旅を楽しんでなんかいない

「ぼくの場合は、ちょっと違うと思います。むしろ、不自由になりに来たと言うか……」

それを聞いて谷部は大きな声を上げて笑った。それは腹の底から響いて来るような大声だったので、周りにいた欧米人達が何人か谷部の方を振り返った。

「まあ、ともかく、もっと楽しく行こうぜ。あんまり頭でっかちになり過ぎるのも良くないよ。たまには何にも考えずに素直に楽しむってのも大切なんだぜ」
「でも……」

智が何か言おうとするのを、谷部が遮った。

「今日ぐらいはいいだろ? 何にも考えずに、がっつりキマッて眠っちまえよ」

そう言うと谷部はいつの間に巻いたのか、大きなジョイントを智に手渡した。

「はあ……」

智はジョイントに火をつけた。一服大きく吸い込むと、脳味噌に直接煙が充満していくようで、痺れるような感覚が頭のてっぺんから徐々に降りていく。全身が、脱力する。夜風が心地良く、熱せられた体から温度をさらっていく。

――― 自由、自由、自由 ―――   

智には、その言葉の意味する所が良く分からなかった。

――― 自由、自由、自由、自由、犬に、喰われる程、自由、ああ、自由、自由……、分からない、俺には、分からない、自由という感覚が理解できない……。一体、何が「自由」だというのだ? 一人で気ままに外国を旅していれば、それが自由だっていうのか? いや、違う、それは違うぞ、だったら俺はもっと自由でなくちゃならないはずだ、さっきも言われたように、俺は、自分の決めた色んな決まり事に束縛され続けている、ちっとも自由なんかではない、それは分かってる、他人から見たら一見、何も考えずに自由に旅を楽しんでいるように見えるのだろうが、決してそんなことはないのだ、決してそうではない、俺は決して旅を楽しんでなんかいない ―――    

「ほら、サトシ、また何考えてんだよ、建にジョイント回せよ」

谷部のその言葉に智は我に返った。

「ああ、すいません」

建は、慌てる智からジョイントを受け取ると、深々と煙を吸い込んだ。そして少しの間息を止めると、星空に向かって煙を吐きかけた。建は、そのまま放心したように、しばらくの間体を動かさなかった。

「自由、か……」

建はぽつりとそう呟いた。そして何か考えごとでもしているかのように沈黙した。数分間そうしたのち、建は、おもむろに口を開いた。

「俺なあ、小さい頃、犬に噛み殺されそうになったことがあるんだよ」
「えっ? 何ですって?」

智は、建の言ったことをはっきり聞きとってはいたのだが、その内容に驚いてしまい、思わずそう聞き返さずにはいられなかった。

後悔

「何だよ、しみじみと。日本が恋しいか?」
「いや、別にそう言う訳でもないんですけど、何となく日本に帰るっていう人の話を聞くと羨ましいというか、何というか……。それに今日、建さんと浮世絵見に行ったじゃないですか。それも手伝って、余計に……」
「ハハハ、何だよ、それ。じゃあ何で日本に帰らないんだ?」

建は笑って智にそう尋ねた。智は、俯いて、コンクリートの隙間から生えている雑草の葉をいじりながらそれに答える。コンクリートとコンクリートの間のわずかな隙間から、名前も分からないただの雑草が生えている。智は、ぼんやりと、過酷な条件下で生きる生命の不思議を思った。どうしてそこまでして生き続ける必要があるのだろう?

「帰れないんですよ」
「どうして?」
「ヨーロッパの最西端まで行くって決めてるんです」
「何で?」
「何でって言われても……。何となく旅行に出る前から決めていたことだから……」

健は、腕組みをしながら無言で智の話を聞いていた。

「自分を変えたくて……」

智は、建とは視線を合わせずにそう言った。気が付くと雑草の葉を全て引き抜いてしまっていた。建は、改めて智の方に向き直って、しばらくの間智を眺め続けた。

「智、あんまり無理はするなよ。帰りたきゃ帰ったっていいんだぜ。もし旅を続けることが辛いんだったら、無理せずにやめてしまえばいい。無理して自分を追い込みすぎる方がよっぽど良くないよ」
「ありがとうございます、建さん。でも、もしこの旅を途中でやめちゃったりしたら、後々とても後悔することになると思うんです。自分自身を信じられなくなるかもしれません。だから、何としてでも最初の目標を達成してしまいたいんです。反対に、それさえできれば自分自身にかなり自信が持てるような気がして……」

