無視

夜のメインバザールは昼間の暑さこそ和らいでいたものの、人の熱気や地面の放射熱や車やバイクのクラクションが作り出す悶々とした温気は、一向に収まる気配を見せなかった。却って夜になって周りが暗くなった分、裸電球や蛍光灯の心もとない灯りに照らし出されているそれらの風景が、一層異様な物のように思われる。

智は、建と食事をとった後、そんな温気の中を泳ぐように歩いていた。

「しかし何とかならないですかね、この暑さは」

砂埃の混じった汗を拭いながら智がそう言った。

「ああ、本当にな。何でこんなに暑くなる必要があるんだろうな」

建も、ほとほと疲れ果てた様子でそう言った。

「谷部さんはもう帰ってますかね?」
「ああ、いるだろうよ。夕方には戻ってくるって言ってたから」

智と建は、谷部に会うために彼の部屋へと向かっていた。谷部の部屋は、智の泊まっている部屋の一つ下の二階にあった。建は、今朝、谷部に会いに来て三階にある共同のトイレを使っている際、洗面所で顔を洗っていた智に出くわしたのだ。

ゲストハウスの入り口には、相変わらず旅行者達がだらだらと溜まっている。妙に青い蛍光灯の灯りの灯る中、レセプションのインド人は退屈そうにテレビを眺め、壁に備え付けられた扇風機はだるそうに首を振っている。談笑する者、一人黙々と手紙を書く者、日本人、欧米人、インド人、その他国籍不明のアジア人、それぞれがそれぞれの時間を取り留めも無く過ごしていた。長旅の日常がそこにあった。それらの人混みを掻き分けるように智と建がそこを通り抜けていくと、そこで話をしていた日本人の二人組が、一瞬二人に目をやるが、無視してまた元のように話しを続けた。智も、その時、彼らのしたのと同じように、すぐさま視線を逸らした。気まずい空気が智達の間に流れるが、これもいつもの旅の出来事なので、そのまま気にせず歩き去った。智は、そんなことを気にする程、最早、旅に対して純粋ではなかったのだ。

階段を上って谷部の部屋の前まで行くと、中から数人の人の声がした。瞬間、智はとても憂鬱な気分になった。そもそも、谷部に会うというのも始めから気の進むことではないのに、その上また、見知らぬ谷部の知り合いとも接しなければならないとなると更に気が重い。智は、今、あまり人と接したい気分ではなかった。建のように柔軟に自分を受け入れてくれるような人ならまだしも、そんな人は本当に稀で、大体が、お互い牽制しあってつまらない旅行自慢やドラッグ体験などをひけらかし合って無駄なエネルギーを消費しなければならないような低俗な人間ばかりだからだ。そしてそんな奴らに智はもう飽き飽きしていた。何でこんなにつまらない人間ばかりなのだろう、といつもイライラしていた。

「谷部君、いる?」

建が、唐突に扉をノックして部屋の中の谷部に呼びかけた。話し声が一瞬途切れると、中から谷部の答える声がした。

価値のあるもの

美術館を出ると建が、もう一ヶ所見てみたい所があるんだが行ってみないか、と智を誘った。智は、もちろん断る理由も無く、建さんが行きたいのならと快く返事をした。次に二人が向かったのは民芸博物館という所で、そこには昔から現代に至るまでのインドの様々な生活様式や育まれてきた独自の文化が、たくさんの民芸品やジオラマによって再現され展示されていた。

建は、旅をしながらアクセサリーや小物などをその土地土地で得た種々のパーツを元に製作するということを続けており、いずれはその道で生活していきたいと思っているらしく、その参考にということで先程の浮世絵もこの民芸博物館も見ておきたかったという。展示物を見ている建の様子からは、それらから何かを得て自分の物にしてやろうという気迫がひしひしと感じられた。そういう意味においては健にとって先程の浮世絵より今回の民芸品の方がより自分の目指す所に近いようで、対象に対する熱の入り方も先程とは随分と違っていた。先程は飾られている浮世絵の前を流し見ていくような格好でさらさらと通り過ぎていくだけだったのに対し、今回は展示されている土俗的な装飾品などを身を乗り出して噛み付かんばかりに眺めている。健にとってそれらは、それ程価値のあるものだったようだ。

