喧嘩を売る

黙って智は首を左右に振った。心路は、もう一度煙草の煙を吸い込んだ。 
「俺と直規君は幼馴染みでさ。子供の頃は一緒のアパートに住んでたんだよ。二人とも家が貧乏で片親だったから、家に一人でいることが多くって、いっつも一緒に遊んでたんだ。二人ともやんちゃだったから小さい頃から二人で悪さばっかりしてたんだけど、大きくなってもそのままで、毎日毎日、喧嘩に明け暮れるような日々を過ごしてた。全然関係ない奴に、些細なことで難癖付けて二人で喧嘩を売るんだ。本当、質が悪かったよ、俺達。中でも直規君は特に手に負えなくって、奴は、興奮し始めると止まらなくなるタイプだから、相手がどうなっていようと全く気にせず攻撃し続けるんだ。だから、いっつも俺が必死になって止めに入ってたんだよ。俺がいなかったら、軽く二三人は人殺してるよ、あいつ。でも止めれば止めたで、たまに勢い余って俺に殴り掛かって来るときがあるんだ。何回殴られたか分かりゃしない。でもそこで俺が殴り返したりなんかしたら、収拾がつかなくなるだろ? だから殴られても蹴られても、ずっと我慢し続けてきたのさ。それが今になってもあんな風にまだ続いてるんだ。いつの間にか俺は、直規君に逆らえないようになってて……。そんで、さっき智が話してた女の一件で、最近またイライラが激しくなってきて、この有り様さ。もう、さすがの俺も限界だよ、そろそろ……」

心路は、俯きながらゆっくりと煙草の煙を吐き出した。智は、何と言っていいのか分からなかったので、ずっと心路が煙草を吸う様子を眺め続けていた。

「もう、ドラッグやるペースも凄くてさ。ああやって、ヘロイン入れたと思ったら、エクスタシー摂ったり、アシッド摂ったり。訳分かんないよ。そんで、挙げ句の果てにさっきみたいな、あれだろ? ナイフを出されたのは、さすがに初めてだよ。俺も。もう、どっか壊れてきてるんじゃないのかな。あいつ。普通じゃないよ」
「何とかならないのかなあ……」

困惑した表情で智は心路に言った。

「何とかなるもんなら、何とかしてやりたいけどさ。奴の心の中は、そんなに単純なものでもないんだよ」

心路は、色々なことを思い出すようにして話し始めた。

「ああ見えても直規君、大学行ってたんだぜ」

智は、心路のその言葉に少なからず驚きを憶えた。心路の話や直規の今までの行動を振り返ってみても、直規は、とても真面目に勉強なんかするタイプには見えないからだ。

「えっ、そうなんだ」

心路は、驚く智の目をじっと見つめた。

弛緩

ぐったりと座り込んでいる心路は、顔を上げて直規を見て、ああ、と言った。直規は、好きなだけやれよ、と、粉の入ったセロファンを心路の方へ放り投げた。そしてそのまま、恍惚とした表情でベッドの上に倒れ込む。心路は、放り投げられたヘロインを手許へ引き寄せた。智は、二人にどう声をかけるべきか迷っていたが、そんなことを気にかけるよりも今吸ったヘロインが効き始めてきて、既にそれどころではなくなっていた。心路は床に倒れ込み、直規は、朦朧とした様子でふらつきながら体を起こした。そしておもむろにポーチを探ると何か錠剤を取り出し口に含んで、ガリガリとそれを噛み砕いた。しばらくすると、直規は、低く唸り声を上げながら身悶えし始める。直規の表情は、溶けてしまうんではないかというぐらいに、弛緩しきっている。視線は全く定まらず、智達の存在を認識しているかどうかということすら定かではない。完全に、どこか他の世界を見つめているようだった。そしてふらふらと立ち上がると、ヘッドフォンステレオを手に取って、扉を開けて出ていった。智が後を追ってみると、直規は、ソファに腰を下ろして大音量で音楽を聴いていた。かけているヘッドフォンから洩れてくるサウンドが、智の立っている所まで届いてくる。目を閉じ、首を左右に振りながら、時折、悶絶するように呻き声を上げている。

