お葬式

人が死ぬ。 葬式をあげる。
お別れのとき。 悲しみが込み上げる。

でも、本当に近しい人が死んだとき、悲しさというものはすぐには襲ってこないんではないか。
反対に、目の前でその人が死んでいるという現実のほうを疑ってしまう。
実感なんて湧いてこない。
そういうものだと思う。

だからもちろん悲しい人は思いっきり悲しめばいいんだけど、どうしても実感のわいてこない人は、無理に涙を流さなくたって、リラックスしていればいいと思う。 笑ったりしたっていいと思う。
心配しなくても悲しみはしばらくしたら、突如、猛烈な勢いで襲ってくる。

もしぼくが死んで、ぼくの葬式が行われるとしたら、派手に盛大に楽しく宴会してほしいものだ。 しんみりめそめそしたのは嫌だ。
ぼくの思い出話しで盛り上がって、そういえばあいつはアホなことばっか言っとったよなあ、だとか、でも、たまにはいいところもあったよなあ、だとか、大いに笑っていただきたい。
みんな酒でも飲んで酔っぱらってはしゃいでほしい。
そんなお葬式がいい。

インドのバラナシという町でそんなお葬式を見た。
ヒンドゥー教において最も重要な聖地であるバラナシには、ガンガーという聖なる河が流れている。

全てのものを流し清めるガンガーで人々は沐浴をしたり、顔を洗ったり、歯を磨いたり、体を洗ったり、洗濯したり何でもやる。
そんな光景がいっぺんに見られる。
ちょっと日本の聖なるイメージとは遠いものなのかもしれない。
実際、ガンガーの水は全然きれいでも何でもなく、茶色く濁っている。
きっと予備知識の何もない日本人が、聖なる河なんですよ、と聞かされて行ったとすれば、びっくりするに違いない。
その聖なる河は、人の死体までも流し清めてしまうのだ。
ヒンドゥー教徒は、ガンガーに流されることによって、来世への希望とともに成仏していく。 
だからすぐ流せるように、合理的に河のほとりで死体を焼いている。
お金のある人は灰になるまでちゃんと焼いてもらえるが、お金のない人は薪が買えないため、生焼けぐらいで流す。
あと、赤ん坊はそのまま流される。
完全に灰になれば流されても分らないけど、生焼けの死体や、赤ん坊の死体までもがプカプカ流れているのだ。
かなりびっくりするだろう。

でも、ぼくがここで言いたいのはプカプカ浮いた死体の話じゃなくって、お葬式の話。
インドのお葬式を詳しく知っている訳ではないけれど、多分、火葬場に遺体を運ぶときというのは、お葬式のクライマックスにあたるんではなかろうか。
ぼくはバラナシの町でその行列に遭遇したのだ。

お祭りかと思った。 よくみたらお葬式のようだった。
人々が二列になって担架のようなものに、白い布でくるまれた遺体をのせ、肩の高さに持ち上げて運んでいく。
まわりの人達は何やらジャンジャン鳴りものを打ち鳴らし、その担架にはきらびやかな装飾が施されている。 
とても派手だった。

それを見たときに、あ、これはお葬式なんだ、と単純に新鮮だった。
そして何だかうれしく思った。
ああ、オレも死んだらこんなのがいいな、とそのとき思ったのだ。
何も泣いてばかりがお葬式なんじゃない、明るく賑やかなのがあったっていいじゃないか。

ぼくの葬式の席では小さな子供達が坊さんのはげ頭や、読み上げるお経をまねしたりして、ケタケタ騒いで走り回り、それをおばあちゃんがあわてて追いかけまわしたりなんかしてくれたら、きっと微笑みながら天国へ行けるんじゃないかなって思ったりもするんだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

祈り

人の祈る姿は美しい。
初めてそう感じたのは、インドのアムリトサルという町だった。
ここには、ゴールデン・テンプルと呼ばれるシーク教の総本山があって、たくさんの巡礼者が訪れる。

