そして戦争は始まった2

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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