ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド

街を歩いていてふと思った。 日本は清潔な国だと。
光がすみずみまで満ち満ちている。

ぼくはロサンゼルスのダウンタウンを
歩いているときのことを思い出した。
華やかな表通りを歩いていて道に迷い、
ほんの一本路地の裏手に回ったら、そこはまるで別世界だった。
閑散としていて、何もなかった。
しかし、よく見てみると、建物の影に人陰がうごめいている。
ぼろぼろのアル中が、
ペーパーバッグに入ったウイスキーを片手にうずくまっている。
目つきの鋭い若者たちが、何人かでたむろっている。
自分はエイズ患者である、とアピールした看板を掲げた物乞いが
小銭をもらえるのを待っている。 それら、全てが黒人だった。

ぼくはその光景に戦慄を憶えた。
ここから百メートルと離れていない表通りの喧噪との格差に愕然
とした。
表通りと裏通り。 光と影。 
眩いばかりのショッピングモールの立ち並ぶ表通りとは対照的に
そこはまさに光の差さない裏通りであった。 
まるで中近東の砂漠の町のように荒涼としていた。
ぼくは怖じ気づいて、すぐさまもと来た道を慌てて帰った。
そして表通りの明るい喧噪に安堵した。

そのような、街の決定的な二面性は、
多かれ少なかれどんな街にもあった。
東南アジアにも、ヨーロッパにも。
バンコクの街ではお祭り騒ぎのようなカオサン通りの裏道で、
五、六歳の少年がひたすらシンナーを吸っていた。
悲惨だな、と思った。
海外ではどこの街でも、自分のすぐ目の前に、
ギリギリのラインでかろうじて生きている人達が転がっていた。

日本の街を歩いていて思った。 全てが表通りだな、と。
そんなにシリアスな人達にはなかなかお目にかからない。
ワイルドサイドを歩けない、
日本にもきっといるはずのそういう悲惨な人達は、
一体どこで暮らしているのだろう?
ある意味、外国の彼らは幸福なのかもしれない。
ワイルドサイドにはワイルドサイドの住人がいる。
ワイルドサイドを見つけることのできない、
日本のワイルドサイドの住人達は、
さぞかし不幸なことだろうなあ、辛いんだろうなあ。

そんなことを考えながら街を歩いた。
街は今日も昨日と同じ顔をして、光に満ち溢れていた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ドゥ・ユー・ハブ・エニィ・チェンジ?

ドゥー・ユー・ハブ・エニィ・チェンジ?
海外へ行くとよくこう聞かれる。
高額紙幣だとお釣りがなくって使えないのだ。
それはアジアの国に限らず欧米諸国でもそうだ。
100ドル札なんかだと何するにしても結構嫌がられる。
何でだよ、って思う。 そんぐらい用意しとけよって。

日本ではまずこんなことはない。
たまにコンビニなどで、
千円札が不足してますっていうのは見かけるが、
断られたことなんてぼくが記憶する限り一度もない。
何故だろう?
それはコンビニの店員さんが頻繁に両替に行くからだ。
日本人はまじめなのだ。

インドみたいに両替えするのに何時間も待たされるような国は論外としても、ヨーロッパやアメリカだったら問題なくできるだろう?
何でやらないの? 
答えは簡単だ。 面倒くさいからだ。 絶対そうだ。
まぁ、なくなったらしょうがないか、
ぐらいにしか思っていないのだ。

こういう傾向はそういった些末な部分だけではおさまらず、
広くその国の経済状況、商品づくりにも顕著にあらわれる。
例えばボールペン。
何で買ったばかりなのに書けないのか。
理不尽にもほどがある。
あと、乾電池が新品のはずなのにいきなり切れたりだとか、
ノートの紙質が見たこともないぐらい悪かったりだとか、
数えはじめたらきりがない。

もう一度言っておくけど、これはアジアの話ではない。
歴とした先進国といわれている国々での話だ。

それに比べたら日本製品というのは本当にすばらしい。
どうして世界で日本製品がもてはやされるのかがよく分かった。
それは実際に比べものにならないぐらいいいからだ。
優秀だからだ。
外国製品には繊細さがない。
日本のものにはボールペンひとつとってみても、
歯ブラシひとつとってみても、繊細さがうかがえる。
滑らかな書き味、
デリケートな歯ぐきを優しく守ってくれる柔らかなブラシ。
あんな、インクがかすれてるペンだとか、
磨いたら傷だらけになるような歯ブラシだとかは問題外だ。
繊細さのかけらもない。
そういう面においては日本という国は本当に感心する。
いらないストレスを感じなくてすむ。