頭にターバンを巻いたシーク教徒達が、夕日で光る金色のお寺の中、ゆっくりとひざまずき、地面に額をつけて祈っていた。
ゆったりとした動作で、穏やかに、静かに、時間は流れていた。
その瞬間だけは、世の中の一切のことから離れ、ただ無心になっているかのようだった。
ぼくにはそう見えた。
美しかった。
それは多分、祈り、だったんだろう。

パキスタンを旅行中、オンボロバスにゆられて、灼熱の砂漠を10時間も、20時間も移動した。
何度も意識が遠のきそうになる中、イスラム教徒である彼らは、決まった時間になると必ずバスを止め、お祈りを始めた。
何もないだだっ広い砂漠の中、灰色のイスラム服とイスラム帽をかぶった彼らは、同じ方向に、同じ動作で、何度も祈りを捧げる。
沈んでいく夕日に向って、いまだ冷めやらぬ熱気を帯びた大地にひざまずき、祈りを捧げるその時間は、静かで、穏やかで、厳粛なものだった。
何か見えない大きなものに向って祈りを捧げているようだった。
その姿は、やっぱり美しかった。
自然とか、宇宙とか、そんなとてつもなく大きなものと一体化しているような、そんな美しさ。

ぼくは人間が人間を超える瞬間というのは、確かに存在すると思う。
人間は醜い。
言葉では言い表せないほどの醜悪さを、誰しも秘めている。
絶望的に残酷なことを、眉ひとつ動かさずに平気で行える素質をもっている。
人間性と呼ばれるものの大半はそんなものだと思うんだけど、しかし、それを補えるだけの光り輝く面を、人は確かにもっている、と思っている。
それは、ほんのささいな親切心や優しさみたいなものから、歴史に残るような大きな出来事まで、色々あるんだろうが、この、祈る、という行為もそんな内のひとつなのだろう。

それらのものに接するとき、ぼくは、人間というものについて改めて考えさせられる。
ちょっと素晴らしいな、なんて思わず思ってしまう。
ますます人間について興味がわいてくる。
最高に面白いんじゃないかって思えてくる。
そんなの何だか恥ずかしくってひとりで照れてしまうんだけど、ぼくにとってはそのことが、生きるということに対する、希望的なできごとになっている気がする。

ある映画のセリフで、

「人は邪悪な面もあるけど、美しい面もある、だからこそ生きる価値があるのよ」

というのを印象的に覚えているんだけど、まさにその通りなんじゃないかと思う。
そういう美しい面を人と人との間にたくさん見出すことができれば、人生はすごく豊かなものになるんじゃないのかな。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

東南アジアの女たち

ぼくは女の人に興味がある。
とても興味がある。 何が好きって、女が好きだ。
謎に満ちていて、パワフルで、色っぽくって、
ぼくの人生なんて、女ひとつで簡単にどうにでもなってしまう。
東南アジアの女が好きだ。
彼女達は、かっ色の肌に熱帯の太陽と湿気をふんだんに浴びて、ある種、独特のエネルギーを育ませている。

それは例えるなら、よく熟れたマンゴーのようなもので、そのねっとりとした果肉の甘さの中にかすかに毒気を含んでおり、果物の腐敗臭にも似た甘い香りとともに、食べた者の脳みその奥のほうをしびれさせるような、官能的な感覚がある。
とてもいやらしい。熱帯のエロティシズムである。
反面、はじけんばかりの子供のような笑顔を振りまいている。
ぼくはその、猥せつさと純真さが同居しているかのような両極端に、クラクラしてしまうのだ。

基本的にアジアに住む人達は大人になっても、おじさん、おばさんになっても子供らしさを失っていない。
見てたら笑ってしまうようなかわいらしいところがある。
おっさん、おばちゃんですらそうなんだから、年頃の娘さんなんてもうダメだ。
本当にヤバイ。

引き込まれんばかりの色気と、幼い子供のように邪気のない、天然のかわいらしさを同時に見せつけられたら、もうそれだけで、ぼくの心は簡単に振り回されてしまう。
どうにかなってしまう。 やりたい放題だ。

やっぱり、東南アジアという熱帯の気候の中で生まれ、そこで育まれた様々なものによって育てられ、生活しているんだなあ、と思う。
もう、人間自体がそうなっている。
強烈な太陽と、ねっとりとした湿気と、官能的な甘さを、その肉体の中にはらませている。

