「理見ちゃん、ヘロインってやったことある?」
「ヘロイン? そんなに何回もやったことはないけど、一応あるわよ。チベットでヒッチしてる途中にエベレストのベースキャンプでやったわ。一緒にいた人が持っててね。でも、確かに凄かったけどあんまり好きじゃないかな。あの感じ。ぐったりするし……。智はやったことあるの?」
「俺、プシュカルにいたときに、たまたまゴアで会った奴らと再会して、そのとき偶然手に入れたんだ。もっとも、手に入ったのはヘロインでなくってブラウンなんだけど。だから最近ちょくちょくやってるんだよ」
「プシュカルで? 良く手に入ったわね。インドではあんまりヘロインとかブラウンなんて見ないから。どう、どんな感じ?」
「俺は初めてだからそれがどれ程のものなのか良く分からないけど、そいつらは凄いって言ってたよ。俺も確かに凄いとは思うけど」
「それ、今持ってるの?」 

意味ありげに理見は微笑んだ。

「うん」
「ちょっとやってみない?」
「いいけど、今日これからバスに乗るのに大丈夫?」
「大丈夫よ、そんなの。まだ大分時間あるし」

理見にそう言われて智はブラウンのパケットを取り出した。そして鏡を用意して、その上にラインを二本引いた。その間に理見は、既にルピー札を丸めてスニッフィングの準備をしている。智は、そっとその鏡を手渡した。瞳を輝かせながら理見はそれを受け取った。そして一息つくと、ゆっくりと鏡の上のラインを吸い込んでいった。一本分全て吸い込んでしまうと、彼女は、目を閉じて効き目の表れてくるのを待った。そして智も、ベッドの上に置かれた鏡を手に取ると、同じようにその上のラインを吸い込んだ。

マナリーのチャラスがキマッた頭に、ブラウンシュガーがダイレクトに響く。今までとは違った波が、後頭部の辺りから智を襲う。その変化に少し不安を感じながら智が何とか乗りこなそうとしていると、陶酔した理見の声が聞こえてきた。

「これ、いいわよ、智、凄い……、何かチャラスと似てるけど、全く違うものが中に入ってきてる感じ……。ああ、凄いわ……」
「ヘロインとは違う?」
「どっちかっていうとオピウムに近いわ、でも、オピウムよりも断然強烈よ」

理見は、ブラウンの感覚を確かめるかのように再び目を閉じた。顔の緊張が解け、表情が和らいでいくのが分かる。ブラウンシュガーのもたらす効果をじっくりと味わっているように見える。それは、子供のように無邪気で、なおかつ落ち着いた表情だった。きれいだな、と智は思った。美しい彫刻を見るような心持ちで理見を見つめた。見ていると、とても穏やかな気分になった。ブラウンシュガーがだんだんと効いてきて、体が沈み始める。全身は微熱を帯びている。理見は、ゆっくりと目を開けると、先程までとは違う緩やかな口調で智に言った。

「智、私、ここに横になっていい?」
「ああいいよ、ちょっと待って、その辺の物どかすから」

そう言って智は、ベッドの上に散らばっている自分の衣類を手早くまとめると、全て床の上へ放り投げた。理見は、ありがとう、と言うとベッドの上に横になった。とてもリラックスした表情で彼女は枕に顔を埋めた。智は、その様子を眺めながら床の上に座り込んだ。壁にもたれかかると、冷んやりとして気持ちが良かった。空気が乾燥しているので、陽の差さない部屋の中はそんなに暑いわけではない。

マナリーのチャラス

「サトシ、サトシ」

気が付くと理見が呼んでいた。

「何、もうキマッちゃったの? ちょっと早すぎじゃない?」
「ああ、ごめん、ちょっと考え事してた」

そう言って智は理見にジョイントを手渡した。理見はそれを受け取ると、深々と煙を吸い込んだ。

「どう、これ、いいでしょう? マナリーのチャラスなの。ちょっと前に手に入れたんだ。
ちょうど去年の秋に収穫されたフレッシュクリームを山ほど持ってるイスラエリーがゴアに来てて、その時買ったものなの。ほら、ちょっとこれ、触ってみて」