ゆとりある生活というものが見直されてき始めている昨今、
海外でぼくが一番感じるのはその”ゆとり”だ。
しかし、ゆとりある生活というのは反面、
ボールペンが書けなくなったり、
一万円札が使えなくなったり、
という不便さも生じさせるだろう。

世界一テクノロジーの発達した、
便利な国に住んでいる日本人が、果たして、
そういった不便さに順応することができるだろうか?
ゆとりを持つってことは、
生活のスピードを緩めるということだ。
そうすれば物質的な面での豊かさは
大分レベルが落ちるだろう。
どっちだろう。
日本って国は、これからどっちに向かっていくんだろう。

どうかな。
例えばぼくは、
コンビニで一万円札が使えなくなったとしても、
平気なんだけど。多分。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アット・ニューヨークカフェ

サービスについてよく考える。
日本のサービスっていうのは
何であんなに機械的なんだろう。                 
代わりにロボット立たせときゃいいのにってたまに思う。
どうせ同じことしか言わないんだから、
人間である必要なんてない。
いつも同じ笑顔なんだから、
笑った顔のロボットにやらせればそれですむ話だ。
感情のこもっていない笑顔なんて記号と同じなんだから、
笑ってますよ、と言う記号を貼りつけたロボットでいいじゃんか。
どうせ自分の頭では何も考えられないんだから、
決まった一定のプログラムを打ち込まれたロボットが、
同じリズムで同じことを
繰り返しやってりゃあいいじゃんか。

何で腹が立つんだろう?
何でこんな不愉快な気分になるんだろう?

ニューヨークに初めて行ったとき、
立ち寄ったカフェで働いているお姉さんに衝撃を受けた。
10年ぐらい前のことになるんだけれど、
今だに鮮明にそれを覚えている。

そのお姉さんはお客に紙ナプキンをくれと頼まれて、
あろうことか人さし指をぺろりとなめて
ナプキンを一枚取り出した。
とてもびっくりした。
もしぼくが同じことをお願いして
そうやって差し出されたりしたら、
ちょっと困ってしまうだろう。
お姉さんは忙しそうに働きながら難しそうな顔をして
ぺろっとそれをつかんでお客に手渡した。
でも、渡されたお客も別に気にする風もなく、
そのナプキンでふつうに口を拭いていた。

ああ、この広い世界にはそんなサービスもあるのか、
とそのときはしみじみ思ったものだった。
しかしその後、色んな国へ行ってみると、そういうような
光景はザラにお目にかかるということに気が付いた。
特にアジアの国なんかだと、虫が入っていたり
グラスが汚れていたりなんてしょっちゅうだし、
中には料理が出てくるまでに一時間ぐらい待たされる国だってある。
でもみんな別に怒ったりしないし、
席を立ったりということもない。
ぼくもつられて、まあいいか、と思ってしまう。
お互いかなりいいかげんなのだが、
まぁ気楽にいこうぜって感じでそれはそれで悪くない。

だけど不思議なことに、
同じようなことを日本でやられると腹が立つのだ。
何でだろう?
まあ、一時間待たされたりだとか、
虫が入っていたりだとかいうのは論外としても、
ぺろっとナプキンをなめるぐらいのことは
許せたっていいではないか。

ひとつ思ったことがある。
それはその人達が楽しんで仕事をやっているかどうか、ということだ。
楽しんで仕事をしている人達のサービスには
心がこもっている。
嫌々やってる人達や、適当にやってる人達には決して真似できないことだ。

ニューヨークのカフェのお姉さんの指先をぺろりとなめる
その行為は、見ていたぼくを圧倒した。
でも嫌悪感を感じなかったのは、
彼女が楽しんで仕事をしていたからだ。
そう、彼女はとても楽しそうに仕事をしていた。
楽しんで何かをしている人というのは、
周りの人間の心も明るくする。
ぼくはだから、こだわらなければいけないのは
形式ではなくって、気持ちの持ち方なんだと思うのだ。

いつから日本の社会には心が無くなってしまったんだろう。
魂が消えてしまったんだろう。
ぼくは本物が欲しい。 本当のことが知りたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぼくはいかにして旅に出たか – 全ての旅立ちたい人のために