建の心遣いを智は嬉しく思った。

「そうか……。そこまで考えてるのなら気が済むまでやった方がいいのかも知れないけど、憶えてて欲しいのは、旅って言うのはもっと楽しいものだってことだ。もっと気楽なものなんだ。せっかく色んな所に行けて色んな人達に出会えるんだからそれは楽しいに決まってるし、楽しまなくっちゃ損だぜ。あんまりしかめっ面で旅してても、ちっとも面白くないだろ?」

寝転がって二人の話を聞いていた谷部がふいに智に向かってこう言った。

「智は自由じゃないんだよ」

谷部の突然のその言葉に智は自分のことを否定されたような気がして、少し不機嫌になった。

「自由……、ですか?」
「そうだ。自由だ。旅ってのはもっと自由なもんなんだぜ。お前みたいにがっちりと決まり事を決めちゃってたら、ちっとも自由じゃない。智は、自由になりたくて旅に出たんじゃないのか?」

通り道

一通りチラムを回し終えると、三人ともリラックスした体勢で、何をするともなくぼんやりと時を過ごしていた。谷部は寝転がって星空を眺めている。スモッグのせいか、そんなにはっきりと星が見える訳ではないが、霞みながらもそれらは明るく輝いている。

「星が、きれいだな」

独り言のように谷部が言った。

「そうですか? 何だか排ガスで曇ってるようだし、そんなにきれいでもないですよ」

それに水を差すように、智がそう言った。すると谷部は、一瞬驚いたように智の顔を見返した。

「馬鹿、お前、何言ってんだよ。きれいじゃねえか、こんなにも」

谷部がそう言って智をたしなめると、智は、そうですかぁ?、と苦笑しながら再び空を見上げた。智のそんな様子を谷部は無言で眺めた。

「しかし、パキスタンかあ。パキスタンの星空もきれいなのかな」

気を取り直して谷部がそう言うと、建がそれに応えた。

「行ったことないから分からんけど、どうだろう。何か埃っぽいイメージがあるからな。あんまり星なんて見えなさそうだけど。どうしたの、急に? さっきのジョージのこと?」「ああ、ジョージがパキスタン行くだなんて知らなかったもんな。ああやって急に言われるとなあ。どんな所なんかなって思っちゃうよな。そう言えば智も行くって言ってたけど、どう? どんなとこなの? パキスタンって」

曇った星空を見上げていた智は谷部の方に向き直った。

「さあ、僕もあんまり良く分かんないんですよ。分かっているのは、イスラムの国だから街中男ばっかりだということと、髭を蓄えておかないとゲイに狙われて襲われかねないということです。女の子はもちろんのこと、男ですら襲われたり痴漢に遭ったりするらしいですよ。もちろん、男の、です。特に日本人は、幼く見えるらしいんで狙われやすいって言いますね」
「ハハハ、本当かよ? ひでえな、そりゃあ。だったら何でそんな所行くんだよ?」
「僕の場合はヨーロッパ行くまでの通り道ですね。だから、特にパキスタンへ行きたいという訳ではないんですよ。陸路で行くのなら絶対に通らなくちゃならないですから。でも、北の方へ行けばイスラム色が薄れてきて、少数民族の暮らすマイナーな地域がたくさんあるから大丈夫らしいですよ。それにその辺りは、景色がとてもきれいらしくって、桃源郷と称される程です。実際長生きの人が多いと聞きます。さっき、ジョージと話していた”フンザ”という所です」
「そうか、そう言えばさっきジョージと話してたよな。そんなにいい所なのか?」
「まだあんまり旅行者が足を踏み入れていない地域なので、人も擦れていなくって素朴でいい所だって聞きました。杏の花の咲く五月ぐらいがベストシーズンだそうです」

谷部は、何か考えるように夜空を見上げながら智の一言一言に頷き続けている。

「そう言えば建さんは、インドの後どこへ行くつもりなんですか?」

智は、急に建の方を振り返って言った。目を閉じて二人の話を聞いていた建は、突然話しかけられて驚いて目を開けた。

「えっ、ああ、俺か? 俺は多分タイに飛ぶよ。もうしばらくインドにはいるつもりだけどな。一度日本に帰って金を作ってこなきゃならないんで、最後にタイでのんびりしてから日本に帰るよ」
「そっかあ。日本に帰るのかあ……」

