情報ノート

ノートには様々な旅行者達がそれまでの自分達の旅の軌跡を綴っていた。どこどこの町の何々という宿は良かったですよ、だとか、何々というレストランの何々はとてもおいしいですよ、だとか、こういったノートは、旅の要所要所日本人旅行者の集まる場所には必ず置いてある。書かれている情報に関しては、実際役に立つ情報もあるし、その時の自分の心境を述べただけの、全く実用性の無い落書きみたいなものもある。割合的には半々ぐらいだろう。だから、情報ノートとは、必ずしも実務的な役割ばかりでなく、孤独な旅人達が自分と似た境遇の他人達の存在を確認して、共感し、互いに慰め合う慰安所のような役割も果たしているのだろう。むしろ、その役割の方が主なのではないだろうか。実際、智は、いつも情報ノートに自分自身の分身を探し出す。そして、自分と似たような感じ方や考え方をそこに見い出して、自分の寂しさを紛らわそうとする。今回も、半ば定められた習慣のように智はそのノートを手に取った。

智は、運ばれてきたリムカの瓶にストローを差しながら、ノートのページをめくる。ノートの最初の方はずいぶんと古い日付けで、ああ、この頃は俺、まだ日本で働いていた頃だよなあ、と当時の自分を振り返った。そしてその頃ここにいて、これを書いていた誰とも知らぬ旅人に思いを馳せた。そうやってぼんやりとリムカをストローで吸い上げていると、トントン、と誰かが突然智の背中を突ついた。智は、ハッとして後ろを振り返ると、そこには日本人の女の子が一人、立っていた。

「ここ、座ってもいいですか?」

いきなりのことで智はちょっと面喰らったが、断る理由も無いのでそれを承諾した。

「良かった、私、一人でごはん食べるのが本当に苦手で、ここに来れば一緒に食べてくれる人が誰かいるだろう、と思って来てみたんです。私、一人で旅するのは平気なんだけど、ごはんだけは誰かと一緒じゃないと、どうも駄目なんです」

彼女は、席に着くなり智にそう言った。

「ああ、そうなんだ。でも、俺、食事する予定はなくって、これ飲んでるだけだけど、それでもいいのかな」

智がそう尋ねると、彼女は、肩からかけていた鞄を慌ただしく外しながらそれに答えた。

「いいんです、いいんです、いてくれさえすれば。私、多分、周りの視線が気になるんでしょうね。周りの人達に、あいつ、一人でメシ喰ってやがる、とか色々思われてるような気がしてどうも嫌なんです。本当は誰もそんなこと思ってないんだろうけど、でも、これはもう、日本にいる時からそうなんです。何か、駄目なんです。あっ、すいません、私、自分のことばっかりぺらぺら話しちゃって。私、サチエって言います」

そう言うと彼女は、智に手を差し出した。

「あっ、ああ、俺、サトシ」

再確認

智は、重たい体を引きずりながら、今まで撮り貯めたフィルムを現像するために思い切って外へ出た。いつも半年分ぐらいまとめて出すようにしていたので、三十六枚撮りのフィルムが猶に十本以上は貯まっている。写真を現像するのは楽しみだった。写真を見ていると、忘れていたような旅の光景が次々と現れて来るので、ついついそれに没頭してしまう。それは、自分が旅をしているということを、実感として再確認できる瞬間だった。

写真屋の店主は、サリーを着た割腹の良い中年婦人で、智が持ち込んだ十数本のフィルムを少々驚いたように眺めながら、智に尋ねた。

「一体、何をこんなに写したんだい?」

智は微笑みながらこう答えた。

「インドの色んな所ですよ。ずっと旅してるからたくさん貯まっちゃったんだ」

婦人は、目を見開いて、ホーッと感心するように言った。

「そうなのかい。インド中をねえ……。あたしはずっとこの辺りで暮らしているから、他の土地のことは良く分からないんだよ。ジャパニーズのあんたの方が、余程インドのことを知っているんだね」
「知っているって言ったってそんなに長くいる訳じゃないから、マダムにはかなわないよ。僕は、所詮、旅をしているだけだもの」