日本という国が大っ嫌いで旅に出た。
世界を旅するようになった直接の動機はそれだ。
日本の社会構造、人の気質、文化、習慣、全てが嫌だった。

常に自分は周りから疎外され、
社会全体からノーと言われているような気がしていた。
日本という国を憎んでいた。
だから世界にはもっと自分にあった、住み心地の良い、
いい国がたくさんあると思っていたし、自分は日本を出て
そういう国に住むしかないのだ、と思っていた。

始めはアメリカに憧れた。 強烈に憧れた。
アメリカ的なファッション、映画、音楽、
全てが日本のものよりも魅力的に思え、
反対に日本のものは全てがそれらを真似た
まがい物のようでとても安っぽく思えた。
日本には文化などないのだ、
と大学ぐらいまで本気でそう思っていた。

とにかく何か漠然とした大きなものに
とても腹をたてていた。
それがなんなのかは明確に分からなかったため、
その怒りをどこに持っていっていいか分からず
毎日を悶々とすごしていた。 
                          
そして初めて旅に出た。 でもそれは旅というよりも、
2週間ぐらいのパッケージツアーで
いわゆる海外旅行といったものだった。
友だちと二人でニューヨークへ行ったのだ。
そのときは毎日が興奮の連続で、
映画でよく見るタイムズスクェアや、
セントラルパークに自ら立ったとき、
今まで実体性の薄いメディアの情報でしかなかったものが、
目の前に敢然と実体性をともなって存在したため、
自分が世界とつながったような気がしてドキドキしたのを
鮮明に覚えている。

 ”ああ、やっぱりオレの居場所はここなのだ、
   ここしかないのだ、オレは絶対ここに住んでやる”

と堅く誓ったのだった。 
そんな思いを抱きながら帰国した。
その後、自分がニューヨークで生活しているさまを
毎日頭に描きながら、
そのための資金をこつこつと貯めていった。

しかし、ひとつどうしても心に引っ掛かることがあった。
それはニューヨークに住む具体的な目的が
何もなかったということだ。
ただ漠然とニューヨークに住みたいと思っているだけで、
何がしたいっていうのは何もなかった。
ただ生活がしたかったのだから。
要するにアメリカ人になってしまいたかったのだ。
それであまりの無計画さに不安を感じ、
ある程度たまったお金で、一度、偵察がてらに
アメリカを旅してみることにした。
それが初めての一人旅となった。
そして実際に目的もなく2週間程滞在してみて得た結論は
ニューヨークには住めないということだった。
ああ、これは無理だなと思った。
決してそれは2回目に行ったニューヨークに
失望したわけではなく、やはり当初から危惧を感じていた
目的の不在が原因だった。
                          
そのときは観光気分だし、他の旅行者にも出会えるし、
とても楽しくすごすことができたのだが、
果たしてこれが生活となるとどうだろう。
よくよく考えてみると
とても無理だということがよく分かった。仕事や学校など
やらなきゃいけないことがあるのならまだしも、
ただ無目的に暮らすなんていうのは明らかに不可能だった。
それにその後、アメリカの色々な都市をまわってみたが
慣れてくると、大都市なんていうのは
みんな似たようなもので、旅の終わり頃には
あまり刺激を感じなくなってしまっていた。
アメリカという国の印象が、
自分の中で大きく変化していることに気がついた。
何だか慣れてしまえば日本とそんなに変わんないじゃん。
そんな風に思い始めていた。
アメリカ人やアメリカ生活なんて、
自分が思ってた程カッコよくなかった。

そして数年後、
ぼくの目の前にはアジア大陸が広がっていた。
想像もつかないアジアの国々が、でん、と待ち構えていた。
アジア人としてのぼくが、
アジア人としての自分自身を再認識するための鍵が
そこに眠っているように思えた。

ああ、そこ行けば何か見つかるんじゃないか、
いや、そこ行かなくちゃこの先
何にも見つけることができないんじゃないか、
そんな風に思ってぼくは2回目の旅に出るのだった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アン・オールド・ソルジャー 2

彼はそう言うと、自分の左腕をまくってみせた。
そこには、米海兵隊のいずれかの部隊の紋章であろう、カミナリのような入れ墨が、しわしわの肌にぼやけて彫り込まれていた。

 「どうだ、これを10ドルで売らないか?」

そもそもこのライターは、日本では当時、一万円前後で取り引きされていたような代物だったため、彼の唐突で、法外な要請には少なからず面喰らった。
それに、友だちがくれた大切なものだったため、もとより売る気はなかった。
その旨を伝えると彼は、20ドル出そう、とかすかな抵抗を試みたが、やがてあきらめ、名残り惜しそうに何度も眺めてはバスに乗り込んでいった。

