無性に

「ハハハ、そうか、似合ってないか」
「ついでに言うと、こういう食堂のそういう汚いコップに入った水なんかも飲みそうにない」

智は、テーブルの上のさっき理見が飲んだグラスを指してそう言った。理見は、そのグラスを右手で持ち上げて軽く揺すった。そして一息つくと智に言った。

「私ね、日本では女優をやってたの」 

智は、驚いて食べていたカレーを思わず吐き出しそうになったが、理見は、相手のそんな反応には慣れてでもいるのか、智のその様子を軽く受け流した。

「いや、女優って言っても全然売れない女優でね、だって、知らないでしょう? 私のこと。だから、そんなに大それたものではないんだけど、一回、映画の撮影でインドのバラナシに来たことがあったの。それは私達みたいにインドを自由に旅する人達のそれぞれの人生を題材にしたお話なんだけど、その撮影のために初めてインドに来たのよ。でもその時は、あなたの言うように、インドなんて全然興味なかったし汚そうだし、正直言って行くの嫌だったわ。そして実際来てみても全然好きにはなれなかったし、日本に帰りたくて仕方がなかった。早く撮影が終わればいいのにってずっと思ってた。でもそれから何年か経った後、無性にインドのことを思い出すようになったの。何でか分かんないけど日本で生活しててふとしたきっかけで、バラナシの町の風景なんかが鮮明に思い出されるの。それでもう一回インドに行ってみようと思って来てみたら、今度は一年もいちゃった、というわけ」

智は、理見の歩んできた人生の道のりと自分の送ってきたごくごく平凡な生活とのあまりの違いに、とても彼女の話が現実的なことのようには思えず、ただただ茫然とその話を聞いていた。

「ちなみに、理見ちゃんって幾つなの?」
「幾つに見える?」
「俺と同い年か年下ぐらいに見えるけど、でも話聞いてると年上でもおかしくないし……」

理見は、少し笑いながら言った。

「三十よ、もう三十。去年の九月で三十になっちゃったわ、とうとう」
「マジで? 全然見えないよ。年上っていったって、三十代にはとても見えない」
「ハハハ、ありがと、嬉しいわ、そんなこと言ってくれると」

智は、理見のことを美しいと思った。あらゆる美しさの前に、理性とは、従順にそれに隷属する無意味な概念に過ぎなかった。感性は、美しさに感応して暴走し、理性は、感性の暴走を抑止することがなく、智は、最早自分の感情をコントロールできない。彼女の美しさの前に自分の全てを投げ出してしまいたい、智はそんな衝動に駆られた。理見は美しかった。

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