智がそう言うと、婦人は微笑みながら軽く首を傾げた。その様子を見ながら智は、彼女がずっとデリーにいてインドの他の地域のことを全く知らないでいることに、少し驚きを覚えた。しかしよく考えてみるとそれは、ごく当たり前のことなのかも知れない。世界でも指折りの国土面積を誇るインドの国をくまなく旅するなど、よっぽど金と暇がないと無理な話だろう。日本のように電車や飛行機がスムーズに機能していれば話はまた別なのかもしれないが、これはインドでの話である。そんなにスムーズに行く筈がない。スケジュールの何倍もの日にちとお金がかかることは確実だろう。そんなことをしようと思うのは、智達のような物好きなバックパッカーだけなのだ。

「あたしには、南インドなんて想像もつかないもの」

笑いながら婦人はそう言った。智も笑ってそれに答えた。彼女が見たことのない南インドの風景を、確かに自分は知っている。何だかそれは、とても奇妙なことのように思えた。

写真ができるまでの間、智は、旅行者の間で有名な「ゴールデン・カフェ」という日本食レストランへ行って時間を潰すことにした。さすがに有名なだけあって、店内には日本人とおぼしき旅行者達が何人もいた。

智は、彼らに軽く挨拶をしながら一人で席に着いた。テーブルの上には日本語で書かれた旅の情報ノートが置いてあったので、暇つぶしにぱらぱらとめくってみる。腹が減っている訳ではないので、インドでは最もポピュラーな飲み物の一つである「リムカ」という名のレモンスカッシュのような炭酸飲料を、智は注文した。

生きている意味

いや、理由はあるのではないか? 河が流れるのには、何らかの意味があるのではないか? それと同じく、人が生きるのにも理由や意味が……。もしそうだとしたら、その意味は? 何故俺は生きて、ここに存在する? インドを旅する理由は? 皆に出会って、別れる理由は? 人が生きて、死んでいく理由は? 生きている内に笑ったり、泣いたり、喜んだり、悲しんだりする理由は? それらに意味や理由があるからこそ、死や別れの辛さを乗り越えられるのではないだろうか。寂しさや悲しさに絶え得るのではないだろうか。生きていることに何の意味も見い出せないのだとしたら……。きっと死神に捕まってしまうだろう……。直規の言っていた、死神に……。ただ、その生きる意味とは……。分からない。俺には、分からない……。

智は、再び体に痛みを感じ始めた。部屋の中は暗い。窓から覗く猛烈に白く輝く世界が、余計に部屋の中の暗さを際立たせる。汗の染み込んだシーツに寝返りを打つ。独特の臭気が鼻を突く。視線の先には、智の描いたシバ神がこちらを見つめていた。それは、安らかに微笑みながら踊っている。ヒンドゥーの伝説によるとガンガーは、結ったシバの髪の間から吹き出しているのだという。

ああ、シバよ、あなたは何故、河の流れを造るのだ? 何故、この世の中に、生命というものを生み出したのだ? 何故、人は生きねばならないのだ?

智は、自分が生きている意味が知りたかった。死や別れというものを乗り越えなければならない理由が欲しかった。しかし、いくら考えても明瞭な答えは出て来ない。ただ、もう一度バラナシに行きたいと思った。そして、ガンガーの流れをただひたすらに、ずっと眺め続けたいと思った。そうすれば何かが分かるような気がしたからだ。少なくとも、ここ、デリーにいるよりは、何かが得られそうな気がした ―――   

生きて行かねばならない理由

ベッドに体を横たえた。やはり少し寒気を感じるようだ。体の節々が鈍く痛む。

智は、今までの旅のことを思った。そして出会い、別れていった旅人達のことを思う。たくさんの人達がいた。長く一緒にいた人達や、ほんの短い間だった人達。共に色んなことをした。食事をしたり、町を歩いたり。思い出の中の彼らは、何故かみんな笑っていた。智は、楽しかったことばかりを思い出した。でも、やはりそれらは皆終わったことなのだ。もう全てが、終わってしまったこと。決して再び訪れることの無い時間達。分かり切ったことなのだが改めてそう実感すると、今一人でいるこの状況が余計に寂しく感じられる。堪らない気持ちになる。

物事には、どうして終わりが訪れるのだろう? 楽しかったあの時は、何で永遠ではないのだろう? なぜ、別れなければならないのだろう? 

