トランスミュージック

「ちょっと俺、町見て回りたいし、買い物とかもしたいし……。それに今朝やったばっかりだし……」
「そんなのいいじゃんか、昨日の晩さんざん歩いたろ? 買い物だって明日すればいいよ」

そう言うと直規は、紙包みを広げて鏡の上で粉を刻み始めた。そうして手早くラインを二本作ると、智の方に差し出した。もう断り切れそうにもないので、智は仕方なくそれを受け取った。直規は、ルピー札を手早くくるくるっと丸めると、智の方に放り投げる。智は、上手い具合にそれを受け取って、鼻にあてがいゆっくりと吸引した。そして鼻を押さえて少し上を向きながら鏡を直規に手渡した。直規は、それをベッドの上に置いて身を屈め、一気に吸い込んだ。そしてCDケースからCDを一枚取り出し、テーブルの上のポータブルプレーヤーにセットした。プレーヤーには携帯用にしては少し大きめのスピーカーが接続されており、一般のステレオデッキに劣らないぐらいの音質と音量での再生が可能となっている。

智達がゴアで絶えず聴いていたトランスミュージックが流れ始める。単調に連続する重低音で部屋の空気が振動する。絡み合う音のうねりが智の意識を包み込み、智は、目の前に広がっていく音と映像の波に次第に呑み込まれていった。

智は、今、ゴアを思い出している。あの独特の感覚が蘇って来ている。地に足の付かない、常に夢の中をふわふわ泳いでいるような感覚。

ゴアという町は独特だった。そこは、智がそれまで旅してきたどの町にも似ておらず、一際異彩を放っていた。表面上は、ビーチに椰子の木が生えているような典型的な南国の風情なのだが、一旦そこに足を踏み入れて生活してみると、自分が何とも言えない違和感に包まれているのに気付くのだ。その違和感は、そこにいる間、絶えずしこりのように体にまとわりついて、常に不快感を与え続ける。しかしその不快感こそが、あらゆる酩酊の裏側に潜む影の部分のようなものに似て、それを常に感じ続けることこそが、まさにゴアの特異性であり、魅力でもあった。ブラウンシュガーの酔いと流れているトランスミュージックは、その感覚を呼び覚まし、不安や焦燥と共に智を茫漠とした意識の海へと追いやっていくのだった。

智は、ゴアという小さな町を、透明な見えないアクリル板によって外界から隔絶された、特別な空間としてイメージした。今感じているこの感覚は、その空間にいる間中ずっと感じ続けていたもので、それは一歩そこから出た途端に、すっと消えてなくなってしまうようなものだった。既に忘れてしまっていた感覚だった。智は、ゴアで過ごした日々のことを、今、必死に思い出そうとしている。そこには、何か智が忘れてしまいつつある大切なものが眠っているような気がするからだ。

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