アムリトサルはシーク教の聖地である。シーク教徒にとって総本山となるゴールデンテンプルと呼ばれる黄金の寺院のある街だ。街往く人々は、皆ターバンを巻き仰々しい髭を蓄えている。いわゆる日本でのステレオタイプなインド人のイメージといったところだろうか。アムリトサルは更に国境の街でもある。バスで二三十分行った所にパキスタンとの国境があり、そのすぐ向こうにはパキスタンの主要都市ラホールが控えている。パキスタンはもう目の前だ。
智は胸の高鳴りを覚えた。パキスタンはすぐそこにある。行こうと思えば、今すぐにでも行ってしまえる距離なのだ。ようやくこれで心置きなく西へ向かえる。今までのように、北へ南へうだうだ蛇行する必要はなく、ここから先トルコまではただひたすらまっすぐに、西へ進んでいけばいいだけなのだ。智は、今、大きな山を登りきり、それを乗り越えようとしていることを実感しつつあった。
アムリトサルでの宿といえば、智達のようなバックパッカーにとっては寺院内に併設されている無料の巡礼宿が有名なのだが、智はあえて、バススタンドのすぐ近くにある一泊八十ルピー程のゲストハウスにチェックインした。
ゴールデンテンプルの巡礼宿と似たような所で、仏教の聖地ブッダガヤにある、ある寺院でも無料で宿泊できる施設があるのだが、そこでも智は、わざわざ町にあるゲストハウスにチェックインした。いくら節約して旅行しているとはいえ、インドの中でも最も貧しい地域にある寺院の恩情を利用してまで宿代を浮かそうというのは、智にはどこか浅ましい気がしたからだ。実際そういったあざとい旅行者は多く、智は、あまりそういった者達と関わりたくはなかったというのも理由としてあった。
智のチェックインしたゲストハウスは、英国統治時代の面影を残した造りになっており、広い中庭にテラスが面していてなかなか居心地の良い所だった。食事で出される食器類も英国式のもので、テラスのロッキングチェアでは白髪の老婆が、一日中腰かけて庭を眺めながら英国式のティーセットで紅茶を啜っていた。彼女はイギリス人らしく、たまに流麗なクィーンズ・イングリッシュでターバンを巻いた従業員のインド人と会話をしていた。 智は、いつも不思議な気持ちでその光景を見守っていた。ひょっとしたら彼女は、英国植民地下のインドで青春の日々を送っていたのかも知れない。そして近代インド独立の父、ガンジーの手によって独立が果たされた現代のインドにおいてもなお、本国に帰ることを拒否して、思い出深いインドでの美しい思い出を反芻しながら、今を生き続けているのかも知れない。どことなく存在感の薄い彼女の姿は、智にそんなことを想像させた。一体彼女は、毎日ああやってインド式のチャイではないイングリッシュティーを飲みながら、英国の気候とは程遠い灼熱の太陽で照らされた熱帯の中庭に、何を見ているのだろうか。彼女は、もうこの先故郷の地を踏むことはないだろう、と智は思った。このアムリトサルの地で、英国の生活様式を貫きながら一生を終えるという固い決意を、彼女の中に見たような気がした。