智は、子供っぽいそれらの問いを、半ば怒りを込めて誰にということもなく問いかけた。

終わり、終わりが訪れる……。

そして、死を想った。生命の終わり。終結。どんな命にも、必ず死は訪れる。別れは必ず訪れる。智は、何となくガンガーの河の流れを思い出していた。茶色く濁った濁流が、蕩々と流れ続けるその様を。ただ、流れ続けるその様を。

何故だろう? 何故、河は流れるのだろう? 人は? 何故、人は生まれる? 何故、人は生き続けねばならない? 何の目的があって? 河は何のために流れて、自分は何のために生き続ける? 理由など無いのだろうか。それならば、死の恐怖や別れの辛さを乗り越えてまで生きて行かねばならない理由も見つからない。その先に何も無いのであれば、それらを克服せなばならない理由もない。分からない。俺には、生きるということが分からない。ああ、死か。死ならば、バラナシにはたくさんあった。バラナシは、死のイメージで満ち溢れていた……。

智は、もう一度ガンガーが見たいと思った。流れ続ける濁流を眺めていたいと思った。ただ、河べりに座って、日がな一日ずっと眺め続けていたいと思った。バラナシで死ぬことを夢見る人達。来生へ夢を託して、バラナシで死んでいく人達。ガンガーは、ただ、無表情に、理由など無く、流れ続ける……。

ハリ・ドワール

智は、からかうようにそう言って建を見た。建は、肩をすくめて煙草に火をつけた。

「ハリ・ドワールに行こうと思ってる」
「ハリ・ドワール?」
「ああ、ヒンドゥーの聖地となっている町の名前な。ちょうど今年はクンバ・メーラというお祭りの年なんだ。ハリ・ドワールにインド中から、物凄い数のサドゥーが集まって来るんだぜ。何千、何万というな。面白そうだろ?」
「何千、何万のサドゥーですか。それは何だか凄そうですね。そのお祭りって確か何年かに一度っていう……」
「そうそう。十二年、だったかな」 
「それはとてもクレイジーなことになりそうですね」
「ああ、もう、やりたい放題だろう。ババ達も警察が立ってる真ん前をチラム吹かしながら胸張って歩いていくという……。ババだけじゃなくって、いかれたヒッピー達もたくさん集まるみたいだよ。ヨーロッパの方で有名なヒッピー・コミューンなんて、何ヶ月も前からそこにテント張って暮らしてるらしいぜ」
「へぇ、面白そうだな……」

智は、薄汚れた黄色の僧衣をまとったサドゥーが、チラムを吹かしながら日の光の下を堂々と歩いていく姿を想像した。

「凄い所ですよね、インドって国は」

智はしみじみとそう言った。

「何だよ、急に。改まって」

智は、建のその問いかけにはきちんと答えず、じっと遠くを眺めるようにクンバ・メーラの光景を夢想した……。

昼食を済ませると、建と智は一旦別れた。建が、また晩飯喰いに行く頃に智の部屋へ呼びに行くよ、ということになった。

智は、一人、ぼんやりと街を歩いた。相変わらずの熱い日差しが智の全身を照らしつける。額から汗が滴り落ちる。汗をかいているにもかかわらず、何故か顔の周りがぱさぱさと乾燥した感じがしてむずがゆい。しきりに智は鼻を掻いている。そう言えばここ数日の間、ずっと 頬や鼻の辺りがムズムズしているような気がする。気が付くと顔に手をやっていることが多い。それに少し眩暈もするようだ。歩いているとフラフラする。風邪を引いたのかもしれないな、と智は思った。そう思い始めると気のせいか寒気もするようだ。 部屋に戻ると、智はベッドに腰を下ろした。部屋の中は、暗く、直射日光が当たらない分、いくらか涼しかった。ただ、トイレの上の小窓からは強烈な日差しが射し込んでくる。それは容易に外界の猛暑を想像させた。