理見はチャラスを智に手渡した。智は理見からそれを受け取って、手で揉みほぐしながら言った。

「話には聞いたことがあるけど、これがマナリーのチャラスかあ。凄いね、柔らかい。ぐにゃぐにゃしてる」
「マナリのチャラスの中でもそのクリームっていうのはね、数が限られててすぐ無くなっちゃうのよ。質がいいからね。更にそのクリームの中でも最上級のトップクリームは、毎年世界からバイヤーが買い付けに来るっていう話もあるぐらい。世界一のチャラスを作る国がインドで、そのインドの中でも最高なのがマナリーのチャラスだから、あながち嘘とは言えないかもね。裏の世界で秘かにそんな貿易がなされていたとしてもそんなに不思議じゃないわよね」

目に入る煙を嫌って、顔をしかめながら理見は言った。そしてジョイントを智に手渡した。智は、それがマナリーのものである、と意識しながらゆっくりと煙を吸い込んでいった。まだ見ぬ山深いマナリーの地で、インド人達が、大麻畑で葉を詰みながらチャラスを作っている光景が想像された。何だか牧歌的な光景で、おかしくって思わず笑ってしまった。智のそんな様子を見て気になって、何笑ってるのよ、と理見は尋ねた。

「いやね、インド人がマナリーの山奥で真剣な顔して大麻の葉っぱ詰んでるところ想像したらおかしくってさ」

智が笑いながらそう言うと、理見もその光景を想像したようで、釣られて笑い始めた。

「ハハ、何言ってるのよ、おかしな人ね。でも、よくよく考えてみると、絶対そういう風景ってあるんだろうね。だって実際山の中でインド人達が作ってる訳だからさ。何か、かわいいわよね。いい年したインド人のおじさん達が難しそうな顔して葉っぱこねたりしてて。考えたら笑っちゃうわ。ヘロインなんかも名前聞いたら恐ろしい感じがするけど、それこそタイとかラオスの山奥で同じようにそういうお百姓さん達が育ててるんだろうなぁ」
「あっ、そうか、それもそうだよね」
「ケシの花って見たことある? すっごいかわいいのよ。ケシ坊主って呼ばれてるケシの実なんて本当にかわいらしくって、あれがヘロインになるなんて嘘みたい。ヘロインだなんて言ったら、一気にシリアスな雰囲気になるんだもの」

少し間を置いて智が言った。

シガレットペーパー

そう言うと理見は、ポケットからチャラスの入ったパケットと、煙草とライターを取り出した。更に何か探し物をするようにポケットを探っていたが、どうやら見つからなかったらしく、智に、ペーパー持ってる?、と尋ねた。智は、ああ、持ってるよ、と言ってバックパックのポケットからシガレットペーパーを取り出した。それを受け取ると、理見は、チャラスをパケットから取り出してライターで軽く焙った。パラパラと指先で素早くほぐした後、煙草のハードケースを細長くちぎってくるくると丸め、口にくわえた。そして煙草を一本取り出して、それをライターで焙った。更にその焙られた煙草をばらして先程細かく砕いたチャラスと混ぜ合わせ、揉みほぐす。それからシガレットペーパーを二枚張り合わせて、口にくわえたクラッチを取り込んでいくと、それは上手い具合に煙草のフィルターのような役割を果たす。チャラスの混ざった煙草の葉はシガレットペーパーの上に乗せられる。

その作業を続けながら智の方には目を向けないで、いつも短いの使ってるの、と理見は智に尋ねた。

え、何が?、この紙よ、ああ、それね、そうだね、一人でやることが多いし、短いの使ってる

理見は、ちらっと智の方に目をやると軽く頷きながらまた視線を戻す。そうして器用にそれを巻いていき、その縁を、固く反らせた舌先で舐めあげていく。唾液で湿ったシガレットペーパーは滑らかな光沢を放っている。理見の一連のその作業は無駄の無いとても美しいものだった。うっとりと智はその様子を眺めた。

