達なぞに、俺はこう思うがお前はどうだ、だとか話しかけ、あちこちで論議が発展していく。”シヴァリンガ”とは、インド中、どこにでも見かける抽象的なひとつの像である。先の丸くなった黒い円筒形のものが、土台である筋の入った楕円から伸びており、その黒い円筒には、シバ神の象徴である三本の白線が地面と水平に入れられている。要するにそれらは、結合した男性器と女性器を指しており、充溢した生命力の象徴として崇められているものなのだ。その像がイコンであるかないかという論議が、白昼炎天下、ごく普通の人達によって盛んに繰り広げられている。智は、その時、やはりインドという国は哲学的でスピリチュアルな国なのだ、と確信しない訳にはいかなかった。インド以外のどの国の人間が、真っ昼間の往来で偶像の定義を論じ合っているだろう。岳志の顔をじっと見つめ続けているババのその表情は、智にそんな思い出を思い起こさせた。

ババは、手に持っていた袋の中からおもむろに何か木片のようなものを取り出して、コトン、とそれをテーブルの上に置いた。取り出されたそのものは、良く見るとチャラスやガンジャを混ぜるときに使うココナッツの器だった。それは、ココナッツの皮を半円形の皿のように削り出して限界まで磨きあげられたもので、良くできたものになるとまるで漆塗りのお椀のような光沢を放つまでになる。よくゴアのフリーマーケットなどで販売されており、高いものだと五十ドルぐらいの値が付くこともある。それを造る技術は、言わば職人技なのだ。ゴアに行っていたようなツーリスト達は大抵皆それを持っていて、いいココナッツを持っているということはひとつのステイタスでもあった。岳志もその例に洩れず、深い褐色の光沢を放つきれいなココナッツを持っており、ジョイントを巻くときはいつもそれを使っていた。智は、自分用のココナッツをまだ持っていなかったため、岳志のその様子を見る度、内心、とても羨ましく思っていた。いつか自分もあんな風にココナッツを使いながらジョイントを巻けたらなあ、と心の中で秘かに憧れ続けていたのだ。だから、ババがテーブルにココナッツを置いた途端、智はハッと目を見張ったのだった。

「あっ、ココナッツ! ババジ、これ、どうするの? ひょっとして売り物?」

かなり興奮気味に智がそう言うと、ババは、目を閉じてゆっくりと首をかたむけた。そして更に、袋の中からもう二つそれと同じようなものを取り出した。取り出されたそれら三つのココナッツは、色も形も大きさも微妙に異なっており、どれもなかなかきれいに仕上げられていた。智は、一つ一つを手に取って眺めながら、じっくりとその出来映えを確かめた。

「ババジ、これ、一個幾らなの?」

智がそう尋ねると、ババは両手の指をパッと広げた。

「えっ、十ルピーでいいの?」
「ノー!、ワン・ハンドレッド!」

暗闇に同化

「うわぁ! ちょっと、プレマ、そこに誰か立ってるよ!」

驚いた岳志が、ランプに火を灯していたプレマに慌てて声をかけると、プレマはそのまま戸口の方を振り返った。その人物を戸口の所に見留めると、プレマは、打ち解けた様子でその男と二言三言、言葉を交わした。そして笑いながら岳志に話しかけた。

「ノー・プロブレム。ディス・イズ・クレイジーババ。タケー、心配ないよ。いつも来るババなのよ。ちょっとクレイジーだけどね」

どうやら知り合いらしいそのババは、年齢は五十歳から六十歳ぐらいといった所だろうか。肌があまりにも黒いので背景の暗闇に同化して、もし白い服を来ていなかったらずっとそこで立っていたとしても誰も気が付かなかったに違いない。

プレマに声をかけられたババは、頷きながらゆっくりと店内に入ってきて、岳志の横に腰を下ろした。そしてむっつりとした表情でじっと岳志を見つめた。岳志は、少し戸惑いながら、ハイ、と言って愛想笑いを浮かべたが、ババは、それに少しも応じることなく、なおもむっつりとした表情のまま岳志を眺め続けている。彼は、濃紺のターバンで頭を覆っており、眼光は鋭く、黒光りする肌が余計にその鋭さを強調していた。白髪の混じった髭を口の周りに蓬々と蓄えており、彫りが深くしっかりとしたその目鼻立ちは、まるで哲学者のようだった。

