村の一員

――― つまらない意地の張り合いや、探り合い。誰が何年旅して、どこへ行っていたって、そんなことどうだっていいじゃないか。まるでそれで人間の価値が決まるみたいに……。全く下らない。俺は、そういうのにうんざりして、あの、小さな村みたいな日本という国を飛び出してきたというのに、どこへ行ったってああいう輩はいるものだ。日本の陰惨な村社会を引きずって海外を渡り歩いている奴……。そういう奴らは、たとえ何年旅しようがどんなに過酷な地を歩こうが死ぬまで変わりっこないのだ。一生、村の住人のままなのだ。少なくとも俺は、そんな村の一員で終わりたくはない。太古からの呪われた因習によって支配された陰惨な村社会。それが俺の目から見た日本の社会だ。俺は、その村から脱出するためにこんなにも辛い旅をしているのだ。それらから自由になるために、旅を続けているのだ。なのに、あいつらときたら! いつまでもいつまでも村の掟を念仏のように繰り返す。世界中を念仏を唱えながら歩くのだ。まるで村の呪いを世界に広めるかのように! ―――

智は、深い溜め息をついた。そして、ぐったりと首を垂れる。そうしていると何故だか久しぶりに煙草を吸いたい気分になってきた。智は、決して煙草を吸わない訳ではないのだが、こちらの国々の安い粗悪煙草を吸い続けるうちに、体の不調を覚え始め、最近ではめったに吸うことはなくなった。吸う時といえばチャラスを巻く時ぐらいで、純粋に煙草だけを楽しんでいたのは、もうかなり前のことになる。

智は、ジョイントを巻くときのために買っておいた「フォー・シーズンズ」という銘柄のインド製煙草をバックパックから取り出して、一本手に取った。そして火をつける前に鼻の辺りに擦り付け、香りを楽しんだ。煙草の葉の良い香りがする。智は、それを口にくわえると火をつけた。ジリジリと、煙草の先端部が燃えていく。そしてゆっくりと煙を吐き出した。不思議とついさっきまでイライラしていた気持ちが治まって、少し落ち着いた気分になる。智は、じっくりと一本の煙草を味わい続けた。

夜になって食事を終えて帰ってくると、二階の谷部と君子が泊まっていた部屋の前で、智は、二人組の日本人の女達と擦れ違った。一人は、黒縁眼鏡をかけている顔の小さいかわいらしい感じの女で、もう一人は、姉貴分といった風采のどっしりとした体型の女だ。擦れ違い様に黒縁眼鏡が、こんにちは、と言うので、智も、こんにちは、と返すと、彼女は、思春期の女がよく上げる甲高い嬌声を発しながらしきりに姉貴分に抱きついた。智は、怪訝な面持ちで彼女のその様子を見ていたが、姉貴分が智のその様子に気が付いたのか、智に向かってこう言った。

「すみません、この子、はしゃいじゃって。私達、今日デリーに着いたばっかりで、何だか興奮しちゃってるんです。あ、私、安代って言います」
「奈々です!」

黒縁眼鏡は、安代にしがみつきながらそう言った。安代は、自己紹介をしながら彼女をなだめている。

「智です」

智は、幸恵の首筋の味を思い返した。幸恵の匂いと肉の味……。そしてゆっくりと、手をまわして幸恵を抱き締める動作をする。唇を押し付け、狂おしく舌を吸う。幸恵は、苦しそうな吐息を洩らす。最早智の下半身は燃えるように熱くなっていた。いても立ってもいられず、勢いよくスカートを下ろすと下着を剥ぎ取り、幸恵の肉の中に自分の熱い固まりを突き刺した。足を広げ、十分に潤った柔らかい壷の中へ火照った肉体を埋め込んでいく。目を閉じ、小声で幸恵の名を呼びながら、激しく体を揺さぶる。下半身から、全身を麻痺させるような湿った感覚が身を貫く。それは打ち寄せる波のように何度も何度も智を襲う。智は、温かい幸恵の肉に全身を泳がせた。幸恵は、智に身を任せ、体を貫かれるその度に苦悶の表情で呻き声をあげる。智は、幸恵の全身を味わい尽くしあらん限りの力を振り絞って、幸恵の中へ放出した。全てを出し尽くしてもなお、何度も何度も貫き続け、最後の一滴までをも幸恵の中に絞り出した。智は、荒々しく肩で息をしながらうつ伏せのまま横たわった……。

