もうすぐ、奈々が帰って来る頃だった。この宿に戻って来るとは一言も言っていなかったが、果たして戻って来るのだろうか? 恐らく、明日か明後日ぐらいにはデリーに着く筈だ。
智は、明日のマナリー行きのバスのチケットを手に入れた。奈々の帰りが近いというのは分かってはいたが、もうパキスタンビザは手に入れていたし、デリーには何も用事がなかったからだ。だとしたら、一刻も早くこの忌わしい地から逃げ出してしまいたかった。もちろん奈々にはたまらなく会いたいけれど、果たして彼女がこの間の別れをどう思っているのか想像もつかない。ひょっとしたらもう、口も聞いてくれない程自分のことを憎んでいるのかもしれない。もしそうだった時、とてもそんな現実に対面できるような精神状態を今の智は持ってはいなかった。だから、逃げるようにこの地を去るのだ。
二週間に及ぶデリーでの滞在に智はようやく終止符を打った。荷物をまとめ、扉に描かれたシバ神を見ていると、それを描いていた時のことがもう随分昔の日のことのように思い出される。シバ神は、相変わらず微笑みながら踊っていた。たくさんの扉の落書きは、あの日のままに残されている。
――― メメント・モリ、死を想え ―――
智は、笑いながら扉を閉めた。