智が近寄ろうとすると心路が、サトシ、やめとけよ、放っときな、と声をかけた。

「バッテン喰ってんだよ。最近、ずっとああなんだ。放っとけばいいよ」
「でも……」

智は、心配そうに心路を見た。

「体、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。心配ない」

そう言いながら心路は煙草に火をつけた。そして一服大きく吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。外から入ってくる蛍光灯の青い光が逆光となって、心路のシルエットを鮮明に写し出す。吐き出された煙は、まるで生き物のように空間を泳ぎ、心路を取り囲むようにして広がっていった。その様子は、まるで心路の体が何か霊気のようなものを発しているかのようだった。

「あいつ、昔からああなんだ」

誰に話すともなく心路はそう言った。視線は、燃える煙草の先端に据えられている。

「昔からって?」
「智に言ってなかったっけ? 俺達のこと」

指図

しばらくすると、心路がそわそわし始めた。

「何か、匂わない?」

心路がそう言うのを聞いて智は顔を上げた。

「えっ、何?」
「何かさ、焦げたような匂いがしない?」

心路は、しきりに辺りを見回している。

「そうかな? 俺は特に何にも感じないけど」
「あっ、直規くんだよ! 直規くん! 直規くん!」

心路は、そう言いながら慌てて直規の体を揺さぶった。直規は、何だよ、と言って面倒臭そうに心路の方を振り返った。

「直規くん! 煙草! ほら、燃えてるって!」

心路の指差したその先では、煙草の火がシーツを焦がしながらマットに丸い穴を開けていた。直規は、それを見るとさすがに慌てて、枕を手に取り、叩き付けて鎮火した。更に念のためにペットボトルの水をだばだばと半分ぐらいふりかけた。直規のベッドは瞬く間に水浸しになった。三人を静寂が包む。しばらくの間、誰も、何も、喋ろうとはしなかった。

「直規くん……。前にも気をつけろって言ったじゃない……」

心路が、直規の方を見ずにボソッとそう言った。すると直規は、鋭い視線で心路を睨み返すと、飛びかかるような勢いで心路に近寄り、胸ぐらを掴んだ。

「シンジ、てめえ、俺に指図すんなって言ったろ? 忘れたのかよ? え? 忘れたって言うのかよ? なら、思い出させてやろうか? なあ? 思い出させて欲しいのか?」

心路は、直規と視線を合わさないように小声で言った。

「でも、キマッてるときは寝煙草してちゃ危ねえよ」

直規は、心路の顔を引き寄せて思いっきり睨み付けると、そのまま心路を立ち上がらせ、体を扉に押し付けた。ガン、という大きな音が部屋中に響く。そして左手で首を締め付けたまま、右手で自分のパンツのポケットを探った。銀色に輝く刀身がきらりと煌めく。ナイフだった。そしてそれを一気に心路の腹部に突き立てる。智は声を上げる間もなかった。トンッという軽い音がナイフの切先が何かを貫いたことを告げている。心路は、目を閉じ、唇を強く噛んでいた。息遣いが荒い。

「俺に指図するなって言ったろ? なあ、分かったのか? え? 分かったのかよ、お
い?」

心路は、目を閉じたまま顔を引きつらせながら、何回も頷いた。直規は、心路の体を突き飛ばすとそこを離れ、ベッドに腰かけて再び煙草に火をつけた。心路は、へなへなとその場に座り込む。扉には直規のナイフが垂直に突き立てられていた。

「チッ、気分悪ぃな。もう一発やるか。な、サトシ」

智は、言葉もなくただ呆然と頷いた。直規は、手早くラインを引くとすぐさまそれを吸い込んだ。そして智の分を智に手渡すと、心路に声をかけた。

「おい、心路、お前もやるのかよ?」

体力を使うこと

智はようやく目を覚ました。とても立ち上がれるような状態ではなかったが、何とか体を起こして、壁にもたれかかった。直規と心路の二人はピクリとも動かない。

智は、何となく煙草が吸いたくなって、どこかに煙草が無いだろうか、と、辺りを見回し始めた。するとそれはテーブルの上で簡単に発見された。直規か心路のものだろうが、断わりもせずに勝手に一本抜き取った。それはインド煙草よりも十倍ぐらい高いアメリカ製のマルボロだったのだが、今は話しかけない方がいいだろう。智はそっと火をつけた。 煙草の煙が体を巡ると、随分落ち着いた気分になった。今まで感じていた体のだるさや頭痛といったものは、知らない間に消えていた。やはり体が求め続けてきたヘロインの成分を、久しぶりに補給したからなのだろうか。体が軽くなったような気さえする。

