ゆっくりやって

「俺だって、人の為になんて到底生きられない。昨日も話したけど、俺は、人のことなんて何も顧みず、自分のためだけに生きてきた男だ。今さらそんなこと簡単にできるもんじゃない。いや、正直に言うと、半ば諦めかけているのかも知れないな。だって、人のために命を捧げるなんて人間業じゃないだろ。神の領域だ。そんなことは。誰もができることじゃない。でも、俺はそうありたいとだけは思っている。少なくとも、そう思おうとはしている。それが今の俺にできる最大限のことだから。智もそれでいいと思うんだ。お前がそうやって今、悩んでいるというそのことだけで充分だと思う。だから、あんまり焦って全部を手に入れようとしてはいけない。ゆっくりやっていけばいいんだよ。お前は、間違っちゃいない」
「僕は、間違っちゃいませんか……」
「ああ」

智は、俯いてベッドカバーの格子模様の一点を見つめていた。瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。ベッドカバーの格子模様に円形の染みができる。と、その時ふいにまた、智のこめかみが痛み始めた。智は、指先でこめかみを強く押さえながらうずくまった。その様子を見ていた建が心配そうに智に声をかける。

「おい、智、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「いえ、ちょっと頭痛がするだけで……。風邪を引いてるみたいなんです」

智は、体を起こしながら建に言った。そう言いながらもなお、こめかみを押さえている手は外さない。

「そうか。ただの風邪ならいいんだけどな。気をつけないと。こういう国だから色んな病気があるからな」

智は、起こした体をゆっくりと壁にもたれさせ、膝を立てて座り直した。そしてそのまま後頭部を壁に当てて目をつぶった。

「それが……。ちょっと変なんです。ただの風邪とは違うみたいで……」

建は、智のその言葉に反応して言った。

「何? どう違うの?」
「何と言うか……。寒気はするんだけど、別に熱がある訳でもなく、それなのに腰の辺りが重くって、度々、体の節々が痛むんです。それと、何だか鼻の辺りがムズムズして……」 鼻の周りを勢い良く擦りながら智はそう言った。

「下痢は?」
「してないです」
「腹痛とか、吐き気は?」
「ありません」

建は、少し考えながら探るような目付きで智を見た。

「智、お前、何かやってないか?」

建の思いがけない問いかけに、智は少し戸惑った。

僕という存在

「価値があるかどうかは分からないが、責任はあると思うぜ」
「責任、ですか」
「ああ、責任。周りの親しい人達に対する責任。その人達を悲しませないためにも、お前は生きて行かなきゃならない。生きて行くという責任があるんだよ」

智は少し驚きながら言った。

「ということは、僕は、その人達のために生きているということですか?」
「まあ、簡単に言ってしまえばそういうことなんじゃないのかな。智、知ってるか? お前の命はお前のものではないんだぜ」

建がそう言うと、智はその言葉に顔を引きつらせた。

――― 俺の命は、俺のものではない? ―――   

「じゃあ、一体誰のものなんですか?」

智は、建に挑みかかるようにそう尋ねた。建は、まあ落ち着けよ、という風に智をなだめながらそれに答えた。

「それは……。天の神様のものなのかも知れないし、恋人や、両親、友達のものなのかも知れない」
「ハハハ、そんな……。俺ね、建さん、プシュカルにいた時に、ババジに言われたんですよ、お前の肉体はお前のものではない、神からの借り物なのだ、ってね。今、建さんは、俺の命までも俺のものではないと言う。一体じゃあ、僕という存在は何なんですか? 誰の、何の為のものなんですか!」
「何なんだろうな。分からない。分からないけど、それが人間というものなんじゃないのかな」