少し嫉妬の籠ったような口調で智はそう言った。

夜景

ジョージがいなくなり、部屋の中は少し静かになったようだった。大勢でいても誰か一人がいなくなると、やっぱりどこか寂しい気分になる。智は、ジョージにまた会えるといいな、と思った。今日初めて会ったばかりだったが、何となくそう思わせるような男だった。 

君子を除く三人は、ゲストハウスの屋上へ上がった。部屋の中が、人々の熱気とチャラスの煙とであまりにも不快になったため、場所を移すことになったのだ。君子は、疲れたからここで休んでるわ、と言って部屋に残った。恐らくチャラスがキマり過ぎたのだろう。夜の屋上は何人かのツーリスト達で賑わっていた。車座になって談笑する者達、チラムを回す者達、夜景を眺めながら言葉を交わし合うカップル、欧米人、アジア人、男、女、静かな喧噪がそこにはあった。四階建てのこの建物は、メインバザールの中では比較的高い建物になるため、見晴しがとても良い。夜の街には、オレンジ色の街灯や家の灯りがポツポツと灯り、車のクラクションやサイクルリキシャのエンジン音が相変わらず甲高く響き渡ってはいるものの、ここまで来るとそんなに苦にならないから不思議だ。むしろ夜景を彩る心地良いBGMのようにすら感じられる。眼下に家の屋根や建物の看板が暗く並び、遠く闇の向こうには、ニュー・デリー地区の高層ビル群が霞んで見える。

「へえ、こんなに人がいるものなんですね」

周りを見回しながら智がそう言った。

「ああ、夜になると昼間に入り口の辺でたむろってた奴らがそのまま上がってきて、今度はこっち来てだらだらと同じようなことしてるんだよ」

谷部が智にそう説明した。智は、そういえば昼間見た人達が何人かいるな、と納得しながら歩いた。三人は、空いている場所を探すとそこに腰を下ろした。

「何だかここは涼しいですね」

智が言った。

「ああ、風通しがいいからな。高い建物があんまり無いから、風が抜けていくんだろうよ。こんなクソ暑い街でも一応風が吹いてるんだな」

バッグからチラムを取り出しながら谷部はそう言った。そして細長く切った布をチラムの穴に通し、その先端を足の親指に巻き付けて、もう一方の端を手で掴むと、チラムを上下させてその布に激しく擦り付けた。白い布には見る見る茶色いヤニがこびり付いていく。智は、ぼんやりと、ああ、こうして中のあの輝きを保っているんだな、と心の中で思った。谷部は、手際良くチャラスを詰め終えると、今度は建にそれを手渡した。建は、ボン・シャンカール、と言ってチラムを受け取って口に添えようとしたのだが、あ、ちょっと待った、と言って谷部がそれを遮った。谷部は、おもむろにバッグから白いガーゼのような薄い布を取り出すと、ペットボトルの水でそれを湿した。そしてそれを軽く搾って建に、これ使いなよ、とその布を手渡した。建は、ああ、サフィね、と言ってその布を受け取った。

「ごめんごめん、さっきはこれが見つかんなくって、無しでやってたよな。これ、あった方がいいだろ?」
「ああ、葉っぱが口の中に入ってくるからな。ありがとう、谷部君」

建は、サフィをチラムの根元に巻き付けてそこを両手で覆った。谷部は、建の持つチラムに火をつけた。夜の大気が、一瞬、白く染まる。大量の煙は徐々に拡散されていく。

パキスタン

谷部は、驚いてジョージを見返した。ジョージは、笑って谷部の頬を軽く叩いた。谷部は、頭をゆっくりと左右に振りながら右の拳をジョージに向かって突き付けた。ジョージはその拳に自分の拳を軽くぶつけた。

「俺、明日デリーを出るんだ。パキスタンへ行くんだよ。ようやくビザの手続きも終わったから。朝早くアムリトサル行きのバスに乗るんだ」
「ジョージ、マジかよ? 知らなかったぜ。じゃあ今日でお別れなのか?」