ぼくのライターは彼に何を思い出させたのか。
彼のベトナムとは、一体どんなものだったのだろうか。

ぼくは、かつての米軍兵士に思いを馳せた。
彼の過去、そして現在。
戦場におもむき敵を倒し、来る日も来る日も死の恐怖と格闘しながら、幸運にも生き残ることができた彼は、一体、今、何を思い、どんな世界をみているのだろう。
きっとぼくの住んでいる世界からは、大分遠いところにいるのだと思う。

ベンチで座っていたあの日、短い時間、ぼくと彼の距離は触れあう程に近かった、が、その心の奥底の距離は、計り知れないぐらい、遠く隔たっていたことだろう。
ぼくは戦争を知らない。
爆撃や狙撃の恐怖を知らない。
人の死んでいくのを知らない。
かろうじて知っているのは、戦争のもたらした残骸だけだ。
ぼんやりとしたイメージだけだ。

過ぎ去りし日の海兵隊員は、ベトナムライターの向こうにどんな光景を思い描いていたことだろう。
そのとき、彼の心には、一体何が映っていたのだろうか。

みすぼらしく痩せて老けこんだ彼に、かつてのアメリカ海軍兵士の面影はまるでなかった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アン・オールド・ソルジャー 1

ベトナム戦争。 ぼくは、何故か、ずっと、ベトナム戦争に取り憑かれている。
このぼくと、何が関係している訳でもないのだが、
ベトナム戦争には強く惹き付けられるものがある。

何年かの後、とうとう、ベトナムへ行った。 米軍が焼いた、はげ山を見た。
化学兵器によってもたらされた、不幸な畸型児のホルマリン漬けを見た。
戦闘機をみた。 戦車をみた。 戦争の話をきいた—–

ぼくが初めてベトナムに行くよりも何年も前、ある友人が、ベトナムをひとりで旅した。 
当時、ベトナムへ旅行する人などというのは皆無に近く、今現在程、一般的ではとてもなかった。
ぼくにとってベトナムとは、辺境の、恐ろしい未開国ぐらいの印象しかなかった。
そんな国へ、友だちは果敢にも単独で旅行し、ぼくを驚かせた。
今まで聞いたこともないような旅の体験談は、そのときのぼくをとても興奮させたものだった。
そして、話の終わりに、これ、お前にやるよ、とあるものをぼくにくれた。
ライターだった。
それはベトナム戦争当時、アメリカ軍の海兵隊員によって使われたものであり、個々の兵隊の様々なメッセージが、それには刻み込まれている。
友人がくれたライターには、こう記されていた。

If I had a farm in vietnam, a home in hell,
I would sell my farm and go home.””

もし仮にベトナムに農場を持っていたとしても、私はそれを売り払って、地獄にある我が家へ帰ることだろう。ベトナムにいるよりは、その方がましだ。
簡単にいえば、ベトナムは地獄よりも辛い、ということだ。
これを持っていたアメリカ兵は、こんな思いを抱きながらベトナムで戦っていた。

過酷な条件下で何年もの間使われてきたそのライターは、メッキがはげ、泥を吸い込み、あちこち壊れかけていた。
しかし使い込まれた金属が、使い手の手の型に順応したその独特の曲線は、ぼくに戦場の緊迫したイメージを喚起させ、それを使う度に、さも、自分がその場に居合わせた兵隊であるかのような気分に浸らせてくれるのだった。

そんなライターをずっと使っていた。
それを持ってアメリカを旅していた。
ロサンゼルス、ハリウッドの目抜き通りでバスを待っていて、いつものようにタバコに火をつけた。
ぼくの隣には、痩せて、肌にしわの多い、おそらくみかけよりはずっと若いであろう、中年男性が座っていた。
彼はぼくのタバコを吸うのを目にとめると、しわがれた声で、火をかしてくれないか、と言った。
ぼくは、ああいいよ、とライターを渡すと、彼はタバコをくわえたなり、しばらくしげしげとライターを眺め、ぼくに向ってこう言った。