初めて東南アジアへ行ったとき、ついたばっかりの空港から街へと向うバスの中、熱帯夜、壊れた窓から吹き込む蒸し暑い風にさらさらとなびく長い髪を、憂鬱そうに気にしていた少女は、高速道路のオレンジ色の街灯をゆるやかに浴びていた。
きめの細かいかっ色の肌にうっすらと汗をかき、安っぽいタンクトップと、プラスチックの花のついたサンダルを履いていた。
すらっとした、足の長い女の子だった。

その彼女とほんの一瞬目が会ったとき、かつて感じたことのない感覚がぼくの中で生まれた。
日本人と見た目はそんなに変わらないんだけれど、明らかに異国の人との一瞬の接点。
何か不思議で、とても幻想的だった。 あの光景はいまだに忘れられない。

東南アジアの女たちはあらゆるところで輝いている。
それは町の屋台であったり、市場であったり、家庭であったり、色々だ。
エネルギッシュでパワフルだ。
太陽の恩恵を受けている。
そしてそれを、体で表現している。
大地に愛されている。
ぼくはそんな人達にすごく魅力を感じる。 生命力を感じる。
そして強い憧れの眼差しをもって眺めてしまう。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

イランの女たち

ぼくは女の人がよくわからない。
いつもぼくの想像の範囲を超えている。 こちらの心を激しくかきまわす。 
かきまわせたと思ったら知らぬ間に去ってしまっていっている。
その後には、あらゆる想念と混乱した心がぼくの中に荒々しく残されている。
決して抜けられない。

女は確実にぼくよりも強い。

ぼくはそんな女達を怖れると同時に愛おしく思う。
とても愛おしく思う。
強く光り輝くものを見るような眼差しで、目を細めて眺めてしまう。

イランの女達は輝いている。
イスラム教の厳しい戒律によって戒められた彼女達は、全身を黒いチャドルで覆っている。 顔だけしかみえない。
髪の毛や肌を見せることは固く禁じられている。
がんじがらめだ。
がんじがらめのルールによって縛りつけられている。
普通ならやりきれない。

でも彼女達は街のあちこちに、そのいでたちで活躍している。
銀行やオフィスやレストランで普通に働いている。 違和感がない。
ただチャドルを着ているだけだ。
他のイスラム国、例えばパキスタンなどは、街に女がおらず男だらけだ。
まるで男子校のようだ。
普通のイスラム国はそうなのだけど、ただイランは違う。
もともと、自由主義的なシステムが国のバックボーンにあるからなのか、彼女達はただ、

仕方ないわね、そんなにいうんなら着てあげるわよ」

ぐらいにしか思ってないんではないかと思う。
よく向こうから積極的に話しかけてくるし、実はあの真っ黒なチャドルの下には、とても派手なドレスを着込んでいたり、髪もおしゃれにセットされていたりする。
そのせいか街には女性用の洋服屋がやけに目立っていたりもする。

何より表情がいきいきしている。
そんな女性の表情を見たのは久しぶりだったような気がした。
東南アジアの女達を思い出させる。
輝いている。

彼女達は厳しい戒律だとか取り決めだとか、自分達にかせられた様々な制約を鼻で笑い飛ばしながら自由を謳歌している。
宗教に反発している。
おそらく何ものも彼女達を縛りつけることはできないだろう。
イスラムの神ですら彼女達の圧倒的なパワーを抑えつけるのは無理なのだ。
神をも恐れぬ女達。

ハハハハハ、もう笑っちゃうしかないよね、オレにはできねえもん、そんなこと。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

あるイラン人

イラン人と聞いてまず、何を連想するだろう。
ぼくは偽造テレカや麻薬を売っている、いかがわしい人達を連想する。
そんなイメージがある。
前にも書いたんだけど、ぼくはイランが嫌いである。
あんな国二度と行きたくない。
そう、実際にイラン本国をのぞいてきてなお、いまだにぼくのイラン人に対するイメージはそんなに変わっていない。
いかがわしいイメージだ。

