シバ神

徐々に出来上がっていくシバ神を眺めながら、テープレコーダーから流れてくる音楽に、しばし耳を傾ける。音のうねりは智の感覚神経をその絵だけに集中させる。そしてしばらくすると、思いついたように再び描き始める。そんな作業を延々と繰り返していった。そして日が暮れ始める頃には、ほぼ、その全体像ができ上がっていた。

微笑みながら踊るシバ神は、真っ直ぐに智の方を見つめていた。腰に巻いた腰布から無数の視線が智を見つめている。更に智は、その背後に般若心経の一節を漢字で書き加えていった。

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行色、亦不如是、………

インドに入ったばかりの頃バラナシで出会った旅行者に教わった般若心経を、メモを見ながら書いていった。書き終えると、自分で描いたその絵にある種の満足を智は見い出した。そして自分の眉間に指先を当て、更にそれをシバ神の額に当てて祈る動作をした。そして智は香を焚いてプジャーの形式をとった。香の煙の立ち上る中、絵の前に座って瞬きもせずに智はじっとそれを眺め続けていた。

部屋の中には西日が差し込んでくる。光は、煙の姿を空中に顕在化させ、その存在を強調する。影は、一切の物質を曖昧に闇の中に塗り込める。智の周りの風景は、存在と非存在の微妙なコントラストの上に成り立っていた。智の目の前の扉の存在など、今の智にとってはまるで無意味だった。それが存在していようがしていまいが智にとって大した差は無く、想像力の中の景色だけが今の智にとって全てであった。その対象に触れることができようができまいが、智のイマジネイションの中の世界では確かに存在していた。今の智が過去の思い出と同居することができている理由はそれであった。智は、今、過ぎ去った思い出の数々を目の前に無数に現出させることが可能であり、更にその世界に現実の自分を存在させることも可能であった。智は、未来すらもその手中に収めているような万能感に浸っていた。時間という概念など状況を区切っていくだけの無意味な目盛りに過ぎなかった。

智は、おもむろに立ち上がり、服を脱ぎ始める。Tシャツを脱ぐとそれから汗が滴り落ちた。Tシャツの布地は、もうそれ以上水分を吸い込むことができないくらいに濡れていた。見ると、智の体は、まるで水を被ったように汗を噴き出している。ジーンズも下着も同じように濡れていた。今までそれに全く気が付かなかったことに智は驚きを覚えた。

智は、服を全部脱いで素裸になると、静かに目を閉じた。そして音楽に合わせてシバ神の前で踊り始めた。絵の前で智は荒々しく踊った。そうすることによって、自分の中の霊的なエネルギーを絵の中に封じ込めることができるような気がしたからだ。裸で踊る智の前で、シバ神は薄らと微笑みを浮かべている。激しく体を揺さぶると、智の下半身はいつの間にか猛々しくいきり立っていた。針のような感覚が脳髄を貫き、智は床に倒れ込む。

――― 俺の犬歯、俺の刃、シバ、シバよ、自由と解放を、俺に、永遠の自由を、魂の解放を! ―――   

野良犬

犬歯のようなもの。

狩猟を忘れ、あのように醜く、腐った生ゴミを貪ることによってしか生き永らえられない落ちぶれた野良犬にさえ、未だその犬歯は白く攻撃的に光っていた。平面的に摺り潰された人間の堕落した臼歯などでは、獣の毛皮を突き破り、肉を引き裂くことなど到底できない。

その、犬歯のようなもの、を智は自分に顧みた。自分の内側にも外側にもそれは認められなかった。自分の身を守るための犬歯、餌を獲るための犬歯、鋭く切り裂くような精神性を持った犬歯、そんなものは自分のどこにも見い出せなかった。自分のどこにも備わっていないように思われた。

過酷な環境に立ち向かう頑強な肉体。自分を押しつぶす精神的な不安、焦り、そんなものを全て切り裂いて霧消させてしまうような鋭利性を伴った犬歯のような精神……。あのように醜い野良犬にすら、それらの物は全て完備されているように思われた。智は、被虐的な気分に陥った。

――― 自分は、あの醜い野良犬にすら劣っている ―――   

智は、果たして自分の中の何によって自己を確立し、自立し、安定させることができるのかを全く把握していなかった。自分という存在は、絶えず不安定に揺れていた。智は、確固たる自分の精神が欲しかった。あの犬歯のような精神、犬歯のような肉体、揺るがない自分。智は強くなりたかった。

