現実の世界へ

「うわぁ、凄くきれい。これはどこの写真なんですか?」

智は、身を乗り出して写真を覗き込んだ。幸恵のそばに寄ると、汗の匂いと肌から発せられる熱気が、智の鼻腔を刺激する。それは、ある種、官能的な香りであった。智は、そのまま幸恵の肉付きの良い首筋に噛み付いてしまいたいという動物的な欲求にかられた。幸恵の首筋にかかる後れ毛が、汗で濡れて肌に貼り付いている。白い肌には、玉のような汗がキラキラと輝きを放ちながら浮いている。

「あ、ああ、それは、チベットだよ」

写真には、チベットの濃紺の空と茶色い大地がくっきりと写されていた。

「そうか、智さんはチベットにも行っているんですよね。この写真の景色、凄くきれいです。何だか、空気が透明というか」
「その辺りは、確か標高三千メートルとか四千メートルとかそれぐらいの所だから空気が薄いんだよ。だから風景がとてもくっきりとしているんだ。空気が薄いから本当に息苦しいんだよ。ちょっと走っただけで、すぐ頭がキンキンと痛んだりするんだ」
「そうなんですか。私には想像もつきません。でも、チベットって何だか言葉の響きだけで魅力的ですよね。私もいつか行ってみたいなあ」
「大丈夫だよ。多分幸恵ちゃんが思ってる程大変じゃないと思うよ。普通の観光客だっていっぱいいるしね」
「でも、チベットって言ったら何だか神秘的なイメージがあるし、人跡未踏の秘境みたいな感じがしますよ」
「ハハハ、ちょっと前まではそうだったかもしれないけど、今ではちゃんと観光地としてそれなりに整備されてるから。そうやって思って行くと少しがっかりするかもよ」

幸恵は、納得したように頷きながら体を屈めてくるぶしの辺りをポリポリと軽く掻くような動作をした。するとその時、Tシャツの胸元が弛んでブラジャーに覆われた幸恵の白い乳房が露になった。幸恵は、そのことには全く気がつかない様子でしばらくそうしていた。智は、放心しながらその場面に目が釘付けになった。胸がドキドキして、頭に血が上っていくのが自分でも良く分かる。しばらくすると幸恵がゆっくりと体を起こし始めたので、智は、慌てて写真を整理でもするかのように振る舞ってその場を取り繕った。幸恵は、ちょっと不思議そうに智のその様子を見ていたが、再びそのまま写真を見始める。智は、部屋の中で女と二人きりでいるという状況に、今や息苦しさすら感じ始めていた。部屋の中は蒸し暑く、蒸し暑さが余計に智の欲望を刺激した。幸恵の豊満な肉体が、無言の圧力を持って智を圧迫している。

「そう言えば智さん、体は大丈夫なんですか?」

思い出したように幸恵がそう尋ねた。幸恵に急に話しかけられて、智は、少し戸惑いながらも妄想の世界に飛翔していた意識を何とか現実の世界へと引き戻した。

「ああ、今は大丈夫。たまに急に節々が痛くなったり、さっきみたいに頭が痛くなったりすることがあるけれど……。ちょっと寒気もするから熱があるのかもしれないな。でも、そんなにひどくはなさそうだから大丈夫だよ」