 「オー、ゴッド、お前、これを一体どこで手に入れたんだ?」

ぼくはどうして彼がそんな質問をするのか少し不思議に思ったが、自慢のライターに感心を持ってくれたことをちょっと得意に感じ、

 「ぼくの友だちがベトナムで買ってきてくれたんだ」

と、自慢げにこう言った。
彼はゆっくりとうなずきながら、ライターを何度も手のひらの中で転がした。
丹念に、丹念に、傷のひとつひとつを確かめるかのように眺めまわしたあげく、溜め息交じりにこう言った。

 「ボーイ、オレはベトナムへ行っていたんだよ」”

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ブラックファミリー・イン・アムトラック

ファミリー。 ファミリー。
今、改めてこの言葉の印象を考えると、
ぼくがアメリカを旅しているときに出会った黒人ファミリーが、一番、
イメージ的にピッタリ来る。
“家族”というんでなくて、”ファミリー”。

アムトラックというのは、アメリカ全土をくまなく走る大陸鉄道のことで、
ぼくは主にそれを使って、アメリカを旅していた。
サンフランシスコからシカゴまでは、そのアムトラックで2泊3日かかる。
寝台なんて高いから、もちろん普通のシート座席だ。
といってもアジア諸国のものに較べたら大分上等で、
リクライニングぐらいはスムーズにできる。
リクライニングぐらいはできるけど、2泊3日となるとやっぱり辛い。
3日目ぐらいには乗客達がやつれていくのが目に見えて分かる。
でも、寝台となると値段が倍以上も高くなってしまうので、ツラくても、
一般大衆は大体座席でがまんして移動する。
そんな彼らにまじってぼくもその列車にのっていた。 その中でのこと。

ぼくは初めての一人旅で、しかも、
その当時はまだ旅を初めて一週間かそこらの頃だった。
経験も浅く、旅の現実というものをまだあまり分かっていなかったため、
こういう長距離の移動に際しては、常に甘い期待を抱いていた。
そう、恋の予感だ。
ぼくの隣の座席に女の子が座るのだ。 金髪碧眼の美しいアメリカ人女性。
そんな彼女が、”エクスキューズ・ミー”といって、
チケットと座席番号をチェックしながら、ぼくの隣に座ってくれるのだ・・・

そんなふうに2泊3日のラブ・トリップを夢見て、
ぼくはどきどきしながら自分の座るべき席を探したのだ、が、
ぼくの席だと思われるその席には、果たして既に女の子が座っていた。
そう、確かに女の子だ、3才ぐらいの、小さな、黒人の・・・

その子はまん丸の目玉で、ぼくの顔をしばらくじっとみつめていた。
ぼくは苦笑いしながら、ハローといって荷物を棚にのせて席についた。
本当は、その子の座っている窓際の席がぼくの席なんだけど、
何だかその子はどいてくれる気配すら見せないので、
仕方なくそのままそこへ座った。
そして、そのまわりにはその女の子の姉妹を含め、
ファミリー達がどっさり座っていたのだった。
何故だか皆女性で、お母さんとおぼしき人から親類のおばさんから何から、ぼくのまわりをぐるっと取り囲んでいた。                   

いかにも黒人のおばさんで、太ってて、顔をくしゃくしゃにして笑う。
最初の内は、緊張しているせいか口数も少ないが、
2日も3日も一緒にいたらいやでも親近感が湧いてくる。
その日の夜が来るまでには、ぼくはその小さなエミリーちゃんと、
すっかり仲良くなっていた。

ぼくが英語の拙いことが分かると、あなたは一体、何語を話せるの?
と聞いてきて、日本語だよ、と答えると、
お母さんに向って、ジャパニーズだって、と、ひそひそ声でいちいち報告する。 
しばらくして退屈しだすと、おもむろに自分の鞄からぬり絵とクレヨンを取り出して、色を塗りはじめる。
そしてぼくにも塗れ、といって強引に手伝わせる。
するとその様子を後ろで見ていた姉さんが、ヤァ、彼、
今、猫の尻尾を塗っているわ、ハハハハハ、と皆に言って大笑いになる。
さらにぼくが何か食べようとすると、
お母さんがぼくの食べているものをいちいち検分して、
隣のおばさんと何やら論じ合い、大声で笑っている。
そしてぼくに向って、テレビ番組だか映画だかに、
あんたみたいな男が列車にのって旅するっていう話をあたしは知っているよ、みたいなことを言ってまた笑う。
いい暇つぶしの材料になっていたみたいだ。
そんなふうに車内の時間は過ぎていった。

