この投稿は古代王朝「殷」に詳しくまとめました。
6/7に書いた古代王朝「殷」が書きあがりました。
前回の書きかけの部分から掲載します。
高度な青銅器芸術が生まれた時代が多少なりとも見えてくると思います。
生贄と殉葬
人間の行為の善悪が吉祥や災異を招くと信じられ、神の恩寵を受けたり、怒りを鎮めるために祭祀の供物として生贄が捧げられました。
生贄は犬、羊、馬、牛などの獣が使われ、時には人が捧げられました。
生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられました。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したともあったようです。
また殷の王族や貴族の墓からは青銅器、玉器などの副葬品の他に大量の人骨が出てくることが多いです。この人骨は被葬者に伴って葬られた殉葬者たちです。被葬者の妻妾や家臣や兵士たちであり、被葬者を死後の世界でも守り仕えるために埋められたのです。
ある貴族の墓からは2頭立ての戦車が馬ごと殉葬者とともに発見されました。戦車は整然と並びすべて太陽の昇る東の方角を向いていました。
殉葬の風習は現代の価値観では想像を絶しますが、当時の信仰心は絶対的なものであり、神に近い存在または神そのものと死を共にすることは名誉なこととされていたのかもしれません。
呪術と祭祀
殷の統治と支配は祭祀によって行われていました。
原始的生活を送っていた時代、人々を結び付けていたのは宗教でした。
宗教儀式=祭祀を掌握することがその地の支配権を獲得することでした。
殷は新たに帰属した国や部族に王室直属の祭祀官を送り込み、次々に勢力を広げていきました。支配地域を拡大していく過程で、その土地の神々を自国の祭祀に吸収し、祭られる神も増えていくことになります。
殷の戦争は呪力と呪力の戦いでした。
戦いには「媚」と呼ばれる巫女を伴いました。巫女たちは軍鼓を打ち鳴らし敵に向かって呪詛を唱え攻撃しました。
甲骨文字には鬼方と呼ばれる強大な異民族を攻撃したときの様子が記されており、動員兵力数万人のうち投入された「媚」は3千人に達したと書かれています。
敵の「媚」を捕らえることは最大級の功績で「蔑暦」と呼ばれたと記されています。敵の「媚」は呪力を封じるために真っ先に殺されました。
また異民族の地を進軍するときは道を整備し、土地かけられた呪詛や悪霊を祓うために異民族の生首をかかげました。祓除を終えたところを「道」と呼び表しました。
甲骨文字は祭祀の過程において発生したもので天意を記すために作られたものです。ごく一部の限られた階層のものだけが読める神聖文字で一般の生活とは無関係でした。
「媚」に含まれる眉の文字は顔料で眼の回りをくまどりし呪術的な化粧を施した象形であり、後世に転じて「媚びる」となりました。
「蔑暦」の「蔑」は「媚」を戈(ほこ)にかけて殺す形で「蔑む」などの語源となりました。
「道」に首の文字が含まれているのは祓うために首をかかげたことによります。
青銅器に現れる神々の姿
青銅器は殷の神秘主義的な世界観を最も特徴付けるものです。
青銅器は当時大変貴重なものだったので主に祭器や武器に用いられました。祭祀用青銅器は酒や神々への供物を盛るための食器として作られました。
殷において酒は神と交歓するのに重要なものでした。卜占に際し、火を焚き、青銅器に酒を満たし、肉を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞きました。
青銅器の表面を飾る両眼が突出した特徴的な奇怪的文様は獣面文(または饕餮/トウテツ文)と呼ばれています。まるで空白があってはいけないかのように渦巻状の雷文が器面をびっしりと覆っています。細工は緻密で非常に高度な技術を要するものです。
青銅器は殷末期に一種の最高点を極めました。殷に取って代わった周代でも青銅器は作られていますが技術的には殷代のものの方が優っています。
殷代は絶対的な宗教心が並々ならぬ造形力を発揮する時代でした。神々の姿を現そうという強い信念が発露した結晶が青銅器の獣面文でした。
殷の滅亡
殷は紀元前1000年頃、諸侯のひとつであった周に滅ぼされ、700年の歴史を閉じます。
このときの様子を史記「殷本記」はこう伝えています。
殷の第31代帝辛・紂王は天性すぐれた才能と体力の持ち主だったが、妲己(ダッキ)を寵愛するようになると酒色に溺れ、言われるままに悪行を重ねた。
酒池肉林で有名なエピソードはこのときのものです。
度重なる戦争、重税、浪費により国は乱れ、政治は腐敗を極め、諸侯の不満が高まっていた。
周の文王は天命を受けたとして殷との決戦に備え力を蓄え、西方の諸侯や羌などの異民族を結集した。
文王亡き後、意志を受け継いだ子の武王は、のちに牧野の戦いと呼ばれる決戦で多勢に優る殷軍を撃破、敗北を悟った紂王は火の中に身を投じた。
後世の歴史家は自国の成り立ちを正当化するために、前王朝を貶めるのはどこにでも見られることです。
したがってこの記述も幾分割り引いて考える必要がありそうです。
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事でありました。
妲己が悪女の代名詞のように記述されるのもの殷と周の価値観の相違から生まれたものでしょう。
商人の語源
殷を現代中国では「商」と呼んでいます。
日本では「史記」の巻名が「殷本記」であることから通常「殷」と呼びますが、中国の王朝は創始者が最初に王に封じられた地名を取るルールがあります。
始祖の契が封じられた地が商であったためこの王朝は「商」を自称していました。
殷滅亡後、国を失った「商」の遺民は各地に離散しました。
定住できる耕作地を得られなかった「商」の人々は生計を立てるために物品の売買や交易に携わるようになりました。
そんな彼らを人は商人と呼び、商の人の業(なりわい)を商業と呼ぶようになったと言われています。
ミズノ
いつだったかBBCの地中海文明の解明のドラマをNHKが放映していましたが。やはりかの地でも、青銅器時代は呪術的女性が主役だったとされている。
日本において最大級の青銅器発掘地は島根県で旧出雲国の西部で銅剣や銅矛が発掘されている。こういった時代、女性が政治的にイニシアチブをとったのは最近では、邪馬台国の女王、卑弥呼になるが、日本神話においては、伊邪那美神と天照大神だけである。この三者と出雲との関係を考えると、最も近いのがイザナミ神であり、「出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県最東部安来市)に葬(かくしまつ)りき」とこじきにはある。現時点の考古学的発掘調査では、青銅器が多い、旧出雲国西部と鉄器が多く、伊邪那美神の神陵と呼ばれるものがある旧出雲国東部、が弥生時代後期に大変栄えたと聞く。
シュリーマンの伝記を読んだものとしては、出雲東部にも考古学手がかりがあるべきではないかと思い、今後の考古学的期待をしてしまう。