智がそう言うと、幸恵は、ホッとしたように再び写真に目をやった。

「わあっ、これって湖ですか? エメラルドグリーンで、波が全く無くって、まるで静止しているみたいですね」

写真

智は、少しの間考えてから口を開いた。

「そうだな……。何となくなら、分かるような気がするよ。それは……、例えばバラナシにいた時にガートでさ、人を火葬している所を見たんだよ。実際に見る前は、やっぱりさぞかしグロテスクで恐ろしいものなんだろうなと思っていたんだけど、実際見てみたらそうでもなかったんだ。積み上げられた薪の間から炎に包まれた人の頭が覗いていて、それが脱力した感じで、ダラッと下に垂れ下がる。それを死体を焼いている人達が、棒で突ついて中に押し込んで……。そんなのが普通に行われていたんだ。話で聞くと何だか物凄いことのように思えるけど、もっと普通で、何でもない、当たり前のことのように感じた。だから、人が犬に喰われている光景というのも、何となくそれに近いものなんじゃないのかなと思うんだ」
「成る程……。そういうことなのかも知れませんね。そういえば私も、おばあちゃんのお葬式の時、棺桶の中に入っているおばあちゃんの死に顔を見て、何て静かなんだろうって思ったんです。何もかもが静止した感じというか。辛いとか、悲しいとかそんなことじゃなくって、ただ、何もかも停止していて、とても静かな感じ。上手く言えないけれど、人の死体っていうのは想像するのと違って、全然グロテスクでも怖いものでもなく、もっと静かなものなんだなって思いました。何か変な言い方ですけれど……」
「静かなもの、か……。でも、そう言われてみればそういう感じだったかもしれない。何の力も入っていない、一切が停止した感じ……」

智は、再び扉の落書きに目をやった。

――― メメント・モリ、か……。これをここに書いた日本人は、何を思ってこの言葉を残していったのだろう。書き殴ったような、こんなにも荒々しい書き方で…… ―――   

智は、しばらくの間黙って考え込んでいたが気を取り直して幸恵に言った。 
「ありがとう、幸恵ちゃん。俺、ずっとこの言葉が気になっていたんだよ。おかげでちょっとすっきりしたような気がする」
「いいんですよ、そんな。それより写真を見ることにしませんか? 私、智さんの写真が見たいです」
「ああ、そうだったね。ごめんごめん。写真を見るんだったよね。忘れてた」

智は、そう言いながらベッドの端の方に移動して、立っている幸恵に腰かけるように促した。幸恵は、はい、と言ってそこに腰かけた。幸恵の体の重みでベッドのマットが少し沈んだ。智が写真の束を幸恵に手渡すと、幸恵は、こんなにたくさんあるんですか、と驚いた。驚きながらも幸恵は、写真の入ったいくつかの袋から適当に一つを選び出すと、一枚ずつ写真を取り出していった。

メメント・モリ

智は、自分で書いたシバ神のことを思い出して、しまった、と思った。幸恵は、再び立ち上がると扉に近づいて、それらの落書きの一つ一つに目をやった。

「ええっと、ドゥー・ノット・イート・ホール・パパイヤ・バイ・ユアセルフ、ううん、パパイヤを一人で丸ごと食べるなってことですかね。えっと、こっちは……。夕暮れに屋上にのぼって、日の沈むのを眺めながらジョイントを吹かす、人生はそんなに悪くない、ってこれ、どういうことだろ。ジョイントって、マリファナのこと? ああ、やっぱりみんなマリファナ吸ってるんだ。あっ、日本語で書かれているものもありますね、なになに、ラーメン食べたい、ハハハ、やっぱり日本食が恋しくなるものなのかな。わあ、何だろうこの絵は。シバ神かな。お経みたいなものが書いてあります。きっと日本人が描いたんですね。何だか尋常ではないな。これは……」

智は、一瞬ドキッとしたが知らないふりをして、ああ、その絵は凄いよね、かなりイッちゃってるよね、と適当にごまかしておいた。

「そうですよね。一体誰がこんなの書いたんだろう。えっとこっちは……。メメント・モリ……? 人間は犬に食われる程自由だ、メメント・モリ、死を想え……、って、これは確か……。写真家の藤原新也さんの言葉ですよね」
「えっ?」

智は、バックパックに物を詰め込んでいる手を止めて、幸恵の方を振り返った。

「幸恵ちゃん、それ、知ってるの?」
「ええ。私、彼の本も読んでますから。多分そうだったと思いますよ。インパクトありますし。確かバラナシのガンジス川のほとりで、打ち上げられた人間の水死体をノラ犬が食べている写真とともに、その一節が記されていたんだと思います。私もそれを見た時はちょっとショックでしたから」

