智が初めて建と出会った時、彼は、側頭部にバーコードのタトゥーの入ったフランス人のドラッグディーラーと一緒だった。智がテラスで手紙を書いていた時に、建が、ボールペン貸してくれる?、と声をかけて来たのだ。その時智は、インドに入ったばかりで、いかにもインド慣れしている建の風貌にちょっと緊張感を覚えたが、彼が声をかけて来た時のその微笑み方がとても印象的で親しみやすいものであったため、その申し出に素直に応じることができたのだった。そもそもインドに長く滞在しているような日本人は気難しい者が多く、その時の智のようにインド経験の浅い旅行者にはとても取っ付きにくいものなのだ。だから、建のようなお互いの間に壁を作らせないような接し方は智にとってとても新鮮だったのだ。
建とフランス人のドラッグディーラーは、どんなガイドブックにも決して載っていないただの民家の一室のような宿に泊まっていた。いつも彼らは単独で行動していたため、ババ・ゲストハウスの連中と付き合いがあるようには見えなかったのだ。
「建さんって、谷部さんのこと知ってましたっけ?」
智は建に尋ねた。
「ああ、智達が出ていった後だったかなあ、遊ぶようになってね。良く一緒にいたよ」
「そうなんですか……」
智は、何だかがっかりしたような複雑な気持ちになった。
「それより、どう、飯でも喰いに行かない?」
建は言った。
「そうですね。行きましょうか。ちょっとこれ部屋に置いてくるんで待ってて下さい」
そう言うと智は、持っていた洗面用具を素早くまとめ、部屋へと向かった。そして部屋の扉を開けてベッドの上にそれらを乱雑に放り投げると、すぐさま外へ出て扉を閉めた、その時、閉めた扉の内側に智の描いたシバ神が微笑みながらこちらを見ているのに気がついた。その視線は、昨晩の智の行動を閃光のように甦らせた。智の周りを再びあの清浄な空気が取り囲み始める。そしてしばらくの間、それは智を放心させた。数分後の建の智を呼ぶ声に気が付くまで、智は、じっとそのまま扉の裏のシバ神を眺め続けていた……。
メインバザールは昨日と同じように人で溢れかえっていた。そしてまるで街全体が大鍋の中で煮えくり返っているように暑かった。この暑さや景色や人の群れは実際のところ毎日変化しているのだろうが、表面的に見る限りでは昨日と全く何の違いもなかった。つまり「日常」がそこにあった。恐らくこの光景は、何千年も前から受け継がれ、そしてこれから先何千年もこのまま続いて行くのだろう。この点に於いてはインドも日本も何の違いもない。人間の生活とは、このように変化に乏しく無機的に連続していく「日常」によって常に支配されている。
智は、日本から遥か遠く離れたインドの地まではるばるやって来てもなお執拗に追いかけてくる「日常」というものを垣間見て、諦めにも似た軽い絶望を感じずにはいられなかった。