最後に理見は、出来上がったチャラスジョイントの余白をライターで燃やすと断面を平らにならすために灰皿にそれを押し付けた。朱く燃え上がった炎が魔法のように理見の白い肌を染めた。その光景は、智に、灼熱の炎の中で猛り狂うヒンドゥーの女神、カーリーを彷佛させた。夫であるシバを足下に平伏させ、生首をかかげながら赤い舌を垂らして天に向かって吠えている破壊神カーリーが、理見のその胸の奥に宿っているように思えた。理見の中にカーリーの姿を見た。心の底からそれに対する厳かな畏れのような感覚が自然と沸き上がってくるのを、智は感じていた。理見のその姿に目が釘づけになった。

無言で自分を見つめる智に気が付いて、理見は、智に向かって問いかけた。

「どうしたの、智、何かボーッとしてない?」

智は、急に理見に話しかけられて我に返った。

「ああ、大丈夫、理見ちゃんがあんまり綺麗にジョイント巻くものだからつい見とれてた。本当、上手いよね」

少し得意気に理見は、そう?、と言って微笑んだ。実際、出来上がったジョイントは美しい円錐形で、とても綺麗な形をしていた。

理見は、それに火をつけると二三回強く吸い込んで、ペーパーの燃えている境目の辺りを唾液で湿らせた。そして吐息のように軽く息を吹きかけ灰を飛ばすと、それを智に手渡した。理見の大きな瞳は智の瞳を見つめている。智は、ありがとう、と言ってそれを受け取ると、二口三口大きく煙を吸い込んだ。感覚神経を麻痺させるように全身に煙が巡る。 サドゥーと呼ばれるインドの行者は、大麻的覚醒のもとに神への接近を図る。智は、ヒンドゥー教における最も偉大な神、シバをイメージした。全身青色の破壊神は自然界に君臨し、宇宙を司っていた。熱く燃える太陽のように厳しく、残酷に、そして慈悲深く、暗い宇宙を照らしていた。その熱い輝きによって大地は育まれ、また同時に、破壊されていた。智は、自分の体を焼き尽くさんばかりに照らしつける太陽に激しい畏怖の念を抱き、同時に、砂漠の夜の漆黒を一瞬にして光で満たすその輝きに、深い慈愛を感じた。その圧倒的な力の前に、自分はなんて非力なのだろう、と気の遠くなる思いがした。またも、全身が脱力していった。

スイッチが切り替わる

「そう、いいキノコになると本当凄いからやってみなよ。その時なんて、私、凄かったんだから。どんどんどんどん若返っていって、子供になって赤ちゃんになって、最後にはお母さんのお腹の中に戻っていったの。それでそこから更に、もっともっと小さくなって、魚みたいになって、そしてしまいには眩い光の世界が突然現われて、その中に吸い込まれていったの。そうしたら自分の中の何かがスイッチが切り替わるみたいに急に切り替わって、体の感覚が無くなって、自分が生きているのか死んでいるのかも分からない、とても混乱した状態になったのよ。自分の目の前にあるものすら触れることのできないっていう感覚って分かる? 想像してみて。ちょっと怖いでしょ? でもその時は怖くなかったの。全然怖くないの。自分の体の輪郭が無くなって周りの空間に溶け込んで一体化しちゃう感じ。分かる? すっごい気持ちいいのよ。エッチなんて全然比べものにならないぐらい。服とか、自分が身に付けてるものが変に気になって、そう、違和感を感じるの。だから全部脱いじゃって素っ裸になると、本当に自然が私を受け入れてくれているような気がして、凄く感動するのよ。ねぇ、子供がはしゃいでるときって、すぐ服脱いで裸になりたがるでしょう? 多分あれと同じような気持ち良さを感じてるんだと思うの。私、子供達の気持ちがとても良く分かったわ、ああ、自分は祝福されてるんだって。自然は自分のことを受け入れてくれているんだって。もう少しキマッてたら確実に裸で外、走り回ってたわ、きっと。そうでなくても一希が、私が出ていこうとしたりするのを必死で止めてたもん。本当、彼には迷惑かけたわ。あっ、ごめん、私、あの時のこと思い出してたら興奮しちゃって。ちょっとフラッシュバックしてたわ、今。大丈夫? サトシ?」