建は、智を見つめながらそう言った。

「だったら人間というのは、自分以外のもののために生きなければならないということになる。他人のために、と言ってもいいかも知れない。だけど、建さん、だけどね、一体この地球上の何人が人のために生きているっていうんですか? みんな自分のことで精一杯じゃないですか。自分のことしか考えられなくって、他人を欺いて、人を蹴落とすことだけに一生懸命だ。そんな人間ばかりじゃないですか。そんな奴らに、あなた達の命はあなた達のものではない、なんて言ったって、鼻で笑われるだけですよ。そんな奴らに、他人のために生きなさい、って言ったって、馬鹿にされるだけですよ。僕だってそうです。僕だって、他人のためになんて生きられない。自分の保身で精一杯だ。他人のために、辛い思いも何もかも我慢して生きろって言われたって、そんなの到底無理なことですよ!」

智は涙ぐんでいる。

「俺は、智がそうやって思っているだけでいいと思うけどな」

建は優しくそう言った。

死ぬ自由

二人は、智の部屋へ戻ってボンをした。部屋はなおも蒸し暑く、扇風機は頼りなくフラフラと首を振りながら、室内の湿った空気を虚しく掻き回す。智は、ミネラルウォーターのペットボトルを手に取ると、蓋を開けてゴクゴクと喉を鳴らしながら体に流し込んだ。そして、一息ついてからぽつりとこう言った。

「建さんも明後日には行ってしまうんですよね……」

智は、ベッドの上に片肘をついて横たわっている建を見た。

「ああ、そうするつもりだよ。もういい加減、この街からは出て行かないとな」
「そうですか……。そうなると、また寂しくなるなあ……」
「何だよ。どうしたんだ、智? そんなの今回に限ったことじゃないだろ?」
「ええ、それはそうなんですけど……」

智は、もう消えかかっているジョイントに再びライターで火をつけ建に手渡した。建は、身を乗り出してそれを受け取ると深々と一服した。吐き出された大量の煙で部屋の中は白く霞む。

「実は最近、何だか気持ちが落ち着かなくって、それがどうしてだか良く分からないんです。ちょっと精神的に弱ってるのかも知れません……」
「智、昨日も言ったかも知れないけど、ちょっと考え過ぎてるんだよ。もう少し楽に旅することを覚えなよ」
「楽にって言っても……。建さん、人はどうして生きていかなければならないんですか
ね?」

智は、ジョイントを口に運ぶとその煙を思いっ切り肺に入れた。肺の中が煙で充満しているのを、智は、イメージとしてはっきりと思い浮かべることができる。そして煙が鼻からゆっくりと抜けて行くと、まるで脳震盪を起こしたかのように頭の中が空っぽになり、脱力する。智は目を閉じた。そしてしばらくの間そのままでいた。

「別に、無理に生きる必要は無いと思うぜ」

唐突に建は言った。

「もし、生きる自由っていうものがあるとしたら、反対に、死ぬ自由っていうものもあるかもな。自殺っていうのも一つの道なんじゃないのかなって、俺は思ってる。でも、死んじゃあいけないとも思う。だから、本当のところは俺にも良く分からない。ただ一つだけ言えるのは、智がもし自殺なんかして死んだら、俺は悲しむと思う。そして、智の友達や親兄弟、恋人なんかも同じように悲しむと思う、ということだ」

建は、智の手からジョイントを奪って一口吸った。

「僕も、建さんが死んだら悲しむと思います」

智はぼそっと口を開いた。

「だから、そこなんですよ。どうしてそんなに辛いことをたくさん経験しないといけないのか、ということなんです。生きていたら、出会いや別れというものは星の数程あるでしょう。一時だけの別れもあるかも知れないけど、もう二度と会えない別れも確かにあります。死ぬっていうことはそういうことじゃないですか。死んでしまえばその人にはもう絶対、二度と再び会うことはできません。別に嫌いな奴ならどうってことないかも知れないけれど、仲の良かった人や、恋人や、親や兄弟、そういう人達が死ぬっていうことは、とても辛いことじゃないですか。それらを乗り越えてまでも生きて行かねばならない……。一体、生きるということはそんなに価値のあることなんでしょうか?」