一体どれぐらいそうしていたのだろう、急に腹の辺りに冷たい感覚を覚え、智は、ふと目を覚ました。気が付くと右手はしっかりと下半身を握ったままになっており、ベッドのシーツは大量の粘液で汚されていた。智は、思わず、うわっ、と叫んで飛び上がった。そして先程自分が行った一部始終を鮮明に思い返した。

智は、ほとほと自分自身が嫌になった。あれだけ反省したはずなのに、再び幸恵を陵辱した。一体、俺は何なんだ? 幸恵に謝ったあの言葉は全部嘘だったのか? いまだにこんなにも強烈に欲望が燃えている……。智は、ペニスを切り落としたい衝動に駆られた。もしも、幸恵が再びここに来ていたとしたら、俺は全く同じことをしていたのではないだろうか……。智は壁に拳を打ちつけた。拳は、鈍い音を立てて血を滲ませる。智は、しばらくの間拳から滲んだ血を眺めていたが、すごすごと立ち上がると、汚れた下半身やベッドのシーツを掃除し始めた。そうしているととても情けない気分になってきて、自然と涙が溢れ出してきた。止めようと思っても次から次へと流れ落ちるので、もう諦めて、枕に顔を押し付けて思う存分声を張り上げて泣いた。泣いている内にもう何が何だか分からなくなって、そのまま気を失うように眠ってしまった。

次の日の朝、目を覚ましても状況は何も変わっていなかった。眠る前と全く同じで、枕は涙や鼻汁で汚れ、シーツには精液の染みが残ったままだった。智自身はといえば、下着がずり落ちて臀部が丸出しになっており、智は、慌てて下着とジーンズを引き上げた。

もう夕方になっているようだった。部屋の中をよく見渡してみる。もちろん部屋の中には誰もおらず、外へ出てみても知り合いは誰もいない。

――― 知っているといえば、タンクトップと角刈りの二人ぐらいか…… ―――

智は、一人、苦笑した。

――― 俺が知っているのは、あんな奴らだけなのか…… ―――

もう、できることなら、あの二人とはこれ以上関わり合いたくはなかった。ああいう人間と一緒にいるのが智にとって一番体力を消耗する。

落ちる所まで

洗濯を終えると智は部屋に戻って、ここに住んでいる他の住人と同じように吹き抜けの通路の柵の部分に洗濯物を干した。ポタポタと垂れる水滴が一滴ずつ、階下まで落ちていく。一階まで落ちるのに、三四秒かかるようだ。何となくそんな事を考えながら下の方を眺めていたら、ちょうどさっきの二人組がそこを通りかかり、偶然にも水滴の一つが白Tシャツの角刈りの上に命中した。角刈りは、うわっ、と言ってびっくりした様子で頭を押さえると、こちらを見上げた。タンクトップは、どうしたんだよ、と角刈りを振り返る。智は、笑いをこらえながら慌てて姿を隠した。

笑いながら部屋に戻ると、すぐさまベッドの上に体を放り出した。笑ってはいたものの、気晴らしのようにやっていた洗濯も終わり、完全に一人ということを今実感し、すぐに沈鬱な気分に襲われて、再び智の頭は痛み始めた。

「これが、禁断症状だっていうのか」

智は、一人、呟いた。これがひどくなると、幻覚を見たり、幻聴を聞いたりするという。建の言葉を思い出して智は少し怖くなった。しかし、自分を破滅へと導くその行為にどこかで惹かれているのもまた事実であった。破れかぶれになって、落ちる所まで落ちていく。そこで一体何が見えるだろう。建はそこで何を見たのだろう。智から見た建は常に安定していた。どっしりとした磐石の重みによって支えられているようだった。それは、地獄を見たからではないか? 自分を地獄の底へ突き落とし、そこから這い上がって来たという自信、強さ。それが建に安定をもたらしているのではないか。だとしたら、俺も地獄の底に突き落とされ、命がけで這い上がって来るしか道はないのではないか。俺のこの不安は、地獄の炎によってしか消すことのできない種類のものではなかろうか。そういった種類の不安なのではないだろうか……。