優しく微笑みながらジョージは頷いた。寂しくなるなあ、谷部がぼそりと呟いた。

「また会えるさ」

ジョージは、そう言うと、谷部に向かって手を差し出した。谷部は、その手を掴むと立ち上がってジョージの肩を抱いた。ジョージも谷部の肩を抱いた。それを見ていた建が、智に、どうしたんだ?、と尋ねた。建は、英語でなされているこの一連をどうやら全く理解していないらしかった。建は英語が話せないのだ。ジョージが明日パキスタンへ向かうんで、これでお別れなんですよ、と智がそう言うと、驚いたように建は、え、本当か、と大声で言った。

「ユー、ゴー、パキスタン?」

唐突に建がジョージにそう尋ねると、ジョージは、イエス、イエス、と笑いながらそれに答えた。それを聞いた建は、ジョージと抱き合いながら別れの挨拶をした。更にジョージは、君子とも同じように別れを告げた。そして最後に智のところへやって来て手を差し伸べた。智は、ちょっと緊張しながらその手を握った。

「俺もパキスタンへ行こうと思ってるんだ」

智はそう言った。

「本当に? じゃあ向こうでまた会えるかもね」
「でも、俺が行くのはもうちょっと先のことになると思う」
「フンザへは?」
「ああ、行くと思うよ」
「俺は、パキスタンに入ったら真っ直ぐ北の方へ行くつもりなんだ。多分そこで長く滞在することになると思う。だからまた会うだろうね、きっと。行くんだろ? フンザへは」 微笑みながら智は頷いた。ジョージは智の肩をポンポンと軽く叩いた。

「シー・ユー・イン・パキスタン」

智がそう言うと、ジョージはウィンクでそれに応えた。

「フンザで、またボンしよう」

ジョージは、そう言って、みんなに軽く手を振りながら部屋を去った。

マントラ

ジョージは、皆とは違ったやり方で片手でチラムを掴んだ。親指と人差し指、中指の三本でチラムの口を持ち、中指と薬指の間でチラムの胴を挟む。中身が落ちないように自然と顔は上向きになる。そして空いた手で器用にマッチを擦ると、自分でチラムに火をつけた。途切れるような吸気音が何回か続き、そしてその度に、白い煙が筋のようになって勢いよく何度も吐き出された。しばらくそうしていると、しまいには煙が出なくなって、ジョージの空気を吸い込む音だけが部屋に響いた。ジョージは、口から手を放し、片目をつぶってチラムの中を覗き込んだ。 
「アー、アオ、アオ、イッツ、フィニッシュ……」

ジョージが笑いながらそう言うと、谷部は、オーライ、オーライ、ノー・プロブレム、と言ってジョージの手からチラムを受け取った。そしてそれを逆さにし、ポンッと叩いて、中の円錐形の石と灰を取り除いた。そして新たにチャラスを補充して、ほら、キミコ、と谷部の隣に座る女に手渡した。キミコと呼ばれたその女は、谷部の顔を見ながら微笑んで、ありがとう、とそれを受け取る。そしてジョージと同じやり方でチラムを掴むと、谷部がそれに点火した。君子はゆっくりと煙を吸い込んだ後、少しむせながら谷部にチラムを手渡した。谷部がそれを受け取る頃にはもう既に建がマッチを擦っており、建は、谷部が構えるのを待った。谷部は、うやうやしくマントラを唱えると、チラムに口を添えた。建は、谷部がそうするのを見計らい、同じようにマントラを唱えると、ゆっくりとマッチの炎を近づけた。炎は、谷部の呼吸に合わせてチラムの内部へと吸い込まれていく。そしてそれが消えそうになると、建が上手く距離を作って消えないように調節する。部屋の中は再び煙で真っ白になった。

しばらく無言のまま時が過ぎていった。その沈黙を破って最初に口を開いたのはジョージだった。

「部屋に帰るよ」
 ジョージは谷部に言った。

「どうしたんだ? もっとゆっくりしていけばいいじゃないか、なあ?」

谷部は、智に同意を求めるように英語でそう言った。智は無言で数回頷いた。するとジョージは、柔らかく微笑んで、いや、いいんだ、明日早いし今日はゆっくり眠ることにするよ、と言った。