しばらく考えてから建は言った。

いい旅が

三人は、夜のメインバザールを歩いている。埃っぽく湿った夜風が人々の間を通り過ぎていく。喧噪はなおも夜空にこだまする。

「夜になっても、やっぱり騒がしいんですね」

微笑みを浮かべながら幸恵がそう言った。

「そうなんだよ。もう、うんざりするよ、全く」

建は、ウェーブのかかった長い髪を鬱陶しそうに掻き上げた。

「でも、私、何だかわくわくしてるんです。お祭りみたいな、そんな感じで」

幸恵が建を見てそう言った。

「そう思おうとすればそう思えないこともないけれど、その内うんざりするようになるって」

変に冷めた様子で智が口を挟む。

「馬鹿、智、そんなことは言わなくてもいいんだよ」

建がたしなめるようにそう言った。

「でも、建さんだってさんざんこの騒音には耐えられないって。今だって、そう言ってた所じゃないですか」
「いいんだよ、幸恵ちゃんは俺達とは違うんだから」

建がそう言うと、智は、ちぇっ、調子いいなあ、と小さく独りごとを言った。幸恵は、二人のそのやりとりを微笑ましく見守った。

建と智の二人は、幸恵の泊まっているホテルまで幸恵を見送った。やはり一泊三百ルピーするだけあって、それはなかなか立派なものだった。そのホテルの玄関口で明日の朝幸恵をニュー・デリー駅まで見送ることを約束して、その晩は別れた。

「幸恵ちゃん、いい子だな」

帰り道を歩きながら建は智にそう言った。

「何です? 建さん、ひょっとして幸恵ちゃんのこと好きになったんじゃないですか? どうも建さんの話し方はさっきから怪しいんだよな……」

智は、いやらしい微笑みを浮かべながら建を見た。

「馬鹿だな。そんなんじゃないよ。ただ、幸恵ちゃん、清々しくていい子だろ? ああいう子はなかなかいないぜ、今どき」
「分かってますって」
「だから、いい旅ができればいいな、と、ただそう思ってるだけだよ」
「本当ですか?」

智は、いたずらっぽい視線で建を見た。

「結構、タイプなんじゃないですか?」

建は、呆れた様子で智を見て、もう、お前とは話していられないよ、と両手を広げて天を仰いだ。

“スパイシーバイツ”

建は、必死に名前を思い出そうとして顔をしかめた。

「君子さんじゃないですか?」

智がそう言うと、建は、すっきりしたような晴れやかな顔になって再び話し始めた。

「ああ、そうそう、君子ちゃんだ。思い出した。谷部君は、一緒にいる女の子が見る度に違うから名前が覚えられないんだよ。そう、その二人がバラナシにいる筈だから、もし出会ったら俺達のこと聞いてみなよ。きっと色々良くしてくれると思うよ。谷部君、バラナシは長いからさ。多分、ババ・ゲストハウスっていう所に泊まってると思う」
「あ、そのゲストハウスなら、”地球の歩き方”にも載っていますね。私は、ビシュヌ・レストハウスという所に泊まろうかと思ってるんですけど、どっちがいいんですかね」
「ビシュヌは智が泊まってたとこだよ。なあ、智」

