コンソの少年

視界に入る景色は緑に満ちていた。
太陽の光が山々に横たわる木々に反射してまぶしいくらいだ。
頬に当たる風もまた心地いい。
こういうなんでもないような時間が、旅をしているなかで至福の時である。

私は久しぶりにトラックで移動をしていた。
それはチベット以来のことだ。
エチオピアの首都アジスアベベからバスで南下し、アルバミンチまで来たが、そこから先は雨季のためにバスの通行ができなくなっていた。
かといって全ての交通が遮断されたわけではなく、地元の住民はイスズのトラックの荷台に乗って移動をしている。
要は、雨季によって道が悪くなり、バスでは行けないが、トラックなら通れるというわけだ。
私もそのトラックに乗っている。

それにしても、この緑豊かな風景のなかを走っていると、この国どうして飢餓があったのかが、不思議に思えてくる。
素人目に見ても、肥沃な大地という表現がぴったりくるような景色だ。
私が小学生のときに、アフリカの飢餓がよくニュースになった。
ユニセフの公共CMなんかもテレビで流れていたと思う。
そのときに必ず出てきたのがエチオピアだったと記憶している。
私のなかで、飢餓といえば、エチオピアだった。
しかし実際にこの景色を見ていると、どうも信じられない。
聞いた話だが、当時のエチオピアの飢餓は、旱魃などの自然災害によって起こったというより、そのときの政権が、国家予算のほとんどを軍事費につぎ込み、農業政策を怠ったために起きた、いわば人災だという。
現在の北朝鮮にそっくりで、ありえそうな話だ。

トラックは山を抜け、小さな川をいくつか渡った。
浅い川だが、トラックは渡れても、バスでは無理だろう。
そして着いたのは、コンソという小さな街だ。
いや村と言ったほうがいいかもしれない。
宿も食堂も商店も2,3件しかなく、5分も歩けばそれらが並ぶメインストリートからはずれてしまう。
銀行などはもちろんない。
電線は通っているが、何故か電気はいつも通っていない。
宿などは、発電機をもっていたりするが、夜はロウソクの明かりで過ごすのは普通だ。
要するに全てこじんまりとしているのだ。

コンソについて、宿に荷物をおき、遅い昼食をとった。
ティブスというマトンの焼肉とパンだ。
エチオピアに入ってからこればかり食べている。
別にそれが大好きというわけではなく、私にとって、それしか食べられるものがないのだ。
エチオピアといえば、インジェラが有名である。
見た目はクレープに似ているが、その色は食欲の減退する灰色がかっているそれは麦を発酵させてつくった、湿ったパンみたいなもので、すっぱいような臭いがして、食べると実際非常にすっぱい。
要するにまずい。
これを評して「見た目雑巾、嗅いで雑巾、食べて雑巾」と言った旅行者がいたが、私もその意見に賛成である。
これを「案外いけますよ」と言った旅行者はいたが、「おいしい」と言った旅行者には会ったことがない。
そのインジェラを主食に、野菜や肉を煮込んだスープをおかずにして食べるのだ。
これも辛くて、私は食べられなかった。
アジスアベベなどの都市を除くと、ほとんどこれらの組み合わせしか食べるものがない。
ライスはアジスアベベ以外で、食べた記憶がほとんどない。
しかし、幸いパンは比較的どこでも手に入るので、残された選択肢は、ティブス(マトンの焼肉)とパンということになり、私はひたすらこればかり食べていた。
だいたい朝食はビスケットで、昼食と夕食はティブスとパンである。
しかし、田舎に行くほどパンもあまりなく、あったとしても、数日前に焼いたようなものであったが、それでもないよりはましだ。

食については苦労したエチオピアだが、この国はコーヒーがうまい。
さすがにコーヒーの発祥地と言われているだけのことはある。
どこに行ってもコーヒーだけは飲めた。
このコンソでさえ、宿の食堂兼バーに、旧式ではあるがコーヒーマシーンがあり、マキヤートが飲める。
もっと小さな村に行くと、コーヒー豆をフライパンで炒って、それを杵と臼に似た道具で、ザクザクつぶし、コーヒーを入れてくれた。
少数民族の家を訪ねたときでも、椰子の実に似た、フルーツの殻に、冷めていたがコーヒーを入れてもてなしてくれた。
これだってなかなかいける。