反対に智は、それら民芸品という物に対してあまり興味を感じられず、さっき浮世絵を見ていた建のように、さらさらと流し見て行くだけだった。ただ、どこか南インドの方の祭りで使われていたという大きな山車のようなものには、その迫力にさすがに目を奪われもしたが、それよりもそれらの横に世界の風俗としてひっそりと展示されていたアフリカ地方の奇妙な仮面の方に、智の興味は惹き付けられた。死人のように無表情にぽっかりと口を開けている蓬髪のそれらの仮面は、智の心の深い部分にするりと滑り込むように入り込んできた。まるでそれは、心の奥の深い闇の部分にひっそりと潜んでいる怪物を見ているようで、何だか智は目が離せなかった。とても人間の姿を模した物とは思えなかった。

一通りそれらの展示物を見終わった建と智は、外に出て、博物館の敷地内にある小綺麗な屋台でチャイとサモサを買った後、お互いの感想を述べ合った。

「建さん、今日は楽しかったですよ。まさかインドに来て浮世絵が見られるなんて思ってもみなかったですし、この民芸博物館も色んな物があってなかなか面白かったです。建さんに会わなかったら来ることなんてなかったでしょう。本当、連れて来てもらって良かったです。それに、ゴミゴミしたインドの喧噪を離れることができたっていうのが、何より良かったかも知れません」
「ハハ、そうだよな。でもまた今からそのゴミゴミした所に戻らなきゃ行けないんだぜ」「そうなんですよね……。嫌だなあ、うんざりしますよね」

智は、手に持った紙製のチャイのカップに視線を落としながらそう言った。

「俺も、今日、智に出会えて良かったよ。そうじゃなかったらきっとここには来てなかったかも知れないし。何だかんだ言いながら一人だったら来てなかっただろうな。今朝智に会って、じゃあ行ってみようかなと思って。実際来てみて良かったよ。色々参考になった」 そう言うと建はサモサを一口かじった。短い髭を生やした建の顎が、その動きに合わせてもごもごと動く。

真上にあった強烈な太陽は今や西の方に傾きつつあり、その輝きは幾分穏やかなものになっていた。きちんと整備された芝生の緑を傾きかけている太陽が眩しく照らし、緑は、風に揺られながらキラキラと日光を反射させていた ―――

単調な色彩

建は智の話をじっと聞いていた。そして少しの間考えてから言った。

「智、ちょっと考え過ぎじゃないか? 何でそんな風にややこしく考えるんだよ? この風景は、ただ、インドの美術館に日本の浮世絵が飾ってあってそれを商用か何かで旦那と一緒にインドに来てる奥さん連中が暇つぶしに見に来てる、それだけのことだろ? そりゃあ確かに変な感じはするだろうけど、そんなこと言い始めたらキリがないぜ。街歩いてるだけで頭がパンクしちまう」
「でも……」

智が何か言い出そうとするのを建が遮った。

「サトシ。ちょっとリラックスしてみなよ。ほら、俺達、絵を見に来てるんだろ? 今はゆっくり絵を見ようよ」

智は、それでもまだ何か言いたげな様子だったが、健に肩を抱かれて壁に飾られた絵の前に促された。単調な色彩のそれらの絵画は不思議と智の心を落ち着かせた。ある種の静謐な感じが、その中には潜んでいた。そしてその秘められた静けさが、智に不思議な懐かしさのようなものを感じさせるのだった。それは、ギラギラしたインドの風景に慣れ切ってしまった智の心が、久しぶりに見つけた日本の空気に感応し、緊張の解けた柔らかな感覚を得ることができたからなのかも知れない。日本にいる時には決して意識したことのないその静かな感覚を、今、異国の地で、極めて日本的な絵画を見ることによって、改めて再確認するのだった。自分は、日本という国でそういった目に見えない静けさに包まれて生活していたのだ、と智はそのとき初めて気が付いた。そして日本という自分の故郷がいかに自分にとって懐かしく、温かく、また、かけがえのないものだということがしみじみと胸に染みわたっていく思いだった。智の目には知らない間に涙が溜まっていた。智は、先に進んで、建に悟られないようにそっと涙を拭った。