建は、智の方を振り返りながらそう言った。智は頷きながら幸恵に言った。

「俺はビシュヌのドミに一ヶ月ぐらいいたんだけど、もしドミに抵抗あるんだったらシングルやダブルもあるから、初めて行く分にはいいかもね。日本人もたくさんいるし、安いし。でも、今の時期だとかなり込んでるかも知れない。人気のある所だから、常に満室の状態であることが多いんだ。でも、そこが満室でも周りにいくらでも宿はあるから、心配しなくてもいいよ。あの、”久美子ハウス”もすぐ隣だしね」
「えっ、あの有名な”久美子ハウス”ですか……。そうか、隣にあるんだ……。まあ、着いてから考えることにします。谷部さんと君子さんですね。うまく出会えるといいんですけど」
「いや、彼らがバラナシにいる限り絶対に出会えるよ。”スパイシーバイツ”っていう有名なツーリストレストランがあるから、そこへ行ってごらん。坊主で目が細くってわりとがっちりとした体型の人だよ。よく頭にターバン巻いてる。あ、それと気をつけなきゃいけないのが、谷部君、女にはむちゃくちゃ手を出すのが早いから、もし君子ちゃんがいなかったら要注意だよ。きっと次なる獲物を求めてる筈だから。ただ、いいおっさんだから、智みたいに若さに任せて勢いで押し倒すようなことはせずに、もうちょっとじわじわと来るだろうからさ。その辺は気をつけておいた方がいいかもね」
「はい、分かりました。注意しておきます」

幸恵は厳粛に建の忠告を受け入れた。智は、建さん、その話はもういいじゃないですか、と言って建に抗議した。建は、笑って、冗談だよ、冗談、と智に言った。

「谷部君に会ったらちゃんと、智さんに襲われそうになりました、って言うんだよ」
「はい、ちゃんと報告するようにします」

幸恵は真顔でそう言った。

「だから、もう勘弁してって。ちょっと、幸恵ちゃん、谷部さんに会ってもそんなこと言わないでよ、お願いだから」

智が泣き出さんばかりの勢いでそう言うと、幸恵は、冗談ですよ、冗談、と言って智をからかった。智は、顔をくしゃくしゃにしながらそっぽを向いた。建と幸恵の笑い声が店内に大きく響いた。

バラナシへ

幸恵は、そう言うと、自分のほっぺたの辺りの肉を軽くつまんだ。

「痩せなくたっていいよ。日本ではどうか知らないけど、こっちでは女は太ってる方が魅力的なものなんだし。俺もそう思うね。日本の女の子はヒステリックに痩せようとし過ぎだよ。あんなのメディアが商品売るためにみんなの不安を煽って過剰に反応させようとしているだけで、実際の魅力とは何の関係もないものさ。やっぱり女の子はちょっとぽっちゃりしてた方がかわいいよ」

建がそう言うと、幸恵は照れくさそうに下を向いた。

「そうやって言ってもらえると嬉しいんですけど……。でもやっぱり、スラッとした、スタイルのいい女性を見たりすると、憧れちゃいますね。いいなあ…って。まあ、私は諦めてるからいいんですけど」
「確かにそういう人達もいいけどね。でも、みんながみんなそういう訳にもいかないだろうし、色んなタイプの女の子がいた方がいいじゃない。その方が面白いよ」
「結局建さんは、どんなタイプの女の子でも気にしないだけなんじゃないですか?」

横目で建を見ながら、智がからかうようにそう言った。

「馬鹿、お前、違うよ。俺は、それぞれのいい所や悪い所をだなあ、それぞれがはっきりと自覚してさえいればみんなもっときれいになれるのに、ということが言いたいんであって……」
「はいはい、もういいですよ。建さんは全ての女性を愛するということで」

智が建の話を適当にあしらうと、建は両手を広げて肩をすくめた。

「それより、幸恵ちゃんはいつまでデリーにいるつもりなの?」

智が幸恵にそう尋ねた。

「私、明日の朝にバラナシへ向かう予定なんです」
「えっ、そうなんだ。もう出発しちゃうの?」

智は驚いてそう言った。申し訳なさそうな口調で幸恵は続けた。

「はい。今朝デリーに到着してすぐ、バラナシ行きの電車のチケットを買っちゃったんですよ。特にデリーでは何もすることが無いだろうと思っていたんで。でも、智さんや建さんみたいな人に出会えるのなら、もうしばらくいても良かったなと思います」
「まあ、時間もそんなにある訳じゃないし、初めて来た所で一人だし、仕方ないよな」

