「高砂義勇兵」慰霊碑“撤去”の危機
太平洋戦争に「日本兵」として出征した台湾先住民出身の「高砂義勇兵」の戦没者を祭る慰霊碑に、”撤去”の危機が迫っている。
慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外の観光会社が、昨年の新型肺炎(SARS)流行による日本人観光客激減で倒産、月内にも土地を「更地」にして売却する意向を固めたためだ。
地元関係者は碑の移設を検討しているが、五百万台湾元(約千六百万円)と見積もられる移設費用の捻出(ねんしゅつ)に頭を抱えている。
産経新聞2004年7月4日
最近のニュースで高砂義勇兵の慰霊碑が今にも撤去されるかもしれない状況にあることを知りました。
高砂族とは台湾の原住民族の総称です。
台湾が日本の領有だった時代、高砂族は志願し、「日本兵」として東南アジアに出征しました。
不慣れなジャングル戦に苦しめられていた日本軍を、山岳民族であり、ジャングルでの生活に長けた高砂族は幾度も救ったそうです。
勇猛、忠実で知られた高砂族義勇兵にはこんな感動的なエピソードがあります。
「・・・あの墓には、Bという高砂義勇隊員が眠っているのです。
高砂族に捧げる/中央公論社
ニューギニアの作戦の当初から、 われわれはBとともに戦ってきました。食料のない日が何日も続きました。
ある日、Bはずっと後方の兵站基地にさがって、食料を運ぶことになりました。 ところが、その次にBに出会った時には、Bは死んでいました。
五十キロの米をかついだまま、 Bはジャングルの中で飢え死にしていたのです。背中の米には一指もつけずに・・・・・・」
高砂族と隼人
日本統治時代、タイヤル族、ルカイ族、アミ族、パイワン族などオーストロネシア語族の9つの原住民族を総称して高砂族と名付けられました。
主に山岳地帯に住み、勇猛な性質と、首狩りの習俗を持つことで恐れられていました。
各民族の言語は言語学的に大きな隔たりがあるため意志の疎通は不可能です。
そのため戦前に日本の教育を受けた世代の共通言語は今でも日本語です。
高砂族が属するオーストロネシア語族とは太平洋に散らばる島々で話されている諸言語です。
かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていました。
最近になって高砂族の諸言語が、マレー・ポリネシア語族と近似関係にあることが判明し、語族の地域を拡大し、オーストロネシア語族(南島語族[南(Austro)の島(nesia)])と呼び方が変わりました。
オーストロネシア語族に属する言語は非常に広範囲です。
西はアフリカ大陸の南東に位置するマダガスカル島から東はモアイで有名なイースター島まで、北はハワイ諸島から南はニュージーランドまで分布しています。
その中で台湾の高砂族の諸言語は、言語学的にオーストロネシア語族の中でもっとも古い形を留めています。
オーストロネシア語の故郷は中国南部または東南アジアとされており、台湾にオーストロネシア語の古い形が残されていることから、オーストロネシア語族の先祖はまず台湾に渡り、そこから各地へ広がったのではないかと考えられています。
航海に長けたオーストロネシア語族の先祖は季節風などを利用して各地へ分散し、4世紀頃にはイースター島に、5世紀にはマダガスカル島に到達しました。
6世紀初めに書かれた記紀(古事記・日本書紀)には、九州南部に勢力を持っていた隼人と呼ばれる種族について書かれています。
隼人はインドネシア・ポリネシアの民族と類似する点が見られることから、黒潮に乗って海を渡って来たのではないかと考えられています。
例をあげると、勇猛で知られた隼人の盾に描かれた逆S字の文様は、インドネシアの山岳地帯にある高床式住居の彩色彫刻の文様と酷似しており、盾の形もよく似ています。
また、隼人の顔面への入墨の記述は、高砂族に残る入墨の風習に似通っています。
記紀に書かれた山幸彦と海幸彦(初代神武天皇の祖父)の兄弟の物語で、失われた釣り針を求めて海の向こうにある国へ探しに行くくだりはインドネシア・ミクロネシアの諸島に伝えられている物語とそっくりです。
記紀では、隼人は海幸彦(兄)の子孫であり、天皇家は山幸彦(弟)の子孫であると書いています。
物語は古くから海洋民族が日本に居住していたことを伝えており、日本もこの海洋国家群のひとつであったことがわかります。
日本統治時代
歴史は下って1895年。
台湾は清から割譲され、日本領土に組み込まれ、日本による台湾統治(1895~1945年)が始まります。
当事の台湾には、漢民族、高砂族、高砂族のなかで漢民族に同化した平埔族(へいほぞく)がいました。
日本政府は台湾に対して近代化と教育を柱に台湾統治を推し進めます。
鉄道、道路、下水道建設、産業振興などの近代化政策は、のちの工業国としてとの足がかりになります。
西欧では、宗主国に対して反抗を起こさないよう愚民政策をとるのが一般的でしたが、日本は台湾を沖縄や北海道などと同じと考え、初等教育の普及に力を入れ、日本国民同胞としての皇民化教育を行います。