でも、イラン人という大きな範疇でイメージするのと、個人的な一人のイラン人という人間と実際に付き合うのとでは、大きな隔たりがある。 
個人と個人との現実的な関係において、つきつめればつきつめるほど、人種や国籍の違いは意味をなさなくなっていくものとぼくは信じている。

これは、イランという国も、イラン人も大嫌いなぼくが、一人のイラン人によって心を動かされた話だ。

彼とはテヘランで出会った。日本人の奥さんを持つ、30半ばの人だ。
彼は日本で働いているときに、その奥さんと知り合ったのだが、最初、奥さんのお母さんに毛嫌いされた。
外国人ということで、口も聞いてくれなかったし、食事もしてくれなかったし、トイレすらも使わせてくれなかった。
お母さんと、一人娘の奥さんは二人暮しで、そういうのもあったのかも知れない。 とにかく冷たくされた。

でも彼はあきらめなかった。なんとか自分を認めてもらおうと必死に努力した。
間取りの悪い家を自らの手で改装までして、年とったお母さんのために使いやすい台所を作ったり、部屋を広くしたりして、快適に過ごせるようにした。
それでもお母さんは彼を認めはしなかった。
彼はさらに、壁の色をかえたりだとか、家事を手伝ったりだとか、できる限りのあらゆることをした。

お母さんを説得するために。
奥さんと結婚するために。 

そんな日々がしばらく続いた。 
するとそうするうちに、がんこなお母さんもとうとう折れて、彼との結婚を認めるのだが、結婚後、一緒に住むようになっても彼への接しかたは変わることはなく、例えば彼の入ったお風呂のあとには決して入ろうとはしなかったし、トイレもわざわざ簡易トイレまで設置して、あえて別々にするぐらいの徹底ぶりだった。

「本当に辛かったよ、でもぼくはなんとかお母さんに認めてもらおうと思って、それからも一生懸命努力した。
そうしたら、とうとうぼくのことを認めてくれたんだよね。
お母さんは泣きながら謝ってくれた。
本当にわたしはひどいことをしていた、どうかわたしを許してって、ぼくの前で泣き崩れたんだよ。 ぼくは本当にうれしかった。
今はとっても幸せだよ。 
奥さんとお母さんと3人で、日本でずっと暮らしたいと思う。」

彼はそう言っていた。

ぼくはこういうところに、人間の美しさを感じる。
素晴らしいって思う。
希望を信じることができる。

大っ嫌いなイラン人に教えられた。
貫き通せば、国籍も、人種も、何もかも超えることができるということを。
人間どうしが純粋に、人間対人間として、愛しあえる可能性を秘めているということを。 
彼はぼくに、そんな夢を信じる勇気を与えてくれた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

怪し気な神様2

前回はぼくがショックを受けたチベットの神様達のことを書いたのだが、さらにもう一カ国、衝撃的な国がある。
多分もう分かる人には分かると思うんだけどそれは、チベット仏教の源流ともなっている、かのインドの神々である。
ぼくはチベットを旅したあと、ネパールに入国し、そしてさらにインドへと、緩やかにインド文化圏へ入っていった。
それにチベットで大分鍛えられていたので、いざインドの神々と対面となったときでも、案外すんなりと馴染むことができた。

インドという国は人口の7、8割がヒンドゥー教徒で、残りの2割ぐらいがシーク教、イスラム教、キリスト教などなど様々な宗教で占められている。
ほぼ、ヒンドゥー教徒ということだ。
そのため、街中ではそこら中でインドの神様達と出会うことになるのだが、チベットで受けるような印象とは少し違う。
何というか、チベットのようなシリアスな雰囲気でなく、もっとこう大衆的で遊び心がある。
神様の描き方などどこか漫画的でカラフルに彩られており親しみやすい。
チベットの神々のような近寄りがたいオーラはまるでなく、むしろちょっと吹き出してしまうような、コミカルなところがある。
以外とすんなり入り込めたのは、そういった理由もあったのかも知れない。
そんなイメージのヒンドゥー教なのだが、ぼくがショックを受けたのもまさにそこにある。
あんないい加減で何でもありの宗教は初めてだ。