智はただ呆然とその話を聞いていた。理見には、一希のことで自分に対する後ろめたさは何もないようだった。今の話から察するところ、一希は確実に理見の裸を見ている。もうそのことだけで嫉妬心で頭がフラフラした。一希のことを智はとても羨ましく思った。理見は、自分の裸を一希に見せることに、別段、特別な感情は持っていないのだろうか。一希だけでなく、他の誰に対しても? その調子でセックスもしてしまうのだろうか。

「でも、本当に気持ちいいのよ。感動で全身が震えるの。そして涙が溢れて止まらなくなるの」

もう智には、理見の言っていることが頭に入らなくなってきた。ただの妄想であってほしい、と秘かに願っていたことの殆どが、次々に理見の発言によって現実化されていく。しかも軽いテンポで次々と飛び出してくる。智は、再び重たい疲労を感じた。本当にそのまま倒れ込みたい気分だった。

理見は、バンダナを外すと頭を振って手で髪をとかし、もう一度それを巻き直した。

「せっかくだから、ボンしない? 約束だったしね」

唐突に理見はそう言った。智は、俯いた顔を勢い良く上げて理見を見た。

「でも、大丈夫なの? 時間あんまりないんでしょう?」

もちろん智は、その問いかけが否定されるのを前提として理見にそう言った。

「お昼過ぎのバスだからまだ大丈夫よ。十時間以上乗らなきゃいけないし、ちょっとキメていかないとしんどいでしょ。私、いつも長距離移動するときは、チャラスを巻いて持っていくわ。そうすればぐっすりと眠れるから」

二人で

智は、理見のそんな質問にはあまり魅力を感じられず、少し投げやりな気分になった。もっと、理見に対する自分の気持ちを刺激してくれるようなやりとりを期待していた。

「最悪だったよ。ラクダに乗ってただひたすら砂漠を行くだけ。野宿だし、ラクダ使いのじいさんは金のことばかり言ってきて鬱陶しいし……。行かない方がいいよ、あんなの」

苦笑いしながら智はそう言った。理見は、智の話を聞いているのかいないのか、黙って智の顔をじっと見つめている。

「ちょっと焼けたね」

理見は、智の顔を覗き込んだ。

「痛くない? 赤くなってるよ」

そう言うと理見は、智の頬をそっと撫でた。智は、全身が痺れるような感覚を得て、少しの間放心した。それは恐らくほんの数秒のことだったろう。しかしその短い時間、智は、全てが静止したような、音も映像も何もない、全く別の空間へと飛翔していた。それは智にとって限り無く永遠に近いものだった。

不思議そうに智のその様子を覗き込む理見の瞳が、智を現実の世界へと引き戻した。

「あのさ、理見ちゃん、俺、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

ぎこちなく智は理見に言った。

「何?」
「プネーには一人で行くの?」

硬直した笑いが智の表情に貼り付いた。もちろん智は一希のことを気にかけている。どうか、一人で行く、という言葉を聞きたかった。一希と二人で行くなんてことは、間違っても理見の口からは聞きたくなかった。智は不安だった。理見は、そんな智の内心の動揺など全く気が付いていないらしく、簡単にこう言った。

「一希と二人で行くの」

それを聞いた智の全身は、重く、地面に吸い込まれて行くようだった。苦いものが腹の底から口の中に込み上げてくる。冷や汗が吹き出し、顔から血の気が引いていった。激しい疲労を智は全身に感じた。ぐったりと体が前のめりに倒れ込んで行くようだった。

