智は、何故、信心深いチベットの民衆やヒンドゥーの修行僧達が身を危険に晒してまで聖なる地を目指すのかが、何となく分かるような気がした。恐らく智も、彼ら同様、何かの存在を感じとっている。その何かとは、橋の下を流れる激しい川の流れや、パールバティ・バレイと呼ばれるこの谷を形作っている緑の生い茂る深い山々、更にはその向こうで鋭い輝きを放ち続ける鋭利なヒマラヤの氷河など、それら全てにわたってあまねく棲みついているもので、目に見えない何かを語りかけてくるもの、また、目に見えない何かを存在させしめるものであった。それは、常に神秘的な波長を発し、智は、それを敏感にキャッチするその度に、自分が現実のものとは違うどこか特別な世界にいるような気になるのだった。智は、その”神秘的な波長”のことを「神聖さ」と呼んでいた。智は、目の前に広がる全てのものに「神聖さ」を感じていたのだ。恐らくそれは程度こそ違えど、チベットの民やヒンドゥーの修行僧達が感じているものと同質のものなのだろう。人間の中に眠る共通の感覚が、それら全てを神聖なものとして感じるのだ。それに気が付いた時、智は、彼らのような全く異質の人間と、どこかで分かり合えたような気がしてとても嬉しく思った。そしてそんな機会を与えてくれたこの土地に感謝し、更に、決して人間に対して優しいばかりではない厳格な父のようなこの大自然に敬意を表そうと、軽く手を握り合わせた。智は、そうしながら、透明でストイックな山の空気の中で大きく息を吸い込んだ。
「智、これを渡った所がマニカランの中心地だ」
橋を渡りながら川の対岸を岳志は指差した。差されたその先には、川沿いに建物が何軒か建っていて、また、山の斜面にも人家らしい建物がポツポツと点在していた。町の奥の方には、丸屋根の寺院のような建物もあった。恐らくあれが話に聞いていたシーク教の寺院なのだろう。そしてそこで温泉に入れるのだ。自然が豊かでどこか神秘的な匂いのするこんな町で温泉に入るのは、さぞかし気持のいいことなんだろうな、と智は、一人、期待に胸膨らませた。
智達は、何軒かゲストハウスを見て回った後、川沿いに建てられた三階建てぐらいの比較的大きな宿にチェックインすることにした。まだシーズンには少し早いのだが、ゲストハウスはどこもほぼ満員状態で、ようやく見つけたこの場所も、もうすぐチェックアウトする客がいるから、ということで少し待たされることになったのだ。何故か部屋をシェアすることを岳志が嫌ったため、二部屋分空いている所を探さねばならず、そのせいでなかなか見つかりにくかったというのも、理由としてあった。しかしここでなら、もう少し待てば空くらしいので、智達は、荷物を置いてゲストハウスに併設しているレストランで一息つくことにした。
レストランには、赤毛でやけに色の白いヒッピー然とした欧米人バックパッカーが、空ろな眼差しで、一人、外の景色を眺めながらジョイントを吹かしていた。智達が横を通り過ぎるとき、彼は、薄らと微笑みながら、ハイ、と声をかけてきたが、その後は智達には大して興味もない様子で、再び太陽の輝く表の景色に視線を戻した。智と岳志は、お互い顔を見合わせながら、奥のテーブルに腰を下ろした。
「あいつ、かなりイッちゃってますよね」
「ああ。もうこの辺りに来る旅行者っていったらああいう奴か、トレッカーぐらいだもんな」
「そうですよね。俺なんか山登りしないから分からないですけど、する人にとってはこの辺は、かなりいいスポットが目白押しなんでしょうね」
「そう思うよ。俺もトレッキングはしないから分かんないけど。でも、俺らでもハイキングっぽいノリで登って行ける所もあるから、落ち着いたらちょっと行って見ようよ。少し登っていくだけで凄くいい景色が見られるから」