例えば、シバという神様がいる。
彼はインド中でもっとも有名かつ人気のある男である。
いくら有名な映画スターでも彼にはかなうまい。インドいち有名で人気のある、そんな神様なんだけど、彼にはパールバティという奥さんがいて、子供もひとりいる。
ある日のこと破壊神である彼は、怒りにまかせてわが子の首を切り落としてしまった。
それを知った奥さんは激怒してシバに何とかするようにきつく言った。
奥さんに頭のあがらないシバは困り果てて考えた末、家の前を最初に横切ったものの首をはねて息子につけかえることに決める。
すると最初に通ったのは何と象だったのだが、素直に取り決めどうりに首をはねてその首をわが子につけた。
だから息子のガネーシャは、象の頭と人間の体をあわせ持つ神様なのである。

これは歴としたヒンドゥー教の神話なのだ。
こうしたエピソードが他にもたくさんあるのだ。しかも神様がたくさんいて、それが変身したりするものだから、何がなんだかわからない。
きっとあんまり厳格な取り決めはないのだろう、インド人に聞いても聞く人によって違うことを言うので、どれが本当なのかよくわからない。
要するに、何でもありなのだ。 そして、誰がどの神様を信仰してもいい。
すきな神様を選べばいいのだ。
言ってみればどのウルトラマンが好きか、みたいなもんだ。
変身だってするし。

ぼくはこんな自由な宗教があるなんて知らなかった。
宗教とはもっと厳めしく、神妙な面持ちで接せねばならぬもの、とばかり思っていたので、こんないい加減な宗教を信じている人達がいると知って、なんだかうれしく思ったのだ。
そしてこれがまた、みんな本当にヒンドゥー教を信じている。
人種も文化も何もかもが混沌とした、インドという大国ならではの宗教ということだろうか。
それとも、原始的な宗教というのはみんなこんな感じなんだろうか。
どちらにせよ、ぼくにとっては衝撃的なことだった。
宗教そのものに対する考え方も、大分変わったものになったのかも知れない。
もっと広い意味で、宗教というカテゴリーを捕らえることができるようになった気がする。

たくさんの怪し気な神様達は、堅っ苦しかったぼくの宗教というイメージを、ずい分柔らかくほぐしてくれた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

怪し気な神様

旅をすると自分の価値観というものは、どんどん変わっていく。
いや、それは変化するというよりもむしろ、広がっていっていると言った方が適切かも知れない。
自分の知らない様々なものを見ることによって、視野が広がっていくのだ。
それは日常のほんのささいなことから、国と国との政治レベルの話に至るまで多岐にわたるのだが、特に宗教というカテゴリーは自分にとってなじみが薄い分、衝撃も大きかった。

旅に出る前ぼくは、特にどの宗教のことも詳しく知っていたわけではなかったし、また、興味もなかった。
強いていえば、仏教のことをほんの少し知っていたぐらいだ。
まあ、知っているといっても、おそらく平均的な日本人レベルだろう。
そんなぼくだからもし、神様、と言われれば連想するのは、キリスト教の宗教絵画のような後光の差した、イエス・キリストだとか、聖母マリアだとか、そんなものだった。
多分、普通の日本人だったらそんな感じだと思う。

しかし、そんなぼくの常識をものの見事にぶっこわしてくれた国がある。
チベットである。
(厳密に言うとチベットは中国なんだけど、面倒くさいので国と言うことにする)
そう、富士山より高い標高4000Mに位置する雲上の国チベットである。
そのチベットとは、民衆がチベット仏教を信ずることによって連帯しており、チベット仏教とは、かの弘法大師も学んだところの密教に由来する。
そのチベット仏教によって、ぼくの中の神様のイメージは、一遍に変更を余儀無くされたのだ。

チベットを旅するということは、半分ぐらいは寺巡りをするということである。
そうしてお坊さんに会ったり、チベット人が五体投地というお祈りをするところを見たり、仏像を見たりするのだが、そう、問題はその仏像なのだ。
仏像といっても色んな種類の仏像があって、お釈迦様もいれば観音様もいるし、また、それらをお守りする守護神達もいる。

