全くの無風状態

マナリーに到着するまで、実に三十時間程かかった。本来ならば十四五時間で到着する筈なのだが、途中、道を遮る倒木の除去や悪天候による悪路の影響で、普段の倍ぐらいの時間がかかったのだ。その間中、智は、ずっと膝を抱えたままヘロインのもたらす禁断症状に耐えていた。中でも倒木除去にかかった四五時間は、一際辛い思いをした。ずっとバスが停止状態だったため、車内は物凄い暑さだったのだ。もちろんエアコンなんて物はついている筈もなく、せめてバスが走ってさえいれば風が入って何とか耐えられるのだが、全くの無風状態で、しかもバスの中は超満員、外は真っ暗な山道でバスから降りる訳にもいかない。まとわりつくような湿気とバスごと茹でられたような蒸し暑さとで、車内は耐え難い状況に陥っていた。それに骨の髄から沸き上ってくるような禁断症状による痛みが、更に智に追い討ちをかける。それに加え、智の横に座っている男達のバターを発酵させたようなチベット人特有の臭気が、何度も智の意識を遠のかせた。もう、車掌や周りの男達に怒りを憶える余裕もなく、ただひたすらに、バスが動いてくれることだけを智は祈り続けた。

そんなこんなでようやくマナリーの町に辿り着いた智は、一目散に公衆トイレを探し、その中に飛び込むと急いで施錠した。そして慌ててヘロインのパケットを取り出すとそれを直接手の平にこぼして、狂ったように鼻から啜った。冷たい粉が、火照った智の体を冷却するように全身を巡る。智は、しばらくの間うっとりと目を閉じていたのだが、急に誰かが扉を激しくノックする音が聞こえてきたので、慌ててそれを片づけてトイレの外へ出た。トイレの外では、彫りが深く濃い口髭を蓄えたいかにもインド人然とした中年男性が怪訝な表情で智を睨みつけ、何か抗議をするようにヒンドゥー語で智に話しかけてきたのだが、智は微笑みながらその場を後にした。

マナリーの町は、今まで過ごしていたデリーとは全くの別世界だった。デリーがまるでインドその物だったのに対し、ここ、マナリーの町はヒンドゥー色が薄く、むしろチベットの雰囲気が強く感じられた。バスの中で隣り合わせになったチベット人達といい、半年以上も前に旅したチベットの地が自然と思い出され、どこか懐かしい気分に智は捕われ始めていた。あのとき一緒に旅した仲間達。一体今頃、どこで、何をしているのだろう……? 智は、今、自分が今までとは違う世界に足を踏み入れたことを認識していた。何ヶ月にも及ぶ、ギラギラした色彩で彩られたヒンドゥー世界の旅。体の肉が溶けてしまいそうな暑さや、まとわりつく湿気や、燃えさかる太陽。それらの世界から、ようやく一歩抜け出したのだ。やっとのことで動き始めた旅の景色に、落ち込んでいた智の心も少しは軽くなった。  

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