「私、今一希と部屋をシェアしてて、私がプネーに行くって言ったら、彼も一緒に来るって言うから二人で行くことにしたの。そういえば智には変なとこ見られちゃってたわよね。あの時は一希が持ってたキノコ食べてて、思いっきりブッ飛んでたの。あんまりそれが凄かったものだから……。ごめんね、みっともないところ見せちゃって。でもそのキノコ、本当に凄かったのよ。あんなのって久しぶりだったわ。智は、キノコって食べたことある?」
「いや、ないよ……」

プネー

翌朝、誰かが部屋の扉をノックする音で目が覚めた。余程深い眠りに落ちていたらしく、その音を聞きながらもかなり長い間智は対応できないでいた。それが夢なのか現実なのか判断できなかったため、体の欲求に任せるがまま眠り続けていたのだ。しかし、放っておいてもその音は鳴り止むことはなく、断続的に続くので智はとうとうベッドから体を起こした。そして不機嫌に返事をしながら扉を開けると、そこには理見が立っていた。智は、ぼやける目を見開いて、そこに立つ美しい女性を眺めた。

「理見…ちゃん」

言葉にならない昂揚感が静かに智の全身を下りてゆく。理見は、少し照れ臭そうに智の顔を見つめている。

「この前来てみたんだけどいなくって。キャメルサファリ行ってたんだって? そう聞いたから今日来てみたの。ごめん、起こしちゃった?」

伸びかけの髪が気になるのか、頭を黄色いバンダナで覆っている。瞳は、黒く、しっとりと濡れている。そんな理見を見ていると、智は、体が溶けていってしまうようだった。液体になって散らばって、流れ出してゆく。彼女の存在は周りの空間を、熱く熱していた。

「入ってもいい?」

理見は智にそう言った。智は、我に返って、ああ、入ってよ、と返事をした。部屋に入ると理見はベッドに腰を下ろした。

「ごめん、来るなんて思ってなかったから散らかってて……。ちょっと片付けるよ」

ベッドの上には智の下着やタオルなどが乱雑に散らばっている。

「ああ、いいの、すぐ帰るから」

理見は智にそう言った。その言葉は、一種の鋭利性を伴って智の心の一番敏感な部分を傷つけた。

「そう…なんだ……。急いでるの?」
「今日、出るんだ。お昼過ぎのバスでプネーへ行くの」
「プネーへ? 何しに?」
「ひょっとしたら私が探してる人がいるかな、と思って。あそこでも結構パーティーとかやってるでしょう? プシュカルからも近いしね。もうどうせこっちの方まで来たんだから、会えないのも何だか悔しいじゃない、だから探しに行ってみようかなって思うの」
「そんなに会いたい人なの?」

智は尋ねた。少し考えてから理見は答えた。

「会いたいっていうのももちろんあるんだけど、実は私、彼にお金を貸してるのよ。そんなに大金ではないしあんまり気にしてなかったんだけど、後々よくよく考えてみたら、積もり積もってちょっと返して欲しいぐらいの額にはなってるのよね。ちょうど今、私の所持金も寂しくなってきてるから、ひょっとして返してもらえたらラッキーかな、なんて思ってるの」
「彼は返してくれる?」
「分からないけど一応言ってみるわ。最低でも御飯ぐらいはおごらせる。ハハ、そんな感じだから私もあんまり期待してないしいいんだけどね。会えるかどうかも分かんないから。ただ、プネーって行ったことないし面白そうだから行ってみるのもいいかなと思って。もう、ジャイサルメールにいるのも退屈だしね……。あっ、そうそう、キャメルサファリはどうだった?」

コントロール

一体どれぐらいそうしていただろう。もうすっかり日は暮れていた。あんまり部屋が暗いので智は灯りをつけた。一本の蛍光灯だけで照らされる狭い部屋は青白く、壁の染みなどが不吉にぼやけて見える。結局、理見は訪ねて来なかった。