――― 郷愁 ―――   

自分がこんなにも故郷を想っていようとは、それまで全く気が付かなかった。自分にとって、それ程までに重要なものだとは思いもしなかった。日本にいる時には当たり前のように広がっていた何の面白味も無い日常的な風景が、今となっては智に辺りをはばからず涙を流させる程重要なものとなって、次々と頭の中に甦ってくる。浮世絵の静かな色彩や輪郭は、それらのイメージを次から次へと智に思い起こさせる。智は、もうこれ以上、これらの絵画を眺めるのには耐えられなかった。残りの何点かは、見ている振りをしてそのまま素通りしていった。

日本の美術館

「建さんでもあんな風に怒ることがあるんですね」

智がそう言うと、建はちょっと不思議そうに智の方に目を向けた。

「ああ、俺、インド人嫌いだからな。ああいうことされると本当に腹が立つんだよ。多いだろ? あんな奴」
「でも建さん、インド長いでしょ? 何回も来てるんだし。もう三回目ぐらいだって言ってたじゃないですか。そんなに長くいても駄目なんですか? 最初の内はああいうことに腹が立ったりしても、その内慣れてくるものなんじゃないんですか?」

大袈裟に首を振りながら少し興奮して建は言った。

「ちっとも慣れないね。あんまり優しい顔してると、奴ら、つけ上がってどんどんエスカレートしていくからビシッと言ってやった方がいいんだよ、ああいうことされた時は」
「そんなもんですか……」 

智は、その内慣れてしまうだろうと思っていたインド人達のああいった幼稚な態度が、いつまで経っても腹の立つものだということを知らされて、軽い絶望を覚えた。そして建が意外にも怒りっぽいということを知り、見かけによらない人間の多面性について学んだような気がするのだった。

現代美術館の中にはインドの近代美術家達の作品が多く展示されていた。それらはあからさまにヨーロッパ美術の影響を受けており、例えば油絵で描かれた抽象的なヒンドゥーの神々など、今まで智が見てきたインド世界とはちょっと異質のものだった。それは何というか泥臭さの抜けた清潔で洗練されたもので、そこに描かれている神々からは、あの、雑踏の埃にまみれた粘っこい大気の中、憤怒の表情でこちらを睨みつけてくる道端に祀られた神々の何とも言い様のない迫力のようなものが感じられなかった。そのせいか智は、今自分がインドにいるというよりは日本の美術館でそういったアジア的な絵画を眺めているような、そんな錯覚に陥っていた。

「サトシ、こっちだよ」

建が、二階へと通ずる階段を上りながら智を促した。ボーッと絵を見ていた智はその声に我に返り、健の後を追った。

二階へ上がると、通路の両側の壁に、額に入れられた写楽の浮き世絵が等感覚で並べられていた。身なりの整ったインド人紳士と、何人かの日本人の婦人がそれらを見ていた。その光景を見て智は、ますます自分が今インドにいるという事実が信じられなくなってきた。その婦人達は、あまりにも普通に日本で見かけるようなおばさん達だったからだ。智が混乱したような不思議な気持ちでその光景を眺めていると、建が声をかけてきた。

「やっぱり見に来てるのは日本人ばかりだな」

健の方に向き直って智は言った。

「そうですね。今僕もそう思ってた所です。何だかこうやって日本の絵があって日本のおばちゃん達が絵を見てて、そうしたら、その風景だけを見ていたら、もうとてもここがインドだなんて思えなくなってきて……。何だか訳が分からなくなってたんです。でも美術館を一歩外に出てしまえば、また確実に暑くて埃っぽいあのインドの雑踏が待ち構えている訳で……。そんなのが何だかとても信じられないんです。一体”認識”というのはどれだけ確かなものなのかなって思い始めたら、混乱してしまって……」

