この投稿はカレン族の神話と悲劇に詳しくまとめました。
あるカレン族の神話は次のように語っています。
―その昔、神によって、それぞれ異なる民族が創られたとき、我々は皆兄弟だった。カレン族はその中でも最年長者にあたり、尊敬を集めていた。あるとき各民族は神から書物を授かった。我々はそれをあろうことかなくしてしまった。我々の貧しい暮らしはそのせいである。しかし、いつの日か海を越え若い白い兄弟が我々に書物をもたらしてくれるだろう―
19世紀初頭、ビルマが英領植民地となり、宣教師が聖書を携えてカレン族の土地に現れたとき、ビルマ族の圧制に苦しんでいたカレン族はこれは神話が実現され、圧制から解放されるのだと考えました。
この神話を信じたカレン族は他の民族と比べて抵抗なくキリスト教を受け入れました。
キリスト教の教育を受けた彼らの中からは英国留学をするものも現れました。
イギリス式の教養を身に着けたカレン族は、英領ビルマの官僚や軍人として重用されました。
このことが後々まで続く悲劇を産みます。
植民地国家の運営に関して長い歴史を持つイギリスは、不満の矛先が宗主国やイギリス人に向かわないような統治システムを作り上げます。
他民族同士を互いに反目させ団結しないようにし、両者を争わせて力を弱めさせたりして統治支配をやりやすくするのです。
例えば、英領ビルマ軍や警察隊にはカレン族、カチン族、チン族など少数民族を優遇し、多数民族であるでビルマ族は除外されました。
また反英デモなどの運動に対してカレン族の警察隊にビルマ族を取り締まらせたり、治安維持にあたらせたりしました。
ビルマ族の目から見れば、カレン族は植民地支配の手先に映ったことでしょう。
こうして民族間の憎しみは蓄積され、臨界点に達した時爆発します。
第ニ次世界大戦時、日本は植民地であったビルマを英国から解放するため、ビルマ族のアウンサン(アウンサンスーチーの父親)率いるビルマ独立義勇軍に物資を与え軍事訓練を施します。
そして武器を取った彼らは、日本軍と共にイギリス軍を攻撃します。
イギリス軍には少数民族優遇政策によりカレン族が多く配置されているので、両民族の戦闘は避けざるをえません。
イギリスの忠誠を守ったカレン族とビルマ独立義勇軍は各地で激しい衝突を繰り返しました。
ビルマ独立義勇軍は、「カレン族はイギリスのスパイである」とみなし、罪もないカレン族の村が襲われ、殺戮、略奪、暴行が行われました。
こうして両者の対立感情は増大し、修復できないものとなりました。
1942年、イギリス軍勢力を駆逐した日本軍はビルマ全土に軍政を布き、衝突はなくなったものの憎しみの火種は両民族の心の中でくすぶり続けました。
戦局が悪化し、日本軍が引き上げた後すぐに戻ってきたイギリスは再びビルマを占領します。
独立運動が各地で続けられ、このときカレン族はビルマからの分離・独立を求めます。
1948年、イギリスがビルマから撤退。ビルマは念願の独立を果たします。
カレン族の独立国家は新政府に認められず、カレン民族運動の指導者たちは次々に投獄され、再び不穏な空気が広がります。
抑えつけられたカレン族はついに武装蜂起します。
かつての植民地で軍や警察隊に多く所属し、武器の扱いや戦いに長けていたカレン族は、各地で政府軍を圧倒します。
そして短期間のうちにほとんどの主要都市を占領、首都ラングーンに迫ります。
しかし、1962年、ネ・ウィンがクーデタにより権力を掌握すると情勢は一変します。
カレン族の村落は反乱対策として強制移住させられ、断ったものには死が待っていました。
これにより多くの難民が発生、隣国タイへ何万人ものカレン族が流れ込みました。
次第にカレン民族の主力部隊は追いやられ、タイ国境の山岳地帯まで撤退しました。
度重なる戦闘で、次第に勢力は弱体化しましたが、現在でもなお、ジャングルの中で独立運動を続けています。