智の全身を倦怠感が襲う。体の節々が痛くなる。頭の痛みは、こめかみから脳味噌全体に広がっていくようだ。智は、たまらなくなってチャラスを取り出した。そして手早くそれをほぐすと、パイプに詰めた。ライターで焙りながら息を吸い込めるだけ吸い込む。炎がパイプの穴の中心に呑み込まれていく。細かく砕かれたチャラスの黒い一粒一粒は、赤く燃えながら、もうもうと煙を発する。発せられた煙は、パイプの内部を通過して智の口から喉へ、喉から肺へと入り込む。肺が燃えるように熱い。頭の中が真っ白になり、意識が薄れていく。まるで脳味噌の襞が、煙で覆われ、直接それらを吸収しているかのようだ。頭の中が、ピリピリと痺れている。智は、仰向けにベッドの上に倒れ込んだ。建や幸恵の顔が浮かんでくる……。

――― ああ、俺は今、独りぼっちだ…… ―――      

ふいに幸恵がこの部屋にいた時のことを思い出す。

――― そうだ、すぐそこに座っていた。手を伸ばせばすぐ触れられる所に……。汗をかいて…… ―――    

得意気に

タンクトップは驚きながらそう言った。

「俺も、三ヶ月ぐらい旅してるんですけどね、インドは一か月弱ですね。東南アジアに長くいて、タイや、ベトナム、カンボジア……、あと、ラオスにも行きましたよ。ラオスなんて本当に何にもない所で、旅するのも大変でしたよ。バスなんていつも満員で、未舗装の所をガンガン走るし。あ、でもね、ガンジャがいいんですよ、ガンジャが。いいガンジャがあって、あん時は一日中飛びまくってたなあ。それがあったから何とか旅できたようなもんだよな、あんな国」

聞いてもいないのに、タンクトップは自分の旅の話を得意気に話し始めた。白Tシャツは、敬意のこもった眼差しでタンクトップを見つめている。

「あっそうだ、ガンジャはやったことあります? ああ、ガンジャってマリファナのことなんですけどね」

智はうんざりした気分になってきた。もうこれ以上、この二人組と関わるのはごめんだった。しかし智は笑顔でそれに答えた。

「ああ、やったことあるよ。インドでならどこででも手に入るしね」

タンクトップは、少し窺うような視線で智を見つめた。

「そうなんだ。じゃあ、今からやりません? 俺、ガンジャ、持ってるんですよ」
「ごめん、今、ちょっと洗濯してるからさ、また今度お願いするよ」

智がそう言うと、タンクトップは、首にかかっている大きな数珠の玉の一つを指先で転がしながらこう言った。

「昼間からやるのは、ヤバイですか」

智は、タンクトップが一瞬何のことを言っているのか良く分からなかったが、どうやら、昼間からガンジャでキマッているのは何か後ろめたいことだ、と彼が思っているらしく、それを理解するのに少し時間がかかった。

「いや、そういう訳じゃないけど、ほら、洗濯物がちょっと溜まってて、これを片付けるのに少し時間がかかりそうだから……」

タンクトップは、智を、ビビってるんですか、とでも言いたげな目で少しの間見つめると、じゃあ、また今度、と言い置いて去っていった。白Tシャツは、パーティ、パーティ、と良く分からないことを呟きながら、タンクトップの後を追った。

洗濯

智は一人で部屋に戻った。部屋に戻って、バックパックの上に山のように積み上げられた洗濯物を発見し、急遽、洗濯をすることにした。溜まっていたTシャツや下着類などを手早くまとめると、日本から持ってきた、プラスチックのお茶のパックに入った洗剤を片手に一階の洗い場まで下りていく。プラスチックのお茶のパックというのは、よく地方の駅で駅弁などを買うとついてくるプラスチック製のお茶のパックで、そのサイズといい、取り外せる大きめの蓋といい、長旅用の携帯洗剤ケースにはぴったりの物だった。智は、旅に出る前にそれを旅経験の豊富な友人から聞いていて、急いで買い求めたのだ。旅に出た後、実際それはこれ以上ないぐらいに役に立ち、こんないい物どこで手に入れたんだ、と出会う旅人達にいつも羨ましがられる程だった。智は、そう言われる度に得意気にほくそ笑むのだった。

