偶然と必然

偶然の必然性について昔から考えていた。
旅をしていて、もっと考えるようになった。
きっとぼく以外の人も、旅をすればそう考えるようになると思う。
偶然は必ずしも偶然ではなく、必然は必ずしも必然ではないということ。

例えばぼくが旅をしたての頃、タイのバンコクである女の子を病院につれていった
右も左も分からんときで、無事彼女を送り届けたときには、ひとまわり大きくなれた気がしたもんだ。
そんなふうに、ぼくを成長させてくれた彼女なんだけど、それっきりで、とくに名乗り会うでもなく、知ってるのは名前ぐらいだった。
そんな彼女と、何と、1年後にインドの山奥で再会したのだ。
本当に山奥で、だよ。何も待ち合わせなんてしとらんのに、だよ。
バスで乗り合わせたのだ。
彼女は座席に座ってた。
乗り込んでいったぼくと目が会って、あ、日本人の女の子だな、と3秒後ぐらいに、ああ、ひょっとしてあのときの、となったのだ。

再会してからその後しばらく一緒にいたけど、劇的な再会を果たした割には特にぼくにとって特別な存在だったわけでもなく、恋に落ちるでもなく、そのままサラサラとお別れした。
かえって、会わん方が良かったかな、と思ったりもした。

まあ、それだけのことだけど、ただ、あんなとこで偶然に会うとはな、とさっきのあれを考えた。
運命が変わったとは思わないけど、あのバスで、何の約束もなく乗り合わせるタイミングは、軽く見のがすわけにはいかない。
約束してたってムリだ。あんなことは。
日本のバスならまだしも、インドのバスには不測の事態が多すぎる。
しかも、あんな山奥の小さな村で、だ。
ここまでくると、奇跡だ、もう。
そうやって考えると、その出会いになんらかの意味を求めてしまう、が、やっぱり何もなさそうだ。
まるで、神様がヒマつぶしに遊んでるみたいだ。

でもちょっと思うのは、類は友を呼ぶ、っていうのはこういうことかな、と。
多分彼女とぼくの中には何か似たとこがあって、その似たとこが共通の興味や趣味になったりして、だから同じところへ行ってみたいな、と思ったりして、その結果出会って、また出会って、これは必然といえば必然だし、偶然といえば偶然だし、どう、そう思わない?

だから偶然出会うっていうのは、高度に綿密で科学的なわけで、必然ということもできるし。
反対に、接点がまるでない人とはまるっきり出会わない。
言い換えると、出会いというのはどれも出会うべくして出会ってる、ということだ。
こう考えると、人と人との出会いがすごくエキサイティングなものになると思うんだけど、どうだろう?

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

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