その向こう側へ

もうだいぶ長い間私は旅をしている。
香港から旅を始めたのは2002年の5月。
その14ヶ月後、私はアフリカにいた。
場所はマラウイというアフリカ中部の国のムカタベイという場所だ。

タンザニアからタンザニア・ザンビア鉄道に乗り、それを途中で降りて、バスでマラウイにやってきたのだ。
マラウイという国は、マラウイ湖という湖を取り囲むようにある国だ。
そのマラウイ湖ではスキューバ・ダイビングが盛んだった。

しかし、マラウイ湖には吸血住虫というのがいる。
それは蚊のように人間の血を吸い、そして体内に入るのか、あるいはマラリアのように卵を産み付けるのかはわからないが、内蔵をやられたりするらしい。
しかし、予防薬も売っていたが、詳しい病状や潜伏期間などがよくわからず、結局ダイビングはやらなかった。
吸血住虫にしても、そこでダイビングのインストラクターとして働いている人もいるわけだし、ある程度の予防はできるのだろう。
それに私の宿だって、そのシャワーの水は、湖の水をそのまま引っ張って使っていたし、私自身、湖のなかで洗濯したいたわけで、やられてしまうときはやられるのだ。

だから吸血住虫がこわくてダイビングをやらなかったというよりは、エジプトのダハブでダイビングのライセンスを取ったものの、それほど体質的には合っていないとわかり、そこまでやりたいというわけではなかったのだろう。

そのムカタベイは小さな村で、食堂や商店が少なく食事には苦労したが、久しぶりに携帯コンロで食事をつくったりした。
村を歩くと、バオバブという木がある。
それは悪魔が根っこから引き抜いて、逆さにして植えた木であるという言い伝えを持つ。
太い幹から、確かに根っこが広がるように、横に広く枝が広がっている。
私にとってその木は、イメージしていたアフリカそのものである。

その木を横目に村を歩くと、子供たちが遊んでいたり、女たちがトウモロコシを挽いて粉状にしたりと働いている。
その粉はウガリという、この辺りの主食になる。
それは非常に淡白で蒸しパンみたいな食感だ。

そんなふうにとくにやることもなく、そこで過ごしていた。
ぶらりと村を歩いて、写真を撮り、飯を食い、宿にもどって湖を見ながら、ビールを飲み、タバコを吸う。
それは日本では考えられないような、優雅な時間の使い方だ。

しかし、そういう時間の流れのなかに私は1年以上身をおいてしまった。
今になって、決まった時間に起きて、やるべき仕事があり、それをやることで認められ、そして期待もされるというのは、幸せなことだと、身勝手ながら思う。
それをやっているときは、案外それほど充実しているとは気付かず、そういう生活の嫌なところばかり見えてしまうものだ。

目的地の喜望峰はもう目の前である。
最短ルートを取って、どこも観光せずに直行すれば1週間とかからない距離まで来ていた。
かつてアジアにいた頃は、世界地図を広げる度に、喜望峰はあまりに遠いことを再確認し、本当にそんなところまで陸路で行けるのか不安になった。
中東にいた頃は、未知なるアフリカに入ることが怖かった。
なにせ、情報が少なすぎた。
病気もそうだが、治安の問題も相当恐れていた。
私がアジアや中東で会った旅行者で、アフリカに行ったことのある人は、その誰もが強盗に遭っていたのだ。
私も必ず1回は強盗に遭うと覚悟していたし、そうならないための対策も、一応はやっていた。

だが実際に来てみると、アジアに比べれば確かに旅行はしにくいが、情報を集めならば注意深く旅を続ければ、案外と旅はできるものだと思った。
交通のことも心配していたが、かなりバスが走っているし、バスのないところはトラックが走っている。
テントをかついで歩くはめになる場所もあるだろうと予想していたが、そういう場所はなかった。

喜望峰まで、陸路で確実に行けるという場所まで来ると、その後のことが頭をよぎるのは当然だろう。
最初、喜望峰の後、南米に行くことを考えていた。
金はまだあるからだ。
しかし、南米に行ったことのある人に聞くと、あそこは酒と女と音楽と、さらに加えるならばドラッグの好きな奴が行くと、最高な場所らしい。
そのどれも、すごく好きだ、というわけではない。

