海を渡った中国人

世界中を見渡すと、一つの国に一つの民族という例は、非常に少ない。
そういう国は、他にも存在するのだろうが、私が今まで訪れた国の全てが多民族国家だ。
もちろん日本だって、アイヌがいるわけだし、厳密にいうとそういうわけではないが、世界単位で考えるとやはり単一民族国家だ。
それは世界では稀である。

そして、日本人というのは日本にしかいない。
もちろん海外旅行や海外赴任などで行く人は多いだろう。
あるいは、渡米して国籍を取ったり、ヨーロッパに渡り活躍し、永住するという例は多いと思う。
私が言っているのはそうではない。
もっと大きな単位で、新天地を求め海外に渡り、移住して商売をし、コミュニティをつくり、日本人街をつくったという例は知らない
かつて明治時代にブラジルに移民したという日本人の話は聞いたことがあるが、それくらいだろうか。

例えば、このケニアにキユク、カレンジン、ルオ、マサイ、ツルカナ、サンプル、ツルカナなど代表的なものだけでもこれだけの民族がいる。
キユクというのは、ナイロビ周辺に住む人たちで、普通に観光旅行するとまず彼らに会うことになる。
ちなみにマサイというはあの有名なマサイ族であり、今での伝統的な暮らしてしている人たちが多い。

そしてここ東アフリカにはインド人も多くいる。
かつてインドがイギリスの植民地だった頃、東アフリカの鉄道建設の労働者として、インドから移住させられたのが始まりである。
最初は貧しかった彼らだが、世代を重ねるにつれ、次第に力をつけ、今では経済的に影響力を持っている。
よく商店や食堂のオーナーだったりする。
そのため、経済状態が悪くなり、暴動などが起きると、インド人というのは真っ先に狙われる。

話が変わるが、中国人というのは、世界中にいる民族だ。
華僑が有名であり、チャイナタウンは世界各地にある。
マレーシアやシンガポールなどは中華系が多いし力を持っている。
中国人というは昔から商売上手で、世界に目を向けていたのかもしれない。

そして400年前のアフリカにも中国人は来ていたのだ。
日本でいえば江戸時代の初期である。
そんな時代にここへやってきた中国人が確かにいたのである。
なぜそんなことを知っているかといえば、私がその中国人になったからである。

私はケニアに東側に位置する、ラム島という小さな島に来ていた。
そこへ来たのは、大して理由はなく、単にゆっくりできそうだったからだ。
島には車というものがない。
役所関係のジープが一台あるだけで、車を持ち入れることは禁止されている。
もっとも持ち入れたとしても、車が通れるだけの道は海岸線くらいだ。
海岸から内側に入ると、道というよりは、もう路地しかない。
そして、そこを通るのはロバである。
ここではロバが交通手段であり、人も乗るし、荷物を運ばせたりする。
建物は石でつくってあり、島全体が歴史の発展から取り残されたような雰囲気をもっている。
ここに住む人は皆ムスリムであり、コーランが鳴り響く、小さな島なのだ。

アフリカというと未開というイメージがついてまわるが、決してそんなことはない。

確かに上下水道や電気などの公共的なインフラから考えると未発達ではあるが、伝統的な暮らしをしている人たちの方が遥かに少ない。
それに、ナイロビなどはビルが立ち並ぶちょっとした都会なのだ。
そんななかで、このラム島は、島全体に独特の、違った時間の流れを感じさせてくれる。

そのとき私はいつものように散歩していた。
実際こういう場所では散歩しかやることがなく、また散歩することが最も有効な時間の使い方だ。
季節がよければ海で泳ぐこともできるが、あいにく雨が多い。
ナイロビあたりはちょうど大乾季に入った頃だが、東側はまだ雨が多い。
降水量の統計を見ると、内陸部と乾季の時期が大きくずれているようだ。
ナイロビからラム島へ来ると途中にも、雨で道路が水没していて、手漕ぎボートで道を渡るという場所もあったくらいだ。

ちなみにアフリカはとにかく暑いと思っている人もいるかもしれないが、それは大きな勘違いだ。
5月のスーダンは確かに暑かった。
これはもう体温と同じくらいに暑く、何もやる気が起きない。
しかしエチオピアのアジスアベバは一年中秋とよばれ、ケニアのナイロビは一年中春と言われるくらいである。
つまり過ごしやすいのだ。
それはアジスアベバの標高は2400Mあり、ナイロビは1661Mもあるからである。
確かにアフリカは暑く、ケニアに至っては赤道直下であるが、気温というのは、地形によって大きく異なるのである。