部屋に戻ると孤独感は一層増した。小さな窓から差し込む明るい太陽が、余計に智を孤独にさせた。智は、バックパックを解いてバッグの底からLSDを取り出した。それはゴアにいる時に直規から買ったもので、ずっと使わずにとっておいたものだった。「イエロー・サンシャイン」という銘柄のそれは、細かくミシン目の入った薄いボール紙に黄色い太陽をモチーフにしたポップアートがデザインされている。智は、五ミリ四方の一枚をミシン目から切り取って、舌の上に乗せた。それは智の舌で徐々に溶かされていく……。

数時間後、智は、落書きだらけの扉に絵を描いていた。持っていた色ペンで、扉の空いているスペースに絵を描き始めた。

まず、目を描いた。それから鼻を描き、口を描くと、顔になった。額に、縦に割れた瞳をもう一つ描いた。智はシバ神を描いていた。踊るシバ神を一心不乱に描き続けた。扉から十センチ程の距離まで顔を近づけ、何色も使い分けて丁寧に描いていった。清潔な、冷たい大気に包まれて、智は、ただ、描き続けていった。智の描いているシバ神のすぐ下には、例の、メメントモリ、の落書きがある。智は、それを口の中で呟きながら描き続けた。

   魂の、解放、を、させとくれ、………

         
           人間は、犬に、食われる程、自由だ、………

濡れた重たい空気

 鬱々とした気持ちで頭を抱えて屈み込んでいる智に、先程の小柄なウェイターが声をかけた。

「マサラ・ドーサ」

智が顔を上げると、彼はにこりと微笑んで白い歯を光らせた。

「ああ、ありがとう」

ウェイターの屈託の無いその笑顔は、智の悶々とした気持ちを少しの間晴れやかなものにした。

テーブルに置かれたマサラ・ドーサは、智がよく南インドで食べていたそれと全く同じものだった。パリッと薄く焼かれたクレープのような生地が、じゃがいものカレーを円筒形に包んでいる。それを異なったスパイスの何種類かのカレーと、酸味の効いたヨーグルトにつけて食べる。その独特の形と香ばしい生地の色が気に入って、智はいつもこれを注文していた。食べ方としてはまず、筒状になっている生地を少し砕いて中に入っている具を包み、ヨーグルトをつける。仄かな酸味と口全体に広がるマサラの香りがまろやかな風味を造り出す。そしてパリパリとした生地の食感がそれに加わり、味に抑揚をつけている。鼻から抜けていくそれらの香りと味覚が、一瞬にして智を南インドの風景へと誘った。

晴れ晴れとした空と青い海。咲き乱れる原色の花々。それらは智の胸を締め付けるように切ない気分にさせた。南インドでの思い出は、全てが明るく穏やかであったように思える。ここ何ヶ月の間忘れてしまっていたそんな風景が、智の目の前に、ありありと広がっていくようだった ―――   

食事を終えて表に出ると、再び、びっしょり濡れた重たい空気に体全体が包まれる。猛暑の街を歩いているとインド人の麻薬売りが近寄って来て、ジャパニ、ガンジャ、ガンジャ、ハシシ、ハシシ? と声をかけてくる。智は、ちらりとも目をくれずに、ノー、ノー、ノーサンキュー、と言いながら歩き去る。

土産物屋の店先から様々な種類の香の薫りが漂ってくる。くたびれたバッグを肩からかけて、よれよれのTシャツによれよれのパンツを履いた欧米人女性が品物を物色している。その脇を荷車を引いた大きな牛が通り過ぎていく。通りかかる時に荷台に乗ったインド人が、彼女に大きな声をかけ、手にした木の棒で牛の体をぴしゃりと叩く。彼女は、それに気が付いて屈んだ体を起こし、道を開ける。そしてその牛に擦れ違うように、サリーを着たインド人女性が頭に大きな壺のようなものを乗せて正面から歩いて来る。痩せこけた犬が、だらしなく舌を垂らしながらその女と擦れ違う。犬は、露天のサモサ売りの放つサモサの香りに釣られてふらふらとそこへ近寄っていくと、途端に主に蹴飛ばされ、短い悲鳴を上げて飛び上がる。そして媚びるようにもう一度彼の方を見上げるのだが、サモサ売りは、大声で犬に向かって何ごとかを叫びながら手を振り上げた。犬は、怖じ気づいて耳を伏せて立ち去った。立ち去る時、その犬は、それら全部の様子を見ていた智と擦れ違い様に目を合わせた。そして立ち止まって智を見つめた。智は、犬の濁った瞳を見た。力無く垂らされた彼の赤い舌は、唾液を流しながら規則的に揺れていた。智は、長い間その犬を見つめ続けることに耐えられなかった。犬は、なおも執拗に智を見ていたが、智が視線を逸らして歩き始めるとどこかへ行ってしまった……。智は、やつれた犬の口の中になおも鋭く光る刃のような犬歯に恐怖を抱いた。