ぼそっと呟くように建がそう言った。

「一応、一ヶ月ぐらいは時間があるので特に急いでいる訳ではないんですけど、行ってみたい所もたくさんありますし……。とりあえず切符を買ってしまえばすぐに動けるだろうと思ったので……」
「でも、それはいい方法かもしれないよ。ある程度自分に無理をさせないと、俺とか智みたいにふんぎりがつかなくて、ダラダラと同じ場所にいる羽目になってしまう。バラナシへ行くのなら、またそこで俺達みたいな奴らにはたくさん出会えるよ。あっ、そうだ。そういえば今朝、俺達の知り合いがバラナシへ旅立ったんだよ。谷部君っていう人とあと、何だっけ、谷部君と一緒にいた女の子……」

仲直り

「だからって、突然押し倒したりしていい訳ないじゃないですか! 私、いいとも、嫌だとも何にも言ってなかったんですよ。ただ”溜まってる”っていうだけでそんなことしてもいいだなんて理屈、ある訳ないじゃないですか!」

幸恵の勢いに圧倒されて建はじりじりと後退した。

「幸恵ちゃん”溜まってる”って……。でも、ごめんごめん。そうだよな。全くその通りだよ。相手の意志も何もなくそんなことしていい訳ないよな。ほら、智、もう一回幸恵ちゃんに謝れよ」

建は、智の腕を引っ張って幸恵の前に連れて来た。

「ごめんなさい」

智は頭を下げて謝った。

「ああ、建さん、もういいんですよ。さっき謝ってもらって、仲直りしようとしていた所なんです。私、アジアの旅行が初めてで、智さんみたいなバックパッカーに出会えたことが凄く嬉しかったんですよ。だからこんなことで台無しにしたくないなって思ってるんです。確かに私もすんなり男の人の部屋に入って行ったのは悪かったかも知れません。今後は気をつけるようにします。それに智さんも反省してくれてるみたいだし、もう仲直りでいいんです」
「智、幸恵ちゃん、いい子じゃん。こういうしっかりしたこと言える子はなかなかいないよ。だからお前も、あんまり浅はかなことしないで大切にしなきゃ」

智は神妙に建の話を聞いている。建は、ほら、と言って二人の手を取って握手をさせた。智は、幸恵と握手をしながら、もう一度、ごめんね、と言った。幸恵は、にこやかに笑ってそれを受け入れた。

その後三人は、一通り智の写真を見終えると夕食をとった。今度はメインバザールのツーリスト向けのレストランではなく、建の知っている、地元のインド人が利用するようなローカルレストランに行った。幸恵が、そういう所に行ってみたいと言ったからだ。三人は、ターリーを食べ終えるとくつろいで雑談をした。

「私、本場のターリーって初めて食べましたけど、おいしいんですね。日本で食べるのと違ってとても安いし。三十ルピーって言ったら百円ぐらいですよね。日本で食べたら千円以上はしますよ」
「そりゃあ、日本で食べたらそれぐらいはするよ。向こうは材料が手に入らないしね。こんな三十ルピーのターリーでも凄い数のスパイスとか色々なもの使ってるんだろ。馬鹿にできないよ。それにしても幸恵ちゃん、初めてインドに来て、良くおいしくインドカレーを食べられるよね。俺なんて慣れるまで結構かかったけどな」

コップに入った水を飲みながら建は幸恵に言った。

「お昼食べてる時に智さんにも言ったんですけど、私、何でも食べられちゃうんです。こんなこと言うのもなんなんですけど、食べるのが本当に好きなんですね。だから痩せられなくって……」

飄々

智は、しどろもどろになりながら何とかごまかそうとしたが、幸恵が、部屋の扉を少し開けて、智さん、どうかしたんですか? と顔を出したので、全ては御破算になった。建を見て幸恵は、ちょっと驚いたような表情をしたが、すぐに部屋の外へ出て、こんにちは、と頭を下げた。建は、ちょっと戸惑いながら、ああ、こんにちは、とだけ言った。