私がこのコンソという小さな村にやってきたのは、この周辺に住む少数民族を、カメラに収めるためである。
コンソはその入り口ともいう場所なのだ。
そして、その手始めに、コンソの村で開かれるマーケットに行くことにした。
そのマーケットに少数民族がやってくるのだ。

お目当てのマーケットは明日なので、昼食のあとは、なにもやることがなくなってしまった。
散歩しようにも、5分もあるけば、村から出てしまい、あとは畑と森が続いているだけだ。私はチャットをやって時間をつぶした。
チャットというのは、どういう種類に属するのかは知らないが、見た目は普通の葉っぱである。
それを生のまま口に入れ、クチャクチャとやる。
そのままだと苦いので、砂糖も一緒に口に入れる。
そして飲み込むことはせずに、ひたすら噛みつづけると、葉っぱがだんだん口のなかでなくなっていくので、また新しい葉っぱを口に入れる。
これをやると、リラックスするらしい。
最初大麻などの一種かと思ったが、全然違うらしく、効き目もそれほどあるわけではない。
ただ、ずっと噛み続けていると、ボーっとする程度だ。
この辺りでは、タバコは高価だが、このチャットは安く、庶民の嗜好品としてやる人が多い。
私もこのチャットが気に入り、何時間もやっていた。

夜になり、今度はタッジを飲みに出かけた。
タッジというのは、蜂蜜からつくったお酒で、エチオピアでお酒といえばタッジというくらい飲まれている。
夜になると、街灯など一つもないので、道を歩くのも苦労する。
そんななかで、タッジ屋を探したが、やはり見つからなかった。
そうやって、ウロウロしていたときに、少年がたどたどしい英語で声をかけてきた。

『May I Help You?』
という、発音はともかく教科書どおりの英語だった。
私はタッジが飲みたいのだが、と言うと案内してくれた。
タッジ屋の入り口には、看板の一つもなく、まして電気もなく、これでは見つかるわけもない。
たとえ昼間でも見つからなかったかもしれない。

少年は私にタッジを注文してくれて、隣に座った。
タッジはオレンジジュースのような色をしている。
そして、どういうわだか三角フラスコの形をしたガラスのコップに入れられて出てくる。それが習慣だ。
私その小さな口からタッジを飲んだ。
口当たりがよく、なかなかうまい。
私は少年が『なにか飲ませてくれ』というのではないかと思っていたが、彼はただ静かに座っていた。
そしてソウソクの灯りで少し話しをした。

少年の家族は両親と弟が二人に妹が二人。
少年は長男だ。
年は13歳。
両親は米をつくっていて、それで生活している。
少年は学校へ行っているがよく休み両親の仕事を手伝うことが多いらしい。
教科書、ノート、ペンにお金がかかるのが大変だと話していた。
どこにでもある苦労話ではあるが、少年の話し方には全く同情をひくような様子がなく、それが気持ちよかった。

少年の将来の夢を聞いてみた。
『先生になりたい』
とはっきり言った。
『だったらちゃんと学校へ行かないとね』
と私が言うと、少年の顔が笑っていた。
学校へ行き、両親の手伝いをやめると、家計が苦しくなり、学校にかかるお金を稼ぐことができないという矛盾があるのだろう。

私は、ありふれてはいるが、その少年の夢を聞いて嬉しくなった。
エチオピアの少年には、いままでうんざりさせられた事が多かったからだ。

どこの街に行っても、バスを降りると子供らが集まってきて、
『ユー、ユー』
と連発する。
おそらくはYOUという意味で使っているのだと思う。
しかし、YOU以外は何も言わず、そればかり繰り返すので、なんだかバカにされている気分になる。
一度どういう意味で使っているのか聞いたことがあるが、ただの挨拶らしい。
どういうわけか、ここではハローではなくYOUなのだ。
しかしあまり歓迎の意思は伝わってこず、直訳どおりの『お前!』に聞こえる。

そしてそのYOUの後にくるのだマネーだ。
そしてマネーがダメなら次にペンがくる。
YOU、マネー、ペンという単語は子供が最も初めに覚え、かつ実用的な英語なのだ。
これは子供らが自発的に言っているというよりは、親にそういうように教え込まれているらしい。

そして年長の少年は勝手に宿まで案内してくれて、宿からマージンを貰う。
このあたりは慣れたもので、旅行者はそれと気付かずにチェックインし、案内してくれた少年に感謝さえしてしまうことも多い。
さらに大人はこれまた頼みもしないのに、ガイドをやるといって、けっこうな値段を請求してくる。
これはエチオピアのラリベラという世界遺産のある街でひどい。
10分街をあるけば、必ず3人以上のガイド志願者に会うことになる。