南インド

ここデリーはさすがに一国の首都だけあって、様々な人や物が集まっている。食べ物もその一例で、インド中のあらゆる地方料理から、チベット料理、ツーリスト向けにインドではついぞお目にかかったことのない、ピザやケーキといった洋食の類いまで、何でも用意されていた。そしてそれらの店を営んでいる人達も多種多様だった。同じインド人といっても南方から来ている人達や、北の山岳地帯から来ている人達、西の砂漠地帯から来ている人達とでは容姿も話す言葉もまるで異なっている。だからこの街ではインド人同士でも英語で会話する光景が普通に見受けられる。

智の入ったその店で働いている人達の顔を見てみると、いずれも平面的で色が黒く、南方系の顔立ちをしていた。背も低い。明らかに南インド出身の人達だ。智は、南インドの人や環境、そして料理が大好きなので、それに気付いた時は少し嬉しく思った。南インドの料理は、他の地方のインド料理と違って辛さがあまりない。まろやかな味だ。色彩に富んでおり見た目にもとてもきれいだ。それに、そこに住んでいる人達も他の地方のインド人達とは違って、穏やかで遠慮がちな性格をしている。南インドでは、それら全ての物が南国の明るい景色と相まって、ゆったりと心地の良い時間を創り出していた。智の脳裏にその時の光景が自然に甦り、気持ちが和らいでいくのを感じた。

「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」

一人の若くて小柄なウェイターが、グラスに注いだ水をテーブルに運んできた。小声で礼を言うと、智は、ウェイターにこう尋ねた。

「マサラ・ドーサある?」
「マサラ・ドーサ? O・K」 

ウェイターが去っていくと、智は、インドの水道水特有の、臭みのあるコップの水を一口飲んだ。その味は、理見のことを思い出させた。ジャイサルメールで、理見が、智の目の前で今の智と同じようにグラスの水を飲んでいた時のことを思い出したのだ。智は、今、自分が座っている向い側の空いた席に理見の姿を想像している。

理見と別れてからちょうど一週間が経っていた。一週間前、智は理見と一緒にいた。理見と過ごした時間の一つ一つを智は思い出していた。ジャイサルメールの城壁の丘で初めて出会った時から彼女が去っていくのを見送るまでの一こま一こまを、丹念に思い返していった。一緒に食事をした安食堂、二人話しながら共に歩いた暗い夜道、朝日を浴びながら部屋の前に立っていた美しい彼女の姿、振り返って手を振りながら去っていく彼女、それらの映像は、全て、無音でだだっ広い閑散とした世界の中にぼんやりと存在していた。その実像に何とか触れてみようとするのだが、どうしても触れることができない。すぐ目の前にあるように見えるそれらの映像には、決して触れることができない。まるで透明な幽霊のようにその実体を通り抜けてしまう。それはとても狂おしいことだった。それらの過ぎ去った思い出は、もう二度と智の下へは戻って来なかった……。

智は、自分の頬を伝う理見の手の感覚を思い起こそうとした。そうしている時の彼女の表情を思い返そうとした。それらは甘い記憶とともに映像として甦っては来るものの、その肉感はどうしても得ることができない。自分の皮膚に触れる彼女の肉の感触を、彼女の体温を、もう一度感じとろうと智は必死に努力するのだが、そうすればそうする程、追い求めるその感覚は智を嘲笑うかのように遠ざかっていった。

智は理見を抱き締めたかった。彼女の全身の肌の感触を、匂いを、浴びるように味わいたかった。狂おしいその衝動は、決してどこにも発散されることはなく、智の体内にじわじわと蓄積されていく ―――

