濡れた重たい空気

 鬱々とした気持ちで頭を抱えて屈み込んでいる智に、先程の小柄なウェイターが声をかけた。

「マサラ・ドーサ」

智が顔を上げると、彼はにこりと微笑んで白い歯を光らせた。

「ああ、ありがとう」

ウェイターの屈託の無いその笑顔は、智の悶々とした気持ちを少しの間晴れやかなものにした。

テーブルに置かれたマサラ・ドーサは、智がよく南インドで食べていたそれと全く同じものだった。パリッと薄く焼かれたクレープのような生地が、じゃがいものカレーを円筒形に包んでいる。それを異なったスパイスの何種類かのカレーと、酸味の効いたヨーグルトにつけて食べる。その独特の形と香ばしい生地の色が気に入って、智はいつもこれを注文していた。食べ方としてはまず、筒状になっている生地を少し砕いて中に入っている具を包み、ヨーグルトをつける。仄かな酸味と口全体に広がるマサラの香りがまろやかな風味を造り出す。そしてパリパリとした生地の食感がそれに加わり、味に抑揚をつけている。鼻から抜けていくそれらの香りと味覚が、一瞬にして智を南インドの風景へと誘った。

晴れ晴れとした空と青い海。咲き乱れる原色の花々。それらは智の胸を締め付けるように切ない気分にさせた。南インドでの思い出は、全てが明るく穏やかであったように思える。ここ何ヶ月の間忘れてしまっていたそんな風景が、智の目の前に、ありありと広がっていくようだった ―――   

食事を終えて表に出ると、再び、びっしょり濡れた重たい空気に体全体が包まれる。猛暑の街を歩いているとインド人の麻薬売りが近寄って来て、ジャパニ、ガンジャ、ガンジャ、ハシシ、ハシシ? と声をかけてくる。智は、ちらりとも目をくれずに、ノー、ノー、ノーサンキュー、と言いながら歩き去る。

土産物屋の店先から様々な種類の香の薫りが漂ってくる。くたびれたバッグを肩からかけて、よれよれのTシャツによれよれのパンツを履いた欧米人女性が品物を物色している。その脇を荷車を引いた大きな牛が通り過ぎていく。通りかかる時に荷台に乗ったインド人が、彼女に大きな声をかけ、手にした木の棒で牛の体をぴしゃりと叩く。彼女は、それに気が付いて屈んだ体を起こし、道を開ける。そしてその牛に擦れ違うように、サリーを着たインド人女性が頭に大きな壺のようなものを乗せて正面から歩いて来る。痩せこけた犬が、だらしなく舌を垂らしながらその女と擦れ違う。犬は、露天のサモサ売りの放つサモサの香りに釣られてふらふらとそこへ近寄っていくと、途端に主に蹴飛ばされ、短い悲鳴を上げて飛び上がる。そして媚びるようにもう一度彼の方を見上げるのだが、サモサ売りは、大声で犬に向かって何ごとかを叫びながら手を振り上げた。犬は、怖じ気づいて耳を伏せて立ち去った。立ち去る時、その犬は、それら全部の様子を見ていた智と擦れ違い様に目を合わせた。そして立ち止まって智を見つめた。智は、犬の濁った瞳を見た。力無く垂らされた彼の赤い舌は、唾液を流しながら規則的に揺れていた。智は、長い間その犬を見つめ続けることに耐えられなかった。犬は、なおも執拗に智を見ていたが、智が視線を逸らして歩き始めるとどこかへ行ってしまった……。智は、やつれた犬の口の中になおも鋭く光る刃のような犬歯に恐怖を抱いた。

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