部屋に戻る途中、谷部と君子が泊まっていた部屋の前を通りかかった。部屋はしんとして誰もいなかった。昨日の晩のことが思い出された。そして、屋上のことも。今朝、谷部達を見送ったことも。智は、取り残されたような少し寂しい気分になったが、ああ、もう、終わったことなんだ、と自分を納得させようとした。いちいち別れに過敏に反応していたら、最早旅を続けることなどできないのだ。

建は、火の消えてしまっているジョイントに再び火をつけると一口大きく吸い込んで、それを谷部に手渡した。

「ごめん、谷部君、これ、すっかり忘れてた」

谷部は建からそれを受け取った。

「ああ、いいよ、気にしなくても」

谷部は、建の話についてあまり言及しなかった。ただ、何か考えるように、黙って建の話に耳を傾けていた。

「何でだろうな。誰にもこんなこと話したことなんてなかったのに。何だか、色んなこと思い出しちまったよ。ついペラペラと喋っちまって。ごめんな。」

建は、申し訳なさそうに二人に謝った。

「そんな、謝らないで下さい……」

智がそう言った。気が付くと、屋上の人影はずいぶん少なくなっていた。ただ、相変わらず街の喧噪は遠くから穏やかに響き、裸電球の光によって屋上は頼りなく照らされ、曇った星空は美しく輝いていた。知らない間に月がてっぺんまで昇りつめていた。智は、それら全てをとても心地良く感じた。

「星がきれいですね」

智がそう言うと、驚いたように谷部が智を見返した。そして大きな声で笑いながらこう言った。

「馬鹿、お前、ようやく気がついたのかよ。遅いんだよ、全く」 

そう言われて智が照れくさそうに微笑むと、それに釣られて建も笑った。車座に座る三人の間を、気持の良い夜風がサッと駆け抜けていった ―――   

禁断症状

「そっから先はもう悲惨だよ。かろうじて一命を取り留めたものの、住む場所も無いし金も無い。何とか知り合いの所を点々とするんだけど、わずかな知り合いも、俺をかくまってると危険だからって長居させてはくれない。もう殆ど路上で暮らしてたよ。おまけにシャブ中だったから、一日中禁断症状でガタガタ震えてた。昔の仲間なんか誰も助けてはくれなかったね。そのハーフの極道も、その後、組を破門になって行方知れずだし、そうなると誰も俺に手を差し延べてくれる奴なんていないんだ。結局暴力で支配してただけだったから、本当の友達なんて誰もいなかったんだな。俺なんていなくなってせいせいした、ぐらいにしか思われてなかったんだろうね。まあ、俺が悪いって言えばそうに違いないんだけど、ただ、昔一緒に暮らしてた女だけは俺を助けようとしてくれたんだ。俺がソープで働かせて、電話かけてるところをボコボコにした女だぜ。俺が、路地裏で毛布被ってガタガタ震えてるところにそいつが声をかけてきて、何でか知らないけど俺を家まで連れて帰ってくれたんだ。そして禁断症状で苦しんでる俺に、シャブを打ってくれた。もう何ヶ月ぶりのことだったから、細い針がボロボロの俺の静脈に突き刺さって来た時は、興奮して舌を噛まないようにするのに必死だったよ。そして冷たい液体が血管を通って全身を巡ると、俺はそのまま失神しちまったぐらいだ。それからその後数週間、女の家でひたすらシャブを打ち続ける日が続いた。一日中、ずっと打ってたな。でもある日、突然その女が、お願いだから病院へ行ってくれって泣きながらすがりついてくるんだよ。そう言われて俺は、腹が立ってまたその女を何度もぶん殴ったんだけど、今度は今までとは違って、どれだけ殴られても引かないんだ。顔中血まみれになりながらひたすら俺に訴えかけてくるんだよ。病院へ行ってくれ、ってな。何でだか分からないけど、俺は、殴りながら涙が止まらなくなって、ひたすら泣きながら殴り続けた。あんなに泣いたのはばあちゃんが死んだ時以来だった。そしてその翌日、自分から精神病院に入院したんだ。その後、半年ぐらい入院してようやく退院できるようになって、今度はその女と二人で暮らし始めたんだ。シャブ抜きでな。その時は、何だか世の中が今までとは全く違って見えたよ。ああ、こんなに明るかったんだ、って。幸せを感じていたのかな。全く。こんな俺が、幸せ、だなんてな。笑っちゃうよ。だからか知らないけどそんな生活も束の間、突然交通事故でそいつが死んじまったんだ。全く絶望したよ。神を呪う気力もなかった。涙も出て来なかった。淡々と葬式が終わって、淡々と時間が過ぎていった。それである日、女の部屋を色々整理してたら、インドのガイドブックが出て来たんだ。何だろう、と思って見てたら、要所要所にペンでチェックがしてあったりして、あいつ、いつかインドを旅行するつもりだったんだな。バラナシ、ってとこに折り目がついてた。俺は、ああ、もうこれしかないんだ、って思って旅に出ることにしたんだ。それで最初にバラナシに来て、ガンガーを眺めながらあいつのことを思い出した。不思議と悲しくはなかった。ああ、あいつはこの景色が見たかったんだなあ、って思ったり、何でここに来ようと思ったのかなあ、なんて思ったり。そしたら何故か子供の頃ばあちゃんと過ごした時のことが次々と思い出されて、今まで全く憶えてなかったようなことまでが事細かく、鮮明に、次々と浮かび上がって来るんだ。不思議な感じだったな。寂しいような、懐かしいような。でも決して悲しくはないんだ、むしろ温かい感じで、その時俺の心は本当に何年かぶりに平静を保っていた。とても穏やかな状態だったんだ」