「気を遣わなくたっていいんだぜ」

谷部が言った。

「違うんだ、そんなんじゃない。ちょっと疲れてるし、今日は早く寝ようと思っただけなんだ。君達はゆっくり楽しんでくれよ」

ジョージは、そう言うと、ピンポン球大のチャラスの固まりをもう一つ谷部に手渡した。

「何だよ、これ」
「みんなで使ってくれよ」

谷部は、金を払おうと財布を取り出すと、ジョージが慌ててそれを遮った。

「違うんだ、ヤベ、お金なんていらないよ、みんなでやってくれよ」

解放

円錐形をした小さな石をチラムの中に入れると、谷部は、その上にチャラスの混ざった煙草の葉を詰め込んでいった。それをチラムの先端すれすれまで詰め込んでしまうと、ほら、と言って智に手渡した。

「僕からでいいんですか?」

突然手渡されたチラムに少し当惑しながら智はそう言った。

「当然だろ。久々に再会したんだし、ゲストからやるもんなんだよ、こういうものは」

谷部は、何を言っているんだと言わんばかりに智にチラムを押し付けた。智は、恐縮して渋々それを受け取った。

あまり親しくない人達とボンをするのはいつも緊張する。チャラスがキマッて無防備な自分が、何の警戒心もなく知らない人達の前に曝け出されてしまうからだ。もしそれをコントロールして自分をなるだけ見せないようにするとしたら、それは精神的にひどく困憊してしまう。気のおけない仲間達とボンをする分にはリラックスしてとてもいいものなのだが、知らない人達が何人もいる所では、智は、心置きなく自分自身を解放することができないのだ。しかも相手は、智があまり良く思っていない、ババ・ゲストハウスの谷部さんだ。できればこんなことはせずに適当に談笑してさっさと帰ってしまいたかった。

「ほら、どうしたよ。早く構えろって」

チラムを吸うには独特の構え方があって、両手を使って吸い口を作りその隙間に口を当てるのだが、そうすると自然と首を斜めに傾けた状態になり、そこからチラムがスパッと抜け出しているその姿は熟練者になればなる程様になる。年期の入ったサドゥーなどが恍惚とした表情でそうしていると、何か神聖さのようなものすら感じられる程だ。

「はあ……」

智は、谷部の言葉に溜め息混じりにそう答えると、覚束ない手付きで両手でチラムを包み込む。今まで何度もこういう機会はあったので、一応そのやり方は知っている。

「ボン・ボレナ」 

谷部は、二本いっぺんにマッチを擦ると、腹の底から絞り出されたような声でシバ神を称えるマントラを唱え、チラムの先端に火を点した。それと同時に智は力一杯空気を吸い込んだ。シューという吸気音とともに、大量の濃い煙が智の気管に入り込む。そして勢いよく鼻と口から煙を吐き出すと、その途端、激しくむせ返った。むせ返りながら横にいた建にチラムを手渡す。谷部は、既にマッチを擦って待機しており、建は、慣れた手付きでサッと両手でチラムを包み込むと、ボン・シャンカール、と小さくマントラを呟いて谷部の点火を待った。間髪入れずに谷部は、ボン・ボレナ、と言いながら建の持つチラムに火をつけた。建は、物凄い勢いで煙を吸い込むと、その後数回、息継ぎの要領で手の間に隙間を作って更に多くの煙を体内に取り入れた。大量の煙が、作られた手の隙間から規則的に溢れだし、一瞬で部屋の中は真っ白に煙った。そんな建の様子を見ていたジョージが、アメイジング、と囁くようにそう言った。建は、しばらく体内に煙を溜めると、一気にそれを吐き出した。まるで白煙を吹き出す機関車のような勢いで、建の鼻と口から煙が吐き出された。建は、ボン、と言って右手でジョージにチラムを手渡した。ジョージは、ボン、ボン、と言って差し出されたチラムを右手に左手を添えて丁寧に受け取った。ジョージは、もう既にキマッているのか、常に表情に柔らかな微笑みをたたえている。その時智と一瞬目が合ったが、その目は何だかとても優しかった。何故だか分からないがそう感じた。智は、温かい、落ち着いた気持ちになった。

チラム

谷部がジョージに向かって英語でそう言うと、ぼんやりと天井を眺めていたジョージは、嬉しそうに、O・K、と言って谷部の方に向き直り、ポケットからピンポン球ぐらいの大きさのチャラスの固まりを取り出して、谷部に向かって放り投げた。谷部は、サンキューと言ってそれを受け取ると、手早くほぐし始めた。