洗い場は、一階の吹き抜けの部分にあった。すぐ隣には共同トイレがある。智は、ここに来るのは初めてだったので知らなかったが、どうやらこのフロアにある部屋は殆どがドミトリーらしかった。二つぐらい大きな部屋があって、開け放たれた扉からベッドがいくつか見えている。残りは、二人部屋か三人部屋ぐらいの少し大きめの部屋が二部屋。智は、一階のその様子を眺めながら洗濯物を洗い場に放り出し、洗剤をかけると蛇口を捻って手で揉み洗いを始めた。

しばらくそうしていると、ドミトリーから二人の日本人が出てきた。一人は白いTシャツに膝までの半ズボン、小太りで背が低く、ちょっと年令不詳のような感じだが恐らく若いんであろう男と、もう一人はヒョロッとしていて長身で、伸びかけた坊主の様な髪型に、タンクトップとインドを旅する長期旅行者がよく履いている、綿製のブカッとしたタイパンツに、首から大きな数珠のようなネックレスを下げている、いかにもインドの旅人然とした男だった。全身が浅黒く、よく日に焼けているようだ。智は、何となく二人を敬遠して目を逸らしたのだが、反対に、タンクトップの方が、智の洗剤ケースに目を付けて、うわっ、これあの、お茶のやつじゃん、と大きな声で言いながら智の方へやって来た。すると白Tシャツの方も、なになに、と寄って来て洗剤ケースを手に取った。

「ああ、本当だよ、これ、お茶のケースだよ」

そう言うと白Tシャツは、体をひくつかせながら妙な笑い方をした。近くで良く見ると、変に色が白く、髪型が、漫画に出てくる寿司屋の板前の様な角刈りだった。

「これって、駅なんかでよく売ってるお茶のケースですよねえ。はあ、考えたな。これは便利だわ」

タンクトップは白Tシャツから洗剤ケースを受け取ると、洗濯している智に示しながらそう言った。智は、愛想笑いを浮かべながらそれに答えた。

「ああ、そうですよ。もう最近じゃあ、あんまり見られないから結構探して買ったんです」 タンクトップは、へぇ、と言いながらもう一度洗剤ケースをよく見返した。

「旅、長いんですか?」

眺めていたそれを流し台の上に置くと、タンクトップはそう尋ねた。

「ええ、まあ……。一年ぐらいかな……」
「へえ、一年か、長いなあ」

またどこかで

二人はメインバザールの雑踏をしばらく歩くと、オートリキシャを停めた。建は、リキシャドライバーとバスステーションまでの値段交渉を始めた途端、相当吹っかけられたらしく、ふざけるなよ、お前、と言ってオートリキシャのボディを、バン、と強く叩いた。そして建の方から半ば強引に値段を決めつけると、ドライバーは、両手を広げて渋々それを受け入れ、エンジンをかけた。智は、早速やってるよ、と心の中で呟きながら、その様子を微笑ましく見守った。

「じゃあな、智。元気でな」

リキシャに乗り込んだ建が智の手を握った。

「建さんも。あんまりインド人と揉めない様にして下さいね」

智は建の手を握り返した。

「分かってるって。大丈夫だよ」

建の手は固く、そして力強かった。

リキシャが走り始めた。

「智、またどこかでな」

建は、リキシャから身を乗り出して智に言った。

「健さん、気を付けて」

智がそう声をかける頃には、建を乗せたリキシャはかなり遠くの方まで走り去っていた。リキシャから身を乗り出しながら、建は大きく手を振った。智も、全身を使ってそれに負けないぐらい大きく手を振りながら、お元気で、と大声で叫んだ。建の姿が見えなくなるまで、智はいつまでも手を振り続けた。