暗くて悲惨

「えっ、健さん、小学三年生でシンナー吸ってたんですか?」

智は驚いて聞き返した。

「ああ。シンナーは凄かったよ。まだ子供だったから余計に効いたのかな。幻覚を見るんだ。毎回。それもアシッドで見るようなキラキラしたのなんかじゃなくって、暗くて悲惨なの。優しいイメージなんて何にも出て来なかった。ドロドロしてて暗いんだ、見る物全てが。周りの景色はどんよりしてて、頭の中は何にも動いていない。ただボーッとそのドロドロの中にいるだけだ。何も感じない。全部が麻痺している状態なんで、何も考えられないんだ。だからシンナーが効いている間は何もかも忘れることができた。それだけがシンナーをやる唯一のメリットだったんだな。けど、一度本当にひどい目に合って、ある時、いつものようにどっぷりとシンナーに浸かってたら凄く眩しい光を見たんだよ。それでしばらくそれを見つめていると、その中から突然キリストが出て来て俺に言うんだ。死んで償え、死んで償え、ってね。もう訳が分からなかった。次から次へとたくさん人が現われて、みんなが俺を責めるんだ。死ね、死ね、ってね。俺は、怖くなって、必死に、ばあちゃん助けて、って言いながらわんわん泣いてたんだけど、ばあちゃんは決して出て来てくれはしなかった。それでまた寂しくなって、またシンナー吸って、ずっとそれの繰り返しだよ。本当に地獄だった」