直規達の様子をぼんやりと眺めていたら、彼らはムックリと起き上がってきた。

「よう、智。調子はどう?」

直規は、空ろな眼差しで智にそう言った。

「ああ、最初は死ぬかと思ったけど、もう、大分落ち着いてきた。あ、そうそう、煙草一本貰ったよ」

智は、手に持っている火の付いたマルボロを直規に示しながらそう言った。

「いいよ、そんなの」

直規は面倒臭そうに手を振った。

「でも、”マルボロ”だったからさ。こっちで買うと高いでしょ?」
「まあな。でもインドの煙草って、吸ってる途中に火が消えたりするだろ? 紙の質が悪いからさ、燃えにくいんだよ。いちいち何回もつけたりするのが面倒臭くってさ。そんなの吸ってると疲れるんだよ。だからちょっとぐらい高くても別にいいんだ。味もいいしさ」 直規も、テーブルの上のマルボロに手を伸ばすと、一本取り出し口にくわえた。そしてその箱を、ポイッと心路の方に放った。心路は、それを受け取ると同じように煙草に火をつけた。心路の目は、半分閉じかけている。そしてゆっくりと首を回転させながら、煙草の煙を呑みこんだ。

ヘロインの酔いは、ブラウンシュガーのものよりもっと激しかった。絶頂の状態が何分も続く。常に頭の中が激しく回転しているような感じだ。

直規は、煙草を吸いながら再びベッドに体を投げ出している。心路は、目を閉じ、俯きながらじっと片膝をついていた。三人とも何も話さない。ただ、自分の世界に没頭し続ける。言葉を話すこと自体が、かなり億劫になっていた。たったそれだけのことが、物凄く体力を使うことのように感じられる。

魚眼レンズ

「ううぁ、ううぅぁああ、うあっ、うあっ、うあっ……」

喉の奥から絞り出されるような呻き声が、智の口から止めどなく発せられる。智はそのまま真後ろに倒れ込んだ。天井を見ている視界が、どんどん狭まっていく。まるでそれは魚眼レンズを覗いているような光景だった。視界はそのまま、どんどんどんどん小さくなっていき、最終的には小さな光の点になってしまった。口は大きく開け放たれたまま、目は開いているのか閉じているのか分からない。それどころか、今、自分がどういう状態なのかも分からない。立っているのか、座っているのか。それとも、寝転がっているのか。まるっきり、感覚というものが消えてしまっていた。まるで空中を浮遊しているかのようだった。皮膚が、大気に溶け込んで、周りのあらゆるものと同化して……。

智は、真っ暗な空間に浮いていた。果てしない空間にただ一人、ぽっかりと浮かんでいた。

「うおっ、サトシ凄えな。よし、俺も一発いっちゃおっかな」

そう言って直規が粉を吸い込もうとしたその時、心路がそれを制して言った。

「ちょっと待ってよ、直規くん。ほら、サトシ大丈夫? 動かないよ」

直規は、その行為を邪魔されてイライラしながら心路に言い返した。

「何だよ、大丈夫だよ。心配しなくても、これぐらいの量じゃどうにもなんないよ。俺らいつも、もっとやってるだろ」
「でも、俺達はずっとやってるからさ、それなりに耐性もついてるだろうけど……」
「大丈夫だって。俺達もこれ最初にやったとき、あんなだったじゃねえか。だから平気だって」