諦めに似た感覚

「ええっ……、マジですか……? それはちょっと辛すぎますよ。俺、いきなり独りぼっちになっちゃうじゃないですか。建さんまで今日行ってしまうなんて……」

智は落胆して下を向いた。建は、智の肩に手を回しながらこう言った。

「まあ、そう言うなよ。俺だって寂しいんだぜ。みんなそうさ。智だけじゃない。ほら、幸恵ちゃんだって泣いてただろ? あの子なんて来たばっかりだし、それでまた一人で知らない所に行くんだから、もっと心細いと思うぜ。智は男だろ? ほら、もっとしっかりしろよ。もう一年も旅してるんだしさ。みんないつまでもずっと一緒って訳にはいかないだろ」
「ええ、それはそうなんですけど、置いて行く側と置いて行かれる側とでは、やっぱり置いて行かれる側の方が辛いですよ」
「智、俺だってまた何日かしたらここに帰ってくる。そうしたら、もう智だってきっとここにはいない。俺だって独りぼっちだ。その時は辛いぜ。みんなの面影が街に残ってるからな。ああ、智とここ歩いたな、だとか、幸恵ちゃんはここに泊まってたよな、だとか、そんなことを思い出したりしてさ。でも、俺はもうそういうことはいちいち振り返らないようにしてるんだ。それは無理に忘れようとか、記憶から消し去ろうとか、そんなことじゃなくって、そういう過去があったということを認めながらも、変に感傷に浸るんでなく、そのまま受け止めるというか。あんまり上手く言えないけれど、これは出会いとか別れとかそういうのに限ったことではなくって、もっと、世界で起きている色々なこともひっくるめてだ。例えば、花が咲いて枯れていくのを見るのは悲しいだろ? でもそれは紛れもない現実であって、誰もそれを止めることなんてできない。仕方のないことなんだ。だからそれを否定したり、見ないようにしたりするんではなく、もっとありのままを見つめて、そして受け止める。そういう現実とともに生きる。それは一種の諦めに似た感覚かもしれないが、俺は、そういう風に思うことにしているんだよ」

建は、俯いている智の顔を覗き込むようにしてそう言った。智は、それでもなお俯きながら、建の方を見ずにゆっくりと頷いた。

すぐに建との別れの時は訪れた。智は、建を見送るために建の泊まっている宿の前まで来ている。しかしそこは宿というよりも、一見、普通の民家にしか見えなかった。どうやって交渉したのかは分からないが、恐らく普通の家の一部屋を間借りしているような形になるのだろう。大きなバックパックを背負った建が、宿屋の主人とおぼしき人物と何やら話をしている。しばらくすると、建は笑顔で彼に手を振った。建は、手に持ったミネラルウォーターのペットボトルを掲げながら、智の方に駆け寄った。

「俺、インド人に生まれて初めて物もらったよ」

建は嬉しそうにそう言った。

「建さんはインド人と仲悪いですもんね」
「仲悪いって訳じゃないんだけどな。合わないんだよ、きっと」
「そんな人が、ビザが切れるまで半年もインドにいるんですからね。おかしいですよ」

からかうように智はそう言った。

「まあ、そう言うなって。奴らと俺とは、きっと似た者同士なんだろうよ」

建は笑ってそう言った。

何度目の別れ

次の日の朝、建と智はニューデリー駅で幸恵を見送った。三人は、それぞれの住所を交換し合い、いずれ手紙を書くことを約束した。幸恵は、大きなバックパックにまるで背負われているようになりながら、群集の中へと消えていった。消え入るほんの少し前、こちらを振り向いて手を振ったがそれは人混みに掻き消され、何とか最後の別れをしようといっぱいまで伸ばした手の平が、たくさんの人達の頭上でしばらくの間揺れていた。もう、何度目の別れだろう。智は思った。幸恵には昨日出会ったばかりだが、もう何年来の友達との別れのような気分だ。その連帯感の強さは、異国で出会う日本人同士だからこそかも知れないが、そんなこととは関係なく、たった一日という短い時間は、とても濃密で、大変有意義なものであった。旅の毎日は、人と人との距離をとても身近なものにしてしまう。だからこそ、こんなにも別れが辛いのだ。智も涙こそ流さなかったが、胸に迫る熱い思いがもう一息で智をそうさせる所だった。きっと建も同じ気持ちでいるのだろう。いつまでも幸恵の去った方を眺め続けている。