智は、建の顔をじっと見つめながらその話を聞いた。記憶を辿るように建は少しの間沈黙した。

「でも、そんな風に小学生の頃からその辺りの街の不良は全員知ってたし、ガキの頃からそんな荒れた生活送ってたもんだから、中学生ぐらいになったらもう怖い物なんて何も無かったね。誰だって俺の名前出せばビビって手を出せなかった。高校生だって顎で使ってたよ。金持って来させたりね。十四五才の頃には、そこらのサラリーマンより全然金持ってたんじゃないのかな。暴力に酔いしれてたんだ。人間なんて一旦恐怖心を与えてしまえば何だって言うこと聞くものなんだ、ってね。信じてた。そしてその内、ヤクザとも本格的に付き合うようになって、その頃からシャブにも手を出すようになったんだ。自分で使うのはもちろんなんだが、売り捌いたり、そのシャブ使って女にソープで働かせたり。ますます俺は金持ちになってたよ。でも、それに従ってだんだんシャブの量が増えていって、二回目の地獄だ。頭の中がずうっとキンキンいってて絶えず誰かに話しかけられてるような気がして、被害妄想の固まりみたいなもんさ。周りの奴らや友達だって、ちょっと気に入らないと過剰に反応してすぐぶん殴ったり。女が誰かに電話してるだけで警察に通報してやがるんだ、なんて思って、電話叩き切ってもうその女もボコボコにしてたよ。そんな風だったから周りの誰彼かまわず暴力を振るうようになって、とうとう、手を出してはいけない相手にまで手を出してしまったんだ。俺のこと可愛がってたヤクザもその時ばかりは俺をかばいきれなくなって、ついに四五人のヤクザが俺をさらいに来た。俺は、頭に拳銃突き付けられて、どっか分かんない山ん中に連れて行かれ、そこでボロボロにされて捨てられたんだ。かろうじて殺されなかったのは、その、俺のことを可愛がってくれてたヤクザがそこで土下座して頼んでくれたからなんだよ。そいつ、どっか中東の方の国のハーフでさ。昔から一匹狼で、誰ともつるまない奴だったんだけど、俺にだけは色々と良くしてくれたんだ。良く助けてもらってた。その時も俺のために土下座してくれたんだけど、その場で指詰めさせられてたよ。俺は、やめろって言いたかったんだけど、顔なんかボコボコに腫れてて話せる状態じゃなかったし、もう半分意識が飛んでたんで何も言えなかったんだ。ただ、そいつが、切られた手を握ってうずくまってんのだけは良く分かった。それが俺をかばうためのことだってことも何となく分かった。だから今俺が生きていられるのは、そいつのおかげさ。ああ、後、ばあちゃんとな。だから俺は二回死にかけているということになるんだ」
「………」

智は、想像もつかない、まるで映画か何かのストーリーのように劇的な建の話を、無言で聞き続けた。

犬の子

「何だか、凄い話ですね。野犬に襲われるだなんて……。健さん、よく助かりましたよね」「ああ、ばあちゃんが俺の悲鳴を聞いて、すぐに駆け付けてくれたんだ。それで必死になって犬どもを追い払って、人を呼んで、病院に運んでもらって……。もう少しばあちゃんの来るのが遅かったら駄目だったかもな」

智は無言で頷いた。

「俺は、ばあちゃんっ子で、母さんはいつも働きに出てたから、幼い頃からずっとばあちゃんと一緒だったんだ。ばあちゃんも俺のことがかわいかったんだろう、俺のことを本当に大事にしてくれてたんだ。そんなだから俺がそんな目に合ったのが相当辛かったんだろうな、俺が意識を取り戻した時には、ばあちゃんは、もう、いなくなってた。この世にはいなかった。俺が入院した後すぐに寝込んでしまって、そのまま回復せずに死んでしまったらしい。心労がたたったんだろうってことだったよ。俺は、寂しくって寂しくって、それから誰ともあんまり口をきかなくなった。学校にも行かなくなってずっと一人でぼんやりしてた。ばあちゃんに会いたいな、ばあちゃんに会いたいな、って、そればっかり思って。母さんは相変わらず働きに出てるから、本当に一人ぼっちだったな。寂しかったよ。本当に」

智は、身につまされる思いでその話を聞いた。優しかった自分の祖母のことが自然と思い出された。

「大変なことでしたね……」
「ああ、まあな。辛かったよ、本当に。でも、思えばあの時からなんだなあ……、何となく全てが変わっていったのは……」
「どういうことです?」
「その後な、小学校三年生ぐらいになって、俺は、母さんの財布から金を盗むようになったんだ。別に欲しい物があった訳じゃない。何でだか分からないけど、盗むようになったんだ。何に使う訳でもなく、ちょっとずつ盗んでいった。それでいくらか貯まったその金で街へ出かけるようになった。学校へは行ってないし、母さんは仕事でいないし、何にもすることなんてなかったからな。最初の内は母さんも必死になって俺を学校へ行かせようとしてたんだよ。だからしばらくの間は俺も頑張って行こうとしてたんだけど、学校へ行くと物凄く苛められるんだよ。犬の子だ、犬の子が来た、って騒がれて。あと体育の授業なんかで教室で着替えたりするだろ、その時なんか俺の傷跡を見てみんなからかうんだ。やあい、つぎはぎだ、人造人間だ、だの、色々言われたよ。女の子達も露骨に嫌な顔して教室から出ていっちまうし、助けてくれる友達なんて誰もいなかった。そんなだから学校なんて行きたくなくなるだろ? だから学校行ったふりして、そのまま街に出かけてたんだ。電車乗ってさ。そっからだな。俺の放浪癖が始まったのは。ハハハ。街は刺激的だったよ。全く別の世界にいるようだった。街にいる時は、ばあちゃんのことも何もかも全部忘れてたな。寂しい気分も感じなかった。そうやって徐々に街へ行くことが日課になっていき、その度にその辺りをフラフラしてたら、街の不良達と仲良くなってさ。向こうも、何だかおかしなチビがいるって言うんで近寄って来て。それでそいつらとブラブラ遊んでる内に、シンナーをやるようになったんだ。そいつらがやってたから俺も一緒にやるようになったんだな。ハハハ、そこからスタートしてるんだよ、俺のドラッグ歴は。行く度にやってたよ」

