ひとりぼっちの秋、中国東北部紅い夕日の沈む淋しい裏通りをひとりぼっちで歩いた。
『NIRVANA』というバンドがある。
もう何年も前に解散したバンドだ。
カート・コバーンというボーカリストがいた。
“グランジ”というロック・ムーブメントの火付け役となった人だ。
ぼろぼろのジーンズを履いて、髪は何日も洗っていないような長髪、酔っぱらったようにふらつきながらギターを弾き、叫ぶようにして歌う。
カート・コバーンはショットガンで頭を吹き飛ばして自殺して死んだ。
彼の存在無くしては「NIRVANA」は存続しえず、その死によって必然的にバンドは解散した。
最初の内はそんなに好きなわけではなかったんだ。
むしろ嫌いだった。
なんだ、こんなの。うるさいだけじゃん、なんて思ってたし。
でも当時、ちょっとしたクラブなんかに行けば必ずニルヴァーナの曲はかかっていたし、CD屋に行ったって彼らのアルバムはいやという程目に入ってきた。
だから、個人的に気に入って聴いていなくたって自然と憶えてしまったし、ヒットした曲なら大体知っていた。フレーズとか。
まあ、そんな風に刷り込まれていたんだよ。
旅行中はとにかく寂しかった。
不安だったし、そのせいで体調を崩したりもした。
初めのうちはずっと微熱が下がらずに四六時中、ふらふらふらふら眩暈がして、食欲もなくって、何を食べても味気なく、なにもかもがざらざらしていた。おまけに何か食べるたびに気持が悪くなって、あんまりひどいと食べたものを戻したりもしていた。
全部、一人でいることによる不安や寂しさから来るものだったのだと思う。
それぐらい寂しかった。
それから4、5か月後の中国にいたころにはそんな旅にも大分慣れていて、痩せた体も元に戻りつつあったものの、秋の中国東北部の景色はすべてが茶色で、沈む夕日があんまり大きくて、大気はこれから訪れる烈しい冬の季節を予感させる程張りつめて身を切るぐらいに透明で、どうしたって寂しい気分にならないわけには行かなかったんだ。
生まれ育った故郷や、子供の頃の記憶が自然と目に浮かぶ………
一言でいうと、ニルヴァーナは孤独を歌い上げていた。
その破壊的なサウンドの裏には、極端に傷つきやすい感性と、絶望的に救いようのない深い孤独が潜んでいた、と、思う。
ぼくはそんなに好きではなかったはずのニルヴァーナのカセットテープを、中国東北部の裏町の寂れたレコード屋で偶然見つけだし、何故だかそれを買ってしまった。そしてそれからその後、狂ったように聴きはじめるのだった。
ホテルの部屋で一人でいた夜、ベッドの上に寝っ転がって何をすることもなく、一晩中それを聴いていた。
自殺した、カート・コバーンのかすれた歌声がやけにぼくの胸に染みわたった。
それ以来ぼくはニルヴァーナに取り憑かれている。
“ニルヴァーナ”とは仏教用語でいう”涅槃”のことだ。
涅槃とは釈尊の死。
仏教における理想の境地。
煩悩の消え去った、絶対自由の状態 ―――
ああ、秋の中国東北部は何であんなにも寂しい風景なのだろう。
ぼくの胸に眠っていた様々な思い出を引っ張りだす。
それは死ぬ前に見るみたいな風景。
すべてが明るく、輝きながらまわりだす。
ひとりだったあのころ。
ひとりではなかったあのころ。
みんな美しい。
こんなにもあたたかく、ぼくは羽毛に包まれたみたいに安らかだ。
お別れは,とても寂しい。
去っていってしまうのはとても寂しい。
死んでしまうのは、とても寂しいことなのだ。
ぼくは今でもニルヴァーナを聴いている。
あれから大分たったけど、あのときの感覚は消えていないのだろう、聴いていると今でも何となくあの風景が甦ってくる。
ひとりでいたあのころの。
孤独は消えない。
寂しさは決して無くならない。
絶望的にかなしい孤独を、人は一生生きねばならぬ。
だから、せめて、信じる心を、愛を、信じる心を。
死んでしまった、カート・コバーンのかなしい孤独を思うと、胸が痛む。
せめて,彼の魂が安らかであるように。
苦しみの少ない、穏やかな世界にいるように………。