インド人の男性は、これぐらいの年齢になると階級や貧富の差を問わず、どうもこのように思慮深げな表情になるものらしく、以前から智はそのことが不思議で仕方がなかった。まるでそれが、インドという国がそのように哲学的な顔立ちを生み出す精神的な国であることを証明しているかのようだった。一体何を考え続ければ、あんな立派な顔立ちになるのだろう? 果たして彼らは、生涯、そんなに大それたことを考えて生きてきたとでも言うのだろうか? 智は、今までインド人を観察し続けてきてそんな疑問を抱かずにはいられなかった。幾つになってもまるで子供のような彼らの行動を見ていると、どうもそんなに難しい人生を歩んできたようにはとても思えなかったが、そういえばこんなこともあったのを、智は今ふと思い出していた。

エロティックなレリーフの施された遺跡があることで有名な、カジュラホという小さな村に智が滞在していたときのことだった。そこで智は、ヒンドゥー語を勉強しているという日本人と知り合って、しばらく一緒に過ごしていたのだが、ある日二人で道を歩いていると、インド人達が輪になって何かを話し込んでいるのを見かけた。智達は気になってその輪に近づいてみると、輪の中心で、初老の男性とまだ彼ほど年をとっていなさそうな中年男性が、盛んに議論を闘わせていた。もちろんそのやりとりはヒンドゥー語でなされていたため、智には一言たりとも理解することができなかったが、智と一緒にいた日本人の彼は、何とか論じられているその内容を理解することができるようだった。智が、一体彼らは何をあんなに熱く語り合っているのか、と彼に尋ねてみた所、彼は少し考えながらこう答えた。

笑顔

――― 一体、アナンの人生には今まで何があったのだろう? ―――   

智は思った。

――― 岳志は、最初に触れて以来決して刑務所の話には触れようとはしないが、やはり、それが彼の孤独の原因なのだろうか。一体アナンは何を見てきたというのだろう……。プレマはプレマで、そんなアナンの暗闇には全く気が付いていないように、いつも満面の笑みを浮かべながらとても元気にアナンに接している。彼女はまるで太陽のように輝いている。アナンもプレマのそんな元気があるからこそ、何とかやっていけるのかも知れないが…… ―――  

しかしアナンは、そんな風に暗い顔をしていても、岳志や智が声をかけるとすぐににっこりと微笑んでそれに応えるのだった。アナンのそんな笑顔を見る度、余計に彼の苦悩の深さを智は見るような気がした。そして彼を、気の優しい男なのだな、とつくづくそう思った。この時も、アナンの肩を叩いて岳志がジョイントを回すと、アナンは、すぐににっこりと微笑みながらそれを受け取った。そしてジョイントを吸いながら、智のチャイのグラスが空いているのに気が付けば、もう一杯飲むか?、とか、そろそろ腹が減ってきた頃ではないか?、とか、色々尋ねて気を遣う。そんなアナンの優しさに触れる度、とても心が安らいでいくのを智は感じた。そして、人間の本当に求めているものなど実は何でもない、ただ、こういった少しの優しさにすぎないのであって、それさえ常に実感として感じることができていれば、この地球上につまらないいざこざなど何も無くなり、他人を信じ、お互いを助け合う素晴らしい世界が出来上がるのではないか、と、そんな大げさなことまでも智は夢想するのだった。智は、自分もアナンのように、例えいくら自分の置かれている状況や精神状態が深刻なものであろうとも、それとは関係なく、他人には常に笑顔でいられるようなそんな素晴らしい人間でありたい、とそう思った。しかし最近の自分の行動を振り返ってみるといかに自分がそんな人間からは程遠い、未熟な精神を持っている人間であるかということがありありと実感させられ、智は、とても落ち込んだ気分になるのだった。それは例えばマナリーに来るまでの車掌とのいがみ合いや、その後、八つ当たり気味に周りの人間全てを呪ったことなどを思い出すだけでも十分確信できることだった。智は、目指す道のりの遠く険しいことを身に染みて実感した。

