ソマリアから来た男

『まったく、無駄足だった』
恐らく私はその時そんな事を呟いていたと思う
私はケニアのイシオロというところで、マタトゥを待っていた。
マタトゥというのは、ケニアの乗合バスである。
車体はトヨタのハイエースが圧倒的に多い。
日本から果てしなく遠いこのアフリカで、よくトヨタが使われているものだなと、驚きをかくせない。
日本の技術というのは、やはり世界に誇れるものがある。
特にトヨタは他の日本車と比べても長持ちすると人気だった。
もちろんここらで走っているのは、走行距離も10万キロを超え、10年以上は軽く走っている代物だ。
だから何より耐久性が重視される。

そしてさらに驚きなのが、そのハイエースによくもこれだけ人が乗れるものだな、と思うくらいに人が詰め込まれることである。
まず、最前列は運転席を含め3人というのはいい。
そして2列目からは4人づつ座席が4列続く。
合計19人。
もちろん時にはさらに一人が乗り口付近にかがんで立って、20人乗ることもある。

日本では絶対に走れない。
しかし使用されるガソリンなどを考えれば、究極のエコロジーとも考えられる。
とはいえ、いくらエコロジーが得意なトヨタでも、まさかこんなふうにハイエースが使われているとは思ってもいないことだろう。

いや、本当のことを言うと、そんなことに感心している場合ではなく、私は落ち込んでいた。
私のいるイシオロという場所はエチオピアから南下してケニアに入った場合、ナイロビまでの中継点となる町だった。
数日前も私はこのイシオロにいた。
エチオピアからケニアに入り、イシオロまで南下しそこで1泊して、ナイロビまでやってきた。
ナイロビに着いたことでエチオピアから続いた移動の連続もやっと一息ついた。
この10日間は毎日移動していた。
しかもそのほとんどがトラックの荷台での移動で、さすがに疲れていた。
ナイロビはビルの立ち並ぶちょっとした都会だった。
ヒルトンホテルやインター・コンチネンタルホテルもある。

ちなみに私の泊まった宿は、ニュー・ケニア・ロッジというところだが、これはダウンダウンにある。
『地球の歩き方 東アフリカ 2002-2003』によると、『安宿はすべて危険な下町にある。泊まってはいけない』と書いてある。
もちろん私は危険を顧みないで泊まったわけではない。
そのエリアに泊まって大丈夫だと自分で判断しただけだ。
そして実際、大丈夫だった。
ナイロビの治安は回復しつつあるが、もしケニアに行く人がいたら十分に気をつけたほうがいい。
ナイフで威されて、金を盗られるなんてことは、珍しいことではない。

私はその宿で久しぶりにゆっくりとホットシャワー浴びれると期待した。
安宿とはいえ、ナイロビである。
しかし断水続きでそれは叶わなかった。
街の中心のホテルなら、ちゃんと水が出るという話だったが、私のいるのはダウンタウンの安宿なので、そんなことでいちいち腹をたてていたら、旅が成り立たない。
とにかく、久しぶりにナイロビで商品が溢れているスーパーで買い物をしたり、ファーストフードを食べたり、文明社会の恩恵を受けくつろげはした。

しかし、私は大変なことをしてしまったことに気付いた。
あろうことか、メガネをなくしてしまったのだ。
いつもはコンタクトレンズを使っているが、もちろんメガネは持ち歩いている。
そしてどこで、なくしたか考えた結果、イシオロの宿で使ったのが最後なのだ。
そして私は再びナイロビからイシオロまでメガネを求めてもどってきたが、やはり見つからなかった。
イシオロの宿のオーナーは親切な人で、従業員全員に聞いてくれたが、やはり見つからなかった。
私が他でなくしたのか、あるいは従業員の誰かが見つけ、取ってしまったのかもしれない。
いずれにしろ、ここでなければもう見つかることはないだろう。
そして私はその宿で1泊し、翌朝再びナイロビに戻るために、マタトゥを待っていたのだ。

やってきたマタトゥにはすでに数人が乗り込んでいた、私が乗り込むとそのうちの一人の男性が微笑んできた。
そんな風に書くと、なにか変な印象を持つかもしれないが、本当なのだ。
明らかに彼は私を知っているらしい。
彼は私より2列後ろに座っていたが、私が振り替える度に、微笑んでくる。
私は誰だか思い出せなかった。

2時間ほど走り、ニャイニュキというところで、乗り換えのためマタトゥを降りた。

そのときにその彼が、
『ナイロビ行きのマタトゥが出るまでは、まだ時間がある。
昼食を一緒に食べよう』
と誘ってくれた。
そのときにやっと思い出した。
昨日、イシオロの安宿で少し話しをしたムスリムの男だ。
痩せていて、髭も濃く、いわゆるアラブの顔をして、カフィーユを頭にまいた40歳くらいの痩せた男だった。
『やっと思い出したか』
と彼に笑われてしまった。

そのいかにもアラブを代表するような顔立ちの男は、実はソマリア人だった。
ソマリアといえば、ケニアの東側に位地し、未だ内戦状態だと聞いている。
そのことを聞くと、
『戦争は終わったよ。
しかし政府がまだない』
とのことだった。
つまりは、未だ闘争は続いているのだ。