「智さんのお知り合いの方ですか?」

幸恵は建に尋ねた。

「ああ、前にバラナシで会ってて、今回またデリーで偶然再会したんだけど……」

建は、幸恵にそう言うと智を肘で突つきながら、ほら、サトシ、紹介してくれよ、と催促した。智は、はあ、と言いながら俯き加減でそれに答えた。

「あの、こちらは幸恵ちゃんと言って、建さんと別れた後にゴールデンカフェで出会った学生の女の子で、今朝インドに着いたばっかりだそうです。幸恵ちゃん、こっちは建さんで、さっき建さんが言っていたように、俺がバラナシで出会って昨日偶然この宿で再会した人なんだ」
「おい、智、お前ちょっと様子がおかしくないか? どうしたんだ、何かあったのか?」  建は、智の様子を見ながらそう言った。智は上目遣いに建の顔を窺い見ている。二人のその様子を見兼ねた幸恵が彼らの間に割って入った。

「建さん。私ついさっき、智さんにレイプされそうになったんです」

それを聞いた二人の表情が、一瞬にして引きつった。

「えっ、レイプって、智に?」
「ちょ、ちょっと待ってよ幸恵ちゃん、レイプだなんて、それはちょっと言い過ぎじゃないか?」

智は慌てて幸恵にすがりついた。

「だって、本当のことですよ」

幸恵は飄々とそう言ってのけた。

「ええっ、レイプって、智、マジかよ? 大丈夫だった、幸恵ちゃん?」

建は心配そうに幸恵の様子を窺った。

「ええ、一応。でも、そうなる前に智さんのこと思いっ切りひっぱたいちゃいましたけど」 建は、呆気に取られたような表情で二人の様子をしばらく見比べると、押し殺したような笑いを洩らした。

「ククク、それで智はしょげてるのか。ハハハ、どうりで元気が無いと思ったよ」

智は、下を向いたまま二人の方を見ようともしない。

「幸恵ちゃん。ほら、智もああして反省してるようだし、許してあげてよ。見た所幸恵ちゃんも大丈夫みたいだし。智をかばう訳じゃないけど、やっぱり長旅してるとどうしても女の子が恋しくなるものなんだよ。特にインドなんて女っ気が全然無いしストイックな旅だから、女の子と二人っきりで一緒の部屋になんかいたら変な気になっちゃうものなのさ。それに幸恵ちゃん、かわいいからさ」

建がにやにやしながらそう言うと、幸恵はちょっと照れたような、怒ったような口調でこう言い返した。

嫌な思い出

智は、あいててて、と頭を押さえながらベッドの上の幸恵を見上げた。床に転がったおかげで、全身砂まみれになっている。見上げた幸恵は、小窓から差し込む強烈な日光を背負っていてとても眩しく、智は直視することができなかった。幸恵から必死で目を背けている智のその様子が、より一層、智を惨めで卑小なものに見せていた。

「大丈夫ですか?」

警戒しながら幸恵は智にそう尋ねた。智は、手の平で日光を遮りながらそれに答えた。

「ああ、大丈夫だよ……。ごめん、幸恵ちゃん、俺、何だか変な気分になって、つい……」「ひどいですよ、智さん。突然あんなことするなんて。私、ショックです」

さっき大声を出したせいか、幸恵の声は少し嗄れている。幸恵は軽く咳払いをした。智は、怯えた小動物のように卑屈な目で再び幸恵を見上げた。

「ごめん、本当に……。もうしないから……」
「本当ですよ。約束ですからね。私、せっかく智さんと出会えて良かったなと思っていたのに、こんなことで幻滅して嫌な思い出にするのは嫌なんです。だから、本当にもうしないで下さい。絶対ですよ」