しかし普通でないのは、まず、お釈迦様がセックスをしている。
座禅をくむような姿勢で、冥想中のような半眼に、柔らかな微笑をたたえつつ、セックスをしておられる。
これには本当に驚いた。
最初見たときには、一体何のことだかよく分からなかったけれど、聞いてみると、セックスをしているのだという。
ふと他を見てみると、今度は鬼のような形相の三つ目の怪物が、牙を向いてこちらを威嚇している。 これもまた神様だという。

そして、その神様が二体で今度は、立ったままセックスしている像がある。
二人とも三つの目玉をひんむいて相手を睨み付けながら、牙と牙をすり合わせるようにして舌をからみ合わせている。
しかも手は6本もあって、相手の体の至るところに張り巡らせながら、しっかりと支えあっている。
後ろでは炎がぼうぼう燃えている。
さらによく見ると、足下には誰だかが踏みつけられている。
一体何のことだかわからない。

そしてお寺の壁面には、それらの仏像をモチーフにした壁画が、全体にびっしりと描き込まれており、まわりには、ヤクと呼ばれるチベットの牛からとれるバターを燃料としたロウソクが、何百本も独特の匂いを放ちながらゆらゆらと揺れている。
さらにその前で、100人ぐらいのお坊さんの読み上げるお経が、ハーモニーとなって寺院全体に共鳴している。

こんな怪し気な場所に来たのは、生まれて初めてだった。
ぼくの中の神聖なイメージとは、あくまでもキリスト教的なイメージであり、決してこんなおどろおどろしいものではなかったのだ。
でも、チベット国民全員が、一人残らずこれらの怪し気な神々を神聖なものとして、また、この空間で行われている怪し気な儀式を、神聖かつ、崇高な儀式として捕らえている。
これが彼らにとっての神のイメージなのだ。

それは揺るがしようのないもので、当の本人達にとってみればちっとも怪し気でも何でもなく、もう全く当たり前のことであり、彼らにとってみれば、セックスしているブッダだろうが、鬼のような三つ目の怪物だろうが、何の不思議もなく神様なのである。
つまり、それが常識なのだ。

ぼくが旅に出て一番痛感したのは、常識とは決して一つではないということ。
この世の中に国があれば国の分だけ、もっと言って、人がいれば人の分だけ、常識は存在するということ。
そして絶対的な常識などというものは、決して存在しない。
キリスト教的な神聖さもあれば、チベット仏教的な神聖さも同時に存在する。
それはまぎれもない事実であり、どちらが正しいかなんて誰にも決められない。
世界には数えきれないくらい色んな価値観があるのだ。
チベット仏教の怪し気な神様達は、ぼくにそんなことを教えてくれた。

こうしてぼくの中の神様のイメージは、そうした怪し気なものも加わって、ずい分ユニークなものとなったのだった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぜいたくな話

豊かさのことを考えるとき、ぼくはごく当たり前のこととして、物やお金の量を基準にして考えていた。 単純に。
だから、当然のこととして日本を含む先進国の国々は豊かなものである、と思っていたし、反対に物やお金のない発展途上国は貧しいものだ、と思っていた。
そしてそれらの考えから導き出されるごく普通の結論として、先進国イコール幸せな国々、発展途上国イコール不幸せな国々、と何の疑いもなく思いこんでいた。

でも、最近よく思うのだ。 例えば、リサイクルの話。
もう今となっては、リサイクルはほぼ常識的なこととして定着しつつある。
少し前までは考えられなかったことだけど、要するに今まで捨てていたものを再生してまた使おう、ということである。
つまり、ゴミの再利用だ。
今の先進国では、ゴミを捨てずにまた使うということがほぼ常識となっているのだ。
そこで思い出したのが、南インドのミールスというカレー定食のこと。

インドという国はかなり大きな国なので、北部と南部とでは文化も人も習慣もかなり違ったものになっている。
南インドの人達は、もともとインドに住んでいた原住民の血を濃く受け継いでいるため、北部に住むアーリア系の人達とくらべると、全体的に色も黒く背も低い。
言葉もヒンドゥー語ではなく、タミル語という南部特有の言葉を使っている。
これは、北部の人達に対する反発という意味合いも込められているのだが、やっぱり南の国の人達なのでふだんは穏やかだし、とてもにこやかに暮らしている。
北に対する反帰属意識は強いものの、実際はのんびりした人達だ。
北部のような、ケンケンゴウゴウとした殺伐さがない。
そして海辺の町が多いため、しぜんと服装も原色に近い色彩豊かなものになっているし、またそれらが黒い肌によく映える。 何だか色や光で溢れているイメージがある。

