ここデリーはさすがに一国の首都だけあって、様々な人や物が集まっている。食べ物もその一例で、インド中のあらゆる地方料理から、チベット料理、ツーリスト向けにインドではついぞお目にかかったことのない、ピザやケーキといった洋食の類いまで、何でも用意されていた。そしてそれらの店を営んでいる人達も多種多様だった。同じインド人といっても南方から来ている人達や、北の山岳地帯から来ている人達、西の砂漠地帯から来ている人達とでは容姿も話す言葉もまるで異なっている。だからこの街ではインド人同士でも英語で会話する光景が普通に見受けられる。
智の入ったその店で働いている人達の顔を見てみると、いずれも平面的で色が黒く、南方系の顔立ちをしていた。背も低い。明らかに南インド出身の人達だ。智は、南インドの人や環境、そして料理が大好きなので、それに気付いた時は少し嬉しく思った。南インドの料理は、他の地方のインド料理と違って辛さがあまりない。まろやかな味だ。色彩に富んでおり見た目にもとてもきれいだ。それに、そこに住んでいる人達も他の地方のインド人達とは違って、穏やかで遠慮がちな性格をしている。南インドでは、それら全ての物が南国の明るい景色と相まって、ゆったりと心地の良い時間を創り出していた。智の脳裏にその時の光景が自然に甦り、気持ちが和らいでいくのを感じた。
「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」
一人の若くて小柄なウェイターが、グラスに注いだ水をテーブルに運んできた。小声で礼を言うと、智は、ウェイターにこう尋ねた。
「マサラ・ドーサある?」
「マサラ・ドーサ? O・K」
ウェイターが去っていくと、智は、インドの水道水特有の、臭みのあるコップの水を一口飲んだ。その味は、理見のことを思い出させた。ジャイサルメールで、理見が、智の目の前で今の智と同じようにグラスの水を飲んでいた時のことを思い出したのだ。智は、今、自分が座っている向い側の空いた席に理見の姿を想像している。
理見と別れてからちょうど一週間が経っていた。一週間前、智は理見と一緒にいた。理見と過ごした時間の一つ一つを智は思い出していた。ジャイサルメールの城壁の丘で初めて出会った時から彼女が去っていくのを見送るまでの一こま一こまを、丹念に思い返していった。一緒に食事をした安食堂、二人話しながら共に歩いた暗い夜道、朝日を浴びながら部屋の前に立っていた美しい彼女の姿、振り返って手を振りながら去っていく彼女、それらの映像は、全て、無音でだだっ広い閑散とした世界の中にぼんやりと存在していた。その実像に何とか触れてみようとするのだが、どうしても触れることができない。すぐ目の前にあるように見えるそれらの映像には、決して触れることができない。まるで透明な幽霊のようにその実体を通り抜けてしまう。それはとても狂おしいことだった。それらの過ぎ去った思い出は、もう二度と智の下へは戻って来なかった……。
智は、自分の頬を伝う理見の手の感覚を思い起こそうとした。そうしている時の彼女の表情を思い返そうとした。それらは甘い記憶とともに映像として甦っては来るものの、その肉感はどうしても得ることができない。自分の皮膚に触れる彼女の肉の感触を、彼女の体温を、もう一度感じとろうと智は必死に努力するのだが、そうすればそうする程、追い求めるその感覚は智を嘲笑うかのように遠ざかっていった。
智は理見を抱き締めたかった。彼女の全身の肌の感触を、匂いを、浴びるように味わいたかった。狂おしいその衝動は、決してどこにも発散されることはなく、智の体内にじわじわと蓄積されていく ―――