髪の乱れを直しながら幸恵は智にそう言った。智は、心底恐縮しながら頷いた。恥ずかしさでまともに幸恵の顔が見られない。

「智さん、ほら、もう立って下さいよ。そんなとこに座っていないで」

幸恵は、そう言うと智の手を取って立ち上がらせた。そして智の砂まみれの体に付いた砂を手で払った。

「ああ、ごめん、幸恵ちゃん。もういいよ。自分でできるから」

智は、部屋の外へ出てTシャツやジーンズに付いた砂を丁寧に払った。そうしていると何だか自分が物凄く惨めなものに思われてきて、涙がこぼれ落ちそうになった。

「サトシ、何してんだよ」

唐突に、誰かが智を呼ぶ声がした。建だった。焦った智は慌てて平静を取り繕うと、ああ、建さん、どうしたんですか? と言った。

「どうって、暇だったからいるかな、と思って見に来たんだよ。晩飯喰いに行くだろ?」「ええ、でも……、まだちょっと早いじゃないですか」
「何だよ、いいだろ。何か都合悪いことでもあるのかよ」

そう言いながら建は智の部屋の中を窺い見るように覗き込んだ。

「何? 誰かいるの?」

“精霊の宿る湖”

智は、再び幸恵の方に体を寄せながら写真を覗き込んだ。

「ああ、それはチベットの人達に”精霊の宿る湖”と言われている湖なんだ。山の間にあって、それはその山の上の方から撮った写真なんだけど、そこから見ると本当に神秘的で、なぜ精霊が宿ると言われているのか良く分かったような気がするよ」

今、智はほぼ幸恵に密着している。肩の辺りから覗き込むように写真を見ている。幸恵の髪が智の頬を軽くくすぐる。汗と体臭の入り交じった女の肉の香りが、智を執拗に刺激する。

「精霊の宿る湖ですか。何だか凄くロマンチックな感じのする響きですね。チベットの人達は、本当に精霊だとか、神様だとか、そういったものを信じながら生活しているんですね。どうです、智さんはそういうの信じますか?」

と、幸恵がそこまで言って智の方を振り向こうとしたその瞬間、幸恵は突然智に押し倒された。幸恵は、あまりにとっさのことに驚いて、今、何が起っているのか良く理解できない。智は、荒々しい息遣いで幸恵の首筋に顔を埋める。幸恵の顎の下の辺りにむしゃぶりつくと、薄らと塩の味がした。肌は、まるで夏の浜辺のような香りで満たされており、それらがますます智の欲情を掻き立てる。腕を背中に回して手の平で全身を撫で回しながら、思いっ切り幸恵の肉体を抱き締める。ぽってりとした女の肉の弾力と、智の胸の辺りで押し潰されている幸恵の豊かな乳房が、智の全身を包み込む。智はこのまま幸恵を喰ってしまいたかった。この柔らかな肉体にかぶりつき、頭から幸恵の肉の中に突っ込んでしまいたい。下半身を幸恵の股の間に割り込ませる。幸恵の履いているエスニックな色彩のスカートが腰の辺りまでめくれ上がり、白い太ももが露出する。智はその太ももを思う存分撫で回す。

「ちょっと、智さん、止めて下さい!」

事態をようやく把握した幸恵は、慌てて智にそう言った。しかし智は、猛烈な勢いで幸恵の首から胸にかけてを舐め回しており、全く聞く耳を持たない。

「智さん、本当に止めて下さい! お願いします!」

幸恵の言うことなど智は全く聞いておらず、突き放そうにもぴったりと密着されていて幸恵の力ではどうすることもできない。幸恵は、抵抗することを諦める代わりにあらん限りの力を振り絞って、叫んだ。息が続く限り叫び続けた。智は、突然耳元でそんな大声を出されたものだから、驚いて反射的に体を離した。間髪入れずに幸恵は智の頬を思いっ切り平手打ちした。智は、まともにそれを喰らって、勢いでベッドの下へ転がり落ちた。転がり落ちて、置いてあった椅子の角で頭を打った。あいた、と叫んで智はそのまま床へ倒れ込む。肩で息をしながら幸恵は、ベッドの上から智のその様子を見下ろした。そして衣服の乱れを直しながら、智に言った。

「智さんが悪いんですからね!」