そんなことを智がボーッと考えていると、アナンが、どうかしたのか?、という具合に指につまんだジョイントを智の目の前で左右に揺らした。智は、我に返ってそのジョイントを受け取った。そしてそれを一服吹かしてチャイのグラスを口に持っていこうとしたちょうどその時、戸口の所に誰かがじっと立っていることに気が付いた。智は、驚いて思わず、うわっ、と大きな声を上げた。岳志が、急にどうしたんだよ、と智に尋ねると、智は黙って戸口を指差した。

サンダル履き

アナンを先頭に三人が歩いて行く道のりは、だんだんと険しいものになっていった。来た道から戻るのでなくわざわざ違う道から帰るのは、ぐるりと山を一周回るようにして帰った方が早いから、というのがアナンの言い分だった。智達はキノコを探していたため、ここまで来た道のりは、かなりあちこちに迂回していたのだ。だから違う道から帰るというのはもっともな理由なのだろうが、智達が今歩いているこの道は、ちゃんとしたトレッキングシューズを履いている他の二人にとっては何でもないかも知れないが、サンダル履きの智にとっては大変酷なものだった。道ゆく先には、ごつごつした岩や尖った木の枝があちこちから飛び出しており、とてもサンダルで歩けるような所でないのは明らかだ。二人は、智のそんな状況など露知らず、智を置いてさっさと先に行ってしまう。怪我をしないように、智は、慎重に足下だけを集中して眺め続けた。すると不思議なことに、智には、次に歩を進めるべき、ここだ、というポイントが良く分かるのだった。そのスポットだけが、ぼんやりと輝くようにその場所を主張していたのだ。智の目にはそう映っていた。そして実際そこに歩を進めれば、足を傷つけることもなく安全に歩くことができるのだ。それはまるで、この森全体が、智に怪我をさせないように手助けをしてくれているようだった。智は、何だか嬉しくなって、それを信じて軽快に飛ぶように足を伸ばした。

ようやくマニカランの町に辿り着いて裸足の足を確認すると、実際、智の足には傷一つついていなかった。あんなに険しい道のりを岩や倒木を避けながら何十分もの間歩き続けたのに、それは奇跡に近いことのようだった。智は、興奮して思わずそのことを二人に報告しようと思ったが、慌てて口をつぐんだ。このことは森と智の二人だけの秘密にしておきたかったのだ。もし人に伝えてしまったら、その小さな奇跡がスッと消えてしまいそうな気がしたからだ。

マニカラン・コーヒーショップに着いた時、太陽はもう西の方に傾きつつあった。坂道を歩く三人の影が細く長く道に向かって伸びていた。店の中ではプレマがランプに火を灯している。薄明かりがぼんやりと暗闇を照らす。岳志は、椅子に腰かけると早速ジョイントを巻き始めた。アナンが人数分チャイを運んで来る。智は、礼を言ってそれを一つ受け取った。アナンが、智と岳志に気を遣って、腹が減っていないかと尋ねたが、二人とも静かに首を振った。まだマッシュルームが効いていて、食欲などは湧いてこない状態だったのだ。

アナンは、少し残念そうに首をすくめるとプレマの運んできたサモサを一口かじった。プレマは、お腹が空いたら食べてちょうだい、と残りのサモサをテーブルに置いた。岳志は、巻き上がったジョイントに火をつけながらプレマに、サンキュー、と言った。アナンは、岳志のその様子をサモサをかじりながらじっと眺めている。

アナンは、ふとした時に人の顔をじっと眺める癖がある。何か物思いに耽ってでもいるのか、その目は、対象に向けられつつもどこか遠くを眺めているかのようだ。瞳は暗く深く、その深淵には、何人たりとも寄せつけないような限りない孤独が潜んでいるようだった。