多面性

建が無責任に大きな声で笑うのを聞いて、智は腑に落ちない気持ちでいっぱいだった。

「ちょっと建さん、笑ってる場合じゃないですよ。そこで認めちゃったら全然説得力が無いじゃないですか」
「ハハハ、ごめん、ごめん。俺も頭では分かっちゃいるんだけどな、なかなか上手く実行に移せないよ、ハハハハハ」

建は笑いながら歩き続けた。智は、小声で文句を言いながらそんな建の後を追った。

食事の後、二人はニューデリー地区にある美術館へと向かった。そこでは、江戸時代の浮世絵師の中でも最も有名な、東洲斎写楽、の展覧会が行なわれているらしいのだ。もともと建は今日それを見に行く予定だったようで、智も、インドと浮世絵という不思議な組み合わせと、嫌でも日本を感じさせ智の郷愁を煽る浮世絵の持つその雰囲気も手伝って、是非ともそれを見に行ってみたくなったのだ。

美術館近辺のニューデリー地区と、智達の滞在しているオールドデリー地区とでは、全く別の国に見える程の差があった。大使館や省庁、たくさんのオフィスビルの立ち並ぶニューデリー地区は、メインバザールの喧噪を知る智にとって、同じ街の中の同じインド世界だとはとても思われなかった。それらは、別の国、別の世界の話である。薄汚れた露店のチャイ屋などはどこにも見当たらず、洗練されたコンクリートの街並がひたすら広がっているだけだった。

智は、改めてインドの多面性を目の当たりにしたような気持ちになった。バスに乗ってわずか数十分の道のりで全く別の風景が広がっている。そこにいる人間も違う。服装や身に付けているものだけでなく、歩き方から表情、話し方に至るまでの全てが異なっている。本当に別の国に来てしまったように感じる。

「建さん、この辺りは凄いですね。僕らのいる所とは全然違うじゃないですか」

吊り革に掴まりながら窓の外を眺めていた建は、視線を智の方に戻して言った。

「ああ、そうだな。俺はもう何回もこっちの方には来てるから慣れちゃってるけど、初めての頃はそんな風に感じていたかもな」

建はまた窓の外に視線を戻した。

「あ、サトシ、次で降りるぞ。多分この辺りだったと思う」

二人は混み合っている車内を掻き分けて、バスの乗降口まで進んで行った。そしてしばらくすると、バスが止まり、扉が開いた。建と智はそこから降りようとしたが、彼らが降りる前にたくさん人が乗り込んできたため、なかなか降りることができなかった。そうこうしているとその時、一人のインド人少年が、突然、健をからかうような感じで通せんぼの格好をとった。すぐに扉が閉まりそうになったので彼を押し退けて建は降りようとするのだが、少年は建の前に立ちはだかり、挙げ句、建の肩を掴んで嘲るように笑いかけた、その瞬間、建の表情が一瞬にして硬直し、次の瞬間には、少年は、胸ぐらを掴まれて閉まりかけていた扉に向かって強く押し付けられていた。少年の体は、今や半分程宙に吊り上げられている。少年は、途端に怯えた表情になって泣き出さんばかりに建に許しを乞うた。建は、しばらくの間怒りに満ち満ちた物凄い形相で少年を睨みつけ、そして少年がいよいよ泣き出しそうになると乱暴に突き放してバスを降りた。その一連をずっと眺めていた智は、普段穏やかな建からは想像もつかないその行動に、ポカンと口を開けたまま何も言葉を発することができなかった。歩きながら智は言った。

全部が普通

――― ああ、俺は、一生この「生活」というものから逃れられないのか? 永遠にこの「日常」という化け物に支配されながら生きていくしかないのだろうか……?

     退屈でつまらない、日常! 憎むべき現実! 

     何の想像力も必要としない忌々しい、日常!       

