ドルキャッシュ

翌日、智は奈々を見送ることができなかった。目が覚めたら猶に昼をまわっていたのだ。取り返しのつかない後悔の念と、強烈な自己嫌悪が智を襲った。慌てて奈々の部屋を見に行ったが、当然のように誰もいなかった。ゲストハウスに雇われている掃除婦が部屋の掃除をしている所だった。智は、自分を呪って強く床を蹴った。奈々は、一体どんな気持ちでここを去って行ったのだろう?

直規は、夜の飛行機でバンコクへと飛び立った。別れの時間は淡々と過ぎ去った。その後、直規の去った部屋で、心路は、どこかボーッとした様子で一人の時間を過ごしていたが、数日後、バスでマナリーへと旅立った。智は再び、一人残された。

そんな風に淡々と毎日が過ぎていったある日、智がメインバザールを歩いていると、偶然、ヤスとゲンの二人とかち合った。智は、反射的に走って逃げようとしたが、すぐに二人に捕まってしまった。

「てめえ、よくもやってくれたよなあ、ああ?」

誰も人の来ない細い裏路地に連れ込まれた智は、ゲンに胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられている。ゲンの腕の圧力で、智の背中が壁で擦れる。耳元で、さらさらと砂の落ちる音が聞こえている。智は、恐怖で声が出ない。

「ゲン、またあいつらに会うとヤバイから、さっさとやっちまえよ」

ヤスがゲンの背後から声をかける。首にかけた大きな数珠を、一粒ずつ数えるようにして手繰り寄せている。

そんなヤスの方を見ていた智に、ゲンの拳がめり込んだ。ようやく治りかけていた智の頬をゲンの拳が再び貫く。思わず、膝が落ちた。しかし智が倒れ込もうとするのをゲンは強引に立たせると、すかさず膝を智の腹部に突き刺した。その衝撃に体が折れる。ゲンは自分に向けられた智の背中に肘を落とす。鋭い痛みとともに、体内の空気の固まりが智の口から吐き出される。智は、牛の糞や、腐敗した果物の散乱した湿った地面に突っ伏した。開いた口の中に、泥が入ってくる。更に次の瞬間、急に視界が暗くなると、何かで擦り付けられているような痛みと共に濡れてざらついた感触を顔面に感じた。そして、くぐもった声で誰かが何かを言っているのが聞こえてくる。

「お前、奈々とやったのかよ? え? 奈々とやったのか? え? やったんだろ? どうだったんだよ、いい声出してたか? あいつ? いいオマンコしてたのか?」

ゲンは、足で踏みつけていた智の顔面をむんずと掴むと、智を無理矢理引きずり起こした。そして、泥だらけの智の顔を思いっ切り一発引っぱたくと、物凄い力で智の股間を握りしめた。

「おい、このチンポでやったのか? このチンポで、奈々とオマンコしたのかよ? なあ、このまま握り潰してやろうか? 握り潰して欲しいのか? なあ、智さんよお」

智は、目を見開いて激しく左右に首を振った。やめ…て、やめて下さい……、お願いします……。泣き出さんばかりの表情で智は命乞いをした。

するとそこにヤスが顔を出し、智の顔に唾を吐きかけた。粘りつく生暖かい感覚が、眉から目を通って、頬に伝っていく。ヤスは、智の腰に手を回して貴重品袋を探った。そしてそれを引きちぎると、中に入った忘備録と五百ドル分のドルキャッシュを抜き取った。そしてその他のトラベラーズチェックなどは、貴重品袋ごと、路地の濁った水溜まりの中に投げ入れられた。智は、必死に叫びながら手を伸ばして何とかそれを取り返そうとした。するとゲンが、暴れるサトシを押さえ付け、額を思い切り智の鼻に打ちつけた。智はそのまま崩れ落ちる。鼻から、ポタポタと血が垂れてくる。Tシャツがどんどん血に染まっていく。

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