彼と会ったのは、彼の職場でもある北京の国子監というところで、科挙の試験場の跡地である。
一般に開放され、観光地にもなっているそこの警備が彼の仕事である。
彼はもともとの顔が穏やかなのか、笑顔で私を迎えてくれて、握手を求めてきた。
彼の身長は180センチ以上あり、筋肉質で、その手も厚みがあり、力強かった。
その時間は仕事の休憩中ということで、制服は着ていなくて、GパンにTシャツというラフな格好だった。
身長とその体つきのわりに、ほとんど威圧的なものを感じないのは、その終始絶えることのなかった笑顔のせいなのではないだろうか。
その彼は私の友人、Kさんの交際相手である。
私が北京を訪れたのは、一つはモンゴルまでの中継地という理由の他に、北京に留学している、Kさんに会うために立ち寄ったとも言える。
Kさんは私と同じ大学の短期大学部を卒業して、数年の社会人生活の後、去年の8月から北京に留学している。
正確に言うと、私とKさんと知り合ったのは大学を卒業して数年もたった後で、私の後輩が紹介してくれて、一緒に飲んだのがきっかけだった。
それ以来、メールや手紙のやりなどをしてきた。
最初、Kさんの留学先である北京外語大学で、Kさんと会った。
久しぶりの日本語を喋れる相手、それも数年来の友人との再会である。
大学の食堂で、私は今までの旅の出来事を、恐らくはたからみれば、かなり楽しそうに喋っていただろうと思う。
一通り旅の話が終わると、話は自然と彼の話になった。
彼とはKさんの交際相手のことである。
Kさんと彼が付き合うようになって3ヶ月くらいが経つらしい。
最初のきっかけは、Kさんが彼の勤める国子監を訪れて、言葉を交わしたのが始まりだったそうだ。
その後何回か会い、次第に、そして自然に距離を縮めていった。
そして交際が始まったというわけだ。
しかし、Kさんの中国人の友人には、彼と付き合うのを反対、あるいは心配する声もあったらしい。
それはKさんがバオワン(警備員)という職業からかもしれない。
日本人留学生と中国人大学生との恋愛となると、これはよくある話で、それほど珍しくはない。
しかし、相手がバオワンとなると話は別だ。
バオワンは威圧的な制服で、寺院などの警備をしていて、道なんかを尋ねても、つっけんどんな返事しか返してこないことも多い。
そのせいか、中国ではあまり認められてない職業であるらしい。
そして何より、一般的な日本人とは、生活の全てにおいて違いがありすぎる。
文化的な生活習慣の違いなら、お互いに努力して理解し合えるかもしれない。
しかし経済的な、生活レベルの差というのは、容赦なく二人の間にのしかかる。
彼の給料は一月700元前後だそうだ。
日本円に直すと1万円と少しである。
中国では確かにそのお金だけでも食べてはいける。
しかしぎりぎりの生活で、月末には食べるものに困ることもあるらしい。
私もそうだが、彼女も日本の一般的な家庭に育ち、食べるものがなくて困るという経験はしたことがない。
まして、働いてからはお金も貯めることができ、こうして海外に来ることもできる。
二人の間のお金の価値、それは日本円と中国元との価値ともいえるかもしれないが、その違いというのはどうにもならない。
彼と国子監で会った時、その敷地内にある、彼の宿舎でお茶をごちそうになった。
私が椅子に座ると、彼はタバコをすすめてくれた。
それが中国の習慣だ。
彼の部屋は8畳くらいのスペースに2段ベッドと、机が2つあり、そこに同僚と暮らしている。
部屋はコンクリート剥き出しだったが、きれいに片付いていて、テレビなどはなく必要なものしか置いてないという感じだった。
彼と私は、Kさんに通訳してもってしか、コミュニケーションがとれなかったが、彼には素っ気無い態度などは微塵もなく、いつも笑顔でいた。
お茶をごちそうになった後、彼の職場である国子監を案内してもらった。
そこは元から清の時代までの科挙の試験場で、現在は観光地というだけではなく、子供向けの塾や首都図書館もその敷地内にある。