しかし、次の日になってみんなが去っていってしまったとき、何だか、
心のどこかにぽっかり穴が空いたように、急に寂しくなってしまった。
隣のエミリーちゃんの席が妙に寒々しく思え、次にそこの席に乗り込んできた人が、変に他人に見えたのを印象的におぼえている。

独特の暖かさみたいなものが、ぼくの胸に残った。
それはぼくが知っている種類のものとは少し違ったものだった。
今思うとそれは、後々ぼくがアジアの国々をまわることになってから覚えた、アジア人達の暖かさと似ていると言ってもいいかも知れない。

大きくって、暖かくって、大地のようにどっしりとした安心感。
どっしり太ってて、大声で笑うお母さん。
黒人ファミリー達は、異国の地でたった一人旅するぼくを、
とても暖かく包んでくれた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

スニーカーガールズ

ぼくは昔、アメリカに憧れていた。 とても憧れていた。
その憧れ方というのはおそらく、人より激しいものだったんではないかと思う。
自分の頭に、金髪が生えてきてくれないか、と思うぐらいに憧れていた。

そんなに憧れていたぐらいだから当然、アメリカへ行ってみたいと思ったし、また、住んでみたいとも思った。
そして実際、初めて行った外国はアメリカになった。

アメリカ、ニューヨーク。

もっと知りたいと思い、今度は2ヶ月ぐらいかけてぐるっと一周した。
そのときに行った、シカゴという大都市でのことを、ふと思い出す。

ぼくは、日本という国は堅苦しいところの多い国だと思う。
へんに生真面目、というか。
フランクにこなれていないために、無性に肩がこったり、
気疲れしたりすることがよくある。
特に仕事など、そういう面において。
おそらく日本のそういう部分は、ぼくの目を海外に向けさせる要因のひとつになっていったのではないだろうか。
そういう意味でアメリカという国は、かなりユーモアの効いた国なのだろう。
堅苦しい場面においてもユーモアを忘れない。
いや、むしろそういう場面だからこそ、そうなのかも知れない。

シカゴというのは、大都市である。
超高層ビルの立ち並ぶその様は、ニューヨークのそれにひけをとらない。
大商業都市だ。
スーツをパリッと着込んだビジネスマンやOL達が、
さっそうと風を切って行き交い、
お昼どきにそんな街をぶらぶらしていると、何だか、
自分も世界の経済を動かしている人達の中に混じっているような気がして、ちょっと緊張したりもする。
何かそういう緊迫した空気が張りつめている。

ただあてもなく、ぶらぶら歩いているぼくまでも、
何だかいそいそとした気分にさせられるのだが、ふと、
OLさん達の足下をみてみると、何と、スニーカーをはいていた。
スーツを着ながら、だ。 しかも、一人だけでなくってけっこうな割り合いで、スーツにスニーカーをはいている。
これにはちょっと驚いた。 
ジャケットとスカートとスニーカー、というようなそんなスタイルは、今まで見たことはなかったし、考えもしなかった。
もちろん、とても違和感があるのだが、それにはむしろ、ユーモアに近いものを感じたし、あ、何かカッコイイな、と新しいファッションのように捉えることができた。
多分、ビジネス街に働く忙しいOLさん達は、歩きにくいハイヒールより、
歩きやすいスニーカーを選んだのであろう。
至極、合理的な思考法によって。
とても分かりやすいんだけれどもそれは、ぼくにとっては何だか、
緊迫した空気の中で、ほっと一息つける安らぎのようなものとなった。
とても小さなことなんだけど。

アメリカ的なセンスだなぁ、と思った。
ビジネスという固い雰囲気の中にユーモアを取り込むセンス。ポップなセンス。
OLさん達は活き活きしていた。
ピンッと背筋をのばして、
さっそうとスニーカーで弾むようにアスファルトを蹴っていた。
その表情には微笑みすら浮かんでいたのではないか、とも思う。
楽しんで仕事をしているような感じだった。
何だかかわいくって、とても魅力的だった。
そういうのって、パワーだと思う。
堅っ苦しい、いにしえのものの考え方や、陰湿な悪しき慣習、体質。
そういうものを吹き飛ばしてしまうパワー。
じめじめした暗いところに、
さっ、と明るい光を差し込むOLさん達の笑顔、スニーカー。
ぼくはそういう人達を応援したいと思う。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ベイルートで

ぼくは映画が好きで映画館にもよく行くし、ビデオなどもよく見たりする。
アクション映画からフランス映画まで、分けへだてなく何でも見る。
何か、興奮したり、泣きたくなったり、考えさせられたりするような作品が好きだ。
一言でいえば、感動する作品ってことなんだろうけど。