ほぐしながら英語でジョージと何か喋っている。発音こそ日本人独特の固さがあるものの、谷部はかなり英語を話せるようだ。黒人特有の粘りのある早口な英語をジョージが喋っているにもかかわらず、谷部は、いちいち聞き返したりすることもなく、なんなく会話を成立させている。何となくそれが意外なことのように智には思われた。

チャラスを適当にほぐし終わると、谷部はチラムを取り出した。陶器でできている円筒形のそれは、とても美しいものだった。表面は黒光りしていて光沢があり、口の方に白い二本の筋が入っている。かなり手入れされているようで、それを扱う谷部の手付きも慎重なものだった。

「智、谷部君のチラム凄いだろ? 何回か、くれって頼んでみたんだけど、どうしても譲ってくれないんだよ」
「馬鹿、ケン、これは駄目だって言ってるだろ」

谷部は、チラムを布で擦りながら横目で健を見てそう言った。

「高かったんですか?」

智が尋ねた。

「いや、値段もまあそうなんだけどな、これはイタリアン・チラムって言って、あんまり数が多くない貴重な物なんだよ。職人の手造りなのさ。ほら、ちょっと見てみろよ」

そう言って谷部は智にチラムを手渡した。智は、それを受け取ると手の中でまじまじと眺め回した。ずっしりとした重みと冷んやりとした感覚が、智の手に伝わってくる。

「中の穴を覗いてみろよ」

谷部は智にそう言った。見てみると、きれいに中心がくり抜かれている。内壁の表面がまるで鏡のようにキラキラと輝いて見える。

「凄いですね、こんな風になっているだなんて。初めて見ましたよ、こんなチラム。今まで見てきたのは、ガンジャの絵が彫られていたり、変な模様が入っていたりする土産物屋で売られているような物ばかりなんで、こんなにシンプルできれいなのは初めてです。中の穴もこんな風にまっすぐには通っていなかったし」

智は、少し興奮しながらそう言った。そんな智の様子を見ながら、谷部は得意気に微笑んだ。

「そうだろ、これは特別な物なんだ。たまたまゴアで再会したフランス人の友達が俺にくれたんだよ。そいつは古い旅仲間でそれまでも方々で会ってたんだけど、その時はもう本当に何年か振りだったんだ。お互い昔から色んな所旅してる同士だから、なかなか連絡取ったり、会う約束したりっていうのができなくてさ。それで何年か前にそいつと再会した時、多分もうゴアに来るのもこれが最後だからって言ってその記念にこれを俺にくれたんだよ。実はそいつもその昔これを誰かから貰ってて、自分も同じように誰かにあげるのがいいだろうって言いながらな。だからこれは、もう何人もの手から手へと受け継がれている、歴史のある物なんだよ」

そう言うと谷部は、そのチラムを大事そうに撫でまわした。

「だから、それを俺の所に回してくれればいいんじゃない?」

建がすかさずそう言った。谷部は、笑いながら細い目をさらに細くして、そう言う建を軽くあしらった。

内輪意識

「ジョージは、ゴアでディーラーやってた奴で、これがまた、いいネタ持ってんだよ。最近俺達はすっかり普通の旅行者になってたから、観光ばっかでしばらく手に入んなかったんだよな。そこでこの宿来たら、色んな奴いるから退屈しなくってさ。で、ジョージに出会ったって訳だ。さっそく色々分けてもらって、毎日天国だよ、全く、ワッハッハ」

谷部は、顔の艶を一層輝かせながら豪快に笑った。そう言われてみれば、部屋の中はチャラスの残り香が薄らと漂っている。女が常に笑顔でいるのはチャラスが効いているせいなのかも知れない。

「そういえば、建、お前今日出るって行ってなかったか?」

おもむろに谷部は建に向かってそう言った。

「ああ、そのつもりだったんだけど、今朝ここ来ただろ? その時、偶然智に会ったもんだから、もうちょっといようかなと思って。智もこの宿泊まってるんだよ」
「何だ、そうなのか。じゃあ、まだデリーにいるんだな。智もここに泊まってるのか。なかなか面白い所だろ? この宿。あっそうだ、お前も一緒にボンしないか? ボン、するだろ?」
「ええ、まあ」
「バラナシにいた時は、したことなかったよな」
「そうですね、一緒には」
「そうだよな。お前、俺達の所には来たことなかったよな。どこだっけ、ビシュヌ? 泊まってた所は」
「ええ、そうです」
「あそこにいた奴なら、ええっと、清志だっけ。いただろ? そんな奴。あいつはよく遊びに来てたよなあ」
「ああ、清志って奴は僕らの泊まってたドミにいました。よくババ・ゲストハウス行って来るって言って出ていって、パキパキにキマッて帰って来てましたよ。確か、谷部さん達のことも話していたと思います」