言葉

 人生とはなんなんだろう、と智は思った。今の自分の状態は、どう考えても人生における中間地点であり、ゴールではあり得ない。心のどこかでまだ自分は死ぬことはないんだという確信に近い信念のようなものを智は持っていた。それは、ある意味、唯一智の不安や焦燥を掻き消してくれるものであり、智にとって逆接的な自信のようなものに繋がっていたのかも知れない。また、そのような自信がもし仮に全く無かったとしたら、こんな旅は続けられなかっただろう。

孤独は常に智につきまとっている。死は、常に智の周辺を漂っている。死の片鱗は、様々な現象となって形を変え、智の前に姿を現わした。俺はここにいるんだぞ、とアピールするように、しきりに智の視界に飛び込んできた。死は、常に智を誘惑している。それは、時には身震いする程暗く恐ろしく、時には息を飲む程甘く美しく、智をその世界へと導いた。

智の生は、死という裏打ちによってリアリティを保証されていた。死という暗く寂しい概念によって裏付けられていた。

――― 違いなど無い、違いなど何も無い ―――     

智は、もう一度扉の落書きに目をやった。

――― メメントモリ、死を想え ―――   

過ぎ去った思い出は死んだように静止していた。その言葉は、まるで智の記憶を包む薄い膜のように、物音を立てず、静かに智の心に貼り付いた……。

メインバザールは人間によって埋め尽くされていた。様々な人種がそこにいた。肌の色も身長も顔かたちも何もかも違う人達が、てんでばらばらに、ただ、各々の目的のためだけにひしめき合い蠢き合っていた。

そのただ中を智は汗を垂らしながら歩く。大気中に舞っている砂埃が肌に付着して、汗は茶色く濁っている。むせ返るような人間の匂いと、どこからともなく漂ってくるマサラの香りが混ざり合い、智の嗅覚を鋭く刺激する。智は、眩暈がするのを感じた。大気中に体力を吸い取られていくようだった。とても長くは歩いていられそうになかった。

智は、手頃な食堂を見つけるとそこに入った。見れば、南インドの料理を扱っている店らしい。メニューには、久しぶりに見る料理名がたくさん列ねられている。

自由

智は、扉のノブの上にかかっている南京錠に、レセプションで渡された鍵を差し込んでそれを外した。どうやらこのゲストハウスの部屋の鍵は全て南京錠になっているようだ。
部屋に入ってみると、そこには、ベッドが一つ設置されていてそれにもう一つ同じベッドが置けるぐらいの空間が横にあり、更にベッドの足先にはトイレとシャワー、その上には小さな窓が一つあった。少し奥まった角部屋で部屋の側面にも窓があった。智は、この部屋の形状も気に入ることができた。そしてここでの生活に胸の高鳴りのようなものを感じるのだった。それは、予感めいていて、旅の途中、気に入った部屋を見つけるといつも感じる昂揚感と同じ性質のものだった。きっといいことが起りそうな気がした。

ふと開けた扉の裏側に目をやると、そこにはびっしりと落書きがされていた。その殆どは英語で書かれているのだが、中には日本語で書かれているものもちらほらあった。しばらくそれらを何となく目で追っていると下の方に荒々しい字体で殴り書きされた日本語が智の目を引いた。それはこう書かれていた。

――― 人間は、犬に喰われる程自由だ、メメントモリ、死を想え ―――   

メメントモリ、メメントモリ、智には何のことだか良く分からなかったが、その前の一節に頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。

人間は、犬に喰われる程、自由だ、

バラナシを流れる聖なる河ガンジスの泥流と、河辺に漂着した人の屍肉を喰らう毛の抜け落ちた野良犬の凶暴な表情が、一瞬にして智の脳裏を過った。背筋に冷たい戦慄を覚えた。

忘れられた思い出、過ぎ去っていった思い出、悲しい時間、孤独な時間、それら報われぬ魂の屍を、泥流に呑み込まれ朽ち果てた末の彼岸で、あの醜悪な犬が、脇目も振らずに貪り喰っている。犬の赤い瞳がぎらりと輝く。

――― 何の違いもない、違いなどない、この肉、お前の肉、何の違いもないお前自身の肉体 ―――      

腐肉は、野良犬の黄色い牙によって粘ついた音を立てながら引き裂かれていく……。自由、自由、自由、肉体の自由、魂の自由、現象に過ぎない、肉体とは現象に過ぎない、幻に過ぎない、精神の自由、借りものの肉体、お前の肉体はお前のものではない、神から借りた魂の乗り物、存在を証明するために借りた、魂の乗り物、借りものの肉体、神、神、神、神、神……、肉体に意味は無い、現象に意味など無い……。 
「犬に、喰われる程、自由……」