黒澤明という映画監督がいる。そう、世界的に有名な、かの「世界のクロサワ」だ。
ぼくは、そんなに多く彼の撮った作品を見た訳ではないんだけれど、一本、ぼくが今まで見てきた映画の中でも3本の指に入るような作品がある。
それは多分、誰でも一度は聞いたことがあると思うのだが、「七人の侍」という作品である。 これは本当にすごい作品である。
本物と呼ばれる様々なものは、時間や空間を超越する。
いつの時代になっても、どこの国においても、真新しさやその魅力が色あせることはない。 普遍性をもっている。
そういうものである。

ぼくはこの作品を見たときにそれを感じた。また、彼を彼たらしめたのも、この「七人の侍」という映画であろう。
世界中のたくさんの人達がこの映画をみて感動した。 心を動かされた。
ぼくはそのことが、ただ日本で大げさに吹聴されているのでなく、ああ、本当だったんだな、というのをレバノンの首都、ベイルートというところで実感した。 
ひとりのレバノン人老紳士によって、実感させられた。
ぼくは長い長い旅の果て、中近東まで来てしまっていた。
シリアだとかヨルダンだとか、入国する直前に名前を知ったような、訳の分からない国々の並ぶ地域、中近東。
そのイメージは、日本赤軍だとか、無差別テロだとか、内戦だとか、キナ臭く、血なまぐさいものばかりが思い浮かぶ。
レバノンという国は、それらのイメージが全部凝縮されているような国だった。
特にベイルートは戦火の跡も生々しく、無数の銃弾や砲撃の跡が残されており、倒壊寸前の建物がたくさん立ち並んでいる。
しかも驚いたことに、そこに人が住んでいる。
銃弾で穴だらけのベランダに洗濯物が干されたりしているのは、何だか不思議な光景だ。 この街での戦闘が、どれだけ激しく熾烈なものであったかというのは想像に難くない。
たくさんの人が死んだことだろう。

しかし今となっては旅行者が自由に入国できる程に落ち着いており、復興も物凄い勢いで進んでいる。 実際街のあちこちで工事をしているし、話によると数年前にくらべたら、比較にならないぐらい整備されているということだ。
もともとフランスの植民地であったレバノンは、その名残りが今でも残されており、街の中心地には中近東には珍しい小洒落たバーや、レストランがあって、洋食などもおいしく食べられる。
特に、中年男性にはどこかあか抜けた感じの人もちらほら見受けられ、スーツの着こなしなども粋である。 格好いいな、と思った。
そしてテレビもフランス語で放送されていたりする。 
レバノンという国はそんな国だ。

宿で、そのフランス語放送のテレビを訳も分からず見ていたときに、ふいに黒澤監督のニュースが流れた。
あっ、と思って隣で一緒にそれを見ていたレバノン人の老紳士に聞いてみると、彼は、亡くなったのだ、という。
少し茫然としたが、そのときは彼の作品を見たことは一度もなかったし、ただ有名な映画監督としてしか認識していなかったため、それほど大きな驚きではなかった。
それよりそんなぼくよりも、その老紳士のほうがよっぽど悲しそうな顔をしているではないか。
彼は言った。

「惜しいことをした、とても残念なことだ、まるで大切な友を失ったかのようだ」
そう言った。
そのことのほうがぼくには驚きだった。
こんなさい果ての国の名もない(であろう)ひとりの老人に、”大切な友”まで言わしめる黒澤明という人間は、一体どんな人なのだろう?
彼の撮ってきた映画とは一体どんなものだったのだろう? そう思った。
いっぺんに興味が湧いた。
そうして帰ってくるなり、彼の代表作である「七人の侍」を見るに及んだのだ。

彼の作品は国境を超えた。 文化、習慣、考え方のまるで違う人達に感銘を与えた。
人種や国籍や言語といったものを飛び越えてしまった。
すごいことだと思う。
それはきっと、人間全部が共通してもっている根っこのような感覚、または感情を捕まえることができたからなのだろう。
だからこそ、その老紳士は彼の死によって心を痛めているのだ。
行ったこともない日本という、はるか彼方の国の、ひとりの日本人の死に。
それは何だかすごくロマンチックなことのようにも、神秘的なことのようにも思えた。