野犬

「ちょっとこれ見てみろよ」

そう言うと建は、右手を捻って二の腕の内側の辺りを智に見せた。そこには十センチぐらいの長さの細い傷が、川の字に三本ぐらい走っていた。皮膚が突っ張って、ケロイドのようになっている。

「それが、犬に噛まれた時の傷なんですか?」
「ああ、幸い目につくところにはあんまり残っていないんだが、腹や背中はもっとひどく傷ついてるよ」
「一体どうしてそんなことになったんです?」

智がそう尋ねると、建は一息ついてから話し始めた。

「俺はな、東北の田舎の方の出身で、子供の頃は本当に山の中の村で生活してたんだよ。今ではさすがにそんなことは無いのかもしれないけど、当時はまだ野犬がたくさんいてね。群れで歩いてたりすることもあって、けっこう危なかったんだ。だから夜や人気の無い道は、あんまり出歩いたりしないようにしてたんだ。子供なんかは特に。でもある日、ばあちゃんと二人で少し遠くまで行ったんだな。山菜なんか採りに山の中へ。そしたら俺、道に迷ってばあちゃんとはぐれちゃって、山の中だから目印になるものなんて何もないだ
ろ? だからめくらめっぽう歩いていったら、完全に自分の居場所が分からなくなってしまったんだ。それで何時間も途方に暮れてたら、視線の先にふと建物らしき影を見つけた。寂れた神社があったんだ。あそこにいればいつかばあちゃんが俺を見つけに来てくれるだろうと思って、そこへ行って一人でずっと待ってたんだよ。でも一向にばあちゃんの来る気配はない。だんだん日が落ちてきて、辺りが薄暗くなっていく。それにつれて俺は、どんどん不安になっていき、もう家に帰れないんじゃないか、と思い始めたその時、神社の境内の裏側から物音が聞こえたんだ。ばあちゃんだ、と思って急いで走り寄るとそこは真っ暗で、その暗闇の向こうから何か低く唸り声が聞こえてくるんだ。良く見てみると、光る無数の目が闇の中からこちらを見つめてる。野犬だった。たくさんの野犬が俺を見つめていたんだ。奴ら、俺を見つけると、ゆっくりとした動作でこちらに近寄って来た。俺は、恐怖で完全に足がすくんでしまって全く身動きが取れなかった。奴らが、もう目と鼻の先ぐらいまで来た時に、俺は、無理矢理体を動かしてようやく走り出したんだ。すると犬どもは一気に襲って来やがった。一瞬で追いつかれちまったよ。俺はずたずたに切り裂かれた。もうそこからは記憶が無くって、気が付いたら病院のベッドの上だったよ。ばあちゃんは泣きながら俺の手を握ってた。ごめんなあ、ごめんなあ、って何回も言いながらな。俺は、その時、ばあちゃんが何で謝ってるのか良く分からなかったんだよ。でもしばらくすると体が全然思うように動かず、全身が包帯でぐるぐる巻きだということに気が付いた。そしたら一気にあちこちが痛みだして、すぐにまた気を失ってしまった。結局一か月ぐらい入院してたんだけど、助かったのは本当に奇跡的なことだったんだ」

建のその話に智は驚きを隠しきれなかった。