智は、それを声に出して呟いてみた。部屋の中は、薄暗く、しんとしている。

ようやくバックパックを置いて横になってみると、様々な思い出が頭を過っていった。それは、旅のことであったり何の脈絡もない学生時代のことであったりした……。昔のことを智は思い出していた。子供の頃からの思い出を辿っていくと、今、自分がインドの名もない安宿でただ一人寝転がっていることがとても不思議なことのように思われた。それら過去の思い出の全てが、今現在ここにいる自分という存在に収斂され、そしてそんな自分をつくり出すためだけに機能してきた……、智はそんな風に想像してみた。それはとても奇妙なことだった。

「メインバザール」

そのようなことがラジャスタン州では立て続けに続き、砂漠地帯の過酷な気候と相まって智は心身共に疲れ果てていた。ラジャスタンには、もう、うんざりしていた。旅を先に進めるために、智はデリーへ向かうことにした。何気なく日にちを調べてみると、それは何の因果か智が日本を出てちょうど一年後のことだった。一年前の四月一日、初めてタイの首都バンコクに降り立ち、旅が始まった。奇しくもそれと同じ日の四月一日の今日、智はインドの首都デリーの地に立とうとしている。その綿密に計画されたような偶然の合致は、智に旅のひと区切りをつけさせると同時に、当初の予定であった一年でヨーロッパの西端まで辿り着くという計画の半分も実行できていないことを思い知らしめ、智を愕然とさせるのであった。智は、ちっとも前に進むことのできない自分自身に苛立ちを感じ、焦燥感の入り交じったどんよりとした疲労を感じるのであった……。

四月のデリーは、街全体が燃えるような暑さだった。大量の車の群れに、絶えることなく響き渡るクラクション、もうもうと吐き出される排気ガスと砂埃は、大気を茶色く染めていた。真昼の強烈な日差しが照りつけているにもかかわらず、景色は、どこか暗澹として異様な活気に満ちている。アスファルトから立ち上る蒸れた空気は、風景を歪め、そこかしこに捨てられたあらゆる有機物を腐敗させ、それらは強烈な腐臭を撒き散らしている。

駅を下りるとターバンを巻いた髭面のインド人達が智の周りに何人も集まってくる。智は、脂汗を垂らしながらそれらを無視して「メインバザール」へと向かった。メインバザールとは、智のような旅行者達が世界中から集まってくる安宿街で、旅行者のためのレストランや旅行代理店、土産物屋まで何でも揃っている。デリーを訪れる旅人であれば誰もが知っている場所である。

智は、メインバザールの表通りから少し裏道に入ったところにあるゲストハウスにチェックインした。そこは色々な旅行者から話を聞いていたところで、既にそこへ行くことを智は決めていた。実際噂通り、ゲストハウスはたくさんの旅人達で溢れ返っていた。壁には、様々な言語で記された張り紙や置き手紙などが乱雑に貼り付けられている。

中央のロビーでは、大きなバックパックを抱えた欧米人旅行者達が何人か集まって、バスの時間でも待っているのか、何やら他愛もない無駄話をしながら時間を潰している。皆かなり長い間インドを回ってきたことを思わせる風貌で、髪は無造作に伸ばされ、着ているものはくたびれて、首や手首にはカラフルなアクセサリーがたくさん巻き付けられている。アジア圏の国々を長く旅している人間特有の、独特の雰囲気を醸し出している。それらの旅行者達の間を擦り抜けながら建物の中へと智は入っていった。

その外観からは良く分からなかったが、建物は、四階建てになっており真中が吹き抜けでかなり大きい。各階ごとにロの字型に部屋が並んでいる。智は、ぐるっと上の方まで建物を見回した。午前中なので洗濯物を干したり歯を磨いたりしている者達がちらほらと見受けられる。どこにでもある、朝の安宿の風景だ。この中は、外の喧噪とは何故か無縁でひっそりとしており、しかも、そんなに暑くない。智は、この場所をひと目見て気に入った。何故だか分からないが、気持ちが落ち着く感じがしたのだ。

智の部屋は三階にあった。ロの字型の側面に二部屋、その対面に二部屋、階段の両脇に一部屋ずつ二部屋、更にその対面にも二部屋あって、この階には全部で計八部屋あることになる。智の部屋は階段の両脇にある部屋の内のひとつだった。