そんな南インドで主食となっているのがミールスだ。
これがまた、いかにも南国風情あふれるもので、何と食器の代わりにバナナの葉っぱを使っている。
大きな葉っぱにてんこもりのご飯と、あらゆる種類のカレーがどっさりと盛り付けてある。
野菜が豊富なため、北部では見たことのないような種類のカレーもあって、これがまたおいしい。 辛くないのだ。
野菜の甘味がふんだんに味わえるので、香辛料のキツさをそれほど感じない。
もっとまろやかなものなのだ。
ずっと北のほうを旅していたぼくは初めてこれを食べたときちょっと驚いて、インドカレーというものを見直してしまったぐらいだ。
さらにお代わりし放題なので、それこそお腹いっぱい食べられる。
そうして食べ終わったあとは、バナナの葉っぱをポイッと捨ててしまうのだ。
そう、洗わずにポイッとね。 このことを思い出したのだ。

ぼくは、日本で生活していてご飯を食べ終わったあと、いっつも思うんだけど、食器洗いというのは何でこうも煩わしいんだろう。
ちょうどお腹いっぱいで気持ちよくなっているそのときに、油だとか、こびりついたご飯だとか、なかなかきれいにならない食器達が、流しのところに山積みになっているのを見るたびにうんざりする。
何で、洗い物ってせないかんのだろうなあ、と。

そこでバナナの葉っぱなのだ。食べおわったら、ポイッと捨ててしまえる。
放っとけば土に還るし、無くなったら木からもぎ取るだけでいい。
こんな便利なことがあるだろうか。 これこそ、自然である。
エコロジーである。 そして、とてもぜいたくな話なのである。
だって、考えてもみてよ、イギリスや、フランスの王侯貴族だって食器は洗ってんだぜ。
銀の食器を捨ててしまうわけにはいかないからね。
食ったら捨ててしまうようなぜいたくなマネは、とてもじゃないけどできるもんじゃない。

インドでは他にも、チャイというミルクティーの素焼きの器なんかも、飲んだらポイッと捨ててしまう。これはなかなかかわいらしい器なので、ぼくなんかは少し躊躇してしまうのだが、インド人は豪快にたたきつける。
そんな様子を見ていると、なんだか自分がみみっちい、せこい人間に思えてくる。

豊かさとは決して、物やお金のことだけでは計れない。
例えば、このバナナの葉っぱのような豊かさだってある。
色彩や、光のあふれる豊かさだってある。
ぼくは旅に出るまでそんなこと知らなかった。
世の中にはそんな種類の豊かさが存在すること自体、全く気が付かなかった。
まさか発展途上国の人達が、実は、イギリスやフランスの王侯貴族よりも
ぜいたくなマネをしているとは夢にも思わんかった。

そして今日も山のように積み上げられた食器を前に、全部ポイッと捨ててしまえたらいいのになあ、と思ってしまうのだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

上海タワー

前回インド人のファッションについて書いていて、もう一つ物凄いのを思い出した。
見た目は違うんだけど、感覚としては似たようなものだろう。
それは、インドとともに世界を二分する超大国、中国である。
長きにわたる、人民服生活のせいなのか何なのか、中国人のファッションセンスは凄まじい。
時代遅れなのはよく分かるが、それだけでは済まされないものがある。
10年程前の流行をさらに中国式にアレンジして豪快に着こなすのだ。
そのファッションは他のどの国にも似ていない。 まさに中国オリジナルである。

ぼくは、ジャッキー・チェンや、ブルース・リーが大好きで、彼らの中国服姿はとても格好いいと思うのだけど、それと現代の中国とのギャップを嘆くのは、例えば西洋人が今の日本を見て、なぜ今の日本人はサムライスタイルでないのだ、と嘆くのと同じことなのだろうか。
でも誰が何と言おうと今の中国ファッションよりは、カンフー映画に登場する、りりしい中国服姿のほうが何倍も格好いいと思うのだ。