智は、ぼんやりと幸恵の方を見つめている。

「そうだったのか……。バラナシ……、ガンガー……」
「どうしたんですか? 智さん」

智は我に返った。

「あっ、いや、俺もその落書きは気になっていてね。一体どういうことなんだろう、とずっと思ってて……。一生懸命、考えてたんだよ」 
「メメント・モリって言うのは確か、死ぬことを考えろ、というような意味らしくって、何でも、中世のヨーロッパの修道院で日頃の挨拶として使われていたそうですね。死を想え、死を忘れるな、と会う度にお互い言い合って、日々を暮らしていたそうです。それには、人間は必ず死を迎えるものなのだから、それを忘れずに常に心に留めておくように、という戒めの意味があったようですね」
「そうだったのか……。全然知らなかった」
「犬に喰われる程自由だ、というのは衝撃的なフレーズですもんね。筆者は、それを見たとき自分が解放されて行くのを感じた、と言っています。犬に喰われている人の死骸が、別にグロテスクな物でも何でもなく、ただ、その景色の一部として自然の中に同化しているのを見て、人間なんて偉そうにしてるけど何でもない、本当は、死んでしまえば犬に喰われて骨になるだけの簡単な存在なんだ、と言うようなことを思ったらしいですよ。私にはいまいち、ピンと来ないんですけどね。智さんには分かりますか?」

何をしていた?

「この人達、何してるんですか……?」

幸恵は、きょとんとした表情で、呆気にとられながらそう言った。

「ハハハ、何って、何してるんだろうね? きっとみんな旅人だから旅の途中だと思うんだけど、ハハハハハ」
「それはそうですけど……」
「みんな、長くここにいる人達ばっかりなんだよ。上の方の階になればなる程、一体何してるのか分からない人が多いよ。中には何ヶ月、って人もいるんじゃないのかな」
「何ヶ月……。そんなにも一体ここで何をするんですか?」
「さあ、分からない。はっきりとは分からないけど、多分みんな疲れてると思うんだよ。それは肉体的な面ばかりでなく、精神的にも。長く旅行してると、どうしても足が前に進まないってことがあるんだよ」
「智さんもそうなんですか?」
「俺にもあったよ、そういう時は。一ヶ月、二ヶ月いた町だってある」
「一体そんなにも長い間、何をしていたんですか?」
「そうだね、俺の場合は大体誰かと一緒にいることが多い。どこの町にも日本人の集まる宿というのはあって、そこへ行けば誰かいるからね。気の合う奴らがいたらついつい長居してしまうこともある」
「その人達もみんな一人で旅をしてるんですか?」
「ああ、一人とか、二人とか、そんな奴ばかりだよ。何だかんだ言って、きっとみんな寂しいんだろうね。いくら一人旅だって言っても、なかなか一人にはなりきれないものだよ」     幸恵は、神妙な面持ちで智の話を聞いている。

「さあ、着いたよ。ここが俺の部屋だ」

そう言って智は、扉にかかっている南京錠に鍵を差し入れて外し、ドアのノブを捻った。すると部屋の中を見るなり、幸恵は叫んだ。

「わあ、凄い部屋!」

幸恵は、一歩部屋の中に入り込んで、内部をくまなく眺めまわしている。

「まるで、蔵前仁一の”ゴーゴー・インド”に出てくるみたいな部屋ですね。私、何だか感激しちゃいました」
「ハハハ、そんなに驚くことじゃないよ。インドの安宿なんて、みんなこんなもんさ」

智は、手に持っている写真の入った手提げ袋を、ベッドの上に放った。

「まあ、座ってよ。ちょっと片付けるからさ」

智は、辺りに散らかっている物を乱雑にバックパックの中に詰め込んだ。幸恵は、お邪魔します、と言って、ベッドの上に腰かける。そして智が扉を閉めると、幸恵は、その裏側に書かれたたくさんの落書きに目を奪われた。

「わあっ、何なんです、これ? 落書きだらけですよ」

ゲストハウス

「ええ、もう凄いですよ。何だか興奮しちゃって。私、こういうアジアの国はインドが初めてだから、今まで見たことない物ばっかりで……。何か、街全体からエネルギーを感じるんです。人を見ててもそう思います。何か発散してるんでしょうね、きっと。気をつけてないと、押し潰されちゃいそうで」