清志というのは、智よりも幾つか若い学生の旅行者で、ビシュヌ・レストハウスのドミトリーでしばらく智と一緒だった男だ。年令が若かったせいもあるだろうが何ごとに対しても貪欲で、興味のあることには常に全力で向かって行くようなタイプだった。その反面、一歩間違うと取り返しのつかないことにもなりかねず、一言で言うと”命知らず”なタイプだった。しかし、性格はとてもさっぱりとしていて愛想も良く、誰とでも気兼ねなく話をすることができるし、智達のように変な内輪意識を持ってババ・ゲストハウスの人達のことを見ることもなかった。要するに、自分と他者との間に壁を作ったりせずに人と付き合うことのできる人間だったのだ。智は、清志のそういう部分をとても羨ましく思っていたし、人間的にも魅力を感じていた。清志のことは嫌いではなかった。

「あいつは凄かったもんなあ。ガンジャなんかでも俺らとやったのが初めてだって言ってたけど、俺らと同じぐらいのペースでガンガンやってたからな。最初の内は、いつも殆ど気を失ったみたいにぶっ倒れてたよ。あいつ、今頃どこで何してるんだろうな……」
「谷部さん、ジョージ、退屈そうにしてるわよ」

終始笑顔の女が、谷部の袖を引っ張りながらそう言った。

「ごめん、ごめん。そうだったな。ジョージ、もう一発決めようや」

ジョージ

「はあい、だれ?」

建は、智の方を見て、いるみたいだぜ、と微笑みかけると部屋の中に話しかけた。

「俺だよ、建だよ」
「ああ、建か。入ってきなよ」

建は、智に目で合図をするとドアのノブを捻った。智は、無理矢理笑顔を作りながら、建に続いた。

「よお、建。デリー出たんじゃなかったのかよ。明日だったか?」

谷部は、そう言うと、建の後ろから部屋に入ってきた智に気が付いて、身を乗り出しながら智を覗き込んだ。

「あれ、お前、確かバラナシにいたよなあ。何て名前だっけ? 確か……」
「サトシです」

智は、ぎこちなく笑いながらそう言った。

「おお、そうだそうだ、智って言ったっけ。”スパイシーバイツ”でよく会ったよなあ。まだ旅してるんだ」

谷部は、ずんぐりとした体型で角張った顔をしている。目は細く切れていて唇も薄い。肌の色は、白く、張りがあってほんのりと紅みが差し、とても艶々している。まるで茹でたての野菜みたいだ。智は、谷部のその風貌を、和尚さんのようだ、とずっと思っていた。どうしても彼が袈裟を着ている姿を想像してしまう。実際着せてみたら、きっと物凄く良く似合うに違いない。

その谷部の横には日本人の女が座っている。二十代後半ぐらいだろうか、やはり長く旅をしているような風貌で、薄いピンクのインド綿の涼しそうな服を着ていた。胸の辺りが大きく開いていて、良く日に焼けた肌を露出している。彼女は、どんな時でも常にニコニコ微笑んでおり、谷部が智に話しかけている間中、ずっとその笑顔を保ち続けていた。どうやらこれが、建の言っていた、谷部と一緒に旅行しているという女のようだ。

「ええ、ビシュヌに泊まっていたものです。”スパイシー”にはいつも食事しに行ってましたから……。何回かお話ししたこともありましたよね」

智がそう言った時、ふいに部屋の奥にあるトイレの水を流す音がした。しばらくすると、明らかに日本人ではない大柄な男が、咳き込みながら入って来た。その男は、智を見ると、笑顔で、ハイ、と言って智の肩をポンポンと叩いた。アメリカ系の黒人のようで、背が高く、筋肉質の引き締まった体つきをしている。

「ジョージだよ」

谷部が言った。

「ここで出会ったアメリカ人なんだ。最近よく一緒に遊んでるんだよ」

ジョージと呼ばれたその男は智を見て優しく微笑んだ。智は、少し緊張しながらジョージに微笑み返した。