こんな遥か彼方までやって来てなお、日常というものを意識し続けなければならないとは ―――   

「どうした? 元気ないじゃん?」

俯きながら歩いていく智を見て、建は声をかけた。我に返って智は健を見返した。

「建さん、もう俺、旅を始めて一年ぐらいになるんですよ。だからなのかも知れないけど何だか旅をしていても、ふと、何もかもが同じようにしか見えない時があるんです。何の刺激も感じないし、全部が普通に見えてしまう。日常的というか……。今歩いていて思ったんですけど、この景色だってまだ昨日着いたばっかりだからそんなに知らない筈なのに、もう全部知っていることのように思えてしまう……。確かに新鮮な驚きのようなものはその都度あるんですけど、それを無関心に処理する術を身に付けてしまったというか……。そのせいか最近、何だか些細なことでイライラしてしまったり落ち込んだり、そういうことが多いんですよ……」

建は、歩きながら黙って智の話を聞いていた。そしてしばらくしてから口を開いた。

「智、あのな、俺達にとってこれは旅だし、やっぱり日本で生活しているのとはちょっと違うかも知れない。でも、ここに住んでるインド人達にとってはこれは紛れもなく生活だし、日常なんだ。だからそれが日常的なつまらないものに見えたって別に不思議じゃない。智は、そのままの風景をそのまま見てるんだよ。それに刺激を感じられないのはあくまでも智自身の問題だ。例えどんな国へ行ったってそこに人が住んでいる以上、そこには生活があって日常がある。それは当然のことだろう? ただそれが非日常に見えるのは、自分の中にそれらの予備知識が無いからだ。全く知らないことを見せられて聞かされれば誰だって驚くだろう? それが旅なんだ。だから旅というのは言ってみれば瞬間と瞬間の積み重ねだし、とても刹那的な物だから、いつか必ず終わりが訪れる。智は、要するにインドや旅というものに慣れ過ぎてしまって、生活者の視点で物事を見てるんだよ。それは長く旅をしていれば誰しもいつかは辿り着く所さ。でもな、気持ちの持ち方次第では旅って終わらないんだぜ。だって本当は、同じ一日なんて絶対に訪れない筈だろう? 例えばこのメインバザールだって昨日と較べたら何か違うよ。ほら、あそこのチャイ屋の屋台なんて昨日まで無かったろ? 小さなことだけど、それだって一つの変化じゃん。そういうのを敏感に感じられたら退屈なんてしないと思うけどな。毎日毎日変化に富んでて刺激的だ。どう、そう思わない? 智はさ、ちょっと疲れてんだよ。違う?」
「そうですね、ちょっと疲れてるのかも知れません……。でも、建さんが今言ったことなんですけど、だったら建さんは、わざわざインドまで来る必要なんて無いんじゃないですか? 常にそう考えることができるんだったら、それこそ日本での生活が毎日毎日刺激的で楽しくなる筈じゃないですか。建さんは何でインドなんかにいるんです? 日本での生活が満たされないものだったからじゃないんですか?」

智が健を責めるようにそう言うと、建は、少し驚いた表情をしながらこう答えた。

「ハハハ、成る程な。智の言う通りだよ。実際そんな風にできりゃあこんな所までわざわざ来ないで日本で楽しく生活してるよな、ハハハハハ」

清浄な空気

智が初めて建と出会った時、彼は、側頭部にバーコードのタトゥーの入ったフランス人のドラッグディーラーと一緒だった。智がテラスで手紙を書いていた時に、建が、ボールペン貸してくれる?、と声をかけて来たのだ。その時智は、インドに入ったばかりで、いかにもインド慣れしている建の風貌にちょっと緊張感を覚えたが、彼が声をかけて来た時のその微笑み方がとても印象的で親しみやすいものであったため、その申し出に素直に応じることができたのだった。そもそもインドに長く滞在しているような日本人は気難しい者が多く、その時の智のようにインド経験の浅い旅行者にはとても取っ付きにくいものなのだ。だから、建のようなお互いの間に壁を作らせないような接し方は智にとってとても新鮮だったのだ。