智は、幸恵の話を笑いながら聞いていたが、相変わらず背筋に寒気のようなものを感じていた。太陽の光と熱で、冷や汗が頬を伝う。

「どうしようか。写真、どこで見る? 俺の部屋、来る?」
「ええ、いいですよ。智さんの泊まってる所って、ここから近いんですか?」
「ああ。すぐそこだよ」

二人は、智の泊まっているゲストハウスに向かって歩き始めた。依然、太陽の光は容赦なく二人を照らしつけている。街は熱せられ、太陽は、風景を歪んで見せる ―――   

相変わらずゲストハウスのレセプション付近はたくさんの旅行者で溢れ返り、混沌とした様相を呈していた。智と幸恵の二人は、それらを分け入って中へ入り込んで行く。

「わあ、凄い、バックパッカーだらけですね」

幸恵は、辺りを見回しながらそう言った。

「ああ、このゲストハウスはおかしな奴らがたくさんいるからな。おかげであんまり退屈しないよ」
「私の泊まってる所には、あんまりこういう人達っていないですね」
「ここは安いからね。多分、穴場的な所なんだと思うよ」
「一泊いくらなんですか?」
「八十ルピーだよ」
「ドミトリーですか?」
「シングルだよ」
「えっ、そんなに安いんですか? 私の泊まってる所は三百ルピーもしますよ」
「だってそれは、シャワーもトイレもあるだろ?」
「エアコン付きです」
「ハハハ、そりゃあそれぐらいするよ」
「だって、”地球の歩き方”に、初心者でも安心なゲストハウス、って書いてあったから……」
「見てみれば分かるけど、俺の部屋なんて、ひどいぜ。シャワーもトイレも一応あるにはあるけど……。まあ、来てみなよ」
智達は階段を上がって行った。吹き抜けのロの字型のフロアでは、様々な人種の様々な
住人達が、様々なことをしている。通路の柵に洗濯物を干している者、何をすることもなく、ボーッと天井を見上げて座り込んでいる者、楽器を演奏している者、嬌声を上げながら何人かで話し込んでいる者……。あちこちから色んなジャンルの色んな音楽が聞こえてくる。所々から時折、白煙が立ち昇る。

鬱屈した気持ち

二人は、さっき智がフィルムを預けた写真屋へと向かった。フィルムを出した時と同じように、女主人が二人を出迎えた。

「ハロー、ジャパニーズ、写真はちゃんとできてるわよ」

智は、彼女に礼を言って代金を支払った。それを受け取ると彼女は、笑顔で智にこう言った。

「きれいな写真がいっぱいだったわ。ほら、これなんて、凄くきれい。一体これはどこなんだい?」

女主人は、写真の入った袋から写真を何枚か取り出すと、それを智に手渡した。見るとそれは、インド最南端の町カニャクマリで撮影されたものだった。海に沈む夕日をバックに、波と戯れるたくさんの人の影が浜辺に長く伸びている。

「ああ、これは、カニャクマリという町です」
「ああ、これが? 確か、最南端の町なのよね、あなたはそんな所にも行っているのね……。じゃあ、これは?」

そう言って差し出された写真は、ゴアの浜辺のものだった。オレンジ色に染まった空をバックに、椰子の木のシルエットが黒く写し出されている。

「これは、ゴアです」
「ああ、ゴアね。こんなにきれいだなんて……。これが本当にインドの景色なのね……」 しみじみと、うっとりしたように、女主人はそう言った。

「そうです。あなたの国です」

彼女のその表情には、自分の子供を眺めるような何とも言えない柔らかな優しさが、込められていた。

「私はあなたが羨ましいわ。色んな所に行くことができて。あなたは幸せ者ね」

彼女は、優しい顔でそう言いながら智に写真を手渡した。智は、複雑な気持ちで写真を受け取った。彼女の言うように、自分はとても恵まれていて幸せな立場にいるのだ。なのに、この鬱屈した気持ちは何なんだろう。自分は、彼女が思っているように楽しんで旅行をしている訳ではない。何故だろう。何故、旅を楽しむことができないのだろう?