「また、行ってしまいましたね」

群集の向こうを眺めながら智がそう呟いた。

「ああ」

建も、智の方には振り向かずに、真っ直ぐ幸恵の去った方を見ながらそう言った。

「やっぱり寂しいもんですね。分かってはいたことですけれど……。建さんも、明日でいなくなってしまうんですよね……」

建の方を見ながら智はそう言った。

「それがな……」

建がそう言い始めると、智は直感的に何だか嫌な予感がした。

「昨日、帰って何となくビザの日数を調べてみたら、もう、あと一ヶ月ぐらいしか残ってないんだよ。俺、友達が日本でやってる雑貨の仕入れを手伝ってて、それをやるのにどうしても一週間ぐらいは必要なんだ。ほら、前にも話したと思うけど、お金をこっちに送ってくれる友達な。その金も、その仕入れの代金と俺のこっちでの生活費の両方兼ねてるから、どうしても仕事を終わらせない訳にはいかないんだ。そうやって考えると、ハリ・ドワール行ってまたデリーに戻って来なきゃいけないから、もう時間が無いんだよ。ハリ・ドワールから、リシケシュ行ったり、その周りの小さなアシュラムなんかも回ろうと思ってるから。だから、今日の昼にはもう出ようと思うんだ。ちょっと急なことで悪いんだけど……。今まで、仕入れは帰って来てからやればいいと思ってたんで、全然やってないんだよ。まさかビザが後一ヶ月しかないなんて思ってもみなかったから……」

やはり智の悪い予感は的中し、智は、ぐったりとその場に崩れ落ちてしまいたい気分になった。

糞味噌の現実

「まあ、見てる分にはそんなにしょっちゅうやってる訳じゃないから、まだ大丈夫だろうけどな。飯も喰ってたし。食欲はあるんだろ? だけど、このままエスカレートしていったら確実にひどいことになるっていうのは確かだぜ」
「そうですよね……。でも、ブラウンの感覚って、俺、驚く程好きなんです。あんな精神状態で一生いられたらいいのに、って思うこともあります」

建は、残りのジョイントをフィルターの紙の手前ギリギリの所まで吸い込むと、それを揉み消すために灰皿を探した。智は、建のその様子を見て、灰皿ならここにあります、と床に置いてあった灰皿を拾い上げて建に手渡した。建は、ああ、ありがとう、と、そこにジョイントの燃えかすを押し付けた。そして間髪入れずにシャツの胸ポケットから煙草とライターを取り出すと、一本取り出して火をつける。建は、大きく煙を吸い込むと目を閉じてゆっくりと吐き出した。

「そうだよな。一生あんな精神状態でいられたら楽なんだけどな。でも、気を付けた方がいいぞ、智。薬にハマるっていうのは、決していいものじゃないからな。まあ、こんな俺がそんなこと言う権利なんて全く無いのかも知れないけれど、少なくとも、きれいなものでないことだけは確かだ。本人はキマッてる間、とてもこの世のものとは思えない清潔な世界に行ってるかも知れないけど、目が覚めてみたら、そこは糞味噌の現実だ。これは例え話じゃなくって、本当に糞や小便やゲロにまみれた生活を送ることになる。ブラウンやり始めの頃、吐いただろ?」

智は小さく頷いた。

「そうやってだんだん部屋が汚れていくんだけど、もちろんキマッてるときに掃除しようなんて思わないからそのままにしておくだろ。そうするとシラフに戻った時、何だよ、これ、ってなって、また落ち込んだ気分になって、一発キメる。そうやってどんどん頭の中の世界と現実の世界とのギャップが広がっていって、手に負えなくなってくる。悪循環さ。それが進んでいくと、精神が、目の前の現実を処理しきれなくなって崩壊し始めるんだ。そうなると凄いぜ。幻覚をバンバン見まくって。もう、四六時中、幽霊みたいなのが周りに立ってる気がするんだ。振り向いたら、サッと現われたりしてな。笑い声なんかも聞こえるぜ。それも、子供とか女の甲高いやつ。もう訳分かんなくなるよ」