何だか智は、自分のことが間抜けみたいに思えてきた。自分が何をしているのか、一体何をどうしたいのかが良く分からない。ただ、理見に会いたい。とても会いたい。何故? 好きだから? 彼女のことを好きだから? 好き? 一回会っただけなのに? 俺は、彼女の何を知ってるっていうんだ? 好きだなんて言えるのはおかしくないか? どうかしてる、とても不自然だ……。何でこんなにも彼女に会いたいんだろう? それは彼女でなくてはいけないんだろうか? もしそれが他の適当な誰かであったとしたら、こんな風には思わないんだろうか? それが理見でなければならない必然性なんてあるんだろうか?多分俺にとって重要なのは、相手のことがどうのというのでなく、自分自身の感情なのだ。自分の心を慰めてくれる相手が欲しいだけなんだ。そんなので本当に相手のことを好きだと言えるのだろうか? 俺は、今までそんな風にしか人を好きになったことがないのではないか。俺は、人のことを本当に好きにはなれないのではあるまいか? 人を愛することができないのではないか? 理見に会いたいというこの抑えきれない感情は偽物なのだろうか。でも会いたい。どうしても会いたい、話がしたい、一緒にいたい……。

智は混乱していた。自分の感情を上手くコントロールすることができなかった。理見に対する自分の思いを冷静に分析することもできなかったし、彼女に会いたいという欲求を抑制するのは難しかった。

静けさの中で青白い蛍光灯が震えるように音を立てている。細かい小さな我の群れがその近くを舞っている。いくら強く捻っても止めることのできない洗面台の蛇口の水が、ポタポタと規則的な音を立てている。

智は、ひとり、頭を抱えて座っていた。こめかみに鈍い痛みを感じる。体全体が重く、倦怠感を訴えている。軽い吐き気を伴った痛みを胃の奥の辺りに覚え、下腹部が鉛を抱えたように重い。智は、その周辺を軽く叩きながら、体調崩したかな、と小さく呟いた。風邪の引き始めのような体のだるさも感じた。恐らくキャメルサファリの疲れが溜まっているんだろう、そう思って智はベッドに体を横たえた。軽い眩暈を感じたものの、それはそんなに気分の悪いものではなく、むしろ浮遊感を伴った心地の良い感覚であった。横になった体から疲れが抜けていくようだった。やはり少し疲れているんだ、智は改めてそう思った。

既に理見を待つのを智は諦めていた。できるだけ彼女のことを考えないよう努めた。彼女のことを考えて、一人虚しく踊るには少し智は疲れ過ぎていたようだ。

こめかみの辺りが鈍く痛む。

智は、小さなビニール製のパケットの中からチャラスを取り出すと、軽くライターで焙った。粘土の焦げたような匂いが一瞬辺りに漂う。柔らかくなったチャラスの表面を指で少しつまんでパイプに詰める。そしてライターでそれに火をつけ、ゆっくりと吸い込む。熱い大麻樹脂の煙が体を巡る。心地良い脱力感とともに、こめかみの痛みが消えてゆく。体が熱くなって疲労を癒す。各部の痛みは煙によって鎮静されてゆく。

智は、テープレコーダーのスイッチを入れ音楽を聴きながら、ひたすらぼんやりと天井を見つめていた……。

待ち続け

翌日、ジャイサルメールに戻った智は三百ルピーを老人に手渡した。ここへ戻って来る間も延々と金の催促は続いたが、それとは関係なく自然にその金を支払った。それにはむしろ感謝の気持ちが込められていた。何かかけがえのないものをその老人から教わったような気がするからだ。

宿に帰ると従業員がニコニコした顔で近づいてきて、ジャパニ、キャメルサファリはどうだった?、素晴らしかっただろう?、とうるさくまくしたてた。智は、いつものように、ああ、とても良かったよ、と適当にあしらって部屋に戻ろうとした。するとその従業員は何か思い出したように、ジャパニ、ちょっと待ってくれ、と智を呼び止めた。そういえばお前がキャメルサファリに行っている間に、ジャパニーズガールが訪ねてきたよ、と彼は言った。智は、その言葉に全身が硬直するのを感じた。そして物凄い勢いで彼の所へ駆け寄った。