「あの人、羨ましそうでしたね」

店を出ると、幸恵が突然話しかけてきた。

「えっ? ああ、そうだね……」
「やっぱりインドの人だからといって、インド中を知っている訳ではないんですね。何だかちょっと変な感じがしました」
「それは俺も思ったよ。俺の方がインドの色んな所に行ってて、しかも、インド人からあんな風に羨ましがられるなんて」

智と幸恵はメインバザールを練り歩いた。通りは相変わらず人で溢れ返っている。

「凄い人の数ですね。それにこの暑さ。何だか圧倒されちゃいます」

幸恵は、しきりにタオルで汗を拭いながら歩いている。

「そうか、幸恵ちゃんはまだ着いたばかりなんだもんね。初めてのインドだし、かなり刺激的なんじゃない?」

二十歳

幸恵は、うっとりとした眼差しで智の話を聞いていた。そして、ハァー、と溜め息を一つ洩らした。 
「そんなにドラマチックなことがあるなんて……。私、凄く智さんのことが羨ましいです。私のしてきた旅なんて、どれもこれも平凡で……」
「ハハハ、別にそんなに特別なことではないと思うよ。人の話だからそう思えるだけで、幸恵ちゃんの旅の話だってきっと俺にとっては驚くようなことがたくさんあると思うけどな。ただ、自分では気が付かないだけでさ。例えば……、幸恵ちゃんは、今、学生なんだっけ?」
「はあ、何で知ってるんですか?」
「だってさっき、春休みがどうとか言ってたでしょ?」
「ああ、そっか。そうです。大学生なんです」
「でしょ? それで今は何年生? 今度四年生?」
「いいえ、三年生です」
「ってことは、今、二十歳ぐらい?」
「はい。二十歳です」
「だろ? それだけでも俺にとっては十分凄いことだよ」
「どうしてですか?」
「だって俺は、二十歳のときにインドに来ようなんてことは、これっぽっちも思わなかったもん」

智がそう言うと、幸恵は、納得がいかない、というように智の言葉に口を挟もうとしたのだが、智はそれを遮った。

「そんなもんだって。俺の香港の話だって、やっぱりちょっと特殊なことではあるかも知れないけれど、二十歳の女の子がインドに来てることの方がもっと特殊なことだよ。しかも一人で。それにトルコにも行ってるんだろ? 十分凄いじゃない」
「そんな。実際、旅をしていることは事実かも知れないですけれど……」
「だろ? だから、俺だってそんなもんだって」

智は、瓶の中に残っていた最後のリムカを、ストローで一息に吸い上げた。幸恵は、少し不満そうに、そうですかねえ、と言って首を傾けた。

「どうしてインドに来ようと思ったの?」

智がそう尋ねると、少し考えてから幸恵はそれに答えた。

「そうですね。あんまりはっきりとは分からないんですけど、私、ヨーロッパとかアメリカには全然興味が無くって、むしろ、中東だとかアジアの国の方に強く惹かれるんです。それでやっぱりインドっていう国は特別な感じがして……。行けるうちに行っておかないと、ずっと行けなくなってしまうようで……。だから今回、急いで出てきたんです。実は学校がもうすぐ始まるから、授業をさぼってることになるんですけどね。でも私、良かったです。着いた初日に智さんのような人に出会えて。是非インドのこと、色々教えて下さいね」

控えめに笑いながら幸恵はそう言った。

「ああ、いいよ。俺が知ってる範囲ならね。役に立つかどうかは分からないけど。あっ、そうだ、俺、写真を現像に出してるんだよ。だからもうちょっとしたら、それ、取りに行かない? 一緒に見ようよ」
「わあ、嬉しい、是非、見せて下さい」

幸恵はそう言うと、また一切れステーキを口に運んだ。

ロカ岬

「どうしたんですか、智さん、大丈夫ですか?」

幸恵は、慌てて智にそう声をかけると、大声で店員を呼んで、濡れタオルを持って来て下さい、と叫んだ。智は、幸恵の大きな声に驚いて、いや、大丈夫、大丈夫、とそれを制するように言った。幸恵は、しばらく心配そうに智を見ていたが、鞄の中からハンドタオルを取り出すと、コップの水で湿らせてそれを智に手渡した。