彼は食堂につれていってくれた。
食事はインドカレーである。
ケニアにはインド人が多く、よく商店や食堂をやっている。
だからインドカレーが食べられる。
正直本場インドのカレーよりもコクがあって、うまいと思った。
そしてチャイももちろんある。
ケニアのチャイは恐らく、ヤギのミルクからつくったもので、ややくさみがある。
チャイはやはりインドのほうが数段うまい。
そしてそれを飲みながら、私たちはたった数十分であるが、有意義な話をした。

ソマリア人の男は驚いたことにアメリカ国籍を持っていた。
今は妻と5人の子供と一緒にアメリカのシアトルに住み、貿易の仕事をしているらしい。

私がアメリカ国籍だということに驚いていると、彼はパスポートを見せてくれた。
『他の客には見られないようにしてくれ』
と言いながら、そのパスポートをそっと渡してくれた。
ここでもアメリカという国はやはり嫌われ者らしい。
ムスリムに嫌われているのだ。
エチオピアはそのほとんどがクリスチャンであるが、ケニアにはムスリムも多い。
特に東海岸のほとんどはムスリムの暮らすエリアである。
そして彼もまたムスリムであり、立場としては微妙なものがあるのかもしれない。
なおかつアメリカはソマリアの紛争にも首を突っ込んでいる。
それは映画『ブラック・ホーク・ダウン』という映画にもなった。

その彼のパスポートをテーブルの下で開くと、それは確かにアメリカ合衆国のものだった。
『今回、イシオロに住む父が病気になり、戻ってきたのだ。
あんまりよくなくてね。
それで父のために、信頼できる病院を探していて、ナイロビに行く途中だ』
と話してくれた。
私はパスポートを返すと、
『ケニアの後はどこへ行くんだい?』
と聞いてきた。
私は香港から旅を始め、南アフリカの喜望峰を目指している旅の途中だと説明した。

私はそのことを、旅で会った現地の人にほとんど言ったことがない。
たいていは来月には帰国するとか適当なことを言ってしまう。
もちろん本当のことを言うことに問題はないが、たいていは、
『世界中を旅して、いいご身分ですな』
と思われてしまう。
私が、私なりに苦労して金を貯め、夢を叶えたと説明したところで、それは彼らには
通じないことの方が多い。
その説明はあくまで私の、日本という国の価値観での話だからだ。
しかし、彼にはためらいもなく、喜望峰までの旅を話した。

そしてその後、彼の言った事はけして忘れられないものになった。
『そうか。
だったらもうすぐ旅も終わりだな。
それにしても世界中を旅しているんだな。
もし君が・・・
いろいろな民族、いろいろな人々の、食べ物、服、肌の色、目の色、習慣や考え方、そういったものを少しでも理解できたなら、きっと将来いい仕事ができるよ。
どんな仕事に就こうとね。
いい、人生が送れるはずさ』
『でも旅行者というのは、街から街を移動していって、そこに暮らすわけではなく、言ってみれば通過するだけですよ』
と、私は素直に今まで思っていたことを話してみた。
『確かにそれはそうだろう。
でも、何年同じ場所にいたって、理解しようとしない人は理解できないし、感じようとしない人は何も感じない。
たった1日でも、何かを理解して、感じる人だっている。
その国や地域の表面だろうが、あるいは内面だろうが、そしてどこの場所であれ、少なく
とも君の見たものは紛れもない真実だ。
薄皮一枚も、本体の一部には変わりないだろう。
そして、君の感じたことは君自身のものだ。
もちろんそれを否定するやつらだっているだろう。
でも君の感じたことは、何年たっても変わることがない、君の財産じゃないのか。
大切なのは感じる心を持とうすることだ。』
と彼は自分の胸を指差した。

もしかしたら、彼も同じような旅をしたことがあるのではないかと思って、それを口に出そうとしたが、思いとどまった。
ソマリアにいた彼が、アメリカまで渡り、そしてアメリカ国籍まで取るに至った道のりには、私の旅などよりも遥かに波乱に満ちていたものであることは、容易に想像できたからだ。

『私と君は違う。
私はアメリカ国籍のソマリア人で、君は日本人だ。
生まれた場所も、育った場所も、習慣だって、考え方だってちがうはずだ。
でもそれを十分承知しているからこそ、私は君を少しでも理解したいという気持ちになるんだよ。
みんなそこから始めればいい。
そうすれば、お互いを感じて、理解しようとする気持ちになる。
それができないから、お互い認められず、人間は戦争ばかりやるんだな』
そして最後に、ちょっと笑いながら、
『まったく SO MANY バカだよ、わかった?』
と突然日本語の単語がまじった。
以前、日系の企業で働いて覚えた単語らしい。

全く、カフィーユまいたソマリアの男はかっこいいと思った。

私は、自分の旅に、目的はないと思っていたし、今でもそう思っている。
しかし、彼の話は私の気持ちをなんだか軽くしてくれた。
私の見たものは真実であり、感じたものは私の財産である。
それだけで十分だ。

イシオロまで戻ってきたのは、案外無駄足ではなかったかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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