岳志という人間は、まるで自分から危険に飛び込んで行くのを楽しんでいるようなタイプの人間だ。更に、それこそが人生における最大の楽しみなのだと認識しているようでもあった。とりあえず、目の前に現われた事象は全てチャレンジしてみる。例えそれが危険を孕んでいようとも決して臆することはない。楽しみながら飛び込んで行く。一方智は、まず危険に重点を置いてしまう。これをやってこうなったらどうしようだとか、そうならなかったらどうしようだとか、自分にとって良くない結果の起ることをまず想像してしまう。だから、虚勢を張って何らかのリスクを犯すことはあっても、基本的にそれは恐怖の裏返しである。岳志のように心の底から楽しんでやっている訳ではない。岳志のような人間は、その恐怖そのものを楽しんでしまうような才能があるのだ。それを意識してやっているのかどうなのかは分からないが、何にせよ、岳志は危険を楽しむ種類の人間である。反対に智は、それらの恐怖をどうやって克服するかを考えるタイプの人間なのだ。
智は、今、自分が岳志とは正反対の人間であることを悟った。智は、たまに岳志のような人間に出会うが、その度に、その潔い清々しさのようなものに魅了され、そしてその分反対に、自分が臆病で卑小な人間であることを痛感せずにはいられなかった。昔はそのことに対して劣等感の方が勝ってしまい、変に意識してしまって、そういった人達とはあまり上手く付き合うことができなかったのだが、最近ではもう智は、自分の臆病さを観念して認めてしまったような節があるので、幾分素直にそのような人達とも接することができるようになっていた。そしてそういう人達の強い部分に率直な憧れさえ抱くようになっていたのだ。そういったさっぱりとした男らしい強さを、智は何とかして身に付けたかった。智は、もっと男らしく、強い人間になりたかった。
部屋の扉に鍵を差し入れながら、じゃあ、また明日な、と岳志は部屋の中へと消えて行った。月の光が岳志を彩り、岳志の姿が扉の影に消え入るその瞬間、彼の長い髪の繊細な一筋一筋が暗闇にはっきりと浮かび上がった。時間の止まったようなその光景に、智はしばらくの間ぼんやりと見入ってしまった。そして慌てて我に返ると、目を覚ますように首を振って自分の部屋へと滑り込んだ。部屋は暗く、川の流れる音だけがごうごうと辺りを支配していた。
翌朝目覚めると、例によって岳志は部屋を出た後だった。恐らくもうアナンの所へ行っているのだろう。また今日も、めくるめく一日が始まろうとしている。智は、昨日岳志がチラムを持って来いと言っていたのを思い出し、出かける間際に慌ててバックパックから取り出した。知り合いから貰ってまだ一回も使っていないチラムを持っている、ということを何となく昨日岳志と話していたら、せっかくだから明日持って来いよということになったのだ。智は、谷部から貰ったイタリアンチラムを改めて眺め回すと、息を吹き掛け、Tシャツの裾できれいに拭った。チラムは、陽の光を反射して滑らかな輝きをゆったりと放っていた。