犬歯のようなもの。
狩猟を忘れ、あのように醜く、腐った生ゴミを貪ることによってしか生き永らえられない落ちぶれた野良犬にさえ、未だその犬歯は白く攻撃的に光っていた。平面的に摺り潰された人間の堕落した臼歯などでは、獣の毛皮を突き破り、肉を引き裂くことなど到底できない。
その、犬歯のようなもの、を智は自分に顧みた。自分の内側にも外側にもそれは認められなかった。自分の身を守るための犬歯、餌を獲るための犬歯、鋭く切り裂くような精神性を持った犬歯、そんなものは自分のどこにも見い出せなかった。自分のどこにも備わっていないように思われた。
過酷な環境に立ち向かう頑強な肉体。自分を押しつぶす精神的な不安、焦り、そんなものを全て切り裂いて霧消させてしまうような鋭利性を伴った犬歯のような精神……。あのように醜い野良犬にすら、それらの物は全て完備されているように思われた。智は、被虐的な気分に陥った。
――― 自分は、あの醜い野良犬にすら劣っている ―――
智は、果たして自分の中の何によって自己を確立し、自立し、安定させることができるのかを全く把握していなかった。自分という存在は、絶えず不安定に揺れていた。智は、確固たる自分の精神が欲しかった。あの犬歯のような精神、犬歯のような肉体、揺るがない自分。智は強くなりたかった。
部屋に戻ると孤独感は一層増した。小さな窓から差し込む明るい太陽が、余計に智を孤独にさせた。智は、バックパックを解いてバッグの底からLSDを取り出した。それはゴアにいる時に直規から買ったもので、ずっと使わずにとっておいたものだった。「イエロー・サンシャイン」という銘柄のそれは、細かくミシン目の入った薄いボール紙に黄色い太陽をモチーフにしたポップアートがデザインされている。智は、五ミリ四方の一枚をミシン目から切り取って、舌の上に乗せた。それは智の舌で徐々に溶かされていく……。
数時間後、智は、落書きだらけの扉に絵を描いていた。持っていた色ペンで、扉の空いているスペースに絵を描き始めた。
まず、目を描いた。それから鼻を描き、口を描くと、顔になった。額に、縦に割れた瞳をもう一つ描いた。智はシバ神を描いていた。踊るシバ神を一心不乱に描き続けた。扉から十センチ程の距離まで顔を近づけ、何色も使い分けて丁寧に描いていった。清潔な、冷たい大気に包まれて、智は、ただ、描き続けていった。智の描いているシバ神のすぐ下には、例の、メメントモリ、の落書きがある。智は、それを口の中で呟きながら描き続けた。
魂の、解放、を、させとくれ、………
人間は、犬に、食われる程、自由だ、………