“友達”

その後智は、ジョードプル、ジャイプル、とラジャスタンの主要な都市を観光して回った。ジャイサルメールでもかなり感じたことだが、ラジャスタン州のインド人達は、智をとてもイライラさせた。気質なのかもしれないが、彼らは、商売気が強くやり方が陰湿で、少し人を小馬鹿にしたようなところがある。

ジャイプルの有名な観光スポット「風の宮殿」に行く途中、売店で煙草を買おうとしたところ智は一言、ない、と断られた。その言い方が、智の方に目も向けずあまりにも淡々としていたため、智は驚いて、は?、と聞き返してしまった。すると相手は、短く舌打ちをして智を見ながら面倒臭そうに、な、い、とわざとらしい大声で言った。インド人の商売人は、誰しも外国人旅行者と見ると値段を吹っ掛けたり、だまそうとしたりするものなのだが、普通その姿にはどこか愛嬌のようなものがあって憎めないものである。こういう風に露骨に嫌悪感を露にした態度をとるインド人に出会ったのは、智にとって初めてのことであった。

腹が立って智は思い切りガードレールを蹴飛ばした。すると相手は、少し驚いて呆然としていたが、やがて肩をすくめて嘲るような笑みを浮かべた。智は、ますます腹が立ったが、どこかに感じられる相手の余裕のようなものに怖じ気づいて、どうすることもできずそのまま立ち去った。胸の奥にはドロドロした嫌な感覚が残された。

ジャイプルに着いたばかりの頃にもこんなことがあった。智のチェックインしたゲストハウスには一人の日本人旅行者が既に何日か滞在しており、彼は、そこのゲストハウスの従業員達と慣れ親しんでいた。そして着いたばかりの智も、その晩に誘われて彼らと一緒に食事に行くことになった。二人のインド人青年は、実際親切で明るく、楽しいひとときを過ごすことができたのだが、いざ支払いをする段になると彼らは一向に金を払おうとしなかった。智は、一緒にいた日本人旅行者にそれとなくそのことを聞いてみた。すると彼は、後でまとめて返してもらうんだ、と言う。いつもそうしているのか、と聞くと、そうだ、帰ったら返してくれるんだ、と言う。智は、嫌な予感がしたが彼がそう言うので仕方なくその場は渋々払うことにした。

宿に帰ってからもしばらく彼らと話をしていたのだが、そのインド人青年達は一向に金を返す気配がない。埒があきそうにないので直接二人に向かって、智は、さっきの金を返してくれないか、と言ってみた。するとそれまで楽しそうに話していた二人は、急に真顔になってお互い顔を見合わせ、智に言った。

どうしてそんなことを言うんだ? 俺達は友達だろう? しかも今日、俺達はお前のために車も出してやったし、素敵なレストランにも連れていってやったじゃないか。それなのにたかが百ルピーだとか二百ルピーだとかいう金にこだわるのか? もちろん返さないなんて言っていない。それぐらい返してやるさ。お前は金持ちの日本人のくせに、些細な金に細かいんだな。同じ日本人でもこうも違うものなのか。そんなこと彼は一度も言ったことがない。何せ友達だからな。そう言ってそのインド人は、彼らの言う”友達”の肩に手を回した。彼は、複雑な表情で微笑んだ。

智は、そんなことを言われてさすがに黙っていることができず、もう一歩で相手の顔面を殴りつけるところだったのだが、その前に、”友達”の日本人に制された。その日の内に智は宿を出た。出る際に金のことを彼に聞いてみると、始めの内はきちんと返してもらっていたのだが、最近はどうも滞っているらしい。そのことをどう思っているんだ、と更に尋ねると、彼は、だって、友達だし……、と言って弱々しい笑顔を見せた。

アフリカ

「プネーの後は? どこ行くか決まってる?」
「そうね、全然分かんないけどマナリーに行くことは確かよ。もうすぐインドは暑くなるから山の方へ行って快適に暮らすつもり」
「マナリーか、俺も行こうとは思ってるんだけど、この調子でいくと行けるかどうか分かんないな……」
「どうして? 行けばいいじゃん、いい所よ」
「でも、ビザが五月で切れちゃうんだ。俺、パキスタン行くつもりだからそれまでにデリーでビザ取ったりとか色々面倒臭いこともあるし、あんまり時間がなさそうなんだ。ダラムサラにも行きたいし。だから、行けるかどうか……。でも、理見ちゃんの話聞いてたら行きたくなったよ。インド人達が葉っぱ詰んでるところも見なきゃいけないしね」