建とフランス人のドラッグディーラーは、どんなガイドブックにも決して載っていないただの民家の一室のような宿に泊まっていた。いつも彼らは単独で行動していたため、ババ・ゲストハウスの連中と付き合いがあるようには見えなかったのだ。

「建さんって、谷部さんのこと知ってましたっけ?」

智は建に尋ねた。

「ああ、智達が出ていった後だったかなあ、遊ぶようになってね。良く一緒にいたよ」
「そうなんですか……」

智は、何だかがっかりしたような複雑な気持ちになった。

「それより、どう、飯でも喰いに行かない?」

建は言った。

「そうですね。行きましょうか。ちょっとこれ部屋に置いてくるんで待ってて下さい」

そう言うと智は、持っていた洗面用具を素早くまとめ、部屋へと向かった。そして部屋の扉を開けてベッドの上にそれらを乱雑に放り投げると、すぐさま外へ出て扉を閉めた、その時、閉めた扉の内側に智の描いたシバ神が微笑みながらこちらを見ているのに気がついた。その視線は、昨晩の智の行動を閃光のように甦らせた。智の周りを再びあの清浄な空気が取り囲み始める。そしてしばらくの間、それは智を放心させた。数分後の建の智を呼ぶ声に気が付くまで、智は、じっとそのまま扉の裏のシバ神を眺め続けていた……。

メインバザールは昨日と同じように人で溢れかえっていた。そしてまるで街全体が大鍋の中で煮えくり返っているように暑かった。この暑さや景色や人の群れは実際のところ毎日変化しているのだろうが、表面的に見る限りでは昨日と全く何の違いもなかった。つまり「日常」がそこにあった。恐らくこの光景は、何千年も前から受け継がれ、そしてこれから先何千年もこのまま続いて行くのだろう。この点に於いてはインドも日本も何の違いもない。人間の生活とは、このように変化に乏しく無機的に連続していく「日常」によって常に支配されている。

智は、日本から遥か遠く離れたインドの地まではるばるやって来てもなお執拗に追いかけてくる「日常」というものを垣間見て、諦めにも似た軽い絶望を感じずにはいられなかった。

ババ・ゲストハウス

「ところで建さん、部屋はどこなんです?」
「ああ、俺、ここに泊まってるわけじゃないんだ。もうちょっと裏手のところにある宿に泊まってて。あっそうだ、ヤベ君がいるんだよ、ここに。彼に会いに来てたんだ。ほら、知ってるだろ、谷部君」
「ああ、バラナシでババ・ゲストハウスに泊まってた人達の内の一人ですよねえ。覚えてますよ。あんまり話をしたことはないけれど。あの人がここにいるんですか?」
「そうなんだ。女の子と一緒にいるよ。今は二人で旅してるみたいだね。相変わらず女好きだよ、彼は。今ちょうど二人とも出かけたところだからまた後で会いに行ってみようよ」「ええ」

智は曖昧に言葉を濁した。実のところ智は「谷部さん」が、あまり好きではなかった。谷部さんが、と言うよりも、バラナシの「ババ・ゲストハウス」に泊まっていた連中が好きではなかったのだ。

バラナシにはたくさんの観光客がいて、日本人旅行者の数もことさら多い。海外の日本人達は、他の国の旅行者達と比べると団体で行動するのが特に好きで、そんな日本人旅行者達が泊まるゲストハウスとは大体限られてくる。そうたくさん数があるわけではない。有名どころ四つか五つになってくる。そしてそれら各々の宿にはそれぞれに泊まる人間の特色の様なものがあって、まだインドに入ったばかりの智は、ガイドブックにも大きく載っていて人気の高いビシュヌ・レストハウスに泊まっていた。そのゲストハウスは、目の前に聖なる大河ガンガーを一望し、テラスから眺める景色も頗る良く大変過ごしやすい所だった。