「智さん、これ、使って下さい。あんまり冷たくないけれど、当てていればちょっとは楽になるかも……」
「ああ、ありがとう」

智は、幸恵の気遣いを嬉しく思った。

「どうしたんですか? 体調悪いんですか?」
「ああ、ちょっとね。何だか風邪を引いたみたいなんだ。でも、そんなに大したことないから大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「そうですか。それならいいんですけど……」
「今は急に痛みが走ったんでちょっと驚いただけで……。もう、大丈夫だよ」

幸恵は心配そうに智を見ている。先程の幸恵のとっさの対応のおかげで、店内にいる日本人旅行者達は皆智の方を注目していたが、騒ぎが収まったと分かると自然と元の会話や食事に戻っていった。智は、自分に注がれていた視線が外されたのを確認して、幸恵に、何の話をしていたんだっけ、と尋ねた。幸恵は、えっと……、そうだ、ポルトガルの話ですよ、と言った。ああ、そうだそうだ、と智がそれに納得していると、幸恵は続けた。

「どうしてロカ岬に行こうと思ったんですか? あ、やっぱり”深夜特急”ですか?」

瞳を輝かせながら幸恵はそう言った。

「いや、そうじゃないんだ。実は俺の友達が、俺よりも先にアジアからヨーロッパへと旅してて、そいつが最後に辿り着いたのがロカ岬だったんだ。それでそいつが帰って来て色んな話を聞かされてたら、俺も負けてられないな、と変な対抗意識が芽生えてしまって……。ユーラシア大陸最西端っていうのも何だか魅力的な響きでしょ。だから、とりあえずそこを目指してみるか、と、漠然とそう思ったんだ。別に”深夜特急”に影響された訳ではないんだ。実は俺、あの本は途中までしか読んでいないし……」

幸恵は、再びステーキを口に運びながら、真剣に智の話を聞いている。

「そうだったんですか……。でもやっぱり、智さんのような人にはお友達にも凄い人がいらっしゃるんですね。私の周りにはそんな友達全然いなくって、私は、ひたすら旅に関するそういう本ばかり読んでたんです。もちろん沢木耕太郎の”深夜特急”も全部読んでますよ。だからひょっとしたら智さんもそうなのかな、と思って」
「いや、全く読んでない訳じゃなくって、途中までなら読んでるんだ。でも、旅に出てからなんだけど。香港にいた時にね、そこで出会った日本人がやっぱり”深夜特急”が好きで、ちょうど香港編を持って来てたんだ。俺はそれを借りて読んだんだけど、現地で読んでる訳だから物凄くリアルでね。主人公にすんなりと感情移入してしまったよ。面白かったなあ。そして読み終わったその晩に、それを貸してくれた奴らとマカオのカジノへ行ってさ。本当に香港編そのままだったよ。考えてみればそれって、凄く贅沢なことだよね。ああ、あの時は本当に楽しかったな」

マトン

「俺もね、旅をしたての頃はそんな風に思ってたんだけど、実際し始めてみると、どうってことないよ。長旅なんて思ってる程大したことじゃない」
「でもやっぱり凄いと思いますよ。私とはスケールが違います」

智は、肩をすくめて再びリムカを飲み始めた。するとちょうどその時、幸恵の注文したガーリックステーキがテーブルに運ばれてきた。幸恵は、嬉しそうに、わあっ、と感嘆の吐息を洩らした。にんにくの焦げる匂いと、独特のマトンの香りが辺りに漂う。智は、腹こそ減っていなかったものの、その匂いに食欲をそそられ、今度来るときは是非これを注文しよう、と心に誓った。

「頂いてもいいですか?」

幸恵は智にそう尋ねた。

「もちろん」

智がそう言うと、幸恵は、胸の前で両手を合わせ、小さく、頂きます、と言ってナイフとフォークで分厚いマトンステーキを切り始めた。インドでは、牛は神聖な動物とされているので、ステーキと言えどビーフではなくマトンなのだ。智は、幸恵その様子を眺めながら、幸恵にこう尋ねた。