エチオピアという国は、アフリカの国のなかでは歴史が長い。
アフリカというのは部族単位での歴史はあるが、国という概念があまり育たなかった。
そのために植民地化は容易であり、現在の国のほとんどは第二次世界大戦後に独立したものだ。
そんななかで、エチオピアは古くから国家として発展してきて数少ない国なのだ。
しかしそのエチオピアもここ数十年は先進国からの援助に頼らざるを得なかった。
もちろん必要な場所や時期に、援助は必要である。
しかし、援助の行き過ぎは、悪影響があるという批判もある。
つまり、外国人=何かくれる人、という図式がすっかり浸透してしまったのだ。
彼らは対価を払わずに何かを貰うことに何も抵抗がなくなってしまったのだ。
それを表しているのが、YOU、マネー、ペンという単語だと思える。
そんなわけで、エチオピアはアフリカのなかでも最も人気がない国の一つである。
要するに人がうざったいのだ。

話がそれたが、そんなエチオピアのなかで、そのタッジ屋を案内してくれた少年のその態度と、教師になりたいという言葉は、素直に嬉しく感じた。
私はエジプトで友人からもらったお菓子を、彼と一緒に食べた。
そしてこういう時のお酒は、格別においしい。

次の日、朝からお目当てのマーケットへ行って写真を撮った。
意気揚揚と写真を撮っていると、
『入域許可と撮影許可は取っているのか?』
と警官に聞かれ、そこで警官と口論になり、事務所まで連れていかれ、払わされるはめになった。
本来払うべきお金ではあったが、その警官の態度はあまりに高圧的で腹立たしかった。
さらにお目当ての民族の写真も、撮るには撮ったが、やはりお金を要求され思うようには撮れなかった。

すこし、落ち込んだ気分で宿にもどり、私はまたチャットをやった。
宿のレストランのオープンスペースで、旧式のコーヒーマシーンでつくった上等のマキヤートを飲みながら、チャットをする。
このコンソではそればかりやっている気がする。

するとそこへある少年がやってきて、私に話しかけてきた。
誰だろうと思っていると、昨日タッジ屋を案内してくれた少年だった。
昨日は、真っ暗のなか、ロウソクの灯りで話をしていたので、ほとんど顔を見ていなかったため、思い出せなかった。
私は嬉しくなって、
『こっちへ来て座りなよ』
と声をかけた。
そして少年がレストランの入り口に差し掛かったとき、宿のオーナーがすっとんできた。
30歳くらいの彼は英語もうまく、このあたりではインテリであろうと思われた。
そして、オーナーはいきなり少年の頭をひっぱたいた。

私はびっくりして、
『彼は昨日会った友達なんだ』
と言うと、
『君は騙されている。
彼はこの辺では有名なワルガキだ。
泥棒だってしょっちゅうやってる。
この辺の連中なら誰でも知っている。』
とはっきりと言った。
少年はそのまま走るように、逃げて行ってしまった。

オーナーの言ったことは本当なのだろうか。
私には信じられなかった。
昨日の少年は独立心があり、お金や物を要求することもなかった。
しかし、私は少年と昨日あったばかりなのだ。
オーナーの言うことのほうが正しいのかもしれない。
それにしても、やりきれない気分だ。

それまで青かった空が急に暗くなり、雨雲がたちこめてきた。
ここへ来て、雨も少なくなったが、まだ雨季なのだ。
あっという間にスコールがやってきた。
宿の従業員は奥からいくつもバケツもってきて、水を貯め始めた。
屋根からは滝のように、雨が落ちてくる。
オーナーはその水をコップにため、飲み干した。
そしてまた水をため、それを私にくれた。
その水は衛生面はともかく、味がやや苦いのは感傷的なためだろうか。

私はただの旅行者だ。
国から国へと、街から街へと移動を繰りかえる。
そこで、ちょっとした友人ができたとしても、そんなに長い間一緒にいられるわけでもなく、その人の全てを理解できるわけでもない。
だからオーナーの言うことを否定する気はなかった。

しかし、少年が話してくれたように、教師になる夢を持ち続けて、そして実現してくれればいいと願うだけだ。
それは彼の状況を考えると、私の想像する以上に難しいことなのかもしれないけれども、頑張って欲しいと思う。
人間は過去によって現在の自分があることに変わりはないが、過去によって未来を制約する必要はないはずだから。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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