ドゥー・ユー・ハブ・エニィ・チェンジ?
海外へ行くとよくこう聞かれる。
高額紙幣だとお釣りがなくって使えないのだ。
それはアジアの国に限らず欧米諸国でもそうだ。
100ドル札なんかだと何するにしても結構嫌がられる。
何でだよ、って思う。 そんぐらい用意しとけよって。
日本ではまずこんなことはない。
たまにコンビニなどで、
千円札が不足してますっていうのは見かけるが、
断られたことなんてぼくが記憶する限り一度もない。
何故だろう?
それはコンビニの店員さんが頻繁に両替に行くからだ。
日本人はまじめなのだ。
インドみたいに両替えするのに何時間も待たされるような国は論外としても、ヨーロッパやアメリカだったら問題なくできるだろう?
何でやらないの?
答えは簡単だ。 面倒くさいからだ。 絶対そうだ。
まぁ、なくなったらしょうがないか、
ぐらいにしか思っていないのだ。
こういう傾向はそういった些末な部分だけではおさまらず、
広くその国の経済状況、商品づくりにも顕著にあらわれる。
例えばボールペン。
何で買ったばかりなのに書けないのか。
理不尽にもほどがある。
あと、乾電池が新品のはずなのにいきなり切れたりだとか、
ノートの紙質が見たこともないぐらい悪かったりだとか、
数えはじめたらきりがない。
もう一度言っておくけど、これはアジアの話ではない。
歴とした先進国といわれている国々での話だ。
それに比べたら日本製品というのは本当にすばらしい。
どうして世界で日本製品がもてはやされるのかがよく分かった。
それは実際に比べものにならないぐらいいいからだ。
優秀だからだ。
外国製品には繊細さがない。
日本のものにはボールペンひとつとってみても、
歯ブラシひとつとってみても、繊細さがうかがえる。
滑らかな書き味、
デリケートな歯ぐきを優しく守ってくれる柔らかなブラシ。
あんな、インクがかすれてるペンだとか、
磨いたら傷だらけになるような歯ブラシだとかは問題外だ。
繊細さのかけらもない。
そういう面においては日本という国は本当に感心する。
いらないストレスを感じなくてすむ。
ゆとりある生活というものが見直されてき始めている昨今、
海外でぼくが一番感じるのはその”ゆとり”だ。
しかし、ゆとりある生活というのは反面、
ボールペンが書けなくなったり、
一万円札が使えなくなったり、
という不便さも生じさせるだろう。
世界一テクノロジーの発達した、
便利な国に住んでいる日本人が、果たして、
そういった不便さに順応することができるだろうか?
ゆとりを持つってことは、
生活のスピードを緩めるということだ。
そうすれば物質的な面での豊かさは
大分レベルが落ちるだろう。
どっちだろう。
日本って国は、これからどっちに向かっていくんだろう。
どうかな。
例えばぼくは、
コンビニで一万円札が使えなくなったとしても、
平気なんだけど。多分。