とにかくラム島では泳ぐことはできずに、雨をさけて散歩するのが最大の観光なのだ。
そしていつものように海岸線を歩いているとき、ある白人女性が声をかけてきた。

彼女の名前はルーシーといった。
28歳くらいであろうか。
少しぽっちゃりしている。
オランダ人だが、イギリス国籍だと言っていた。
そして、イギリスのテレビ局でドュメンタリー製作の仕事をしていて、その仕事でここに来ているとのことだった。
彼らの追っているものは中国人だった。
今から400年前にここへ海を越えて渡ってきた中国人がいるらしい。
そのドキュメンタリーをつくっていて、再現VTRを撮るため、中国人の役をやってくれなかと言われた。
つまりはテレビ出演である。
それにしても今回の旅では、テレビ出演に縁がある。
モンゴルに続き2回目だ。
私は日本だし、髪の毛も少し色を入れているし、中国語も喋れないと言ったが、セリフああるわけではなく、衣装があって帽子をかぶるから問題ないと言われた。
要は見た目が東洋人であればいいらしい。
撮影は半日で終わるし、ギャラも出すと言われ私は引き受けた。
なにより、最後に彼女が、
『あなたは素的な男性だわ。
この役にぴったり』
と言われたで引き受けてしまった。
私の英語力が確かなら彼女は確かにそう言った。

撮影は明日だというので、その日は前金の代わりなのか、ハイネケンを好きなだけ飲ませてくれた。
それにしても、ラム島で、東洋人が見つからなかったらどうするつもりだったのだろうか。
しかし衣装まで用意してあるということは、やはり東洋人が必要だったわけであり、最初はちゃんと決められた人がいて、土壇場でキャンセルになったのだろうか。
まあ、私としては面白そうだし、ビールも飲め、さらに少しではあるがお金ももらえるので文句はなかった。

次の日、指定された場所へ行くと、すでにルーシーは来ていた。
それに他のスタッフも7名ほどいただろうか。
テレビ関係のスタッフというのは、どこの国でも良く似ている。
とにかくみんなラフなかっこうであり、リーダー格らしき人物はサングラスして、キャップをかぶっている。
現地の通訳もいた。
少し話しをすると、普通の仕事よりもかなりギャラがいいと言って、喜んでいた。

そして簡単な説明のあと、私は着替えさせられることになった。
スタッフ泊まっている部屋を使って着替えたが、そのホテルにはプールもついていて、羨ましい限りだ。
アフリカであれ、ちゃんとお金を出せば、それなりの設備とサービスのあるホテルがちゃんとある。

渡された衣装はいわゆる我々のイメージする中国のそれだ。
帽子があり、袖が長く、両腕を前にもってくると両腕がすっぽりかくれるもので、おもわず謝謝(シェイシェイ)の一つくらい言いたくなる。
着替えると撮影の指示あり、さっそく撮影が始まった。

まず最初のシーンは、はるばる海を越えてきた中国人が、ラム島の役所の中に入るところだ。
建物は博物館が使われた。
その博物館は、展示物はともかく、建物そのものは歴史の重みを感じさせるような古めかしいものだったからだ。
建物の入り口で、ラム島側の役人が重い鉄の扉を開けるので、そこから中に入り、奥までゆっくりと歩くというものだった。
このたった数秒のシーンに案外てこずってしまった。

監督らしい人から、何回も指示を受け、やりなおすはめになった。
『もっと、ゆっくりあるいて』
くらいなら簡単だ。
『建物のなかに入ったら、ゆっくり周囲を見ながら歩いて、そして少し驚く表情をして。
つまりは、建物内部の装飾に感心するわけだ』
なんて言われても、実際建物の内部にはなにもないから、これはもう立派な演技である。
このシーンは3回目くらいでOKが出た。

その次に2階に上がり、テラスから海を見ていると、船を見つけ、指を指す、というシーンだ。
こっちの方が苦労した。
『海を見るときは、もっと遠くを見るような・・・
そう、祖国を懐かしむような感じ』
と言われてもどうもピンとこない。
そして指を指す動作にしても、角度がどうとか、動きの速さがどうとかいろいろと言われた。
もちろん彼らにしても、素人に玄人並の演技を求めるわけではないから、そこそこのところでOKが出て、撮影は終了となった。

もっと簡単なものだと思っていたので、意外ではあったが、なかなか新鮮な体験だった。
ギャラは15USDだった
それを安いとは思わない。
全く収入のない私にとってはちょっとしたお小遣いだ。

それにしても、ひたすら陸を越えてきた日本人が、はるばる海を渡った中国人を演じることになるとは、これも何かの縁かもしれない。
その後、その中国人は祖国に帰れたのだろうか。
あるいはラム島に住み続けたのだろうか。
そして、彼のあとに中国との交易がはじまったのだろうか。
それは調べてみないことにはわからない。

当時、海を越えるということは、つまりは死を覚悟することだったのだろう。
私は旅で命を落とすことになっても悔いはないと思っているが、死を覚悟しているわけではない。
少なくとも旅の危険性というのは、400年前とは比べるべくもない。
その気になれば数日後には日本に帰れる現代にいる。
時代は流れ、世界は狭くなったのだろうか。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください