連呼

直規の声がいつまでも頭の中で反響し続ける。

智は、ふと我に返って、ナイフを放り出した。そして冷静に自分のやろうとしていたことを振り返った。

――― 駄目だよ、俺のやろうとしていたことは、まるで自殺そのものじゃないか。こんなところで、手首を切るつもりだったのか。そんな、死んじゃうよ、そんなことしたら、俺、死んじゃうよ。死んでしまったら、もう、日本にも帰れない。母さんにも会えない。友達にも、旅で知り合った奴らにも……。ああ、直規が助けてくれた。俺を、呼び止めてくれた。死の淵に引き込まれそうになっていた俺を、直規が、呼び止めてくれた……。ああ、ナオキ、ナオキ ―――   

智は、枕に顔を埋めて号泣していた。直規の名前を何度も呼びながら、声が嗄れるまで泣き続けた。

――― 美しいじゃないか、ちっぽけな人間。あんな汚い世界で一生懸命生きている、たった一人の人間が俺のことを助けてくれた、神に刃向かって、死神から救ってくれた。そうだ、人間こそが美しいのだ、あんなどぶ川みたいにドロドロに汚れ切った人間社会で、もがきながら何とか生き方を模索している人間こそが、美しいんじゃないか。あんな光の向こうの清潔な場所で世界を見下ろしている奴ら。奴らこそが、死だ。死神なのだ。神はあんな所にはいない。人間界にこそ存在する。生きている人間こそが神なのだ。だって、あんな風にもがき苦しみながら、何とか生きていこうと必死にあがいている直規のようなちっぽけな人間が、まるで神様のように俺の背中を叩き、死の世界から引っ張りだしてくれた。幻惑する光の罠から目を覚まさせてくれた。奴こそが、神だ。そして俺を思うその気持ちこそが、愛なのだ。ああ、愛、愛だと? 俺が使うことを拒否してきた言葉達。愛や、友情といった、ひどく胡散臭い匂いのする言葉達……。違うのだ。胡散臭くなど無い。胡散臭いと思うのは、臆病な俺の心が原因なのだ。ああ、愛なのだ。愛こそが人間を救うのだ。そして、愛があるからこそ、こんなにも不完全な人間が、神をも超越する眩い輝きを放つ一瞬が存在するのだ……。そして、愛があるからこそ、人間は貴いのだ……。あんな光の中に神はいない。神は、人間界の汚泥の中にこそ存在する。もう、俺は、騙されはしない。ああ、直規、俺は愛を知ったよ。ありがとう。直規のおかげで、分かることができた。俺は、生まれて初めて、愛するということを知ることができた ―――    

智は、両手を頭の上で合わせ、祈るように直規の名前をひたすら連呼し続けた。

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