心路は、直規の強い口調に仕方なく引き下がったが、心配そうに智の方に目を向けた。智はまだ、大の字になってぽっかりと口を開けたままだ。目は空ろだが、どこか微笑んでいるようにも見える。直規は、ラインを吸い込むと鏡を心路に手渡した。心路は、慣れた手付きで一本のラインを左右の鼻孔を使って半分ずつ吸い込んだ。そしてその後、粉をひと粒たりともこぼさないように、しきりに鼻を啜って吸い込んだ。数分後には直規と心路の二人も、智と同じようにベッドに横たわっていた。

天井に備え付けられた大きなファンが、ぐるぐると回っている。彼らを取り囲む壁はブルーで、その壁には、誰が描いたのか、抽象的な人の顔や四葉のクローバーをくわえた白い鳥、太陽や月の満ち欠け、星の輝きなどが、壁よりも更に青いペンキで一面に描かれていた。そして、何て書いてあるのかは良く分からないがフランス語のセンテンスが何行か、絵の上に被さるようにして描かれている。壁は、それらの絵によって埋め尽くされていた。その部屋は、まるで、壁をキャンパスにしたひとつの作品のようだった。それらは恐らくフランス人が描いたものなのだろうが、良く見ると一行だけ、『ONE WORD ONE WORD,LOVE』と英語で描かれている箇所があった。 

薄暗いその部屋の中で、三人の男達はぐったりと横たわっていた ―――   

チャイナホワイト

「チャイナホワイト、だよ」
「チャイナホワイト?」
「ああ。要するにヘロインのことさ。正確には合成ヘロインのことらしいんだけど、まあ、似たようなもんだよ。百パーセントピュアなヘロインなんて手に入りっこないから。どのみち混ぜもんだとか、合成だとか、何かしら手は加えられているんだしさ。でも、モノによってはヘロインよりもずっと強烈なやつもあるらしいぜ。気をつけないとな」  
「ふうん。でも、貰ったってタダでくれたの? その人達」 
「ああ。何でもその二人、インド人の売人からコカインって言ってそれを買った筈なのに、部屋に帰ってやってみたら、いきなり体が重くなって動けなくなっちまったんだって。ハハハ。危ないよな。コカインの勢いでヘロインやったら、下手したら死んじまうからな。そんで、何かおかしいと思って怒ってその売人の所へ行ったら、それはチャイナホワイトだ、って言われたらしい。話が違うじゃねえか、って文句言ったら、お前最初からヘロインくれって言っただろ、って言い出して結局泣き寝入りさ。あんまりゴネ続けたらいくらインド人とはいえ何されるか分かんないもんな。分かるだろ? 俺らもブラウン買いに行ったとき、揉めたじゃん。だから”ドジン”は嫌ぇだって言うんだよ。そんな話ばっかりだぜ。まあ、だけどおかしいよな。インドでそんなに簡単に、しかもインド人がコカインなんて持ってる筈ないもん。それで最終的に、その二人はヘロインなんてやらないから俺らに会ったとき、どう?、って。タダでいいからあげるよ、ってさ。もうそん時は本当に二人が神様に見えたぜ!」

直規は、興奮して話しながら手鏡を取り出して、その上に「チャイナホワイト」と言われる真っ白い粉を適量、耳かきですくって乗せた。そして、剃刀の刃で細かく刻むと、細く、ラインを三本引いた。

「じゃあ、智から。どうぞ」

直規は、おもむろにそれを智の前に差し出した。智は少し躊躇した。

「あ、ああ。けど、大丈夫かな、俺。ヤバイことになったりしないかな?」
「何言ってんだよ。”ヘロイン・マスター”の智さんともあろうお方が。あれだけブラウン吸えたら余裕だって。ほら、いっちゃえよ。こんなチャンス滅多に無いぜ」

智は、直規の強い押しを断り切れなかった。以前、プシュカルで三人で一緒に過ごしていた日々のことが思い出される。全く同じようなことを、ここ、デリーでも繰り返している。