一方、ババ・ゲストハウスという宿は比較的目立たないひっそりとした所にあり、知る人ぞ知るという風な感じで旅慣れた長期旅行者達の集まる宿だった。一泊の値段は少し高めだが、やかましい初心者旅行者達がいないため静かに過ごすことができる。確かにビシュヌ・レストハウスに宿泊している者達は、旅を初めてまだ日が浅いため目にするものすべてが新鮮で、どうしてもはしゃぎがちに毎日を過ごしてしまう。ババ・ゲストハウスに泊まっている彼らは、バラナシの細い路地を大人数で群れながらわいわい歩いてゆく彼らをあまり快く思ってはいなかった。なので両者がレストランなどで顔を合わせても、どうしてもお互い敬遠しあってしまい、親密な雰囲気の生まれることはなかった。智は、何度か彼らと一緒に食事をしたこともあるにはあったがその度に鼻持ちならない思いをしていたし、彼らは彼らで恐らくそんな智達を少し小馬鹿にしたような所があっただろう。「谷部さん」とはそんなババ・ゲストハウスに宿泊していた旅行者の一人だった。

建はそのどちらのグループにも属しておらず、智が初めて出会ったのはビシュヌ・レストハウスのテラスでだった。朝、彼はいつもそこにチャイを飲みに来ていた。ビシュヌ・レストハウスのテラスは見晴しのいいことで有名なので他の宿に泊まっている旅行者にも開放されており、実際良く繁盛していた。テラスは様々な人種の旅行者達でいつも溢れていた。建もその中にいたのだ。

二週間二十ドル

次の日遅く目覚めると、思いのほか体は軽く気分も晴れやかだった。部屋の中の大気は依然重く蒸れていたが、それでもなお、智は、顔を洗うため足取りも軽やかに洗面台へと向かった。廊下に出ると、上半身裸の欧米人が、智と同じようにタオルを首からかけて歯を磨いていた。智は、にこやかに彼に向かって声をかけた。彼は、歯を磨きながら智の方に目を向けてそれに応えた。

清々しい朝だった。何だか周りにいるみんなが友達のように思え、この不快な大気も、暑ささえ、全てが素晴らしかった。孤独を感じていた昨晩までの自分が信じられなかった。今の智は決して孤独ではなかった。まるで宇宙全体と繋がっているような一体感でいっぱいだった。もやもやしていた今までの自分が嘘のように思えた。

「サトシ、サトシじゃないか?」

突然後ろの方から、日本語で智の名前を呼ぶ声が聞こえた。歯を磨いていた智は、歯ブラシをくわえたまま振り向くと、そこには、軽くウェーブのかかった長髪に短く刈り込んだ髭を生やした中背の日本人の男が立っていた。智は、慌てて歯ブラシを置いて口をゆすぐとその男の方に駆け寄った。

「建さんじゃないですか!」 

彼に抱きつかんばかりの勢いで智はそう言った。

「ああ、やっぱり智か、久し振りだなぁ」
「どうしたんですか?こんな所で。いつからデリーにいるんです?」

智が手を差し出すと、建は自然にその手を握り返した。

「もう二週間ぐらいになるのかな? ここに着いてから。もういいかげん飽き飽きしてるころさ。智は? いつこっちに来たの?」
「僕ですか? 昨日です、昨日の朝着いたところです。凄い! 偶然ですよね! こんな所で出会うなんて! いつ以来でしたっけ? 建さんと会うのって」
「そうだな、確かバラナシにいた頃だから年末ぐらいじゃないかな。そうだよ、年末から年明けにかけてだよ」
「そうですよね! ていうことはもう三ヶ月も経ってるってことなんだ……。本当に早いですよね! とてもそんなに日にちが経っているようには思えません!」