隣には孔子廟もあった。
国子監のなかに石碑があり、そこにかつて科挙に合格した人の名前が彫られてあった。
私がそれに興味を示すと、『なかなか見られるものではないから、ゆっくり見ていって欲しい』と声をかけてくれた。
一つの石碑には30人ほどの名前が刻まれていただろうか。
その石碑が何十個もあった。
その名前を一つ一つ読んでみたが、やはり読めない漢字ばかりですぐに諦めてやめてしまった。
そしてぼんやりと、石碑の前を歩いてみた。
科挙制度とは、かつての役人の試験制度である。
そこに合格すれば将来の出世は約束されたようなもので、そこに名前を連ねている人は、今でいうエリートである。
そのエリートの石碑を、エリートではない彼らが守っている。
人の巡り合わせというには皮肉なものだと思った。
これから仕事だという彼と別れ、私はKさんと帰った。
その途中デパートの洋服屋の前を通った。
その店は何とかというブランドの店で、デザインも斬新で、当然値段もそれなりのものを扱っている店のようだった。
その時Kさんは、『彼と結婚して中国で生活すれば、もうこんな服きれないんだろうな』と言った。
その言葉は、彼とKさんの今まで育った環境の距離を、物語っていた。
彼は今、Kさんとの結婚を強く意識しているらしい。
しかしKさんはそれに、ただ好きだという理由だけでは結婚に踏み込めないでいる。
結婚したら何処に住むのか、仕事はどうするのか、どうやって生活するのかという現実が、Kさんを踏みとどまらせている。
『彼は私と一緒になるならどんなことでもするって言ってくれる。
でもそこには将来自分がどうしたかっていうのがないの』とKさんは言っていた。
しかし、今食べるだけで精一杯の彼には、どうなるかわからない将来より、今目の前にいるKさんが、唯一つの希望なのではないだろうかと思った。
その希望のためなら、なんだってやるという彼の気持ちは、私にはよく理解できた。
わたしもかつて学生だった頃、将来やりたい仕事もなく、漠然とした不安を抱えながら、そんなふうに人を好きになったことがあった。
Kさんは、経済的なことだけを考えれば、二人で日本で暮らすことのほうがいいのかも知れないとも言っていた。
たとえ彼に仕事が見つからなくても、Kさんが働いて生活もできる。
しかし全くの異国で生活するということが、彼にとって負担になるのではとも心配していた。
それに彼のプライドもある。
また北京で留学後も生活するのはKさんにとってはやはりつらいことらしい。
気候が合わないとも言っていたし、留学という期限付きではなく、無期限で異国で生活するということには、やはり躊躇するだろう。
北京にいる間、何回かKさんに会ったが、会うたびに彼の話になった。
それは、彼との結婚について、私に何かアドバイスのようなものを求めているようにも思えた。
もしかしたら、Kさんは私に背中をぽんと押して欲しかったのかもしれない。
でも、そのことについては、私はほとんど何も言わなかった。
というより言えなかった。
結婚が、それも外国人との結婚が容易ではないことは、想像がついた。
仮に結婚はできるかもしれない。
しかしその後に続く何十年もの結婚生活は平坦な道のりではないだろう。
それはもちろんKさんもわかっていて、私は無責任に何かを言うことはできなかった。
世界地図を見るたびに、国境線なんかなければ、どこまででも行けるのに、などと夢みたいなことを今でも考えることがある。
しかし、ボーダーラインは、単に地図の上、あるいは国同士の制度だけでなく、人と人との間にも確実にあるのだなと思った。
私がいくつもの国境を越えるより、彼女がボーダーラインを越えることのほうがはるかに難しいし、勇気もいるだろう。
でも、もしかしたら、私がポンとスタンプを押してもらって国境を越えるように、彼女も、えいっと彼女のボーダーラインを越える日が、いつか来るかもしれない。