「そんな。別に俺、ブラウンに強い訳じゃないよ。あの後、結構吐いたりもしたし……。まあでも、直規がそう言うのなら、やってみるよ」

心路が、器用に細長く巻いた十ルピー札を、どうぞ、と言って智に手渡した。手鏡はベッドの上に置かれている。智は、身を屈めながら、三本の内の端の一本を一息に吸い込んだ。鼻の奥の粘膜を、粉が猛烈に刺激する。智は思わず顔をしかめた、と、次の瞬間、強烈な感覚の波が智の全身を襲った。智は、顔を上に向けたままあんぐりと口を開いて、静止した。鼻の奥から放射状に、何か冷たいものが広がっていき、それが血管に侵入して、指の先まで染み渡る。染み込んでいった感覚は、血管から筋肉へ、筋肉から皮下組織へ、皮下組織から皮膚の表面へと、徐々に徐々に噴出していく。全身に、ぞくぞくと鳥肌が立っていく。

暗い表情

「それより、そうだよ、思い出した。二人ともひどいじゃん。プシュカルにいた時さ、突然女の子と消えちゃってびっくりしたよ。俺、独りぼっちで残されてさ。寂しかったんだぜ、あの後。あれからあの子とはどうなったのさ」

智がそう言うと、一瞬にして、直規の目付きが変わった。智の体は反射的に緊張した。それは、以前、直規が急に怒りだした時のあの目付きと一緒だった。心路もハッとした表情で直規を見つめ、場の空気が一気に緊張した。

「ああ、あれな。あれは、心路にとられちゃったんだよ。何だか知らないけど、あの女、心路にベタ惚れでさ。俺じゃあ太刀打ちできなかったって訳さ。ハハハハハ」

直規は、自分を嘲笑うかのように声を上げて笑った。

「直規くん……」

心路は、暗い表情で直規を見つめた。

「何だよ、本当のことだろ? お前、あの女とヤリまくってたじゃねえかよ」
「そんな言い方ないだろ? それにその話はもうしない約束じゃないか」

心路がそう言うと、直規は、フンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。智は、マズイことを聞いてしまった、と自分の発言を後悔した。

「ごめん、俺、何か変なこと聞いちゃったみたいで……」

智は、ばつが悪そうにそう言って謝った。

「もういいさ。それより、智、せっかく再会したんだし、やろうぜ、久々に」

直規は、智の顔を見ながらいたずらっぽく微笑んだ。もちろんブラウンシュガーのことだった。

「どうよ、やってる? あれから」

直規は、恐らく様々なドラッグがたくさん詰めこまれているであろう小さなポーチを開けて準備をし始めた。智は、何となく直規のその様子を眺めながらそれに答えた。

「ああ、最近はあんまりやってないんだけど、あれからしばらくはちょくちょくやってたよ」
「そっかあ。禁断は? 大丈夫?」
「それが、最近気が付いたんだ。何か体がだるいなあ、なんて思ってたんだけど、まさか禁断症状だなんて思ってなかったから。ある人に教えてもらってさ。それ、禁断症状だよって」

智は、建のことを思い浮かべた。智のイメージの中で、建は明るく笑っていた。何だかこれから自分が行おうとしていることが、自分を気遣ってくれた建に対する裏切り行為のような気がして、少し心が痛んだ。

「俺らなんて、ひどかったぜ。智と買いに行ったやつなんて、ものの一週間かそこらで無くなっちまって、そっから地獄のような毎日さ。心路とはどんどん険悪なムードになっていくし、ブラウン売ってる奴なんてなかなかいないしさ。そしたら偶然、ゴアで一緒に遊んでた日本人カップルとジャイプルで再会してさ。ほら、これ。貰ったんだよ」

直規は、子供のように明るい表情で、嬉しそうにポーチから取り出したものを智の前に置いた。それは、透明なセロファンで包まれた、真っ白い粉だった。

おんなじ目に

分からなかった。自分の気持ちを冷静に判断する余裕が智にはなかった。ただ、奈々が明日去ってしまうという事実が智を激しく締め付ける。それが愛なのか、恋なのか分からない。ただ、自分に向けられている、奈々の強い思いがそうさせているだけなのかも知れない。

去っていったばかりの奈々を想う。もうベッドに入る頃だろうか。シャワーを浴びて汗を流して、服を着替えて、明日に備えて眠りにつく頃だろうか。ああ、そして目が覚めたら、荷物を全部片づけて部屋を出る。空っぽの部屋。奈々の面影を残した、空っぽの部屋……。そしてお別れを言って、去って行く……。