三ヶ月ぶりに見る建は少し痩せたように思えた。冬のバラナシは予想外に寒く、その時は、皆、厚着をしていたせいもあるかもしれない。

「建さん、ちょっと痩せました?」

智にそう聞かれて、おもむろに自分の体を見回しながら建は言った。

「そうかも知れないな。ちょっと前まで全然金が無くって飯もまともに喰えない状態だったんだよ。こっちの銀行に友達から送金してもらう筈だったんだけど手違いで受け取れなくってさ。全財産二十ドルぐらいしかなかったんだ。二週間二十ドルで過ごしたよ。いくら物価が安いっていったってさすがに二十ドルはきつかったなあ。本当に飲まず喰わずだったから。だからちょっと痩せたかもしれない」
「建さん、相変わらず凄い生活してますね。だからそんなにやつれてるんですか……。それで、お金は受け取れたんですか?」
「ああ、何とかね。受け取れた。助かったよ。それがちょうど昨日のことでさ。やっとこのクソ暑いデリーから抜け出せると思うとせいせいするよ」
「もう出るんですか?」
「ああ、金受け取ったらすぐ出ようと思ってたから。でも、せっかくこうして智に再会できたんだから、もう少しいてもいいかもな」
「本当ですか? 是非そうして下さいよ! 一緒に遊びましょうよ!」

智がそう言うと、建は優しく微笑んだ。智は、建のその穏やかな微笑み方がとても好きだった。

さざ波

智は、リノリウムの床を転げ回り泥まみれになりながら呻き続けた。音楽は、一層激しく智の脳髄に侵入してくる。瞳からは涙が溢れていた。血液が沸騰するように体中を巡り、智の顔は真っ赤になった。その瞳から次々と涙が溢れだし、止まらなかった。汗と涙と鼻汁とでぐちゃぐちゃになった智の顔は、更に床の泥や砂を吸い込んで見るも無惨な様相を呈していた。

智はひたすら叫んでいた。声にならない、固まりのような叫びが胸の奥から沸き上り、それはまるで弾丸のように智の口から吐き出された。吐き出されたそれは波動となって、周りの空気を振動させた。息が切れるぐらい体中に力を込め続けると、智の眼前は眩く光り輝き、そして全身を強打するような衝撃が智を襲い、そのまま智は意識を失った。そして何時間も、裸のまま床に倒れていた……。

深夜、智はシャワーで汗を流した。冷たい水で汚れた体を流していくと、とてもさっぱりとしたいい気分になった。髪の中に入り込んだ泥や砂が、ざらざらと皮膚の表面を流れていく。シャワーに向かって顔を上げ、両手で激しく顔を擦った。パッと、意識が正常に戻っていくようでとても気持ち良かった。小窓の外を覗くと、夜空に月が光っている。それは細く鋭い三日月で、智を無言の内に惹きつけた。しばらくじっと眺めていると、頭のてっぺんから足の先までその銀色の輝きがゆっくりと智の体を通り抜けていくようで、火照った肉体と精神は穏やかに落ち着きを取り戻していった。ただシャワーのアスファルトを打つ音だけが静かな部屋に響きわたり、その音は遠いさざ波を智に連想させた。落ち着いた、幸せな気分だった。

シャワーから上がって体を拭きながら智はベッドに腰かけた。冷たい水は智の肉体を冷却し、冷却された肉体は蒸れた室内の空気ですら心地良く感じさせた。壁に掛けられた扇風機が首を振りながら大気を掻き混ぜる。まだ濡れている智の体はその大気の流れに冷ややかな涼しさを感じる。それは夏の夜の心地良い瞬間だった。

扉では、智の描いたシバ神がこちらを見つめている。今見るとその絵は、智が自分で描いたものだとはとても思えなかった。微妙に流れるようにして伸びていく線のカーブは、それまで自分が描いてきた絵の中には見られないものだったし、こちらを見つめる無数の視線は明らかに正気の発想とは思えない。その絵は、智の意識の奥底に眠る隠された衝動を表現しているようだった。智は、自分の中に棲む得体の知れない他者の存在を感じずにはいられなかった。それは自分の心を遠くの方から覗き見しているような変な感覚だった。ぼんやりとそんな思いに捕われつづけていると急激な肉体的疲労が智を襲い、智は、座っていることすらままならないような状態に陥った。智は、そのまま倒れ込むようにベッドに横になると、深い泥沼の底へ沈み込んでいくような際限のない眠りに落ちた……。