ぼくは今まで京都があんまり好きではなく、どうして好きでなかったかというとやっぱりあの、街全体が観光地という感じが好きでなかったのだと思う。
似たようなところでイタリアのローマもそうなんだけど街全体が守られている、という感じが嫌なのだ。
街の息吹きが感じられない。
けど先日、京都へ行って考え方が少し変わった。
そういう街は観光すれば面白いのだ。
そして観光してみたら、やっぱり京都は面白い。凄い。
歴史が違う。
今までまともに観光なんてしたことのなかったぼくは、京都の名所旧跡の素晴らしさをまともに思い知らされた。
世界各国を駆け巡り、星の数ほど世界遺産という世界遺産を見てきたこのぼくが言うんだから間違いはない。
あんな、石造りの寺や、教会なんて、だめだね、まったく。
情緒というものがない。
ばかみたいに何千年も同じ姿で、未来永劫、生き延びていくつもりででもいるんだろうか。
まるで、永遠の命を、永遠の帝国を夢見ているかのようだ。
その点、京都のお寺は違う。
滅びゆく諸行の無常を知っている。すべてのものはいつか終わりを迎えることを物語っている。
その悲しさや、やるせなさが、侘びしさや寂しさとなって、ある特別な世界をつくり出している。
ひとつの諦めの感じ。どうしようもないことに対する諦めの感じ。
京都の石のお庭は、枯山水と呼ばれるらしい。
石や岩で、木や水を表現したそうだ。
誰が、何のために、あんな非実用的なものをつくったんだろう。
散歩もできない、花に水をあげることすらできない、使い道のないお庭。何の役にも立たないお庭。
無駄なもの。使い道のないもの。無駄なこと。
無駄な自分。
無為。
何もない。
ぼうっと眺めていると、そんなことを連想していた。
これを造った人はひょっとしたら、ある、無駄、を表現しようとしていたのかもしれないな。
意味のないもの。意味のないこと。
意味のない存在。
抗うこと。諦めること。
悲しさ。侘びしさ。
孤独。
自分ひとりという感じ。寂しさ。
まわりの見えない、とても大きなもの。
恐怖。
宇宙。
暗闇。真っ暗闇。
星の光。輝き。明るさ。
生命の誕生、そして死。
ぼくの頭の中はぐるぐる回ってた。
ちょっと怖かった。
はっと気が付いたらそこは天気のいい京都のお庭で、ぼくの横には好きな女の子が同じようにお庭を眺めてた。少しほっとした。
ハハハ、彼女と行ってたんだ。わるいけど。
なんて、ちょっとのろけてみました。
でもそんな深刻なこと考えなくたって、枯山水は白い敷石にお日さまが照っててきれいです。
木製の縁側は、きっとお茶を飲むのにぴったりなことでしょう。
世界遺産なので飲めんけど。
こんな風流なお庭が家にあったら、それだけで退屈せずに移ろいゆく四季の変化でも眺めつつ、ゆったりと過ごせそうなんだけど、どうだろう?
きっとこれ造った人もそんな感じで造ったんではないのかな?
変わらない石のお庭で、春夏秋冬、朝昼晩、まわりの景色だけが変わってゆく。
素敵じゃん、何だかそんなの。
好きな人とそういう風に一生過ごせたら幸せなんだろうな、と思う。
季節や時間が流れていっても、ふたりの関係は何も変わらない。
京都のお庭のようなそんな関係。
そういうのが理想です。