智は、やるせない気持ちを抑え切れなかった。激情がほとばしり、右手を強く壁に打ちつけた。崩れかかっていた壁の一部から、さらさらと、砂がこぼれた。智は、強く唇を噛んだ……。

深夜、直規と心路の部屋に顔を出した。ヤスとゲンの二人はもう部屋にはいなかった。智との約束通り、解放されたらしい。

「二人は? ちゃんと逃がしてあげた?」
「ああ、帰ったぜ。もうここにはいないんじゃないかな。俺が、今度お前らの面見たら、もう一回おんなじ目に合わせてやる、って言っといたから。奴ら、すいません、すいません、って、泣きながら出てったよ。だからもうチェックアウトしてる頃だと思うぜ」

上半身裸の直規がベッドに横たわりながらそう言った。心路は、リムカの瓶から伸びているビニールのチューブをひたすら吸っている。

「やる?」

心路が、空ろな眼差しで瓶を智に差し出した。礼を言って智はそれを受け取った。瓶の口に刺さっている鉄製の受け皿に、細かく砕かれたチャラスが入っている。それらはまだ、朱く燃えていた。智は、ライターを手に取ると火をつけながら、心路がしていたようにチューブを吸った。瓶の中の濁った水が、コポコポと泡を立てる。刺激の強い煙が肺に入り込む。それは、智の脳を直撃した。思わずよろけながら、智は心路にその瓶を渡した。心路は、笑いながら、大丈夫?、と言ってそれを受け取った。

「じゃあ、あいつらはもう出てったんだね。まあ、それで良かったのかな」

智は、内心ホッとしてそう言った。

「あ、そうだ。言い忘れてたけど、二人とも、助けてくれてありがとう」
「いいよ、そんなことは。あの状況見たら助けない訳にはいかないじゃん。それよりあの女の子は? 大丈夫だった?」
「ああ、あの子は別に何にもされてないし……。ただ、俺が急に殴りかかられたものだから、びっくりして泣いてただけなんだ。だから心配ないよ」

直規は、意味ありげな微笑みを浮かべている。

「何? 彼女?」
「いや、違うよ、そんなんじゃないって」

どういう訳か、智は慌ててそれを否定した。

“最後の晩餐”

「サーンチーには、アショカ王の建てた有名なストゥーパがあるじゃないですか。私はあれが見たいんですよ」

サーンチーのストゥーパがそこまで有名なものだとは思わなかったが、その毅然とした安代の物言いに、智はあっさり敗北してしまった。しかし奈々は、なおも安代に追い縋った。

「私、ストゥーパなんて見なくていいよう。それより、カジュラホに行ったらもう戻って来よ。飛行機に遅れちゃったら大変でしょ」
「まあ、サーンチーはカジュラホに行ってみて行けそうだったらでいいけど、カジュラホか、ジャイプルのどちらかには絶対に行くわよ」

安代は強くそう言った。奈々は、もうそれ以上何も言うことができず、俯きながら小さく頷いた。

そうやって、奈々と智の”最後の晩餐”は終了した。次に奈々に会えるのはいつだろう? ひょっとしたら、もう二度と会うこともないかも知れない。別れ際に奈々は言った。

「多分、安代姉さんは、私のお母さんみたいな気分になってるんだと思うんです。私が智さんのこと好きなのは分かってて。そしてそれが旅でのことだから、きっと私が傷つくだろう、と姉さんは思って……。でも、私、例えそうなっても構わないんです。せっかく人と話せるようになって、そして好きな男の人ができて、その人と一緒にいられて……。だから、結果としてどうなったって、私、構わないんです。だって、私は、こんなにも智さんのことが好きだから……」

奈々は、そう言うと智の胸に顔を埋めて涙を流した。智の胸の辺りが温かく湿っていく。智は、どう対応したらいいのか分からずに、ただそっと、奈々の髪を優しく撫でた。奈々は、顔を起こすと、ごめんなさい、と言って、ハンカチを取り出して濡れた智の胸の辺りを拭き取ろうとした。智は、慌てて、いいよ、いいよ、とそれを制した。奈々は、ハンカチで涙を拭うと智を見ながら言った。

