性的な関心というのは、隠す、という行為と密接に係っていると思う。恥じらいとか。
必要以上に隠されたり、焦らされたりすると、何とかその秘められたものを暴いてみたくなるものだ。
手に入らないものってセクシーだ。
ぼくは中国に二か月ぐらいいたけれど、中国の女の人にそういった感覚を抱いたことが一度もない。
こんな国他にない。
街を歩けば女の人ばかり見ているこのぼくが、中国の女の人に興味を抱いたことが一度もない。
何というか、エロティックなものを感じない。
中国の人達は性的な関心ごとを隠そうという気があまりないのかもしれない。
一番驚いたのが、ごく普通の往来に、まるで八百屋か何かみたいに、大人のおもちゃ屋があったことだ。しかもそれは日本のそれのようにダークに隠ぺいされておらず、ショーケースに普通に並べられており、その様子が通りから丸見えである。
さらに白衣を着たおばちゃんがそれらを販売している。
ぼくはそれを見たとき、中国の人達とぼくとは根本的に何かが違っているのだと思わされずにはいられなかった。
焦点の当て方が違うというか。
例えば中国の女の人は、男性と同じように唾を吐く。道を歩いていて、カーッとやってペッと吐く。ぼくは何度もかけられそうになって冷や冷やしたものだ。
立ち居振る舞いも、恥じらい、というものがない。
座り方や、歩き方などが男の人のそれとあんまり変わらない。
むしろ、男よりも堂々としてて男らしいかもしれない。
男らしいといえば、一番驚いたのが、電車の中、ぼくの目の前で年頃のお姉さんがシートに足をのっけて大股開きで大口開けて寝ていたのを見たときだ。
男のぼくでもあんな格好はあまりしたことがない。
さすがにその光景は衝撃的だった。
「男女平等」を突き詰めていくとこういう世界になるのではないか、と思ったりもした。
でも、こういのもいいかもね。
はっきりいって、セクシュアリティはぼくの心を苦しめる。
肉体的な欲求と精神的な欲求がごちゃごちゃになって、区別がつかなくなって、冷静に女の人を見ることができない。
果たしてこれは恋愛なのか、やりたいだけなのか、自分で自分が分からない。
人を好きになる、という感覚が分からない。
自分は本当に人を愛したことがあるのかどうか。
愛していた、と自信を持って言うことができない。
人を人として純粋に見ていたかどうか疑わしい。
うまく自分の中で整理することができない。
もっと、単純だったらいいのに。
中国みたいに分かりやすかったらいいのに。
女の人が女でなく、男と女の区別が極めて曖昧で、変な駆け引きだとか、作戦だとか、そんなのなくって、もっとストレートに付き合えたらいいのに。
おかしいかな?
風邪なんかひいたりして、元気がなくって、まるで性欲なんて湧いてこない状態。
あんな状態が一生続けばいいのにと思う。
そうすれば楽なのになぁ、と思う。