「幸恵ちゃんは、いつインドに来たの?」

幸恵は、切り取ったばかりのステーキを頬張りながら、智の方に向き直った。

「私、今朝着いたばっかりなんです」
「えっ、そうなんだ。そう言われてみれば、全然日に焼けてないもんね」

智は、改めて幸恵の白い肌を見返した。

「それにしても日本から来たばっかりで、マトンなんて食べられる? 匂いとか気にならない?」
「いいえ、ちっとも。私、トルコに行ったことがあるんで、マトンには比較的慣れてるんですよ。ほら、あっちの方の国って、マトンばっかりでしょ。それに私、基本的に嫌いな物が無くって、何でも食べられちゃうんですよ」

そう言うと幸恵は、少し照れくさそうに微笑んだ。

「幸恵ちゃん、トルコに行ったことがあるんだ。実は俺、ヨーロッパを目指してて、ゆくゆくトルコへは行くつもりなんだ。まあ、特別行きたい訳ではないんだけど、こっちからヨーロッパ目指したら絶対通らなくっちゃいけなくなるからさ」

智がそう言うと、幸恵は、再び身を乗り出して、えっ、智さん、ヨーロッパまで行くんですか?、と驚きながらそう言った。

「ああ、ポルトガルのロカ岬っていう、ユーラシア大陸の最西端まで行こうと思ってるんだ ――」

智は、そう言い終わった後、突然こめかみに鈍い痛みを感じた。思わず俯いて指先で強く額を押さえた。

ガーリックステーキ

智は、差し出された手を握り返した。少し小太りな彼女の、つるりとした手の平は、ぽっちゃりとしていてとても柔らかかった。智が手を握ると、彼女はにっこりと微笑んだ。微笑むと、彼女の目はそのふっくらとした丸顔の中に細い線となって消えていく。何か憎めない子だな、と智は思った。

ウェイターが幸恵の所に注文を取りに来た。幸恵はガーリックステーキを注文した。ゴールデン・カフェでは有名なメニューだ。長くインドを旅しているような旅行者になればなる程、何とかインドカレーから逃げ出そうとするものであり、できるだけマサラの風味のしない食べ物を探すようになる。そこで自然とこういったツーリストレストランに集まるようになって、何処どこの何々というレストランへ行けば、何々というおいしいものが食べられる、という情報になるのだ。ゴールデン・カフェのガーリックステーキも、そんな風に旅行者達の間で有名となっているメニューである。

「すいません、私、お腹すいちゃって」

幸恵は、ガーリックステーキという、女の子にはちょっと似つかわしくないようなメニューを注文したことを少し恥じているようだった。上目遣いに智を見上げた。

「いや、いいんだよ、遠慮しなくても。たくさん食べて」

智がそう言うと、幸恵は恐縮するように微笑んだ。そして少し智の様子を伺いながら、こう言った。

「智さんは、旅、長いんですか?」

智は、飲んでいたリムカの瓶から口を放した。

「ああ、一年ぐらいかな」

智がそう言うと、幸恵は、えっ、本当ですか?、とテーブルの上に身を乗り出して、智に挑みかからんばかりにそう言った。

「ああ、本当なんだけど……」

幸恵の勢いに智は圧倒されている。

「智さんって凄いんですね! やった、そんなバックパッカーに出会えるだなんて! 私、一年なんて、とても、とても……。今回だって春休みを利用して一ヶ月の予定だし、それだって私にとっては凄い大決心だったのに、智さんは一年だなんて……。何だか尊敬しちゃいます!」
「いや、長く旅行するのなんて、別にそんなに特別なことじゃないよ。やろうと思えば誰だってできるさ」

謙遜でなく、智はそう言った。長旅など慣れてしまえば誰だってできると思っていたし、実際、やろうと思えばいくらでもできるものなのだ。要は時間とお金の問題だ。それらさえ何とかなれば、惰性で何年も旅行し続けている人など掃いて捨てる程いる。やる気すらいらない。今まで智は、そういう人達を何人も見てきた。そしてそういう人達を決して、偉いとも、凄いとも思わなかった。