智は、建の話に肝が冷える思いがした。

「建さん、よくそんな所から戻って来られましたね」

建は笑いながら言った。

「俺の場合、ガキの頃からずっとそんな所にいたからな。むしろ逆なんだよ。普通の世界を見た時に、ああ、世界っていうのはこんなにも明るかったのか、ってさ。ハハハハハ」 智は、おかしいのか深刻なのか良く分からない、複雑な気分に陥った。

「だから、止めろとは言わないけど、気をつけろってことだよ。もちろん俺は、智にそんな風になって欲しくはないけど、そういうのは人に言われてどうこうするもんでもないからな。俺みたいにとことん痛い目を見ないと分からない奴もいる。そのまま夢の世界に溺れて死んでいく奴もいる。人それぞれだよ。俺の見た所、智は大丈夫そうだけどな。でも、本当に気をつけてくれ。俺が味わったような、あんな苦い思いを智には味わって欲しくない」

智は、自分を思う建のその気持ちが何だか嬉しかった。建という人間の持つ温かみが、直接心に伝わってくるようだった。

「建さん、ありがとうございます。この二日間で、俺、建さんから凄く色んなことを教えてもらった様な気がします。色々と勉強になりました。今はまだ自分の中できちんと整頓できていないですけど、これからゆっくり噛み締めていこうと思います。俺、建さんに出会えて本当に良かったですよ。どうも、ありがとうございました」

智は、心の底から建に礼を言った。

「何だよ、改まって。いいんだよ、そんなことは。止めろよ、もう」

建は、照れくさそうに智の肩をポンッと叩いた。

コントロールできない

「何かって……、ドラッグのことですか?」
「ああ」
「やってるって言ったら、今吸ってるこのチャラスと、後は、アシッドぐらいだと思うんですけど……」
「違うよ。もっと他のもの」
「後は……」

智はためらいながら答えた。

「ブラウンを…少し……」

建は、やっぱりかというような表情で智を見た。

「それだよ、智。ブラウンだよ。禁断症状だ」

智は驚いて建を見た。

「えっ、禁断症状? だってそんなに言う程やってないですよ」
「どれぐらいやったんだ?」

建は尋ねた。

「どれぐらいって……、一ヶ月前ぐらいに手に入れて……、実際やり続けたのは二週間ぐらいだと思いますけど……」
「それぐらいやれば十分だよ。気付いていなかっただけで、実際はもっと早くから出てたんだよ、きっと。二三回やれば禁断症状なんてすぐ出るもんなんだぜ」

智は、背筋が寒くなる思いをした。禁断症状なんて考えてもみなかった。自分とは無関係のものだと思っていた。

「そうなんですか……。禁断症状が……」
「ああ。まだそんなにひどいものじゃないだろうけど、やればやる程体に耐性ができてきて量もだんだん増えて行くから、禁断症状もひどくなる。最初の頃に比べたら一回にやる量が増えてきただろ?」
「はい。確かに増えました。最初の頃は恐る恐るやってたんですけど、最近はもう気楽にやるようになってます」
「それがどんどんエスカレートして行くと、ブラウンなしじゃ耐えられない体になっていくんだよ。それは肉体的に依存しているものだから、自分ではコントロールできないものなんだ。体が勝手に求めるんだよ。俺がシャブにハマッてた時は、相当ひどかったからな」「建さんは、ブラウンとかヘロインとか、やったことあるんですか?」
「ああ。タイにいた時に、一ヶ月ぐらい部屋に籠りっきりでずっとやってたよ。しばらくしたら激しい禁断症状が出てきて、シャブやってたドロドロの頃のこと思い出して嫌になって止めたよ」
「タイですか……。やっぱ、タイのやつは凄いんですか?」
「ああ、凄く強力だった。鼻から吸うと顔が痺れて動かなくなるぐらい。右の鼻から吸ったら、右半分だけ動かなくなるんだぜ。初めてやった時は、そのままぶっ倒れて失神するかと思ったよ」
「そんなに、ですか……。俺、どうなりますかね? このままやってたら建さんみたいになるんですかね」