「どんな感じの子だった?」

従業員は、智のその様子に驚いて口籠りながら言った。

「黒髪で、目のクリッとした色の白い……」

理見だった。

「それで、何て言ったんだ」

身を乗り出して智は尋ねた。従業員は、智の勢いに気圧されつつ、智がどうしてそんなに興奮しているのか訳が分からない、といった感じでこう答えた。

「今日帰って来るって言ったら、また来るって言ってたよ」
「いつ? 今日来るのか?」

智は、殆ど彼に挑みかからんばかりに問いつめた。

「いや、分からないよ、ただ彼女はそう言って帰っただけだから。ちょうどお前がキャメルサファリに出発した日のことだよ」

従業員は、智のその様子に呆れながら肩をすくめた。

その日、智は、ひたすら理見の来るのを待ち続けた。外出して入れ違いになるといけないので、極力、部屋にいるようにした。食事に行くときも寄り道せずにまっすぐ行ってまっすぐ帰った。かといって部屋では何もすることがなく、本を読んで時間を潰そうとしても内容が頭に入らない。気が付くと、同じ行を何度も何度も繰り返し読んでいたりする。諦めて本を置いて、果報は寝て待て、とばかりに眠ってみようとしてみても眼が冴えて全く眠ることができない。キャメルサファリから帰ったばかりで疲れてはいる筈なのだが眠れない。仕方なく智は、目を閉じたまま横になりそのままじっとしていることにした。

窓の外から微かにヒンドゥー語の会話が聞こえてくる。インド人女性が二人で何か話し合っている ―――    

満天の星空

彼の貸してくれた毛布にくるまって砂の上に寝転ぶと、星空が空一面に広がっていた。
まさに降り注がんばかりに夜空に輝いていた。智は、昔、子供の頃に行ったサマーキャンプで見た星空を思い出した。あの時もこんな景色を見て同じようなことを感じたように思う。その光景が鮮烈に蘇り、ちょっと懐かしい気分になった。こんな星空は、もう、何年もの間見ていなかった。見ていたこと自体、忘れてしまっていた。忘れてしまっていたことが、何の変哲もなくここでは普通に広がっている。智は、星空を眺めながら、まだまだもっと自分の中にこういった忘れられた思い出が眠っているんではなかろうか、と考えた。そしてそう考えると、少し寂しい気分になった。普通にあったものが普通に失われていく。その代わりにに得たものといえば何だろう? そういう美しい思い出の代わりに自分が得たものとは、一体何なのだろう……。今、自分が持っているものは、どれも形のはっきりした、想像力の欠けた味気ないものばかりのように思われた。目の前に広がっているこの満天の星空に比べたら、それらは、全く価値の無い、ちっぽけなものに過ぎないように思われた。

智は、両の手の平を夜空に向かって翳してみた。空は、大きく、広かった。とても届きそうになかった。でも、そうすることによって、ちょっとだけ自分の体が星空に近づいたような気がして、気持ち良かった。少しだけ開放された気分になることができた。するとちょうどその時、草むらの向こうから、突然、老人の高いびきが聞こえてきた。そのあまりの脳天気な音の調子に、様々なことを深刻に考えていた自分が智はとても滑稽なもののように思われ、馬鹿らしくなって眠ることにした。目を閉じると、智は、人生なんて案外簡単なものなのかもしれないな、と思い、心の中で秘かに微笑んだ。

次の日も同じような風景を同じように歩き、前日と変わらない同じような時間を同じように過ごした。ただ、食事をする際、木陰を見つけて荷物を降ろそうとすると、ラクダが命令に逆らって勝手にそこへ座り込んでしまった。そのため上に乗っていた智と老人は、木の枝や幹に激しく体をぶつけた。幸い二人とも怪我はしなかったものの、激昂した老人は持っていた杖で強くラクダを打ちつけた。ラクダは、さすがに老人を怖れて、首を左右に揺すって許しを乞うように鳴き声を上げた。それを見ていた智は、ちょっとやり過ぎではないかと思った。ラクダが不憫に思えた。しかし老人はなおもラクダを打ち続ける。