ドラッグはたまに貰ったガンジャをやる程度だし、女にいたっては、買うことはまずない。
別にそれを買う人のことをとやかく言う気はないし、私だって聖人君子というわけではない。
それに病気が怖いという理由で買わないわけではないし、売春婦に同情こそすれ、軽蔑することもない。
ただ、私が買わないのは、なんとなく嫌なだけだ。

とくかく南米は、私にとってそれほど合っているとは思えなかった。
もちろん、南米の魅力は、酒や女だけではない。
ペルーのマチュピチュは見たいと思っているし、イースター島なんかも行ってみたいとは思う。
しかし、喜望峰から、ブラジルか、アルゼンチンあたりに入って、そこから南米を縦断するような気力はなかった。
南米は交通が整っていて、移動は比較的楽だとは聞いていたが、今の私にはきっとできないだろう。
かといって、行きたい所だけを飛行機を使い、ピンポイントで回るという旅も、したいとは思わなかった。

きっと喜望峰のあとは、どこかを経由はするだろうが、日本に帰るだろう。
しかし、日本に帰った後に、何をしようかということになる。
果たしてこの不景気で、仕事はあるのだろうか。
私は30歳で、けして若いわけでない。
もちろん選ばなければ仕事はあるだろう。
しかし、納得のいく仕事で、納得のいく待遇の仕事があるのだろうか。
あったとして、雇ってもらえるか。
そして、以前のように、決められた時間に毎日起きて、組織のなかで働くということができるのだろうか。
そんなことを考えると不安になってくる。

その不安からなのか、際限なく旅を続ける人もいる。
それはもう、旅の目的が、どこかに行ったり、何かを見たりするということではなく、ひたすら節約し、一日も長く旅をつづけることになってしまう。
そして、日本に帰っても、好きでもない仕事を金のためだけにやり、また旅に出る人も多い。
それを悪い事とは思わないが、少なくとも私はそれをしたくはない。
仮に私が今、これから30年は旅をできるお金を持っていたとして、終わることのない旅を続けたとしても、それはひどくつまらない旅のように思える。
終わりのない旅は、つまり永遠にさまよい歩くことは、拷問に等しいのではないか。

私にとっての旅は、喜望峰で完結しなければならないとは思っている。

長く旅をしていると、その間常に充実し、毎日が新鮮な体験ばかりだ、ということはない。
無気力になる時期もあるし、一生涯心の残るような体験をするときもある。
充実した時期と、そうでない時期の繰り返しだ。
しかし帰国してからも、少しばかりはそんな旅の充実感と同じような、新鮮な日々を送りたいと思う。
もちろん、それが毎日続くわけはないだろう。
しかし、そういう毎日のなかにも、少しばかりは生きていることの実感できる日々があれば、上出来だと思う。

私は早く自分の旅に決着をつけたいと思い始めていた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

「その向こう側へ」への2件のフィードバック

  1. 始めまして。
    偶然、このHPを見付けてから度々旅エッセイを読ませてもらってます。

    鉄郎サンの旅エッセイを読んでいると、一部私が旅した時のルートとも重なってるので、思い出しながら読ませてもらってます。
    今回のエッセイを読んで、旅の途中にはいろんな出来事があり、いろんな人に出会って楽しくてもう帰りたくない!と思っててもやはり普通に働いて生活していく事が大事なんじゃ?という考えにたどり着く気持ちはすごく共感できます。。(私も某所でダラダラした生活が長くなると、働かない自分に対して不安になりました)
    鉄郎サンは日本に帰ってからの不安を書いてましたが、こんなに長い間いろんな所を旅できる人は絶対に日本に帰っても大丈夫です!そこら辺の人より根性あると思います。
    ・・個人的には南米でのエッセイも続けて読んでみたい気もするのですが(笑)
    とりあえずは、喜望峰までの旅を引きつづき無事に旅してください。
    また、旅エッセイ拝見させてもらいます。。

  2. 初めてお便り差し上げます。偶然読み始めた鉄郎さんのサイトですが,読みやすい簡潔な文章と考え方,感じ方に共感して時々読ませて頂いています。勝手ながら経歴がきっと私に似ているのではないかと想像しています。今回のエッセイもさすらい続けるよりも結末をつけようという姿勢に共感しました。旅の終わりが近づくということはこのエッセイも終わりを迎えることになるかと思うと寂しいですが,最後まで楽しみにしています。お体に気をつけて。

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