まあ、でも、ファッションもさることながら、もっと凄いものをぼくは上海で目にしてしまった。
それは上海のランドマークにもなっている、東方明珠塔、上海タワーである。
それを最初に見たとき、すぐさまぼくは、手塚治虫のマンガを思い出した。
マンガに出てくる近未来都市の建物そのものだ、と思った。
丸いおだんごにマッチ棒を突きさしたようなあの塔は、世界中数ある塔の中でも恐らく最も忠実に、頭の中の未来都市というイメージを具現化させたものだろう。
ぼくはしばらく放心して上海タワーを眺めていた。

何がおかしいのかよく分らないけれども、あの塔には確実に違和感を感じる。
あんなふうに、さもこれが当たり前であるかのように、でん、と建っていられると
ぼくは違和感と同時に恐怖すら感じてしまうのだ。
なるほど、中国ファッションを身にまとう人達が上海タワーをつくるのだ、と妙に納得はできるのだが。

何だか得体の知れないパワーや、エネルギーが中国には渦巻いている。
それは自分達のすることや考え方に、何ら疑問を抱かない絶対性から来るものなのだろうか、そのパワーは圧倒的で、中途半端な心持ちではあっという間に飲み込まれてしまうほどの力強さがある。
それは自分自身を信じることの強さなのかも知れないし、それこそが人間が生きていくうえでの生命力、と言えるものなのかも知れない。

中国人のファッションセンスや上海タワーは、ぼくにそんなことを考えさせた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ファッション

ぼくがまだ旅を始めたてのころ、タイで出会ったインド帰りの日本人が言っていたことをよく覚えている。
それは今思い出してもなるほどなあ、と思うのだが、彼はインド人のファッションについてポロッとこう言った。

「インド人っていうのはルンギ着てるとあんなにも格好いいのに、何でGパンはくとああもダサくなるのかなあ。」

ルンギというのは、一枚の布を腰に巻き付けてはく、ズボン代わりのようなものでスカート状になっている。 もともとはインドの伝統的なものなのだが、現在では田舎の人や、下層階級の人達の履くものとなっており、金持ちや若者達にはあまりはかれない。

だけど、上半身裸でルンギを着けて力仕事をしている人達なんか見ると、これが本当に格好いいのだ。
引き締まった褐色の肌が汗で光り、ルンギをからげながら働くその姿は、思わず見とれてしまうぐらいだ。
なんだかりりしさのようなものを感じる。

反対にお金持ちや、若者は何を着ているかというと、Gパンを履いている。
たいていムチッとしたやつだ。
シャツの裾はきっちりと中にしまい込み、胸元のボタンなんかちょっと外してワイルドに胸毛なんかもはみださせている。
そうしてヒゲをたくわえて、一昔前のサングラスをかけている。
これが本っ当にダサイ。
もう見てたら不快になるぐらいダサイ。
しかも当の本人達は、そのスタイルを本気で格好いいと思ってやっている。
ふざけているのではなく、本当に心底それがいいと思っているのだ。

そんなだから見てると何だか腹が立ってくる。
もう、そんな格好した若者が自信満々にぼくに話しかけてきたりした日には、疲れがどっと出てしまう。
ただでさえ厚いインドなのに、暑苦しさが2倍、3倍にも増すような気がしてくる。
何であんなにダサイんだろう。 それは、こういうことなのか。

例えば日本人は洋服よりも、和服のほうが似合うに決まってるだとか、西洋人がスーツが似合うのは当たり前だとか、そういったレベルの話なのだろうか。
どうも違う気がする。
広場のまん中にラジカセをおいて、マイケル・ジャクソンの「スリラー」を流しながら得意げに踊るインド人と、輪になって喜んでそれを見守るインド人。
そんな人達とは決して一緒ではないと思うんだけど、そういえば、昔、日本にもそういう光景があったような気もするしなあ。
ただの時代遅れということなのだろうか。

一体全体どうしてルンギ着てるインド人は格好よくって、Gパン履いてるインド人はダサイんだろう。今だにぼくにはよく分からない。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。