智達の食事が終わると、老人はラクダに餌を与えた。ラクダがそれを食べるのを見守りながら彼は、何ごとかをラクダに語りかけつつ、優しい手付きで頭から首筋にかけてを愛撫した。まるで父親が、愛するわが子を諭すような顔付きで、優しく語りかけていた。その時の老人の表情が、しっかりと智の脳裏に焼き付いた。まるでこの世の中の最も普遍的な優しさの総体を、その表情は表現しているようだった。智は、彼らがそうする様子をじっと眺め続けた。

ラクダは、強く厳格な父親に守られながら、ゆっくりと餌を食べていた。両者の関係は、最早、運搬用の道具とそれを操るものといった実用的な関係を超越し、そこには種族間を超越した親密さのようなものさえ生まれていた。その光景は、不毛の砂漠の世界の中で、一際明るく光り輝いていた。

野宿

ハッと我に返った智は、今、自分がラクダに乗っているという現実さえ妄想の領域に取り込まれ、そしてそれらの混乱したイメージと現実的な自分とが同じ座標上に位置し、抜け出せないでいることに気がついて狼狽した。意識の世界から抜け出すことができないという不安は、智に発狂への強烈な懸念を智に抱かせる。そして追い詰められた智は自然にインドという国を連想していた。

――― そうだ、インドという国自体がひとつの大きな妄想なのだ、意識の領域なのだ。物質的なリアリティの薄い、想像の産物なのだ ―――  

そう思った瞬間に、智は、最早インドという国に必要以上に順応し過ぎてしまっている自分を発見し、同時に、智にとってこの国から抜け出すことがとても困難なことのように思われた。長い間インドで生活をする内に、自分の知らない自分の内面の部分が随分と変わってしまっているようだった。もう他の国では暮らすことができなくなっているかも知れない自分を、智は不安に思った。

智がそこまで思いを巡らせていると、ジャパニ、ジャパニ、と老人の呼ぶ声がした。その声は、水の中に反響する音のように不確かに、ぼんやりと智の耳に入り込んで来た。夢の中からそれを聞いているような気分で、智は曖昧な返事をした……。

太陽は依然智の頭上で白く輝き、二人を乗せた一頭のラクダが土色の広大な景色の中を、ただひたすら真っ直ぐに進んでいく。それはまるで、その他には地球上に何も存在しないかのような光景だった。その中で智は、漠然とした不安を感じながら、ラクダの背の上で不安定に揺れていた ―――

その晩はひどく寒かった。昼間の灼熱の気候が嘘のように、まるで冬のように、ガタガタと歯を鳴らすぐらいに寒かった。このキャメルサファリという二泊三日の小旅行には宿というものがなく、持参してきたマットと毛布にくるまってその辺の適当な場所で野宿をするのだが、今の季節ならそれぐらいの装備があれば十分な筈だった。しかし、その日は思いのほか寒かった。運んできた毛布だけではとても不十分だった。

仕方なく智は、あるだけのマットと毛布で寝床を作っていると、ラクダ使いの老人が、ジャパニ、寒くないか、と言って自分の毛布を智に差し出してきた。智は、もちろん寒かったが、まさかこんな寒空の下老人を裸で寝かせる訳にも行かず、それを何度も断った。しかし老人は、頑なで断固として譲らず半ば強制的にその毛布を智に押し付けた。智は、仕方なく礼を言ってそれを受け取った。老人は、毛布の代わりに麻袋を一枚被って横になった。小さく丸まったその背中は、智の胸を熱くさせた。金にうるさく意地汚い人間として、心の中で軽蔑していた自分を恥ずかしく思った。老人のその優しさを智はとても嬉しく思った。