そう言って智は笑った。

「ハハハ、そうよね。でも智って、パキスタン行くつもりなの? それからは? どうするつもり?」
「西へ行こうと思う」
「ずっと?」
「ああ、ヨーロッパまで行こうと思ってる」
「本当に? 私もそのつもりなのよ。パキスタンからずっと西へ行って、それからアフリカへ行こうと思ってるの。智は? アフリカ行かない?」
「俺にはアフリカはとても無理だろうね。まず金銭的に余裕が無い。後は体力的にも精神的にもちょっとキツそうだよ。でも、理見ちゃんは本当に凄いよね。何か尊敬しちゃうよ。かなわないな、って思う」
「変なこと言わないでよ」

少し笑いながら理見はそう言った。

「気をつけてね、また会おう」

智は右手を差し出し、二人は別れの握手を交わした。理見の手は、柔らかくて少し冷たかった。

宿の外まで理美を見送ると、既に太陽は二人の真上にあった。日光が、薄暗い部屋に目を慣らした彼らの瞳孔を射す。

理見は、目を細め、手を翳して外の景色を見渡しつつ、今日も暑そうね、と言った。彼女は、そう言いながら歩き出そうとすると、バランスを失って少しよろけた。驚いて智は理見の肩をとっさに捕まえた。思ったより理見の肩は細かった。

「大丈夫?」
「ええ、大丈夫……。ありがとう、まだブラウンがちょっと残ってるみたい……。でも平気、ほら、もう歩けるから」

理見は、そう言って、綱渡りをするみたいに両手を広げて炎天下を一歩ずつ慎重に歩き始めた。そしてしばらくそのまま歩いていくと、振り返って手を振った。

「元気でね」

そう言う理見の姿は、町の雑踏と何頭かの大きな牛の群れとにすぐさま掻き消された。
智は、しばらくそのまま眺めていたが、再び理見の姿を見つけることはできなかった……。

清潔な世界

智は、手を伸ばして香を一本拾い上げるとそれに火をつけた。細い煙が天井に向かって伸びていく。静かな喧噪が窓の外から聞こえてくる。穏やかな表情で、理見は、うつ伏せにベッドに横になっている。智は、理見を抱きたいと思った。緊張が解け、無防備な理見がそこに横たわっている。今なら理見が自分の思い通りになるような気がした。直感的に智はそう思った。しかし、今の智にはそれを行動に移すだけの意志の力が無かった。動物的な瞬発力に欠けていた。それより静かに理見のその様子を眺め続けていることの方が、今の智にとってはよりエロティックなことだった。脱力した理見の肉体は、窓から細く注ぎ込む光の繊維をまとって仄かな輝きを放ち、決して触れてはならないようなとてもデリケートなものとしてそこに存在していた。

そんな理見を眺めているのは、実際に彼女の肉体に触れるよりもより官能的なことのように思えた。このままずっと眺めていたかった。何時間だって眺めていられるような気がした。それは肉欲から解放された、とても平穏な感情だった。

智は、ブラウンの効き目の切れるのを恐れていた。目の前のこの光景が現実のものに立ち返り、妙によそよそしく感じられるのが嫌だった。不潔な現実世界に逆戻りするのが耐えられなかった。できればずっと、夢の中の清潔な世界に生き続けていたい、智はそう思っていた。

「いい匂い」

ベッドの上から理見の声が聞こえた。

「お香炊いた?」
「ああ」

うつ伏せの体を理見はゆっくりと智の方に向けた。そして頭に巻いたバンダナを外した。理見の黒い髪が束縛から解放され不揃いに彼女の目頭の辺りをくすぐる。それを嫌って理見は上向き加減に頭を振った。

「私、もう行かなきゃ」 

理見は言った。その言葉を聞いた智の心は、一瞬にして冷たくなった。

「大丈夫? そんな状態で歩ける?」
「多分……。今はかなりキマッてるけど部屋に帰って少し休めば大丈夫、きっと」
「もう少し休んでいけば?」
「いいの、ありがとう。そろそろ行かないと一希、待ってるし……。荷物もパッキングしないといけないから」
「そう」
「うん、ありがとね、智、また会おうね」

ゆっくりとした動作で理見は衣服の乱れを直している。時々一息つくように目を閉じて、じっと佇む。