智は、自分で書いたシバ神のことを思い出して、しまった、と思った。幸恵は、再び立ち上がると扉に近づいて、それらの落書きの一つ一つに目をやった。
「ええっと、ドゥー・ノット・イート・ホール・パパイヤ・バイ・ユアセルフ、ううん、パパイヤを一人で丸ごと食べるなってことですかね。えっと、こっちは……。夕暮れに屋上にのぼって、日の沈むのを眺めながらジョイントを吹かす、人生はそんなに悪くない、ってこれ、どういうことだろ。ジョイントって、マリファナのこと? ああ、やっぱりみんなマリファナ吸ってるんだ。あっ、日本語で書かれているものもありますね、なになに、ラーメン食べたい、ハハハ、やっぱり日本食が恋しくなるものなのかな。わあ、何だろうこの絵は。シバ神かな。お経みたいなものが書いてあります。きっと日本人が描いたんですね。何だか尋常ではないな。これは……」
智は、一瞬ドキッとしたが知らないふりをして、ああ、その絵は凄いよね、かなりイッちゃってるよね、と適当にごまかしておいた。
「そうですよね。一体誰がこんなの書いたんだろう。えっとこっちは……。メメント・モリ……? 人間は犬に食われる程自由だ、メメント・モリ、死を想え……、って、これは確か……。写真家の藤原新也さんの言葉ですよね」
「えっ?」
智は、バックパックに物を詰め込んでいる手を止めて、幸恵の方を振り返った。
「幸恵ちゃん、それ、知ってるの?」
「ええ。私、彼の本も読んでますから。多分そうだったと思いますよ。インパクトありますし。確かバラナシのガンジス川のほとりで、打ち上げられた人間の水死体をノラ犬が食べている写真とともに、その一節が記されていたんだと思います。私もそれを見た時はちょっとショックでしたから」
智は、ぼんやりと幸恵の方を見つめている。
「そうだったのか……。バラナシ……、ガンガー……」
「どうしたんですか? 智さん」
智は我に返った。
「あっ、いや、俺もその落書きは気になっていてね。一体どういうことなんだろう、とずっと思ってて……。一生懸命、考えてたんだよ」
「メメント・モリって言うのは確か、死ぬことを考えろ、というような意味らしくって、何でも、中世のヨーロッパの修道院で日頃の挨拶として使われていたそうですね。死を想え、死を忘れるな、と会う度にお互い言い合って、日々を暮らしていたそうです。それには、人間は必ず死を迎えるものなのだから、それを忘れずに常に心に留めておくように、という戒めの意味があったようですね」
「そうだったのか……。全然知らなかった」
「犬に喰われる程自由だ、というのは衝撃的なフレーズですもんね。筆者は、それを見たとき自分が解放されて行くのを感じた、と言っています。犬に喰われている人の死骸が、別にグロテスクな物でも何でもなく、ただ、その景色の一部として自然の中に同化しているのを見て、人間なんて偉そうにしてるけど何でもない、本当は、死んでしまえば犬に喰われて骨になるだけの簡単な存在なんだ、と言うようなことを思ったらしいですよ。私にはいまいち、ピンと来ないんですけどね。智さんには分かりますか?」