この結果、日本統治時代の就学率は最高で92%にまでに達しています。
なお、400年もの間オランダの植民地であったインドネシアではわずか3%でした。
現在のラオスは77%です
当然のことながら、台湾に突如現れた外来政権への抵抗は激しいものがありました。
台湾に住んでいた漢人、高砂族は帰順を拒み、独立運動や抵抗運動を各地で起こしました。
反乱と鎮圧が幾度なくとも繰り返され、漢人が恭順を示すようになってもなお、高砂族は遅くまで抵抗運動を続けました。
無数の犠牲者を出しながら、徐々に平定され、時の経過ともに高砂族は日本国民として同化していきます。
高砂義勇兵
1941年、太平洋戦争突入。
翌1942年、ジャングルでの密林戦に悩まされていた日本軍は、山岳地帯で生活し、森に詳しい高砂族の力に着目します。
当時はまだ徴兵制度も志願兵制度もありませんでした。
高砂族を対象に志願兵を募ると、募集をはるかに上回る志願者が殺到しました。
彼らは高砂義勇隊として戦地に赴きます。
森に暮らす彼らにとってジャングルは庭のようなものです。
卓越した身体能力に、ジャングルの中で生き抜くための動植物の知識。同じオーストロネシア語圏である現地住民とのコミュニケーション能力。
そして何よりも生来の勇猛さと死をも恐れない勇敢さで目覚しい成果をあげます。
しかし、その勇敢さゆえに、戦死者も多く、4000人が出征して、3000人が戻ることがなかったと言われています。
1945年、日本ポツダム宣言受託。台湾「放棄」
「日本人」として戦った彼らの戦後は悲劇でした。
日本人は去り、大陸から国民党がやってきます。
日本国籍は中華民国国籍となります。
国民党による統治は、反日政策が採られたため、日本のものを持っていることさえも禁じられました。
日本人として当然受けられるはずだった軍人恩給や補償も、国籍を失ったため何の手当てもありませんでした。
さらに1972年に、日本が中国共産党率いる中華人民共和国との国交を樹立したため、中華民国の台湾と断交になり日台間は疎遠になります。
最後の日本兵
1974年、最後の日本兵帰還。
横田伍長がグアム島で「発見」されたのに次いで1974年、小野田少尉がフィリピン、ルバング島で「発見」され大きなニュースとなりました。
実はこのすぐ後にもうひとり日本兵がインドネシア、モロタイ島で「発見」されています。
高砂族(アミ族)出身の中村輝夫(民族名:スニヨン)氏です。
敗戦を知らないまま、ジャングルに潜み30年の月日を孤独に耐えながら生き抜き、故郷の台湾に生還します。
台湾に戻って知ったのは、自分の名前が「李光輝」に変わっていること、高砂族出身であるために自分はもう日本人ではなくなってしまったことでした。
当時の日本は台湾と断交状態になった微妙な時期で、日本政府は日本人として長い間戦いを続けてきた彼を、「日本人ではない」ことを理由に冷遇します。
また当時の台湾は激しい反日政策のため、生まれ育った頃とはまったく違う価値観を押し付けられました。
30年間、信じ守り続けてきたものが崩れさり、帰国してわずか4年後、失意の中で亡くなります。
慰霊碑建立
1992年、慰霊碑建立。
タイヤル族の女性頭目であった周麗梅(日本名:秋野愛子)さんが、大東亜戦争で戦死した高砂族兵士の慰霊のため「台湾高砂義勇隊戦没者英霊記念碑」を建立します。
長い歳月をかけ、多額の借金をしてまで、慰霊事業と記念碑の維持に力を注ぎます。
2004年、慰霊碑撤去の危機。
2003年に東アジアに猛威を振るったSARSがこの慰霊碑の存続に思わぬ影響を与えます。
SARSで日本人観光客は激減、慰霊碑の土地を提供してきた観光会社は立ち行かなくなり倒産します。
そしてさらに慰霊碑を守ってきた周麗梅さんが亡くなったことで、慰霊碑は今、撤去を迫られています。
歴史に翻弄されてきた高砂族。
日本人の記憶からはその存在が忘れ去られようとしていますが、高砂義勇隊の生還者や遺族たちは、日本に賠償や謝罪を求めることもなく、志願し日本人として戦ったことを今なお誇りとしています。
かつて日本人として日本のために命をかけた同胞、高砂族の記憶を風化させないためにこの慰霊碑が存続することを願うばかりです。
参考文献・サイト
- 山本皓一・Feature 最後の日本兵
- JOG(145)後藤新平 国際派日本人養成講座
- JOG(189)蔡焜燦 元日本人の歩んだ道 国際派日本人養成講座
- 「還ってきた台湾人日本兵」 文春新書
- 「還ってきた台湾人日本兵」の著者のインタビュー Radio Taiwan International
- 「高砂義勇兵」英霊慰霊碑を保存するための義援金募集 産経新聞社
- 「高砂義勇伝」 有志サイト
石嶋玄翆「龍朗」
現在私が所属する。大日本書芸院の創設者「阿部翆竹大先生は」中華民国から文化勲章、名誉哲学博士剛を受けられました。今もなお書を志50年の歳月が過ぎました。日本と台湾の関係は固い絆で結ばれていると思います。いち書家でありますが、書道を通して見守るとはおこがましいですが。がんばれ日本、台湾。