よい作品というのはそんな力をもっている。
全く面識のない、人と人との心をつなぐ力を秘めている。
ぼくもそんな作品をつくりたい、と言いたいところなんだけど、でるのはため息ばかりだね。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

蚊帳と螢

季節外れで申し訳ないのだが、螢の話。 
蚊帳と螢。

先日ある一枚の日本画をみた。
明治生まれの女流作家によるもので、和服姿の女の人が蚊帳を吊っている。
彼女は蚊帳を吊りながら足下のほうに視線を落とし、その視線の先には一匹の螢が淡く光りながら舞っていた。
涼し気に着崩した和服姿の女性と蚊帳の質感は、うっすらと暑気の抜けた夏の夕暮れを思い起こさせるとともに、ある光景がぼくの脳裏に鮮烈に思い出された。

ぼくはまさにこんな光景を目にしていたのだった。
プリーという、インドのカルカッタから南へ電車で半日程の距離にある
小さな漁村でのことだった。
その村は本当に小さな村で、海沿いに漁師の集落がぽつぽつと点在し、古びた木製の漁船が浜辺のそこいらに放置されているような閑散としたところだ。
だが、南インドののんびりした雰囲気が味わえるためか、旅行者もよく訪れるし長居する人も多い。
実際それこそ時間が止まっているかのように毎日に変化というものが乏しく、あるのは南国の太陽と、ヤシの木と、灰色のさびれた砂浜だけだ。
おそらく何十年昔も大して変わりはなかっただろうし、この先の何十年も多分このままなんだろう。
ずっといたら頭がふやけてしまいそうだ。 本当の田舎がここにある。

でもそんな田舎の安宿にはそれなりに趣があって、木造二階建てで日光をさえぎった室内からは
さらさらと風になびくヤシの葉音が涼し気に聞こえ、それらは太陽光線によってキラキラと緑色に輝く。
そしてベッドには蚊帳が吊られている。
夜になるとその蚊帳を下ろして、遠くさざ波を静かに聞きながら眠りにつくのだ。
蚊帳の中というのは個人的な、自分だけの特別な空間のような、何だか贅沢な、ちょっと不思議な感覚がある。

そんな自分だけの城でいつものように眠ろうかと思ってふと気がつくと、暗闇の中に螢がとんでいた。
あっ、と思ってまわりを見回すと、3,4匹空中に舞っている。
するとそのうちの一匹が、ぼくの城の片隅に停泊した。
淡く緑にゆっくりと螢光している。
窓からさらさらと吹き込む涼しい夜風にかすかに吹かれながら、うっすらと聞こえてくるさざ波を耳に、自分だけの特別な空間で、宙を舞う淡い緑の明滅を、夢か幻のような心持ちでうっとりと眺めている。

そんなのは初めてだった。 初めての経験だった。
テクノロジーの発達した、現代、と呼ばれる近代社会で育ったぼくは、そんなの知らなかった。
アスファルトやコンクリートは利便性やスピードといったものと引き換えに、当たり前のようにそこらに転がっていた、風流なできごとを失った。
ただそれらのできごとは、昔話として心象風景に成り変わって、ぼくの心に何となく残ってはいたのだが・・・

だからその光景を目にしたとき、ぼくは、何だか懐かしくて切ない気持ちになったし、自分の子供のころのことを考えた。
そして美術館でみた一枚の絵によってこれを書くに至った。
きっと、あの女の人はぼくの体験したような風流なできごとを、それこそ毎日、当たり前のように目にし、体験していたんだろうな、と思うと、なんて優雅な世界に生きているんだろう、と思わずにはいられない。
驚きすらおぼえる。 

テクノロジーにそういった風流は生みだせない。
忘れちゃいけないな、と思う。
たとえ近代社会の中で、それらのできごとは淘汰されていく宿命にあったとしても、昔の人が持っていたような感性や風景は、何らかの形で残していかないといけないと思う。
もしそれらが失われてしまったら、味気のない、カスカスした、面白味の何もない人間が、大量に生産されていくだけだろう。
重要なのは、いわゆる人間味というやつだ。

人間にとって、夜、遠くから聞こえるさざ波や、蚊帳の中から見る螢の飛翔する風景は、宝物なんだと思うけど、どうだろう。
そしてぼくが一枚の絵を見てこんなふうに感じたように、それらを知らない誰かに伝えることこそが、芸術の役割なのではなかろうか。
そんな風に思う。
蚊帳と螢から、とりとめもなく考えた色々なこと。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。