「私、行きますね。また姉さんに怒られちゃうから。明日、見送りに来てくれます?」
「ああ、もちろん行くよ」

奈々は、よかった、と言って、もう一度智を抱きしめた。そして笑顔で智の頬にキスをすると、おやすみなさい!、と言って走って部屋に帰っていった。智は、何となく手を振りながら呆然とその様子を見守った。

――― 何故だか分からないが、胸の辺りがもやもやする。息苦しいような、締め付けられるような……―――

不思議な気分だった。智は、今まで味わったことのないような奇妙な感覚に捕らわれ始めていた。

――― 今まで経験してきた別れとは違う、特別な感じがする。それは何故だろう? 奈々が、あんなにもストレートに自分の感情をぶつけてくるから、それに戸惑っているのだろうか? それとも、もう奈々とはセックスができないという現実が確実になったか
ら? 何だろう? 分からない……。俺は、奈々を愛しているのだろうか? それで動揺しているのだろうか? 胸が痛い、何か、ぽっかりと穴を開けられてしまったかのように、空虚で、キリキリと痛む。恋、か? これは、恋、なのだろうか? ―――   

トゲのようなもの

「そうですか。じゃあ、心配しなくても大丈夫なんですね? 私もちょっとあの二人は持て余していたから……。もう会うこともないんですかね」

安代がそう言った。智は曖昧にそれに頷いた。

「安代ちゃん達は、明日、アーグラーに行くんだよね。いつ出るの? 朝?」
「ええ、そうです。それで、その日の内にタージ・マハルも見てしまおうかなって。私達、あんまり時間がないから観光なんかはさっさと済ませておきたいんですよね。それに、アーグラーはあんまり人が良くないらしいじゃないですか。奈々が、智さんに聞いたって言ってましたけど。だから、アーグラーには長居せずに、すぐに出てしまおうと思ってます」 安代が、奈々が……、と言うときのその口調には、どこかトゲのようなものが感じられた。どうも安代は、奈々を守ろうという使命感に燃えているらしい。言葉の端々にそんな気持ちが垣間見られる。

「アーグラーの後はどうするの?」

智がそう尋ねると、安代は腕組みして少し考えてから言った。

「そうですね……。カジュラホか、ジャイプルにでも行こうかと思っています。まだそんなにはっきりとは決めていないんですけどね。ただ、帰りの飛行機がデリーからなんで、残りの一週間ちょっとを大事に使おうと思ってます」

安代がそう言うと、奈々は、安代に縋り付きながら哀願した。

「ねえ、姉さん。私さ、もうどこにも行かなくていいからさ、タージ・マハル見たらデリーに帰って来たいの。だって、時間もそんなにある訳じゃないし、帰るまでデリーでゆっくりしておけばいいじゃない。ねえ、姉さん。デリーに帰って来よう」

奈々の本心は、見え過ぎる程見え透いていた。智と一緒にいたいのだ。智は、そんな奈々の気持ちをとても健気に思い、是非ともそうするべきだ、と心の中で呟いた。しかし安代は、とんでもないというような表情で奈々を見ながらそれに答えた。

「何言ってんのよ、あんた。カジュラホに行きたいって言ってたのは、あんたでしょう? 私だって、もし行けそうだったらサーンチーへ行きたいと思ってるし、デリーなんかですることなんて何もないじゃない。駄目よ、デリーに戻って来るなんてのは」
「でも……」

安代は、頑なにそう言って奈々の申し出を却下した。智は、安代は俺に何か恨みでもあるのだろうか、と思った。もしくは、よっぽど自分が信用するに値しない人間と思われているかそのどちらかだ、と彼女の気持ちを詮索した。しかし、安代がそういった危惧や感情を自分に持つに至るほど込み入った付き合いはまだしていない筈なのだが……、と、智は心の中で考えた。

「ところで、安代ちゃん。カジュラホっていうのはまだ分かるけど、サーンチーって一体何があるの? あんまり行くって言う人、聞いたことないんだけど」

遠回しに彼女達の観光日程を短くしようと目論んで、智は安代にそう尋ねた。安代は、智をキッと睨みつけてそれに答えた。